聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

教会の働きに携わっていると、常にこういう問題と向き合わされる。
最も分かりやすい例を挙げれば、礼拝で語られている説教は「神の言葉」なのか、それとも「人間の言葉」なのか、といった問題。
確かに人間が語っている以上、人間の言葉でしかない。
しかし、神の教会の礼拝で語られる説教なら、それはまぎれもない「神の言葉」である。
人間的な業を用いて、人間の口から語られても、たとえそれがどんなに貧しいものであったとしても、聖書に書かれている言葉が語られるなら、それは「神の言葉」である。

そして、それは常に聞く側の人間にも問われてくる。
あなたはその説教を「人間の言葉」として聞いたのか、それとも「神の言葉」として聞いたのか。
「神の言葉」として聞いたのなら、「今日の説教は良かった」とか「そうでもなかった」とかいった尺度ではかるような性質のものでもない。
あなたのために、自らの命を投げ出してまで愛し、救おうとしてくださったイエス様の言葉として聞きたい。
心の有り方次第で、聞こえてくる言葉も違ってくる。
上から目線ではなく、イエス様に愛された者として、聖書のみ言葉に聞いていくものでありたいものである。


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