はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

確率の数学

2006-09-25 21:57:15 | ギャンブル
 機械割、という言葉がある。
 スロットをやったことのない人間にはまったく縁のない言葉だろうが、コインの投入枚数に対する払い出し枚数。つまり純利益の計算方法のことだ。
 機械割100%は収支0。上下により客のプラスマイナスを表すことができる。
 仮に押忍番長の設定5を4000回転回したとする。
 4000(総回転数)×3(3枚掛け)=12000(投入枚数)
 12000×0.065(設定5の機械割)=780(払い出し枚数)
 等価交換なら780×20(コイン1枚の価格)=15600
 なぜ4000回転なのか、といえば実際に今日回した数だから。午後1時半から午後7時半まで6時間回した結果、実際には4090枚払い出した。投資額が13000円(650枚)だから、差し引きで3440枚。68800円が純利益になった。

 機械割はあくまで確率。高設定高機械割に座れば必ず勝てるというものではない。
 だが、逆もまた真である。
 だから、スロッターは打ち続ける。いつか確率が収束する時が訪れるのを信じて、高設定をタコ粘る。

手近にある無数

2006-09-15 21:45:47 | 出来事
一に二を足せば三。
十にノを足せば千。
漢数字には改竄しやすいという欠点がある。
だから
一は壱
二は弐
三は参
四は肆
五は伍
六は陸
七は漆
八は捌
九は玖
十は拾
百は珀
千は阡
万は萬
という書き換えの表記法が存在する。これが大字。一般的には金銭証書などに使われることが多い。中国などでは今も日常的に使われているらしい。
さて実際に129円を表してみると、壱珀弐拾玖圓(円は圓)。
圧倒的に手間だが、それもまた荘厳で良い。
ちなみに零を基点に上下に手を伸ばしていくと、下限は清浄、上限は無量大数へと到達する。
空に星々を求めずとも、百万ドルの夜景を眺めずとも、こんな手近に無数であることのロマンがある。

この世にある地獄

2006-09-13 23:49:59 | 観劇
 暗い舞台に、ガラスでできたオブジェが聳え立っている。
 キャスターを備え、四方に移動可能なそれは、左右二手に分かれ、舞台中央に崖の切れ目のような空間を作り出している。
 その空間から、ふたりの女が姿を現した。女たちは灰色と白を基調とした修道服を着たシスターで、今まさに絶望と雨に打ちのめされている森田ミツに、手と傘を差し伸べにきたのだ。
 その空間の向こうには、慈愛に満ちた笑顔の向こうには、この世に顕現した地獄が待っている。

 音楽座、と聞いてもすぐにはぴんとこなかった。
 ミュージカル、と聞いてようやく「ああ」と声が出た。
 それくらい、ミュージカルというものに縁がない人生だった。
 一方A君は、音楽座のファンクラブに入っているほどのフリークで、宝くじ記念でチケットが激安だから行こうと誘ってきた。
 劇の最中に脈絡もなく歌いだしたり踊りだしたりする人たちに免疫がないのでどうかと思ったが、その公演は存外良いものだった。
 題目は遠藤周作の「泣かないで」。
 身勝手な男に振り回され、ハンセン病との誤診を受けて人生をめちゃくちゃにされた森田ミツが、絶望の淵に希望を見つけ出す話だ。
 ファンならぬ身には見たことも聞いたこともないような女優が主演を張っていたが、その演技はなかなか堂に入っていて、心地よかった。感情がストンと腑に落ちて、素直に感動できた。
 一番を上げるなら、森田ミツが富士の麓の復活病院の入り口でうずくまるシーンだろうか。
 実際には降っていないはずの雨の肌触りまでもが感じ取れるようで。
 空間の切れ目の向こうにあるだろう絶望の存在がわかって。
 僕はひとり鳥肌を立てていた。
 その頃隣の席のA君は、僕が寝やしないかと違う意味ではらはらしていたらしい。

ラクダとガチャピンの共通項

2006-09-07 19:43:19 | 出来事
ガチャピン日記によるならば……。
ガチャピンは恐竜の子供。
年齢は5歳。
誕生日は4月2日の牡羊座。
身長165センチ体重80キロ。
左右の手に7個ずつのイボがある。
しかしこれは実際のところイボではなく、虫刺されでもない。
エネルギーボール。
海に潜ったり空を飛んだりするときに、勇気と力を与えてくれる予備タンクだそうで……。
イメージとしては、あれに近い。ラクダの背中にあるコブ。あの中身は水ではなくて脂肪の塊。ガチャピンのイボの中身は子供たちの応援。
よくできた愛玩動物。

ライアー・ライアー

2006-09-04 05:29:34 | 会社
M公園の野外ステージに、夏の最後の陽が降り注いでいた。アマチュアバンドのライブを聞きにきた人たちの影が、くっきりとアスファルトに落ちている。風が吹いているのが救いで、暑さはさほど厳しくない。
適度にビールを含んだ肉体が、しきりに眠りを求めていた。猛爆ドラムも、うねるようなギターソロも、絶唱ボーカルもすべては子守唄のようにしか聞こえず、僕はひたすら船を漕いでいた。
隣の席の女の子が声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」

会社の同僚と5人、アマチュアバンドの野外ライブにいった。本来ならばA君とデートする予定だったのだが、参加ロックバンドのギタリストの一人がやはり同僚であったため、「たくさんいってあげたほうが喜ぶよ」とのAの意見に従った結果だった。
僕とA君は会社の同僚で、それ以上の関係ではない。
建前では、そういうことになっている。
なるべく親しくしないように一定の距離をとって。でもまったくの無視はしない。
バランス感覚が問われる日だった。

嘘をつくのが好きではない。
A君との関係を皆に隠すのも、心理的にプレッシャーになっている。
だからといって打ち明けてしまうわけにもいかないのが辛いところ。
でもきっと、人生の中でこういう時期ってそう多くはないのではないだろうか。人によりはするのだろうけど、僕だってせいぜい2回目。
しかも、今回は本気だ。
将来、二人で老後を迎えながら、しみじみと回想するのだ。この絶妙な時期を。
だから僕は、笑顔で嘘をつく。

ガンコ親父のナックルパート

2006-09-02 09:07:48 | 出来事
アンダースローの投手が投げたスライダーが、鋭角にバッターの足元に突き刺さる。
ブラウン管にぼんやり反射して見えるのは小学生の僕。そして背後に一匹の犬。
痩せこけた雑種だった。ベージュ色の毛皮には汚れが目立つ。子供の浅知恵で足の裏だけは雑巾で拭いたものの、その他の部分が家具に擦れ、こっぴどく叱られることになる。そのことに、当時の俺は気づいていない。
「燃えプロ」をやりながら、首輪のない犬と二人、父の帰りを待っていた。

犬猫が好きだ。
どちらかといえば犬派だが、猫を見ても目尻が下がる。
子供の時分。何度か犬を飼ってもらえるように父と交渉した。猫は祖母が嫌っていたから、犬以外の選択肢はなかった。
だがほとんどの場合、僕の願いは聞き入れられなかった。
「責任とれるのか」という問いに、根拠のない自信をバックに勢いよくうなずくも、まったく信じてもらえなかった。
家の中に連れ込んだ野良犬を出会ったところまで連れて行く時、自分の無力さをひしひしと感じた。どうして信じてくれないのかと、ガンコな父を恨みもした。
だけど父はわかっていたのだ。「責任とれるのか」という言葉の意味を、小さな僕が軽く見ていることを。

先日、8月18日の日経新聞に、衝撃的なエッセイが掲載された。
直木賞受賞作家、坂東眞砂子が日常的に子猫を殺しているというのだ。
その文章を要約すると。

「坂東眞砂子は、三匹飼っている雌猫に子猫が生まれるたびに、家の隣の崖の下の空き地に放り投げている。避妊手術するのは猫の生の充実を阻むからしない。子猫をすべて養う能力はないから社会的責任の為に殺している。動物愛護団体やその他愛猫家連中に糾弾される覚悟はできている」

一瞬、何かの罠かと思った。煽りみたいなものかと。
でも違った。その文章には美しさがなかった。仮にも文壇の頂点に立ったほどの作家が、小僧小娘のような屁理屈を並べ立てて自分の行為を正当化している。ただそれだけ。あまりのことに、怒る気力も気化して失せた。
その時頭をよぎっていたのは父のことだ。父ならばどうするだろう。仮に僕が子猫殺しをしていたとして、しかもまったく悪びれていなかったとしたら。
多分、殴るはずだ。有無をいわさず拳が飛ぶ。
理由なんかどうでもいいのだ。
理屈なんかどうでもいいのだ。
世の中にはしていいことよくないことの二種類のみがあって、猫殺しは後者。シンプルな判決。
そして僕は思い出す。
流星号のこと。
あの日、居間に連れ込んだ一匹の野良犬のこと。
勝手に名前をつけて、勝手に連れて帰って、そして勝手に捨てた犬のこと。
別れる時、どんな目をしていたっけ。殴られた頬をおさえて涙目になりながら、そんなことに思いを馳せる。