はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

新宿スワン

2006-05-31 20:55:48 | マンガ
「あの子が風俗やる理由って何ですか?結局金ですよね?」
「……だから?」
真虎が振り返る。タツヒコはぎくりとして立ち止まった。
歌舞伎町一番街のネオンの下で見る真虎のその表情からは、最前までの飄々とした雰囲気は消えていた。
「もしあの子にたくさん借金があっていやいや働いてるとして。お前が助けてやるのか?」
唇と目蓋に入った二本の刀傷。その奥から、ぞっとするほど重い気がこぼれ出た。
「いいか?テレビの前でかわいそうとか許せねえとかいってるのとはわけが違うぞ。それなりのリスクはついてくる。お前にその覚悟があんのか?向いてねえだと?そんな生ぬるい仕事だと思ったのか?びびっただけだろーが!!」

女衒の話。古風にいうならば。
現代風にいうならばスカウトの話。水商売、風俗、AV。金に困った女に裏の仕事を紹介する男の話。
主人公、白鳥タツヒコはプータローだ。夢を追って上京し、夢破れてついに100円の金すらもなくなった。
そんなところを、真虎という名のスカウトに拾われる。
真虎の言葉がすべて正しいとは思わない。だが、正しいも正しくないもひっくるめてまともに現実と向き合っている姿に、タツヒコは打たれた。
そして彼は、自分なりの正義を貫きながら、たくさんの人生と向き合っていく。

最近流行の、青臭い己を振りかざす漫画。だけど、どこか憎めない泥臭さがある。親近感を覚える。
それは主人公のキャラのおかげかもしれない。タツヒコは頭がよくない。そのぶん、バカはバカなりに必死に考える。走る。あがく。叫ぶ。無力感に苛まれながらも、決して思考停止しない。その懊悩には答えも終わりもないのだと知りながら。
それでもタツヒコは、絶対にあきらめない。

大学時代

2006-05-29 13:38:07 | 大学時代
「集合ー!!」
 どこからか、怒鳴るような声が聞こえてきた。時計を見ると、午後十一時五分前をさしている。
 なにごとかと思いながらドアを開けると、同じようなことを考えたらしい隣近所が顔を出した。
「…何今の?」
「上っぽくね?」
「いってみるか」
 どこかよそよそしいやり取りをしながら、新入生はひとかたまりになって二階を目指した。
 階段をあがると、他の階の新入生はすでに一例に並んでいた。
 上級生のひとりが竹刀で床を叩いた。
「集合遅ーぞ!やり直し!!」新入生はわけもわからず自室に戻り、結局この夜はもう二回、同じことを繰り返した。

 大学一年目は寮に入った。一年しかいられない期限付きの寮で、選ばれた人間だけが上級生として残っていくというスタイルをとっていた。基本的に体育会系で、上級生とすれ違う時は立ち止まって通り過ぎるのを待たなければならなかった。
 起床点呼。消灯点呼。先輩には絶対服従。女人禁制。寮歌を覚え、掃除当番をさぼらずやっていさえすれば、とくに不満のない環境だった。
 何より大きいのは飯が出ること。食うのに困らないというのは大きかった。
 平日の朝夜は寮母さんが飯を作ってくれた。水曜はカレーの日。パイナップルの入った甘いカレーだった。
 特段おいしいというわけではない。ただ、不思議と記憶に残っている。ルーに覆われたパイナップルのほのかな甘味が、今も舌の上で踊る。

スパークリングカフェ

2006-05-27 15:25:59 | 出来事
朝、会社にいく前にコンビニに寄るのが習慣としてある。缶コーヒーを二本買っていくだけだが、これをやらないと一日中落ち着かない。
銘柄はこれといって決めていない。気分に応じて激甘から無糖まで拘泥せずに買うことにしている。
その日はまずファイアのひきたて工房を手にとった。もう一本をどうしようかと物色していると、スチールのボトルタイプのコーヒーが目に入った。
ネスカフェの新作か…。手にとってみると、スパークリングカフェという、コーヒーには似つかわしくない名前が書いてある。注意して見ると、ボトルの下部に、こっそり炭酸と記されていた…。
世の中には、存在してはいけないものがある。
甘いラーメンとか、温かいポカリスウェットとか、原液しか出さないカップのカルピスの自動販売機とかだ。共通していえるのは世間一般の人の口に合わないということだ。
スパークリングカフェが前例と異なるのは、破壊力のなさ。炭酸の刺激は小さく、甘味も飛び抜けて甘いわけではない。キワモノ、というのもはばかられるほど中途半端にまずい。
六人のうち一人に好かれればそれでいい、というコンセプトらしいが、好かれる前に担当者のクビが飛ぶのではあるまいか?缶の蓋を開けて炭酸を抜くスケープゴート的実験をしながら、僕はそんなことを思うのだ。

明日の記憶 ~その後~

2006-05-25 19:56:10 | 映画
「どうあれ、僕は生きている。様々な恐れや不安と向き合いながらも、生きる希望と勇気を持って今日を生きている。」

下の日記を書いた時点で、その事実は知らなかった。ただ、パンフレットのコメントを見た時に、ずいぶん思い入れのある作品なんだなと感じたことを覚えている。
その事実を知ったのは、会社の同僚が読んでいたスポーツ新聞の記事だった。驚く同僚をよそに、新聞を奪うようにして読んだ。
渡辺謙 C型肝炎を告白。
衝撃的な記事だった。そこには何年もの間人知れずC型肝炎と闘っていた事実を淡々と語る渡辺謙のコメントが乗せられていた。
自分自身が重い病を背負っているために、なるべく病気がらみの作品への出演を避けていた渡辺謙は、明日の記憶を撮ったことによって日々を生きることの大切さを知り、またこれ以上病を隠す必要のないことを悟り、著書「誰?WHO AM I」での告白に踏み切ったという。

「そうなんだ。自分は17年前、2度目の命をもらって今ここにいる。そのことへの感謝と自分の思いを形に出来るとすれば、この作品を撮ることじゃないか」

映画には、人を動かす力がある。時にその人の人生を変えてしまうほどの力を持つ。それは観客だけでなく作り手にとっても同じで……。
つまるところ、明日の記憶という作品には、渡辺謙を変えた何かが宿っている。
生きてきたこと。
生きていること。
生きていくこと。
日々積み重ねていくことの大切さ。
たぶん、そういうものなんじゃないだろうか。それ以上は、俺のような若造が理解するには早すぎる。

明日の記憶

2006-05-23 16:35:08 | 映画
戦わねばならない。
キャンパスのノートに日記を綴りながら、佐伯雅行は決意する。
日記を綴るということは現在の自分を記憶する行為で、同時に現在の自分と向き合う行為でもある。
守らなければならない。
陶芸教室でろくろを回しながら、佐伯雅行は考える。
日々変わっていく自分が身の回りの誰かを傷つけてしまわぬように、自分自身を完成させなければならない。自作の陶器は人間としての器を体現すると、かつて酔っ払いじじいがいったように。
しかし時は流れる。恐ろしいほどの急スピードで。
目に見えて、日記に使用される漢字の量が減っていく。
日々上達する陶芸の腕とは裏腹に、人格は失われ、こぼれゆく。
精神力ではどうにもならない。残るのはただ圧倒的に無力な自分。
だから佐伯雅行は泣く。吠える。もだえ転げ回る。
この戦いに勝ち目はない。同時に逃げることも許されない。

「明日の記憶」は、若年性アルツハイマーを患った男の生き様を描いた映画だ。
一人娘が子供を妊娠し、いずれ結婚。会社では部長として、多忙だけれど充実した日々を送っている。幸せの絶頂にあった佐伯雅行という男が突き落とされ、もがきあえぐ姿を、目をそらすことなく真正面からとらえた映画だ。
主役の佐伯雅行役は渡辺謙。献身的な妻、枝実子役に樋口可南子。監督は堤幸彦。
この布陣でどんな作品が生まれるのか、正直最初はまったく予想がつかなかった。役者陣個々の実力は認めるが、何せテーマが重い。プラスして前衛的な演出が売りの堤幸彦が監督ときている。
最高か最悪か、ふたつにひとつの危険な賭け。結果は前者と出た。堤幸彦の、映画「恋愛写真」やドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」で見せたようなせつなさ、無力感の表現に磨きがかかっていた。特筆すべきはラストシーンで(詳しくは書かないが)、その何秒かで二人の人間の人生をすべて表現しきった。その要望に応えた二人の役者の演技には鳥肌が立った。そのシーンを見るだけでも、映画館に足を運ぶ価値はある。そう思った。

イッセー尾形の都市生活カタログ

2006-05-22 02:04:13 | 観劇
 天井照明が消えると、暗い会場に設営された舞台が、ほの白い幻のように浮かび上がった。やがてそれも消え、会場は暗闇に閉ざされた。
 一転、舞台端の衣装置き場にスポットライトがあたった。
 数着のワイシャツと背広、ワンピースにギター。およそ脈絡のない衣装置き場でひとりの男が忙しそうに着替えをしている。
 オールバックにメガネ。細身の身体には年齢相応の贅肉やたるみの類が一切見られない。
 節制と鍛錬の賜物だな。
 ため息をつくような気持ちで、僕はその男を見つめる。
 イッセー尾形。その一人芝居が始まろうとしていた。

 5月21日。
 Fテルサにイッセー尾形がやって来た。
 かねてから見たいと騒いでいたA君を連れて、二人、小旅行気分でF市を訪れた。
 僕自身は特別イッセー尾形のファンというわけではない。テレビなどを通して知ってはいるし、いい笑いを作るという話を聞いたこともある。だが、実際にその芸を見たことは一度もない。面白半分、特段期待もせずに見始めたのだが、どっこいはまってしまった。
 正方形の舞台の上を所狭しと駆け回りながら、歩き回りながら、寝転びながら、時にはシェーをしたりして、イッセー尾形は観客の笑顔を引き出す。
 形式としてはコントに近い。英語教諭のコントを10分やったら素早く着替えてサラリーマンになる。サラリーマンが終わったら今度は家政婦。着替えはすべて舞台上で行われ、それも含めて笑いとなる。すべてが計算し尽くされた熟達の表情と演技、構成。脱帽という他ない。
 終了後、僕はサイン会の行列の脇に立っていた。買ったDVDとポストカードにサインをしてもらうのだとはりきるA君を眺めながら、じっと余韻に浸っていた。
 やがて、主役が現れた。髪を下ろし、メガネを外したイッセー尾形が歩いてくる。その風貌はどことなく文学青年を思わせた。
 A君にせがまれ、僕はA君とイッセー尾形のツーショットを写真におさめた。今見返してみても、その表情には疲れの気配が見られない。感じていないのか、殺しているのかはわからない。
 プロの仕事だ。ひさしぶりに気持ちのいい仕事をする人に出会った。というのはおこがましいだろうか。

FF11(4)

2006-05-20 11:44:15 | FF11
アトルガン皇国からサンドリアに戻ると、Gは旅支度を整えて一路バルクルム砂丘へ向かった。
赤魔道士としての正装の代わりに、練習生の着るようなハーネスを身に着けている。大型のダルメルの骨を削りだして作ったハーネス装備に、刃を黒く塗った二本の刀。リュックの中には多数の巻物と忍術触媒……そう、Gは忍術の修行の旅に出ていた。
決して本職を忘れたわけではない。むしろ本職を際立たせるための、極めるための新たな技術を習得しようとしていた。
そうでなければ、この先通用しない。
それがわかっていたから。皇国防衛戦や未踏破地域の探索へ向かった同胞たちとは異なる道を選んだ。
修行するならば、かって知ったる土地へ。そんな気持ちで訪れた砂丘は、昔とは異なる姿をもってGを迎えた。
まず、言葉が通じない。修行の聖地は、遥か西方から訪れた異国人が闊歩する怪しげな土地へと変貌していた。
片言の異国言語と身振り手振りで会話をこなしながら、Gの修行は始まった。赤3白2忍1や、召竜赤2白忍など、随分と趣のある徒党を組みながら、苦労して巨大魚を叩く。時に強力な亡霊に追われ、セルビナへと駆け込む。Gは疲労に耐えかねて、セルビナの路上に座り込んだ。浅い眠りの中で、DHのことを思い出した。
DH。二年前に同じような理由で砂丘を訪れた際にパートナーを組んでいた異国人だ。異国人のくせにGの国のことに興味があって、「jyuon omosiroiyo」などとわけのわからぬことを連呼していた。Gのことを「oniisan」と呼びまとわりついてきたりして、G自身もDHのことを憎からず思っていた。その交わりは何ヶ月か続いたが、Gが家を住み替えるなど忙しく、修行どころではなくなったため一時途絶えた。一年ほどの中断のあと、一度だけ出会う機会があった。その時もGはあまりの眠さのためにDHの相手はほとんできず、二言三言の会話で終わってしまったのだが……。
心残りなのは、それが最後の対話だったことだ。今では手紙を送っても反応がない。DHはもうこの地を去った。彼の修行の日々はおそらく終わったのだ。
ありがとうといいたかった。すまないと謝りたかった。共にいた何ヶ月か、たったそれしきの日々がかけがえのないものであることを伝えたかった。
それすらも、いまはかなわぬ。
奥歯を噛み締めながら、Gは空を見上げる。帽子のつばに手をやったが、制帽はサンドリアに置いてきてしまっている。砂丘に舞う黄金の砂が、たちまち視界を覆い、やがて何も見えなくなった。

声も出せない

2006-05-18 21:21:50 | 出来事
不意をつかれた。
意識の外からの一撃だった。
肺腑をえぐるようなスパイスの香り。
乾いた喉を刺激してやまない濃厚なルー。
飲み込むどころか水を口に含む暇すら与えられず、ひたすらにむせながらカウンターに沈んだ。

吉野家T店
半年以上前につぶれたはずのこの店が復活していることに驚いて、思わず店内に足を踏み込んだ。「吉野家なのにカツなあげくカレー」という語感がなんとなく気に入ってカツカレーを頼んだところ、専門店並みの激辛いカレーが出てきた故の惨事だ。
誰に予想ができたことだろう。早い安いうまいがモットーの吉野家で、明らかに辛口とわかるカレーが出てくることを。冷静に見てみればメニューにはしっかりと中辛の文字が書かれたいたが、それにしたって辛すぎる。僕は半ば本気で店員の陰謀を疑った。
たったひとりの僕のための、ピンポイント爆撃。
となれば、負けるわけにはいかないのだ。男として。人間の尊厳にかけて。視界の端で親子連れがびっくりしていたが、へこたれるわけにはいかなかった。
圧巻だった。一滴の水すら請わず、ひたすらにがっついた。渇しても盗泉の水は飲まずというが、その気持ちだった。カツとルーとライスの配分を完全にコントロールしきったパーフェクトな試合運びで、僕はそいつを克服した。
「……ありがとうございました!」
気圧されたような店員の声が、今も耳に残っている。

言葉も出ない

2006-05-16 20:05:16 | 格闘技
不意をつかれた。
意識の外からの一撃だった。
左のボディのさらに「下」をかいくぐるような膝へのタックル。
そして世界トップクラスのグラウンドテクニック。
挽回どころかたった一度のエスケープすら許されず、絶対王者は1R半ば、肩固めに沈んだ。

PRIDE武士道10
五味隆典VSマーカス・アウレリオ
4月に行われたこのカードについて、なぜ今頃語るのかといえば、単純につい最近見たからだ。録画したものをDVDに保存し、いつか見よう見ようと思いながらも見る勇気が出なかった。
格闘技を愛している。好きな選手に勝ってほしいという気持ちは誰にも負けない。
火の玉ボーイが燃え尽きることを事前に聞かされてしまって、どうしても見るのが怖かった。
見たのは夜中。部屋を真っ暗にして、だ。マーカス・アウレリオの完璧な試合運び。五味の圧力のなさ、精彩のなさ。ぐうの音も出なかった。加えて試合終了後のインタビューだ。
疲れた?
もっとも聞きたくなかった言葉が、今も耳に残っている。

もうひとつの敗北

2006-05-08 10:32:18 | 格闘技
 この世の中には、届かぬものがある。手を伸ばしても、命をかけて望んでみても、かなわぬものがある。
 五月五日のPRIDEオープンウェイトトーナメントにおいて、強烈なインパクトを残した試合がもうひとつあった。高阪の派手な引退試合とは異なる、苦い敗北。

 吉田秀彦対西島洋介

 前回ハントと好勝負を繰り広げた西島と、柔道王とのマッチメーク。
 試合が始まる前のインタビューで、西島はいった。「柔道よりボクシングのほうが強い。なぜなら相手の身体が触れる前に倒すことができるから」。細部は違うかもしれないが、要約するならそういうことだ。
 決して、ボクシングが弱いわけではない。グローブをつけた男同士の殴り合いなら、たしかにボクシングが最強だ。まして西島はかつて世界を制した男。自負心を責められるいわれなどない。
 だが戦いには、様々なファクターがからんでくる。体調。環境。ルール。ウェイト。
 サブミッションがない。足技がない。クリンチしても解決にならない。総合という戦場において、ボクサーは圧倒的に不利なのだ。今まで多くの世界ランカー達が総合のリングに立ったが、誰一人として結果を残せた者はいない。
 ハントのようなストライカー相手ならともかく、吉田が相手では…。試合開始以前から、危ぶまれていた戦いではあった。それでも、西島のキャラと実績。シンデレラマンの伝説になぞらえて、このカードはメインイベントとして成立することとなった。
 結果は……苦いものだった。西島は吉田に一発のパンチを浴びせることもなくダウンを奪われた。ロープを掴んだ左手が払いのけられた瞬間、試合は終わった。情け容赦のない結末。会場はため息に包まれた。西島の悔し涙の意味を、誰もが知っていた。