はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

60億分の1

2006-11-29 21:02:08 | 空手
 空手を習っている……というのもおこがましいほど浅い経験しかないが、ともあれ、空手を習っている。
 流派は四大流派のひとつ糸東流。会社の後輩が二十年間たしなんできたものを、会社の若手メンバーが集まり、勉強会のようにして教わっている。
 練習場は隣町の武道館。1時間300円の賃料で約3時間、1週間に2度ほど借りている。
 一礼をして武道館に入り、先生を前に正座。神前、先生に対して礼。黙想し、正面に対して礼。入念なストレッチ。その後、突き、受けの基本稽古に入る。
 なにせ運動はテニスとスキーしかやったことがないので、すべてが新鮮な体験だ。
 自分の身体の硬さも、足の裏の痛みも、普段使用しない筋肉の断裂も、とにかく発見の連続で面白い。
 フルコンタクトではないから本気でやりこそしないものの、一応組み手の練習がある。二十年選手の後輩はともかく、同僚にやられるとそれなりにムッとするわけで、ますます練習に身が入っていく。
 筋トレなど日常繰り返し鍛錬することに抵抗がない性分なので、家での自主トレは欠かさない。筋トレとのミックスで身体が悲鳴を上げ、汗だくになるまで型稽古に励んだあと入る風呂は、また格別だ。
 疲労の余韻を楽しみながら浴槽につかり、時々思う。古来から受け継がれてきた空手の歴史を支える末端になっていることを。枝葉どころか繊維の一本にすらなっていないことは承知の上だが、それでも、自分の中に少しずつ染み込んでいくもののことを思う。そして唐突に理解するのだ。この延長線上にあるもののことを。

「格闘技絶対王者列伝」布施鋼治

 男の子は夢を見る。強い自分。世界最強の男。だが成長するにつれて現実を知る。限られた骨格の中で、才能の下に、目標を低く押さえる。それが大人になることなのだと自分に言い聞かせながら、物分りのいい人間になっていく。
 わがままな男たちがいる。彼らはかつて夢見た自分の姿を胸に抱きながら、現在進行形で、果てしない切磋琢磨の中にその身を置き続ける。
 本作は、諦めなかった男たちのことを記した本だ。スポーツライターの目線から見た総合格闘技の成り立ち。とくに現役最高レベルの選手それぞれにスポットを当てた強さへの理解は、なるほどとうなずける説得力を持っている。
 主な選手としては。
 エメリヤーエンコヒョードル
 アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ
 ミルコ・クロコップ
 ヴァンダレイ・シウバ
 吉田秀彦
 桜庭和志
 菊田早苗
 五味隆典
 美濃輪育久
その他にGRABAKA、ロシアントップチーム、ブラジリアントップチームや、 アブダビコンバットなど特殊な団体、大会の説明など、興味深い記述も多い。
 60億分の1になる夢にとり憑つかれた男たちの生き様。それに魅せられた一人のライター。多様化する総合シーンのバックボーンとして、押さえておいて損のない1冊だ。

シリウスの道

2006-11-26 22:02:26 | 小説
シリウス(Sirius)はおおいぬ座α星で学名はα Canis Majoris(略称はα CMa)。太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星。意味はギリシャ語で「焼き焦がすもの」「光り輝くもの」を意味する「セイリオス(Σεριο,Seirios)」に由来、中国語では天狼(Tinlng)と呼ばれる。和名は『青星(あおぼし)』と呼ばれている。オリオン座ベテルギウス、こいぬ座プロキオンとともに冬の大三角形を形成する。シリウスA及びシリウスBの2星からなる実視連星。シリウスBが発見される前は一つの星と考えられていたがシリウスAの軌道に揺らぎが発見され、このことをきっかけに伴星であるシリウスBが発見された。
実視連星といっても、主星(シリウスA)と伴星の光度差が極めて大きく、また近くにあるため、伴星が主星の光で遮られてしまい、小さな望遠鏡で伴星を見るのは無理である。なお、伴星シリウスBは最初に発見された白色矮星である                             (wikipediaより)

「シリウスの道」藤原伊織

自身の体験を元にした、広告業界の舞台裏を描いた企業小説、という体裁は独特のものだ。
部下の女の子が「ネジを作ってる人が一番偉いと私は思う」なんていってしまう、「若い人にはこうあってほしい」という親父の願望も、彼の特徴。
美術に造詣の深い父親。主人公に絡んでくるヤクザ。背後から忍び寄る過去。美しくも過酷でもあったあの頃。そして謎……。
すべてが藤原伊織であった。プロローグからエピローグまで、あますところなく藤原伊織が詰まっていた。彼が食道癌であることを告白したのが1年前。本作は闘病中初の新作であり、また遺作にもなるかもしれない基点となる作品。
きっと、大事な本になる。その感覚があった。

乱歩賞と直木賞を同時受賞した傑作「テロリストのパラソル」以来、この人との付き合いはもう11年になる(デビュー自体はもっと前だが)。その間様々の本を読み、数多の作家と出会ってきたが、今までこの人を超えるような作家に出会ったことがない。それほど俺の感性にマッチした本を書く人だ。
異論はあるかもしれないが、藤原伊織の作風はハードボイルドにあると思っている。彼の著作の主人公は、「権力には屈しない」「小さなことのために命を賭ける」「武士は食わねど高楊枝」「ヒロインとは結ばれない」「他人には言えない過去がある」「ハッピーエンドは迎えられない」など、ハードボイルドであるための条件をすべて兼ね備えているからだ。
本作の主人公辰村祐介も例に漏れず、ハードボイルドの基本装備を搭載している。少年時代大阪で、友人と3人、誰にもいえぬ傷を負った。それから25年、東京の大手広告会社に勤務し、営業として辣腕を振るっている。セクハラ上司にクビを覚悟で暴力を振るうなど、信念に従い男として強く生きながら、思い出の日々に心を痛めたりしている。25年の歳月が、いつの間にか背後に忍び寄っていることに気づきもせずに……。

「私たち三人がすごした日々。それはなにかの痛みに似ていた。目を射る光のような痛みであり、懐かしい痛みのようでもあった。歳月は水のように流れた。私の無知をたどり、二十年以上を流れたのだ。」

これは「テロリストのパラソル」から抜粋したものだが、本作の底流にあるものと似ている。それは過ぎ去ってしまった時への憧憬であり、悔恨である。またその時が、現在の自分を形作っているのだという諦念である。
この二つの作品は似ている。
なぜ似ているかといえば、それは藤原伊織だからでもあるのだが、なんといっても今回は、「テロリストのパラソル」の主人公島村と辰村祐介をオーバーラップさせているからである。
元全共闘の闘士にしてアル中のバーテン。短編にも登場していたあの島村のその後が、本作では描かれている。もちろん、というか想像していた通りの結果ではあったのだが、彼は儚い最後を辿った。その島村のことを語る人物が、辰村祐介の運命の一端を握った。
この事の意味は大きい。過去を踏襲し、対峙するということが、そのまま本作のストーリーとマッチングしている。意味付けを重ね重ねていった結果、辰村祐介は先に挙げたハードボイルドの要件のいくつかを無視することとなった。
変化、と言っていいと思う。成長、進化と言い換えてもいい。一見いつもの藤原伊織作品なのだが、クジラとイルカの如く、似て非なるものだ。
病床にあって、藤原伊織は戦い続けている。その感慨が胸にある。夜空に輝くシリウスのように、明るい光を点す。


イかせて!!バンビーナ①

2006-11-24 17:24:09 | マンガ
「よ……呼び出したって……俺が!?」
「ゲ……てめーもしや宝クジか!?」
「な……何それ……!?」
「”たまたま”ってヤツだよ!」

「イかせて!!バンビーナ①」神崎将臣

思春期の少年が女性に対して持つ感情というのは特別なものがある。自分たちとは異なる柔らかな肉体、丸みを帯びたシルエット、可憐な声、瞳……。DNAが運命付けたその衝動は、欲望と憧憬を混在させたまま自分のうちで膨れ上がっていく。原始の頃より宿命付けられたその渇きは、どこまでも癒されることがない。中学高校の子供が口を開けば女性の話しかしないのも、それは生物学上やむを得ないことなのだ。童貞ともなれば、頭の中身の八割がたはSEXのことだ。
「イカせて!!バンビーナ」は、そんな童貞少年源勇太郎の青春を描いた物語だ。始まりは、両手足を枷で拘束された少女が、真夜中の勇太郎の部屋に現れるところから。少女は裸身も露に勇太郎に迫る。その目的は、呼び主の願掛けを成就させ、300年の牢役から開放されること。彼女は縁結びの神様バンビーナだったのだ。
神埼将臣。
熱く骨太な作風。メッセージ性の強いアクション漫画を描く人で、逆立ちしたってエロマンガ(軽度だが)を描けるような人には思えなかった。
なぜ思わなかったか、といえば、それは未完の作品の多さからだ。気に入らない作品を壊してしまう陶芸家のような人物像を勝手に想像していたため、今回のバンビーナ刊行にあたっては、悪いものでも食ったのか、それとも長いものに巻かれたのか、と本気で心配した。
だが杞憂に終わった。
「自分の好きなことをしていない奴の顔は歪んでいる」といったのは誰だか忘れたが、神崎将臣のタッチに迷いはなかった。読者におもねることも媚を売ることもなく、純粋に、表現としてのヌルさを楽しんでいるように見えた。
初めてのランジェリー売り場。入浴中のバンビーナののぞき。海の家でのナンパ目的のアルバイト。誠愛会(全員が童貞を脱出するまでフォローしあう運命共同体)のメンバーたちのドタバタ……。
その筆致には、喜びがある。本当に自分がやりたいことができることの楽しさ。満たされていく空白。
そしてあとがき。
「20年かかってやっとライトな連載が叶ったのです」
つまりバンビーナのようなライトな表現は、神崎将臣が漫画家として生き残ることに拘泥して生まれたものではなかった。そのことがとても嬉しい。時が経っても、腐らないものってある。

彼女はたぶん魔法を使う

2006-11-21 21:10:50 | 小説
「パパにできるかなあ」
「そりゃあ……そのパパっていうの、やめろと言ったじゃないか」
「ママにちゃんと話せる?」
「一応は夫婦だ。おまえの教育に関しては、俺にだって責任がある」
「無理しなくていいんだよ」
「あのなあ、大人ってのは、無理だとわかっていてもやる時はやるんだ。おまえは自分のことだけを心配していればいい。とにかく、夏休みが終わるまでには、なんとかする」

「彼女はたぶん魔法を使う」樋口有介

父親になりきれぬ中年親父と、達観してしまった娘の軽妙なやり取りから始まる、柚木草平シリーズ第1弾作品。
今後のシリーズ展開を見据えての、柚木草平と周りの人物紹介がメインとなる……はずなのだが、文章割合としてはあまり割いていない。草平のとぼけた軽口そのまま、読者を幻惑するように話は進んでいく。
簡単なプロフィールを紹介するなら、柚木草平38歳。別居中の妻知子と、10歳になる娘可奈子がいる。かつては警部補として辣腕を振るっていたが、射殺事件が原因で刑事を辞め、今は刑事事件専門のフリーライターをしている。美女を見れば口説かずにはいられないという不治の病に冒され、元上司の吉島冴子とは不倫の関係。といったところか。草平の過去については2作品目の「初恋よ、さよならのキスをしよう」以降から触れられていく。
今作は、冴子から持ち込まれた女子大生轢き逃げ事件の真相探しがテーマとなる。
題目にある魔法、というのはあくまでもロマン的な意味合い。被害者島村由美の姉香絵が男どもにかけ続けた幻惑の魔法と、由美の親友夏原祐子が天候にかけた夏の訪れの魔法。それらに右往左往させられながら、草平は事件の核心に迫っていく。
真実は、辛く暗い。
けれど草平は、目を反らさない。
自分自身の論理に従って生きていた人がいて、その人の生き方を否定できず飲み込んだ人がいて、二人はそのまま老いていくこともできたはずなのに、ひとつの歯車の狂いがすべてを台無しにした。
人生はうまくいかない。それは柚木草平シリーズのテーマでもある。
人生はうまくいかない。すべての人が幸せになれるわけではない。それでも、自分のもてる最大半径の中で人は努力し、幸せを見つけていかねばならない。そうして、生きていかねばならない。たとえ、ハッピーエンドがやってこなかったとしても、必ず、夏は来る。夏くらいなら、やって来るのだ。

見上げてごらん夜の星を

2006-11-19 22:46:20 | 観劇
 砂漠の真ん中に不時着した飛行士。
 その前に現れた金髪の不思議な少年。
 少年は言う。
「羊の絵を描いてよ」
 面食らう飛行士になおも付きまとい、食い下がり、繰り返す。
 邪険にされても、撥ね付けられても、諦めようとはしない。
 少年は知っていたからだ。自分の星に咲くバラが、たとえどんなにわがままなバラであろうとも、それはこの世にただ一本のバラであり、自分が手なずけたバラであり、その面倒を見る義務を負っていることを。
 たとえその先に自らの死が待っていようとも。
 ……もう、迷いはしない。

「星の王子様」アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 木枯らしの吹く冬の池袋。東京芸術劇場。A君と二人、それぞれの学生時代を懐かしみながら訪れた。
 リトルプリンス、と題されたそのミュージカルは、音楽座の手によるものだった。 ミュージカル観劇自体は2回目だが、ようやく見方が分かり始めた。見方、というと大げさだけれど、ようは表現としての歌とダンスの存在意義について、心を開き受け入れる準備ができたということだ。
 今回の題目は、誰にとっても親しみ深い「星の王子様」。
 地球ではない小さな星に一人住まう王子が、可愛がっていたバラと喧嘩別れして地球を訪れ、様々な人との出会いの中で本当に大事なものを知り、別れを惜しまれながら帰っていくという流れ。ただ、星へ戻る方法が「蛇に噛まれ、死んだようになる」ことであるため、ラストシーンに印象的な余韻が残る。
 今回の音楽座の公演は、そのラストシーンもそうだが、原作者であるサン=テグジュペリの原体験を基に再構築した節がある。
 具体的にはサン=テグジュペリ自身の砂漠での不時着及び遭難事件と、可愛がっていた弟の死だ。このふたつの要素が「星の王子様」に及ぼした影響は少なくない、と見ているのだろう。飛行士のバックボーンは、サン=テグジュペリと似通った部分が多い。
 ならば、星空の彼方で笑っている少年の声は、サン=テグジュペリの弟のものではないだろうか。14歳の若さで亡くなった彼が残したものは、1台の蒸気エンジンと、1台の自転車と、1丁のカービン銃と、そして……。

太陽

2006-11-17 23:50:24 | 映画
「あの録音技師はどうしたかね?私の人間宣言を録音した若者は」
「自決いたしました」
侍従長の言葉に、ヒロヒトは硬直した。
「……だが、止めたのだろうね?」
「いいえ」
1945年。焦土と化した東京には薄い雲がかかっていた。その向こうにぼんやりと見えるものは……。

「太陽」監督:アレクサンドル・ソクーロフ

フォーマルな舞台に登場する天皇の姿を描いた作品は数あれど、これほどまでに卑近な存在として扱った作品は例を見ない。
なぜならかつて、天皇は神の子と呼ばれていたからだ。現人神であり、太陽であり、うがった見方をするなら「人間であってはならない人間」だった。
そういう意味でも、外国人の監督でなければこの題材は扱えまい。
「太陽」のキーはまさにそこ。
焼け残った海洋生物学研究所で細々と生き延びているヒロヒト。人間でありたいと願いながら人間であることのできなかったヒロヒト。占領軍兵士にチャーリー(チャップリン)と呼ばれるシーンなどは、皮肉を通り越して滑稽といえる。もちろん、そういう含みもあっての対比なのだろう。イッセー尾形の起用も偶然とは思えない。

主な舞台は防空壕と海洋生物学研究所。照明も音響も抑え目だから、この映画は見た目がとても地味だ。
だが、テーマの重さが拭いきれぬイメージを見る者の胸に残す。愛国者であってもなくてもそれは同じ。日本という国に住まうすべての者に平等だ。
焦土と化した東京の、雲の向こうに垣間見える未来。そこに俺たちは生きているのだという事実が、この映画から距離を置かせてくれない。アレクサンドル・ソクーロフの積み上げた重厚な雰囲気がのしかかって、最後まで息をつかせてはくれない。

初恋よ、さよならのキスをしよう

2006-11-12 23:35:21 | 小説
「俺はみんなに幸せになってもらいたかった。柿沢にも谷村にも春山さんにも菊田さんにも、そしてもちろん、卯月実加子にも」
だけど、誰も幸せにはなれなかった。すくなくとも卯月実加子は死んだ。
他の4人もどこかいびつな日常を送りながら、自らと自らの愛する者の幸せを願っていた。
柚木草平はひとり蚊帳の外にいた。学生時代のマドンナ卯月実加子の死に接し、ついに溶け込むことのなかった同級生グループとの対話を繰り返しながら、過ぎ去ってしまったあの時のことを思った。元には戻れぬ日のことを思った。

「初恋よ、さよならのキスをしよう」樋口有介

柚木草平シリーズ、というものがあることを初めて知った。バツイチの中年親父がいい歳こいて美女の誘惑にふらふらしながら事件を解決する、というからなんとなく赤川次郎の小説を想起しながら読むと、案に相違してはあどぼいるどだった。
柚木のよく動く口も、女と見れば追いかける目も、すべては決別しきれぬ自らの過去との摩擦から生まれたものだった。彼は己がこれからどうやって生きていけばいいのか、世間との折り合いをどのようにつけていけばいいのかということを悩みながら、無様に生きている。
ある日、娘と訪れたスキー場で偶然再会した学生時代の同級生卯月実加子が死んだ。そのことを元刑事の柚木に告げにきたのは卯月実加子の姪で、凛とした美貌の早川ケイだった。早川ケイは卯月実加子が死の直前、自分がもし死んだら柚木にすべてを頼むと言い残したことを伝えにきた。
彼女は自分が殺されることを予見していた。
その事実が、柚木を強く打った。
普通ならここで助手早川ケイの誕生、といったところだが、柚木はそれをしない。肉親の死とその黒い背景に早川ケイを関わらせぬよう、わざと彼女を怒らせるのだ。その甲斐あってか(?)彼女は話の前半と後半にしか登場しない。
ハーレムミステリとはあどぼいるどの差、とでもいおうか。読者の願望は別として、本作は青春への慕情という筋を通すことを優先している。そういう意味で早川ケイとの距離感は、絶妙といっていい。ラストの別れのシーンのほろ苦さは、他の小説では味わえぬものだ。

パンドラケース~よみがえる殺人~

2006-11-11 08:55:20 | 小説
「鏡に映った自分の顔をしばらく眺めた。吐いたせいか血の気が失われている。ここ何日かの間に痩せたようだ。うっすらと伸びた髭が歳を感じさせた。
<もう青春は終わっちまったよ>
なぜかパンドラの淋し気な顔が瞼に浮かんで、塔馬は彼女に呼びかけた。涙が止まらない。もう何かも終わったのだという気がした。」

「パンドラケース~よみがえる殺人~」高橋克彦

かつて、鄙びた温泉宿に泊まった8人の大学生は、それぞれの思い出を詰めたタイムカプセルを埋めた。仲間の中で最初に死んだ人間の13回忌に開くことを約束して彼らは別れ……。
そして17年後。パンドラこと半田緑の13回忌に再び集まった。そこに悲劇が待つとも知らずに。
というのがあらすじ。タイムカプセルを開きに集まった元喫茶店研究会のメンバーが豪雪に閉ざされた旅館で次々に殺されていくわけだが、「閉ざされた山荘」とは違って周囲に一般人がいる。そのため話の本筋はそこではなく、あくまでパンドラという一人の嫌われ者が死んだことが現在にどう関与しているのかという所になる。実際話の中盤以降、彼らはあっさりと豪雪地帯を抜け出してしまうため、「閉ざされた山荘」を期待して読むと肩透かしをくうことになる。

蛇足ともいえる副題は抜きにして、主題について考える。パンドラの箱とは、ギリシャ神話における災いの女性パンドラが開けた、絶対に開けてはならない箱のこと。箱の中からは犯罪や疫病などこの世のありとあらゆる災いが飛び出した。最後に飛び出さずに残ったものは、未来視の災いだけだった。
未来視というのは将来のことがわかってしまう災いのこと。わからないなら希望があるだろうという論法。それは本作の中でも生かされている。生き残りの登場人物たちが描いていく未来は霞がかかってこそいるものの、そこにあるのは絶望ではない。淡い希望。

各章題は、
1章パンドラ・ケース
2章パンドラ・マーダーケース
3章パンドラ・マッドケース
4章パンドラ・バッドケース
5章パンドラ・ブラッドケース
6章パンドラ・サッドケース
となっているが、これは、神々からパンドラに与えられた様々なもの(美や音楽の才能など)に当たるのではないだろうか。つまり。
箱。
殺人者。
狂気。
悪。
血。
悲しみ。
暗くて平凡な、なんの取り柄もない女性パンドラが与えられたものは、皮肉にも惨たらしいものばかりだった。だがその中から彼女は愛を見つけ出し、拾い上げようとした。一瞬の暖かい記憶だけで何十年も生きていけると思っていたのに、その望みは、ついに、かなわなかった。

椿山課長の七日間

2006-11-09 21:49:02 | 小説
「美しく、清らかな少女であった。雨に濡れてほつれたおさげ髪の、その一筋までもが愛おしく思えるほどの、可憐な少女であった。
テーブルをめぐって夫の目の前に立ち、少女は輝く瞳をもたげた。それから、きっぱりと言った。」

嘘だけは絶対につくな。悪いことをすれば、必ずわかるんだからね。
それが我が家の教えだった。子供心に、嘘をつくことへの抵抗心が芽生えた。
でも、実際にはそんなにうまくはいかない。嫌悪感を覚えつつも少年は嘘をつき、軽い言葉で自分を飾りながら大人になった。
だからなのかはわからないが、まっすぐな人間が登場するお話には共感を覚える。とくに、いいたくてもいえなかったことを告白する話には弱い。
「椿山課長の七日間」は、浅田次郎原作で、来年映画公開が決定されている本だ。
この世に未練を残した死者が、現世特別逆送措置により、三日間だけ現世への滞在を許される。ただし肉体は借り物で、さらに「復讐の禁止」「正体の秘匿」「制限時間厳守」の三項目の厳守を約束させられる。それらをひとつでも違えれば、「こわいこと」になる……。
中年親父の魂が美女の肉体に宿ったり、反省ボタンやよみがえりキットなどのコミカルな小道具が登場したりといったところは、さすが浅田次郎。お得意のバタ臭い演出も健在で、ファンとしては喜ばしいかぎり。
もちろんユニークなだけじゃない。泣かせるところはきちっと泣かせてくれる。現世に戻った三人の人間のうちのひとりの、少年だけど少女の姿をした子が生みの親と出会うところなどはとくに良い。

「おとうさん。ご恩返しが何もできずに、ごめんね。ぼくは、とても幸せでした。ほんとに、ほんとにごめんなさい」
「ありがとう、おかあさん。ぼくを生んでくれて、ありがとう。ありがとうございました」
困惑する両親の懐にとびこんで、少年は号泣した。
生きている間は会えなくて、やっと会えたと思ったら、すでに自分は死んでいて……。
彼にできるのはお礼をいうことだけだった。謝ることだけだった。自らのことを明かせば悲しませるかもしれないから、秘密のままに、彼は冥土へと旅立った。

こういう本を読むたびに、いつも思う。
素直に生きたい。
心を開き、まっすぐな瞳で物事を見ていたい。
自分を偽ることなく、真っ白な、純化された魂を持って生きていきたい。
そして、両親を含む俺の周囲の人間すべてにいうのだ。
感謝を。

新香港国際警察

2006-11-03 00:22:34 | 映画
「兄弟、未来には素晴らしいことがまだまだ待ってる。済んだことは忘れて、辛い気持ちを力に変えるんだ。」

映画「新香港国際警察」において、ニコラス・ツェー扮するシウホン巡査が、失意のどん底にいるチャン警部(ジャッキー・チェン)の奮起を促すために用いたセリフ。
未来への憧憬は、過酷な現在と過去を駆逐する。簡単だけど、それだけに的確に、チャン警部の耳に届いた。

岐阜で長崎で福岡で、中学生の男女の自殺が相次いでいる。あまりにも時期が重なるため、何かの社会現象かと思ってしまうくらいに。
動機はそれぞれなんだろうけど、共通して言えるのは、いじめを受けているということ。周囲はそれに気づけずに、あるいは気づいてもどうにもできずに、ただみすみすと死なせてしまった。死んでしまった。
いじめのない明るい学級を作ろう。とか。
事実関係の把握に努める。とか。
色々いうけど、いじめ対策が成功した実例を俺は知らない。教育関係の人たちには、「みんな同じ人間なんだから分かり合えるはず」ってのがお話の中だけのファンタジーなんだってことを、ぜひわかっていただきたい。いじめはなくならない。
だったらどうすればいいかって、やっぱり本人が強くなるしかない。真正面から立ち向かって砕けるのも手だけど、いじめられっ子がそんなに急に強くなれるもんじゃないのは俺自身が一番わかっている。
効果があるのは、逃げること。単純明快。尻をまくって脅威から逃げればいい。物理的にも精神的にも、殻を作ってその中に逃げ込めば、当座は凌げる。
格好悪いかもしれないけど、屈辱かもしれないけど、生きていれば、そのうちきっと報われる。
周囲の人間にできるのは、その逃げ道を作ってあげること。殻の中で、いじめられっ子に夢を見させてあげること。
それは未来の夢。あやふやで不確かな、霧の向こうに仄見える幻影。それを幸せな自分の未来像なのだと信じさせてあげること。
そしていうのだ。柔らかな声音で。

「兄弟ー」