goo blog サービス終了のお知らせ 

はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

メトロに乗って

2007-12-24 19:04:34 | 観劇
 風に揺れるワンピースの裾、マフラーに覆われた首筋、差し伸べられた両の手の平……今まで付き合ってきた女の子のことを忘れたことはない。記憶は霞み薄れ朧になりつつも、脳裏のどこかに名残がとどまっている。根本的に数が多くないせいもあるかもしれないが、それ以上に濃い付き合いをしてきたからだ。甘やかな感触も身を切る痛みも含めて、抜き差しならぬ関係を築いてきたからだ。
 それだけに、失ったあとの空白は大きい。時に何年も自己嫌悪に苛まれる。だがそれでいいと思った。相手の心に消えない「何か」を残せぬ恋など、なんの意味がある?
 いい思い出も悪い思い出も抱え込んで、死ぬまで生きること。それはエゴではなく、礼儀なのだ。最大限の敬意のあらわれなのだ。

「音楽座ミュージカル~メトロに乗って~」原作:浅田次郎

 同名小説の舞台化。
 小沼真次(広田勇二)は闇市から裸一貫で成り上がった小沼グループの代表・小沼佐吉(吉田朋弘)の長男だが、反発して飛び出し、いまはしがない衣料品会社の営業マンをやっている。スーツケース一杯に女性物下着を詰めこみ、地下鉄に乗って年がら年中営業先を回っている。家には妻と祖母と子供が二人。会社の同僚のデザイナー・軽部みち子(秋本みな子)との不倫。動脈瘤破裂による佐吉の入院など、とみに騒がしくなり出した周囲の出来事に振り回され、心身共に疲れきっていた。
 25年ぶりの同窓会で凋落ぶりを嘲笑われ泥酔した帰りの地下鉄のホームで、真次は元教師の野平(服部演之)に再会する。野平との会話で今日が30年前に自殺した兄・昭一の命日であることを思い出した真次は、辛い記憶に苛まれながら地下鉄の階段を上がり……昭和39年の兄の命日にタイムスリップしてしまっていた。
 その日は無事に帰ることができた真次だが、不思議な体験はみち子の身にも起こる。口論の末に昨夜の出来事の真偽をたしかめようとした二人は再びタイムスリップする。今度は戦後の闇市。離れ離れになったみち子が警官に連行される中、真次はアムールと名乗る満州帰りの帰還兵と出会う。
 食い詰め者たちの世話を焼き、一攫千金の野望に燃えるアムールが実は若かりし日の佐吉であることを知らぬ真次は、心ならずも共闘する中で友情を深め合う。
 一方みち子も、闇市から出征兵士を見送る新橋駅、満州、昭和初期と佐吉の過去を目にする傍ら、顔も知らぬ父やすでに亡くなった母・お時(井田安寿)と出会い、呪われた我が身の真実を知る。
 
 いがみ合う父と息子の心の邂逅。そういうベタなテーマを描かせたら浅田次郎の右に出る者はいない。ついに結ばれぬ男女の悲恋というアナクロなスパイスも、濃すぎてかえって新鮮に描けている。
 といいつつも真面目な浅田次郎は読みづらいので原作は未読なのだが、舞台を見ただけでも号泣ものの一作になっているだろうことは想像に難くない。大好きな母と語り合うみち子が、その母と真次の幸せを秤にかけるせつない決意など、ハンカチなくしては鑑賞できないような名シーンの連発で、苦手な舞台であるにも関わらず満足できた作品なのだ。

アイ・ラブ・坊っちゃん

2007-06-10 23:33:41 | 観劇
「アイ・ラブ・坊っちゃん」劇団:音楽座

 音楽座のミュージカル観劇のため池袋に降り立った。上演中に寝ないようA君に何度も釘を刺されつつ中ホールに入る。千秋楽を迎える今日はさすがの人出で、ほぼ満席だった。演目は「アイ・ラブ・坊っちゃん」。夏目漱石の「坊っちゃん」をアレンジした音楽座のオリジナル作品ということだが、正直「坊っちゃん」自体読んだことがないのでまったく予備知識がない状態だ。一応開演前にパンフレットに目を通したのがよかった。基礎知識があるとないとでは感動が一桁違う。

「我輩は猫である」で文壇にデビューした漱石。小説家一本で食っていきたいがふんぎりがつかずイライラを募らせ、妻子にあたってしまう最悪の状態の漱石のもとをひとりの男が訪れた。高浜虚子。数年前に亡くなった漱石の親友・正岡子規が編集長を務めていた雑誌「ホトトギス」の現編集長。新作の進行状況を聞かれると、漱石は得意になって題名を告げ、あらすじを語り始めた……。
 まっすぐな気性で、立身出世間違いなし。女中の清にかかると、無鉄砲なだけの自然児も前途有望な若者になる。父親兄弟から見離され勘当寸前だったところを清のとりなしで助けてもらった坊っちゃんは、いずれ清を自分の傍に仕えさせることを誓いつつ、後ろ髪引かれる思いで四国は松山へ向かった。
 新任教員として教鞭をとり始めた坊っちゃん。赤シャツ、たぬき、野だいこ、うらなり、山嵐……。同僚の教員たちに勝手にあだ名をつけるところから遠隔地での生活が始まった。個性豊かな面々の中でもとくに豪放磊落な若手の山嵐と打ち解けた坊っちゃん。松山の町を闊歩し、下宿を紹介され、なんとか暮らしていける自信がついたものの、生徒にはからかわれっ放しだった。
 江戸っ子気質で頑固者の坊っちゃんは、子供たちには格好の遊び相手。怒れば怒るほど面白がられるオチだった。しかしそこは子供。いたずらも幼稚で滑稽なものばかりだったが、曲がったことが大嫌いでプライドの高い坊っちゃんには我慢ならない。ちょっとした誤解から山嵐と仲違いし、絶交状態に陥って機嫌の悪い坊っちゃん。宿直の夜に布団の中にバッタを入れられたことで、その怒りは心頭に達する……。
 不思議なことに、同じような事件が「坊っちゃん」を書いている漱石の身にもおこる。誤解だとわかっているのに娘を泣くまで怒鳴り散らして自己嫌悪に陥ったりと救いがない。極限まで悪化した精神の病が、とうとうありえない映像を漱石の眼球に映し出した。死んだはずの正岡子規や嫂の登世、さらにはドン・キホーテやサンチョ・パンサまでが現れ、漱石を励まし、叱咤していくのだ。
「自分を信じて、思い切ってやりたいようにおやりなさい。坊っちゃんのように」
 誰のためでもなく自分のために小説を書くことを決意した漱石。物語は加速し、いよいよ佳境に入る。
 町一番の美女と結婚するため、その許婚であるうらなりを追いやろうと画策する赤シャツ。敵対する坊っちゃん。仲直りした山嵐。行動派の二人は赤シャツの罠にはまり、自分の生徒と師範学校の生徒の喧嘩を仲裁したのに、首謀者に仕立て上げられてしまう。山嵐は退職に追い込まれ、坊っちゃんも立場を失くす。だがもちろんそのままでは済まさない。聖職にあるのにも関わらず、また町一番の美女とねんごろになっているのにも関わらず芸者遊びをする赤シャツの朝帰りの現場をとらえたふたりは、赤シャツを投げ飛ばし、ぶん殴って天誅を加え……。
 そこで漱石は気づいた。そうされなければならないのは自分ではないか。思い悩み筆を止めた漱石に、再び子規が語りかける。
「もっと単純になれよ」
 子規にキャッチボールに誘われ、いわれるがままにボールを投げあい受け止めあう漱石。魂の触れ合いとか交流とか、人として大事なことを学んだ。教職を捨て小説一本で生きていくことに決めた。そしてストーリーは最後の数歩を刻んだ。
 坊っちゃんはその後、教師を辞任し東京に戻った。盟友山嵐とはそこで別れ、以後会っていない。街鉄の技師の職を得、清を約束通り女中として傍に置いた。安い給料で、清のいうような立身出世はできなかったが、それでも清は幸せそうにしていた。死ぬ直前に清が頼んだように、坊っちゃんは清の亡骸を自分と同じ寺に埋葬した。
「だから……清の墓は小日向の養源寺にある」
 結びの言葉とともに、話は終わる。漱石夫妻のほのぼのしたその後や、坊っちゃんの運転する街鉄に漱石夫妻が乗り込むシーンなどもあるが、蛇足に感じた。ただ、損得も利害も超えた無償の愛をうらやましく感じていた。清の死と俺自身の祖母の死を重ね合わせ、ほろりとしていた。
 
 ……残念だ。こうして書いている今も、ストーリーがすべて把握しきれている自信がない。実際、漱石や漱石の生きていた時代のバックボーンを知らなければお話にならない。スタンディングオベーションで喝采を送る観客やA君のいる領域に到達するには、それほどまでに感動するためには、悔しいけれどもまだまだなのだった。

見上げてごらん夜の星を

2006-11-19 22:46:20 | 観劇
 砂漠の真ん中に不時着した飛行士。
 その前に現れた金髪の不思議な少年。
 少年は言う。
「羊の絵を描いてよ」
 面食らう飛行士になおも付きまとい、食い下がり、繰り返す。
 邪険にされても、撥ね付けられても、諦めようとはしない。
 少年は知っていたからだ。自分の星に咲くバラが、たとえどんなにわがままなバラであろうとも、それはこの世にただ一本のバラであり、自分が手なずけたバラであり、その面倒を見る義務を負っていることを。
 たとえその先に自らの死が待っていようとも。
 ……もう、迷いはしない。

「星の王子様」アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 木枯らしの吹く冬の池袋。東京芸術劇場。A君と二人、それぞれの学生時代を懐かしみながら訪れた。
 リトルプリンス、と題されたそのミュージカルは、音楽座の手によるものだった。 ミュージカル観劇自体は2回目だが、ようやく見方が分かり始めた。見方、というと大げさだけれど、ようは表現としての歌とダンスの存在意義について、心を開き受け入れる準備ができたということだ。
 今回の題目は、誰にとっても親しみ深い「星の王子様」。
 地球ではない小さな星に一人住まう王子が、可愛がっていたバラと喧嘩別れして地球を訪れ、様々な人との出会いの中で本当に大事なものを知り、別れを惜しまれながら帰っていくという流れ。ただ、星へ戻る方法が「蛇に噛まれ、死んだようになる」ことであるため、ラストシーンに印象的な余韻が残る。
 今回の音楽座の公演は、そのラストシーンもそうだが、原作者であるサン=テグジュペリの原体験を基に再構築した節がある。
 具体的にはサン=テグジュペリ自身の砂漠での不時着及び遭難事件と、可愛がっていた弟の死だ。このふたつの要素が「星の王子様」に及ぼした影響は少なくない、と見ているのだろう。飛行士のバックボーンは、サン=テグジュペリと似通った部分が多い。
 ならば、星空の彼方で笑っている少年の声は、サン=テグジュペリの弟のものではないだろうか。14歳の若さで亡くなった彼が残したものは、1台の蒸気エンジンと、1台の自転車と、1丁のカービン銃と、そして……。

この世にある地獄

2006-09-13 23:49:59 | 観劇
 暗い舞台に、ガラスでできたオブジェが聳え立っている。
 キャスターを備え、四方に移動可能なそれは、左右二手に分かれ、舞台中央に崖の切れ目のような空間を作り出している。
 その空間から、ふたりの女が姿を現した。女たちは灰色と白を基調とした修道服を着たシスターで、今まさに絶望と雨に打ちのめされている森田ミツに、手と傘を差し伸べにきたのだ。
 その空間の向こうには、慈愛に満ちた笑顔の向こうには、この世に顕現した地獄が待っている。

 音楽座、と聞いてもすぐにはぴんとこなかった。
 ミュージカル、と聞いてようやく「ああ」と声が出た。
 それくらい、ミュージカルというものに縁がない人生だった。
 一方A君は、音楽座のファンクラブに入っているほどのフリークで、宝くじ記念でチケットが激安だから行こうと誘ってきた。
 劇の最中に脈絡もなく歌いだしたり踊りだしたりする人たちに免疫がないのでどうかと思ったが、その公演は存外良いものだった。
 題目は遠藤周作の「泣かないで」。
 身勝手な男に振り回され、ハンセン病との誤診を受けて人生をめちゃくちゃにされた森田ミツが、絶望の淵に希望を見つけ出す話だ。
 ファンならぬ身には見たことも聞いたこともないような女優が主演を張っていたが、その演技はなかなか堂に入っていて、心地よかった。感情がストンと腑に落ちて、素直に感動できた。
 一番を上げるなら、森田ミツが富士の麓の復活病院の入り口でうずくまるシーンだろうか。
 実際には降っていないはずの雨の肌触りまでもが感じ取れるようで。
 空間の切れ目の向こうにあるだろう絶望の存在がわかって。
 僕はひとり鳥肌を立てていた。
 その頃隣の席のA君は、僕が寝やしないかと違う意味ではらはらしていたらしい。

イッセー尾形の都市生活カタログ

2006-05-22 02:04:13 | 観劇
 天井照明が消えると、暗い会場に設営された舞台が、ほの白い幻のように浮かび上がった。やがてそれも消え、会場は暗闇に閉ざされた。
 一転、舞台端の衣装置き場にスポットライトがあたった。
 数着のワイシャツと背広、ワンピースにギター。およそ脈絡のない衣装置き場でひとりの男が忙しそうに着替えをしている。
 オールバックにメガネ。細身の身体には年齢相応の贅肉やたるみの類が一切見られない。
 節制と鍛錬の賜物だな。
 ため息をつくような気持ちで、僕はその男を見つめる。
 イッセー尾形。その一人芝居が始まろうとしていた。

 5月21日。
 Fテルサにイッセー尾形がやって来た。
 かねてから見たいと騒いでいたA君を連れて、二人、小旅行気分でF市を訪れた。
 僕自身は特別イッセー尾形のファンというわけではない。テレビなどを通して知ってはいるし、いい笑いを作るという話を聞いたこともある。だが、実際にその芸を見たことは一度もない。面白半分、特段期待もせずに見始めたのだが、どっこいはまってしまった。
 正方形の舞台の上を所狭しと駆け回りながら、歩き回りながら、寝転びながら、時にはシェーをしたりして、イッセー尾形は観客の笑顔を引き出す。
 形式としてはコントに近い。英語教諭のコントを10分やったら素早く着替えてサラリーマンになる。サラリーマンが終わったら今度は家政婦。着替えはすべて舞台上で行われ、それも含めて笑いとなる。すべてが計算し尽くされた熟達の表情と演技、構成。脱帽という他ない。
 終了後、僕はサイン会の行列の脇に立っていた。買ったDVDとポストカードにサインをしてもらうのだとはりきるA君を眺めながら、じっと余韻に浸っていた。
 やがて、主役が現れた。髪を下ろし、メガネを外したイッセー尾形が歩いてくる。その風貌はどことなく文学青年を思わせた。
 A君にせがまれ、僕はA君とイッセー尾形のツーショットを写真におさめた。今見返してみても、その表情には疲れの気配が見られない。感じていないのか、殺しているのかはわからない。
 プロの仕事だ。ひさしぶりに気持ちのいい仕事をする人に出会った。というのはおこがましいだろうか。