聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

先日、若い世代の先生方と説教について学び、話し合う機会があった。
毎週の礼拝のために、どこまで、どのような準備をしていけば良いのか、誰もが悩むことだろうと思う。
一方で、どんなに悩んだところで、毎週の日曜日は着実にやってくるし、それを先延ばしにすることはできない。
どこかの時点で、もうこれで行くしかない、という思いに至る。
本当にこれで良いのかという思いと、これで行くんだという思いのはざまにあって、思う事、それは、何のためにその準備をしてきたのかという出発点に立ち返ることである。
聖書に語られているみ言葉を、説教という形で伝えていくために準備をしたのであり、他人に聞かせるために準備をしたのなら、良いか悪いかは別として、その目的に従って語るべきであろう。

灯し火は、周囲を照らすために燭台の上に置く。
枡の下に隠したりすることはあり得ない。
説教も同様で、他人に聞かせるために語るものであり、一般に公開できないような内容なら、語る意味はない。
いくら内容が貧しかろうと、その目的に沿って語られるならば、こういった形で一般にも公開していくことは理に適っていることなのだろうと思う。
内容が良いか悪いかは別として、持っているものを分かち合っていくことが大切なのだと思う。

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