デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ 10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

イエス様は弟子たちに対し「あらゆる敵の力に打ち勝つ権威を授けた」と仰せられている。
「敵を打ち負かす力」ではなく「敵の力に打ち勝つ権威」である。
すなわちそれは、何か不思議な業が行えたり、驚くような力ある業が行えるようになる、ということではないだろう。
力はなくても権威があるほうが素晴らしいのだ。
イエス様を信じても、病は直らない、商売も上手くいかない、良いことなんて一つもないと思われても、それでも「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とイエス様は仰せられるのである。
やがて過ぎ去るものに一喜一憂するんどえはなく、天にわたしの名前が記されている幸いを喜ぼう。

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マルコ 12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

言葉は人と人とが交流したり、分かりあったりするためには有益な道具である。
しかし、使い方次第では、相手との関係を良くもし、悪くもしてしまう。
言葉には、多かれ少なかれ、その人の心のあり方や、その人に対する態度がにじみ出てしまうものである。
イエス様のところにやってきたファリサイ派はヘロデ派の人たちは、明らかにイエス様を陥れようとして質問をしており、皇帝に税金を納めるべきかどうかといった事柄について、純粋に教えてもらおうという気持ちなど微塵もなかったのだろう。
そう考えれば、全く必要のない言葉である。
言葉は、相手にとって益となるものを厳選し、不要であったり、かえって気分を害するようなものなら、黙っておくのも賢い方法であろう。
黙ってばかりいると、何を考えているのか分からないと思われることがないこともないが、下手な言葉を用いて気分を害したり、関係を悪くしたりするくらいなら、余計なことは言わないほうが良い。
大切なことは、常に相手にとって益となるように願い、そのために必要な言葉を用いることを心がけること、であろう。
「皇帝のおのは皇帝に、神のものは神に返しなさい。とイエス様は仰せられた。
私の人生も、かたる言葉もみな、本来、神のものである。
かたるべき言葉も、神に返すように心がけたいものである。

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マルコ 12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。


ぶどう園のオーナーは、農夫たちにぶどう園を貸し、畑の管理とぶどうの栽培を任せて旅に出ていく。
実際にぶどうの生育のために働いたのは、農夫たちであり、実ったぶどうを自分たちのものと考えてしまいがちなのは、ある意味、仕方がないことのように思える。
しかし、よくよく考えると、一からぶどう園を築いたのは主人であり、農夫たちは、出来上がった畑を管理するだけの仕事であり、本当は、畑を管理することのほうが簡単な作業であると言えるのかもしれない。
それなのに、働いた日数が多かったり、暑い日照りの中、汗水流して働いたことで、あたかも自分たちのほうが苦労したかのように思ってしまうのだろう。

「働く」ということは、辛い思いをして、収入を得るための手段、として考えるかもしれないが、働くことや、実りを得ることの喜びを体験できる場と考えるならば、主人は単に楽をして収穫を得ようと考えたわけではあるまい。
農夫たちに働きの場を与え、一緒に実りの喜びを分け合いたかったのであろう。
ならば、一緒にぶどう園で働くこともできたのではないかと思うが、そもそもぶどう園を一人で築き上げたほどの主人が、働くことが嫌だったはずがない。
むしろ、農夫たちに「自分たちで育て上げた」という誇りと喜びを持って欲しかったからなのではないだろうか。
ただ、「自分たちで育て上げた」と思うとき、そこに思い上がり、傲慢さが芽生えてくることがあり、このたとえではそれが表に出てしまったということなのだろう。

神の救いの言葉を世界に取り次ぐために選ばれたユダヤの民ではあるが、いつしかその「神に選ばれし者」との自負が大きくなり、傲慢になり、ついに、神の遣わされた御子キリストを十字架にかけて殺してしまうのである。
それがこのたとえの持つ意味なのであろうが、神の国の働きに召された本来の意味を思い起こし、常に謙遜で、感謝の心を持って働きに臨みたいものである。
間違っても「自分がやった」とか「自分のほうが正しい」などと思いあがらぬよう、神が与えて下さった働きに感謝しつつ、実りの喜びを神と共に喜べるものでありたい。

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マルコ 11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

教会の働きに携わっていると、常にこういう問題と向き合わされる。
最も分かりやすい例を挙げれば、礼拝で語られている説教は「神の言葉」なのか、それとも「人間の言葉」なのか、といった問題。
確かに人間が語っている以上、人間の言葉でしかない。
しかし、神の教会の礼拝で語られる説教なら、それはまぎれもない「神の言葉」である。
人間的な業を用いて、人間の口から語られても、たとえそれがどんなに貧しいものであったとしても、聖書に書かれている言葉が語られるなら、それは「神の言葉」である。

そして、それは常に聞く側の人間にも問われてくる。
あなたはその説教を「人間の言葉」として聞いたのか、それとも「神の言葉」として聞いたのか。
「神の言葉」として聞いたのなら、「今日の説教は良かった」とか「そうでもなかった」とかいった尺度ではかるような性質のものでもない。
あなたのために、自らの命を投げ出してまで愛し、救おうとしてくださったイエス様の言葉として聞きたい。
心の有り方次第で、聞こえてくる言葉も違ってくる。
上から目線ではなく、イエス様に愛された者として、聖書のみ言葉に聞いていくものでありたいものである。


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マルコ 9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

私たちは、様々な問題に出くわすと、なんとか対処しようとして、様々なことを行う。
上手くいくこともあるが、なかなか全て思う通りに解決しないこともある。
むしろ、解決しないことの方が多いようにも思う。
そんな時、大切なことは、やはり祈ることであろう。
イエス様に祈ることで、イエス様に解決を求めていくしかない。
だから、何事も、まずは祈ることから始めていかなければならない。
すぐには答えが見つからなくても、あるいは、解決するのにどんなに時間がかかろうと、祈ることを怠ってはならない。
自分が行動するより、イエス様のなさることのほうが最善なのだから。

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マルコ 8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

イエス様は、目の見えない人を癒された。
生まれつき目の見えなかった人にとって、モノが見えるということは、はじめての経験であり、どう表現して良いのか分からないほど、大きな感動と喜びを体験したことであろう。
手に触れたりすることで、だいたいの人の大きさや形は分かっていたとしても、それを視覚として体験できたのであるから、その驚きや戸惑いは、想像をこえるものであると思う。
私たちがイエス様に救っていただくことも、そういう体験と似ているのかもしれない。
救いの出来事は、今までに経験したことのない、まったく初めての経験である。
どう表現していいのか分からない、大きな感動と喜び、そして、そこから始まる新しい人生に、驚きや戸惑いも感じる事だろう。
イエス様による救いは、そういうものである。
何か、他の楽しいこと、嬉しいこととは違う、別次元の体験なのだと思う。
今一度、イエス様に救われていることの素晴らしさを思い返し、新しい次元の喜びに生きる人生を歩んでいきたいものである。

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マルコ 8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

私たちは、どうやって生きていくかということに常に心を奪われ、悩み、うろたえてしまう。
仕事はどうするか、収入はいくらか、何を買い、何を食べ、果ては老後の生活にまで心配し過ぎて、今を楽しむことさえできない者もいる。
しかし、大切なことは、なぜ生きるのか、何を土台にして生きるのかといったことをしっかりと考えていくことであろう。

マタイ 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

昨日はデイサービスの集会で「きみは愛されるために生まれた」という賛美を歌ったが、デイサービスの利用者さんにも好評で、毎回この歌を歌って励ましを頂いている。
長年生きてこられて、辛い思いも苦しい思いもたくさん経験してこられただろう。
それでも、やはり「愛されるために生まれてきたんだよ」という言葉を聞くと、励ましをいただくことができ、「生きよう!」という気持ちになる。
イエスさまから頂く命のパンを頂いて、「生きよう!」という気持ちを大切に生きていきたいものである。

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マタイ 9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

イエス様がマタイを弟子として召された理由、それは、彼が赦しを必要としている罪人であったからであろう。
彼が何か尊い人物であったり、有能な人物であったりといった理由でもなく、ましてや、会計の仕事に長けているため、お金に関することを期待して召されたのでもないはずである。
「赦しを必要としている罪人であるから」
それが理由である。
翻って、自分自身について考える。
なぜ自分はイエス様を信じ、イエス様に従って生きようとしているのか。
マタイと同じく「赦しを必要としている罪人だから」、それに尽きる。

ガラテヤ6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

自分と周囲の人との間に起こる問題を考えていく時、たいていは「周りが悪い」と考えがちだが、自分自身に過ちはないか、常に自己吟味することが必要である。
イエス様は正しい人を招かれたのではなく、罪人を招かれたのだから。


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マルコ 8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

ここで言われている「しるし」というのは、「神が本当にいるのなら、その証拠を見せて見よ」といった類の「証拠」のようなものであろう。
たとえば、「神が私を愛し、救って下さったというなら、今すぐその証拠として病をいやしてください」といった風に思う時、その癒しの業がなければ、その人は神を信じようとしないのだろう。
しかしイエス様は「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と仰せられる。
もちろん、イエス様は全く「しるし」を見せられないお方でもない。
時に応じて、イエス様がお見せになりたいと願われた時には、しるしも現わされている。
しるしを見なければ信じないという人は、神の御業を自分の思い通りに動かそうとしていることに気づかなければならないだろう。
案外、しるしを見せなければ信じない人のところには、しるしは現れず、しるしなどなくても信じる人のところにしるしは現わされるのかもしれない。
イエス様は「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」
何もしてくださらなかったと捉えれば、見捨てられたように見えるかもしれないが、現状がどうであれ、神の恵みと救いは変わらないということを示しておられるのかもしれない。
しるし如何に関わらず、神の恵みを信じるものでありたい。

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マルコ 8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

よく知られている「五つのパンと二匹の魚」の出来事とは違って「七つのパンと少しの魚」を分けられたということは、このような事が少なくとも二度、行われたということであろう。
しかし、弟子たちの反応は同じである。

マルコ6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。

彼らは、マルコ6章での出来事を体験しているにも関わらず、8章の出来事においても、何も学んでいないということであろう。
いや、学んだはずである。
驚いたはずである。
にも関わらず、人はすぐに自分の価値観に逆戻りし、イエス様の恵みを見失ってしまうのである。
何とも愚かなものであるが、それが人間なのだろう。
何度も何度も神の恵みを味わい知り、今度こそ神を信じて生きて行こうと決心はする。
しかし、またいつもの通り、神の恵みに信頼して生きるというのは程遠い歩みを繰り返してしまう。
本来なら、こんな愚かな者を神はお赦しにはならないかもしれないと思いつつも、み言葉に立ち返ると、そこにはいつもの憐れみ深いイエス様がおられる。
疑い深く、全く信仰心のかけらもないような者であるが、それ故に、イエス様は自らの命を捧げて下さって、救いを完成して下さっている。
全く持って恵みである。
今日もまた、七つのパンと少しの魚に驚き、喜び、そして忘れ、また驚く者である。

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