はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

アイデンティティのノスタルジア

2006-10-30 20:26:47 | 実家
 僕が高校生をやっていた90年代前半は、バンドブームが翳り行く真っ最中の時期だった。といって、自分自身の実感として「バンドブーム衰退」なんて意識したことはなく、東北の片隅の田舎者は、ただ能天気に音楽を聴いていた。
 なんと、今では考えられないけど、バンドなんてのもやっていたのだ。若い。
 メンバーは僕も含めて男2人と女2人。流れ流れて最終的には男5人になったっけ。ギター、ベース、キーボード、ドラム、ボーカル。僕はボーカルを担当していたが、それは別に歌がうまいとかしゃべりが立つとかゆう理由ではなくて……単純に不器用だったのだ。恥ずかしいけど、その程度の理由だった。
 思い起こせばメンバーのバンドに対する思い入れもその程度のものだった気がする。一度だけライブに出た後は、誰も次のアクションを起こそうとせず、いつのまにか解散していた。仲間同士の連帯感も希薄で、メンバーの顔を2人しか思い出せない。バンド名も正直覚えていない。
 じゃあなぜあんな面倒なことをしたのだろう。青年男子が吹雪の中5人も集まって、汗を流しながら練習をして。
 格好ツケたかった。
 目前に迫った受験から逃げたかった。
 自分の中にある不定形なものを表現したかった。

 僕はここにいる。

 ただ、純粋に。
 そのことだけを思っていた。


リンダリンダ・ラバーソール

2006-10-25 23:20:59 | 小説
「あのね、多分、大人になるって、逃げ出せないことと、面と向かい会うことなんだと思う。今逃げたってピンチはまた来るの。逃げ場なんてない」

1980年代後半から90年代前半にかけて起こったいわゆるバンドブーム……といっても今の若い人たちにはぴんとこないかもしれない。
たま、カブキロック、バクチク、ブルーハーツ、ユニコーン、ジュンスカイウォーカーズ、クスクス、X、ボ・ガンボス、真心ブラザーズ、ゴーバンズ、ラフィンノーズ、カッツエ、レピッシュ、エレファントカシマシ、筋肉少女帯。適当に並べ上げてみたが、ようは当時のバンドマンたちが時流に乗ってデビューし、メディアによって翻弄され、やがて弾けていなくなってしまうまでの期間のことをいう。
もちろん中には姿を変え形を変えて生き残っている人たちもいる(ミスターチルドレンなんかはそのまま存在しているけども、そういうのは例外)。だがほとんどの場合は消えていってしまったのだ。職を変え、あるいは命を落として。
「リンダリンダ・ラバーソール」は、オーケンこと大槻ケンヂが、バンドブームの熱にあてられくすぶりながらも、やがて芸能界に居場所を見つけるまでを綴った自伝的エッセイだ。バンドブームの真相、お祭り騒ぎの日々、星の数ほどいたバンドマンたちのその後、大槻ケンヂの当時の彼女コマコとのエピソードが話の中心になる。
冒頭に抜粋したエッセイ内のセリフは、そのコマコのもの。オールナイトニッポンのDJデビューが決まりながらもびびる大槻ケンヂの背中を叩いてくれたセリフ。大槻ケンヂの人生を変えたセリフ。青臭くて恥ずかしくてこそばゆくて胸が痛んで……そんなノスタルジーの塊そのものを、たった一言で表したセリフ。
読了したあとに感じたのは、つまりそういったことだ。俺のようにバンドブームの影響を受けながら青春を送った人間には、この本はとても切ない。
率直にありのままに描かれた青春の喜びと痛み。大槻ケンヂの文章は、感性の弦を鳴らす。

ハードボイルド・エッグ

2006-10-20 20:36:14 | 小説
「ドアを開けた私は、日差しの眩しさに目を細める。季節外れの暑さは止むどころか、ますます酷くなっているようだった。少し迷ったが、再びオーバーコートをはおり、何かから身を守るように襟を立てた。背中を叩くようにドアが閉じ、チェーンロックをかける音がした。私はドアを振り返り、指でつくった拳銃の引き金を引く。本物のコルト32口径を持っていないのが残念だった。それからドアチャイムを目にも止まらぬ早撃ちで二度鳴らし、全速力で階段を駆け逃げた。」

ある日曜、書店の棚と棚の間を浮遊していると、本ブログと同名の小説を見つけた。作者は荻原浩。
主人公の「私」は、私立探偵を名乗ってはいるが、実のところは便利屋で、殺人事件など夢のまた夢、浮気調査や迷いペット探しに奔走する日々を送っていた。33にしてチャンドラーかぶれの、様にならないハードボイルドは、決してかっこよくはなく、どこか哀れみを感じさせるものだった。
アメリカンショートヘア探し、イグアナ探し、シベリアンハスキー探し……話がどこへいくのかいまいち見えなかった。よもや、このまま最後までペット探しの日常を綴るんじゃあるまいなと思い始めていた頃、それは唐突に始まった。
知り合いの柴原夫婦が経営している「柴原アニマルホーム」というペットショップの周りを囲む林の中で、「私」は大型の犬に噛み殺されたと思しき死体を発見する。
夢にまで見た本物の事件。だが「私」は動揺していた。死体そのものへの嫌悪感や吐き気もある。だがなにより、被害者は柴原妻の父親で、容疑者は事務所で飼っていたシベリアンハスキーなのだ。
飼い犬の無実を晴らす為、柴原夫婦の無念を晴らす為、「私」は走る。ヤクザの事務所、川べりの草むら……そして行き着いた真相は、思いもよらないものだった。
「私」は、考える。
マーロウは、いつも他人より損をする道を選ぶ。まるでわざとそうしているかのように、自分を不幸に追いやる。1セントにもならない仕事に命を張り、誰も褒めてくれないやせ我慢を繰り返す。
マーロウは、孤独を恐れない。ひとりぼっちでも、仲間を欲しがったりしない。団体行動と多数決では何も解決しないとでもいいたげに。
「私」は、生きていく理由のひとつを失った。
それは大事な人の裏切り。
信じたくなかった。違う人間が喋っているのだと思いたかった。耳を塞ぎたかったが、あいにく手は自由にならない。目だけ固く瞑った。ヤクザの屋敷に侵入する時でさえ震えることのなかった背骨が、震えていた。
「私」に残された道は、ひとつしかなかった。
闘うこと。
相手が化け物のように強い男であっても、両手が自由にならなくとも。
闘って、生き残る。
ただそれだけを考えながら……「私」は、片桐綾をおぶったまま、窓ガラスを突き破った。

終盤からラストにかけての畳み掛けは、さすがと呼べるものだった。「明日の記憶」とはまた異なる、でもたしかに一本筋の通ったストーリーが、読んでいて嬉しかった。
読後の寂寥感もまたよい。
こういう乾いたラストはハードボイルドならでは。
「私」は、きっかりハードボイルドにしめてくれた。

アフターダーク

2006-10-18 21:28:25 | 小説
目にしているのは都市の姿だ。
「空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、私たちはその光景を上空からとらえている。広い視野の中では、都市はひとつの巨大な生き物に見える。あるいはいくつもの生命体がからみあって作り上げた、ひとつの集合体のように見える。無数の血管が、とらえどろこのない身体の末端にまで伸び、血を循環させ、休みなく細胞を入れ替えている。新しい情報を送り、古い情報を回収する。新しい消費を送り、古い消費を回収する。新しい矛盾を送り、古い矛盾を回収する。身体は脈拍のリズムにあわせて、いたるところで点滅し、発熱し、うごめいている。時刻は真夜中に近く、活動のピークはさすがに越えてしまったものの、生命を維持するための基礎代謝はおとろえることなく続いている。都市の発するうなりは、通奏低音としてそこにある。起伏のない、単調な、しかし予感をはらんだうなりだ。」
 
遥か上空から都市の営みを見下ろすような俯瞰のカメラワークから、物語はスタートする。主役は午後11時56分のデニーズでハードカバーを読んでいるひとりの少女、浅井マリ。物語の名は「アフターダーク」。
題名を聞いた時、はてと首をかしげた。なぜ「夜明け」ではないのか。「闇のあと」なのか。
作品を読み進めていくと、主人公の浅井マリを取り巻く、あるいは擦れ違うすべての登場人物が、程度の差こそあれ等しく闇を抱えていることがわかる。その闇は、時間であったり、暴力を振るう客であったり、過去の悪行であったりする。その闇は、解決こそできないものの、浅井マリとの出会いによって癒され、救われ、和らげられる。
この「解決できない」というところがミソなのだ。物語の最後の文章に、こうある。
「私たちはその予兆が、ほかの企みに妨げられることなく、朝の新しい光の中で時間をかけて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある。」
膨らんでいくものは、つまり希望だ。企みとは、闇そのものに他ならない。どうしても逃れえぬ闇と戦う、あるいは打ちのめされながらも生きていく人間の物語。それが「アフターダーク」だ。

村上春樹という作家の本を初めて読んだ。ベストセラー作家であるということも、多くの信者を持っていることも知っていたが、「もってまわった表現」を多様する作家だという風評を聞いて、二の足を踏んでいた。それは、「創造性を感じない難解な専門用語の使用」の次に俺が嫌いなものだからだ。読み始めてみたのは気まぐれだ。
一読して分かったのは、風評どおりのことだ。同時に、それがこの作家の最大の売りだということも理解した。
村上春樹は、たぶん文章を愛している。表現することそのものに喜びを感じている。それらはひとりよがりを生み出す土壌でもあるのだけど、彼に関してはその心配はないようだ。彼は、表現をこねくり回しながらも「狙い」や「くさ味」を感じさせないバランス感覚を持っている。
ノーベル文学賞には惜しくも漏れたものの、なに、しょせんは賞だ。本の評価は批評家連中が決めるものではない。答えは己の胸の内にある。

生きるべきか死ぬべきか

2006-10-12 15:03:42 | 格闘技
タブロイド、というのは新聞の用紙サイズのことを指す言葉だ。
かつて、ゴシップ紙やスポーツ紙にこのサイズのフォーマットを選択した新聞紙が多かったため、信憑性に欠ける飛ばし記事を書く新聞紙のことをタブロイド紙と呼ぶようになった。
2006年9月27日。日本タブロイド紙の草分けともいえる新聞紙が休刊した。
「週刊ファイト」。1967年から実に39年間、大衆娯楽としてのプロレスを発信し続けた。
個人的にはそれほど愛着のある新聞紙ではない。興味のある記事が掲載されている時に思いつきで購入するくらいで、「毎回欠かさず読んでました」的読者層とはスタンスも違う。
だが、やはり伝統的紙媒体がひとつ消えるのは悲しい。それは活字メディアを愛する者として、プロレス興業を愛する者としての感想でもある。

同紙の休刊理由は、マット界の沈滞と、活字メディアの衰退。
ゴールデンタイムのお茶の間に流れていた昔と違い、今のプロレス中継は主に深夜帯。明らかなアングラ扱いだ。
ネットなどがそもそも存在しなかった当時、プロレスを語れるのは紙面の上だけだった。今は拡大したネット上で、試合速報でも中継でもあっという間に手に入る。望むなら眉唾な「裏情報」までも。
いい意味でも、悪い意味でも、プロレスは世界の成分に拡散していった。総合格闘技がもてはやされる昨今、その存在は一部のマニアのためだけのものになってしまった。
冷静に考えるなら、「週刊ファイト」の存在意義はもはやないのだ。少なくとも紙媒体である意味がない。あるとすれば1と0の世界だけ。ネット上で細々と配信してくれることを願うしかない。発行者が、死に体のままい続けることに納得がいくのなら。

ユナイテッド93

2006-10-10 22:28:20 | 映画
2001年9月11日10:00
乗客が雪崩を切ってコックピットへ侵入した。
彼の我の手を払い、足をどけ、背を踏み越えて先へと進んだ。
己の身体が傷つくことなど怖くなかった。
切り傷も、打撲もどうでもいい。
ただ終わってしまうことが恐ろしかった。
目の前にある希望を掴み損ねるのが嫌だった。
彼らは、また彼女らは国籍も信条も違うけれど、その瞬間だけは心合わせ、ひとつ同じ事を思っていた。
あの人の待つ地上へ帰りたい……

生まれて初めて、映画を見て震えた。
シートの背中に押さえつけられるような圧迫感を感じながら、吐き気をこらえながら、スクリーンを凝視した。
面白いとか面白くないとか。うまいとかうまくないとか。映画の出来に関わるすべての感想などまったく意味をなさないような、あまねく人の魂に訴えかけるような、そんな映画だった。
それが「ユナイテッド93」。
題意は、2001年のアメリカ同時多発テロにおいて、ハイジャックされながらも、重要施設突撃という任務を果たせなかった、たった一機のジャンボジェットの名だ。
あの日あの時間に同機内であった「のではないか」という推測を、無数の事実の積み重ねから構築したものを映画化した。
だから、間違いかもしれないことを念頭に置かなければならない。
だけど、とてもリアルだった。もしくはそう見えた。
ポール・グリーングラス監督は役者にヒロイックな演技を求めなかった。お涙頂戴のシーンなどもっての他。無駄を極限まで排除し、ただ淡々と事実のみを積み重ねた。
だから、観客は一体になった。映画と同化し、生々しい恐怖を我が事のように感じた。ラストの、ユナイテッド93が地上に激突し、画面が真っ暗になった瞬間。会場中が無言になったのがその証左。

映画を見てる最中、ずっと考えていたことがふたつある。

ひとつは、この映画は誰にどういう思惑で見せるために作った映画なのか、ということだ。
遺族が泣くため? 観客が泣くため? どれも正解なようでいて、間違いなようでもある。だがいまいち釈然としない。Aの言葉も考え合わせて、俺はようやく納得することができた。
「亡くなった方々が、遺族の方々に見てもらうためだよ」
彼女は死後の世界を信じている人だから、その答えにまったくよどみがなかった。彼女がいうには、亡くなった方々は、自分達がどのように死んだか知っていてほしいのだそうだ。自分達がどのように感じたか。戦ったか。無念だったか。それを知っていてほしかったというのだ。
俺は死後の世界を信じない。だけど、この世にはそういった世界を信じている人たちがいて……そういう救いもあるのかもしれない。そう思った。これは事実に背を向けぬ人たちのための救いの映画なのだ。

ふたつめに思ったのは、役者のことだ。
生きるためのわずかな希望にすがり、わずかな勇気をかき集めてハイジャック犯に立ち向かい、偽爆弾を奪い、コックピットへ突入し、偶然機内に居合わせたパイロットと管制官に奪還後の機の操縦を任せ……でも生き残れなかった。そういう人たちを演じることにどれほどの勇気がいったか。彼らが、あるいは彼女らが作戦決行前に機内電話から地上の家族へ残したセリフをどんな思いで読んだのか。「愛してるよ」というたった一言の言葉を発するのにどれほどの気力を振り絞らねばならなかったのか。
5年間だ。あれから5年しか経っていない。怒りも、恐怖も、風化するにはまだ早い。悲劇は人々の胸の中に強く残ったまま……。
敬意を覚える。頭が下がる。百万言を費やしてもこの思いは伝えられない。だから、俺はただ泣いた。この事件と、この映画に関わったすべての人たちのために、涙を流した。

「ある日の共通の地。永遠の名誉の地。この場所を訪れた人が乗客と乗務員の勇気と犠牲を思い出し、英雄たちの住み処としてこの神聖な地を崇め、目の前の現実を変えようとした個人の力に思いを馳せることを願う」
-ペンシルベニア州ショーシャンクスヴィルのユナイテッド93墜落現場に建立される予定の記念碑の一文-




怪物とサイボーグのノーサイド

2006-10-01 07:23:25 | 格闘技
会場中が息をのんだ。
28センチの身長差から降ってくる丸太のようなパンチの連打をかいくぐり、バンナがホンマンの懐に飛び込んだ。
直後、鉤のような右フックがホンマンの顔面を掠めると、大きな歓声が沸き起こった。

K-1レジェンドと呼ばれる選手がいる。ピーター・アーツにアーネスト・ホースト。K-1草創期を支え、今にいたる絶大な人気をもたらしつ、なおも現役の選手たちのことだ。
その中の一人に、ジェロム・レ・バンナという男がいる。ハイパーバトルサイボーグ、K-1の番長と呼ばれ、「掠っただけで失神KO」と称される圧倒的なパンチの破壊力と攻めの姿勢から多くのファンをもつ生粋のストライカーだ。
2000年。フランシスコ・フィリオの登場によりK-1に極真-ブラジルの嵐が吹き荒れた時、その嵐の真っ只中に飛び込み一撃でノックアウトしたのはバンナだった。
2006年。今度の黒船はコリアンモンスター、チェ・ホンマンだった。
誰も止められなかったホンマンを止めるのは……やはり彼しかいない。
試合前の予想通り、面白い試合だった。
K-1最強のバンナの右ローを浴びて動きの止まったホンマンの懐に、危険を顧みずに突撃するバンナ。しかも熱くなりすぎてセコンドの指示を聞かず、パンチ主体の戦いに打って出たバンナ。
その猛攻を受けて、ホンマンは笑っていた。苦しみでも怒りでもない。その表情にあるのはまぎれもない嬉しさだった。
バンナは、ホンマンがデビューする前から憧れていた選手らしい。その選手が自分の予想通り強かったことが嬉しかったのだろう。その憧れと戦えているという事実が嬉しかったのだろう。
試合後に、ホンマンがバンナを抱きしめたこともよかった。それは純粋に格闘技を楽しんでいるということだから。対戦相手をリスペクトし、遺恨の残らぬ綺麗な殴り合いをしたということだから。K-1にもノーサイドはあるということだから。