聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




出エジプト13:11 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、
13:12 初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。
13:13 ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。
13:14 将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。
13:15 ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』

主なる神様はモーセに対して、出エジプトの出来事を世々にわたって語り継いでいくため、あらゆる初子を主に捧げるように命じられます。
捧げるということは、文字通り、初めて生まれた命を、感謝の供え物として主にお捧げすることを意味していると言えるでしょう。
しかし、その中で、ろばの初子の場合だけは、必ず羊の命で贖わなければならないと命じられて、単純にいけにえとして捧げるのではななく、身代わりのいけにえを用意して、その命の代償によって贖われたもの、聖別されたものと見なされたようです。
おそらく、ろばはとても有益な動物であるし、そう多くの子供を産むわけではないので、簡単に屠ることは避けられていたのでしょう。
そのことは、15節をみると、人間にも当てはまることとして語られています。
当然、人間の命は、家畜のいけにえのように捧げることは不可能ですから、ろばと同じ方法で、身代わりのいけにえが捧げられることによって贖われることになります。つまり、人間も、他の生き物とは異なり、かけがえのない存在、尊い存在であるということなのです。
もし、このような異なる方法での聖別ということが無かったとしたら、きっと、私たちは、自分で自分の罪を償わなければならなかったことでしょう。しかし、主なる神様は、そんな私たちを「かけがえのない、尊い存在」と見てくださり、彼らに裁きを負わせたくないとの愛の心により、ご自分の御子イエス様を身代わりのいけにとして贖って下さったのです。
ただただ、主イエス様の尊い犠牲に感謝するばかりですね。


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出エジプト13:8 あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。
13:9 あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。
13:10 あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。

主なる神様は、イスラエルの民をエジプトから解放されたその日のうちに、これらの出来事を記念するための祭りを毎年行い、子供達に語り聞かせるようにと命じています。
このことは、確かに主なる神様が成し遂げられた偉大な救いの御業をイスラエルの後の子孫が、連綿と受け継いでいくことの大切さを伝えるためのものであるということが言えると思うのですが、それと同時に、神様の目には、まるで最初からイスラエルの子孫が後々まで繁栄していくであろうということがわかっていたと言うことなのです。
そして、この日の出来事は、やがてイスラエルという民族の壁をも超え、全世界の神を信じる者のもとに、聖書という言葉を通して語り継がれていくことになります。もちろん、今日、聖書の御言葉を耳にした私たちの上にも聞かれるということを神様はご存知であった。そう思うと、何と言う壮大なご計画であり、この私に対する励ましの言葉ともなりうる言葉であるかということを思わされます。
私は出エジプトの現場にはいなかったけれども、御言葉を通して、そのことが神様の私に対する愛の故に起こった出来事であるということを感謝して受け留めたいものです。



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ヨハネ12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。

私に洗礼を授けて下さった牧師先生は、見るからに「白髪の心優しいおじいさん牧師」といった感じで、教会員の方からも信頼され、先生の姿に、イエス様をダブらせて見ている人も多かったのではないでしょうか。
しかし、そんな先生がよく言っておられたことは「牧師を見ないで、牧師が見ている方を見るように」という言葉でした。
きっと「先生は、イエス様のような人ですね」と言われるたびに、心苦しく思われていたのでしょう。

ところで、本日は、教会歴では、使徒パウロの日となっています。
パウロは、かつてクリスチャンたちを迫害していた身。そんな彼が、キリストの証人として宣教の業に携わっていくということは、非常に大きな恐れを伴うものであったことでしょう。
周りの人間が自分のことをどう思っているだろうか・・・人は、そういうことを気にすればするほど、泥沼にはまり込んでいくだけです。なぜなら、そこに解決はないからです。
幾ら人に良く見られたいと願っても、誰にでも愛される人間などいないはず。
それよりも、どんな自分であれ、イエス様の尊い贖いの代価によって赦された喜びに生きている時、その人は、輝いて生きることができるのではないでしょうか。

先ほどお話しした牧師先生、戦時中は、戦場の最前線において戦ったご経験があるようです。きっと、戦時中の悲しい思い出や、苦しい体験など、数限りなくお持ちのことだろうと思うのですが、それらの体験も、全て主にあって赦されているという、本当の喜びがあったからこそ、誰の目にも、輝いているように見え、とても魅力的な人物に見えたのでしょう。

魅力的な人でいるためには、イエス様の血によって赦された人であること。
これが全てであると思います。

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出エジプト12:11 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。
12:12 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプト のすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。
12:13 あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
12:14 この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。
12:15 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。
12:16 最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。
12:17 あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。

主なる神様は、モーセを通して、エジプトから解放された出来事を子々孫々に伝えるべく「過ぎ越しの祭り」を行うように、イスラエルの民に命じます。
そして、このことは、旅の支度をし、急いで出かけることのできる準備を整えた上で行わなければならないものでした。
このことは、かつて、イスラエルの祖先がエジプトから脱出したときは、まさに、着の身着のまま、パンの練り粉にパン種を入れている暇も無いほど、大急ぎで逃げ出したことを思い出すために定められたものであると言えます。
10日目に羊を用意し、14日にほふり、門柱とかもいに血を塗って、それから1週間の間に、イスラエルの全集団が旅立って行ったという事実は、想像するだけでも壮大な出来事であり、きっと大混乱の中、凄まじい勢いで出かけて行ったことであろうと思います。

今ここから1週間ほどで荷物をまとめて旅立っていけと命じられたら、きっと「そんな無茶なことを・・・」と思うでしょう。しかも、行く先は、荒野です。
そんなに慌てて出かけなくても、荒野での生活を考えるなら、アレとコレが必要だし、ましてや、今すぐ出かけるよりも、もっと気候の良いときに・・・などと考えるのが普通ではないでしょうか。
しかし、モーセ率いるイスラエルの民は、神様に命じられるままに、食料の準備すらままならないうちに、そこから旅立って行きました。ただ、エジプトの奴隷から解放されるために。

良く「ダイエットは明日から」などというセリフを聞くことがありますが、自分で変わらなくては、変えていかなくてはいけないと思っていることは、今すぐしなかったら、きっと、いつまでもできないだろうと思います。
特に、神様に示されていることがあるのなら、今日という日に、悔い改めて、主に従って生きて行きたいものですね。

ヘブル3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。
3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。
3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」

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出エジプト11:1 主はモーセに言われた。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。
11:2 あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」
11:3 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。

いよいよ、モーセによって最後の災いがエジプトにもたらされようとしていた時、主なる神様は、子供も家畜も全てエジプトから解放されるばかりか、エジプトの民から、金や銀などの財宝をも得ることができるであろうと告げられ、その言葉通り、イスラエルの民は、エジプトの民らから、多くの金銀装飾などを譲り受けることになります。
しかし、このことが後に「金の子牛」事件を引き起こすきっかけにもなったと言えるのではないでしょうか。

ここ数日、世間をにぎわしている事件では、かつて「お金が全て」と言い張っていた人が、不正な行為によって巨額の資金を得ていたということが報道されつつあります。
お金を稼ぐためだけの株、利益を上げるためだけの実体のない企業活動。
本末転倒のように思います。
確かに、会社という組織は、利益を上げてナンボの世界だとは思うのですが、そこに、社会に対する貢献とか、必要性がなけれが、やがて世間から見放されていくだけです。
信頼される会社、きちんとやるべき仕事をやって、必要が認められて、それで支援する人が出てくる。歩むべき道を見失わないようにしたいものですね。

さて、今日の私は、何をしましょうか?
私に与えられた富や賜物、自分のためだけでなく、他人のために、どのように用いていくべきか、考えていきたいですね。

マルコ10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

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日時:2006年1月22日
聖書箇所:マタイ6章1~15節

本日の成長のテーマは、「主イエス様が教えられた祈り」です。
具体的には「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉が挙げられますが、それに先立って、イエス様が「祈る時には・・・」という風に、祈りの姿勢について語られていることに注目してみます。

マタイ6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

この言葉は、祈りの目的を諭されるものであると言えます。祈りの目的が「人に見せるため」であるのなら、その祈りは、無益なものであるばかりか、天の神様からの祝福を受けることができないものとなってしまうと言われています。
しかし、ここで注目しなければならないことは、だからと言って、祈ることをおろそかにしないで、むしろ、本来の目的に従って、積極的に祈るべきであるという事でしょう。

マタイ6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

ここに語られている事柄も、全く純粋な動機で祈ることができないのなら、かえって祈るべきではない、ということではなく、むしろ、正しい姿勢で、積極的に祈るべきであり、善行を行うことが求められていると言えます。
そういう意味で、祈りとは、心のあり方が問われている事柄であると言えるでしょう。
そして、その正しい祈りの姿勢を教えてくれるものとして「主の祈り」があるのでしょう。
主の祈りは、一見したところ、願い事のような祈りに見えますが、実は、主の御心を求める祈りであり、主への信仰を表明する祈りでもあります。
「私の思い」「私の願い」ではなく「主の御心」、これが祈りにおける最も大切な事柄なのでしょう。

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出エジプト10:24 ファラオがモーセを呼び寄せて、「行って、主に仕えるがよい。ただし、羊と牛は残しておけ。妻子は連れて行ってもよい」と言うと、
10:25 モーセは答えた。「いいえ。あなた御自身からも、いけにえと焼き尽くす献げ物をいただいて、我々の神、主にささげたいと思っています。
10:26 我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでは、我々自身どれをもって主に仕えるべきか、分からないのですから。」

もともと遊牧の民であったイスラエルにとって、羊や牛といった家畜は、言わば仕事の道具。これを置いて行けということは、生活の糧を奪われることに価するものであったはずです。
しかし、モーセは、あくまで「我々の神、主に御仕えするために」という目的のためであり、主を礼拝するために必要なものであるということを主張しています。
言うなれば、仕事も神を礼拝するために必要なことであり、神を礼拝することこそ、本来やるべき最も大切な仕事である、と言うことなのかもしれません。

牧師や宣教師のように、仕事と礼拝が一体となっている仕事に就いている者ならまだしも、一般の職業に就いている方にとっては、仕事と礼拝が一緒というのは、なかなか気持ちの切り替えが難しいかもしれません。
しかし、そもそも、私たちが生きて行くこと自体が、神の豊かな恵みの中で守られていることを思う時、いつでも神を礼拝し、感謝して生きて行く事は大切なことであろうと思うのです。
そう思うと、日常の生活の中にも、小さな礼拝を持つ事は可能ですし、仕事を通して神の栄光を現していくことは、とても大切なことであると言えるでしょう。
豊かな日常の暮らし、富や財産、それ自体は悪いものではありませんが、それらをも用いて、神を礼拝し、感謝して生きて行くことができますようにお祈りいたします。

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出エジプト10:7 ファラオの家臣が王に進言した。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」
10:8 モーセとアロンがファラオのもとに呼び戻されると、ファラオは二人に言った。「行って、あなたたちの神、主に仕えるがよい。誰と誰が行くのか。」
10:9 「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」とモーセが答えると、
10:10 ファラオは二人に言った。「よろしい。わたしがお前たちを家族ともども去らせるときは、主がお前たちと共におられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい。
10:11 いや、行くならば、男たちだけで行って、主に仕えるがよい。それがお前たちの求めていたことだ。」ファラオは自分の前から彼らを追い出した。

ファラオの家臣たちは、このままでは、国が滅んでしまうかもしれないと恐れ、いつまでも強情な態度を続けようとする王に対し、イスラエルを行かせるように進言します。
エジプトとしては、国の繁栄のために必要な労働力としてイスラエルを留めておきたいと願っていたのかもしれませんが、家臣たちですら、国のことを心配して、イスラエルを行かせるべきだと考えているのに、それでも尚、幼い子供達を留め、従順な奴隷を確保しようとする態度は、まさに、意固地というか、強欲のきわみと言うより他ありません。おそらく、ファラオにとっては、国のことよりも、自分の王としての地位を守ることにしか考えは向いていなかったのかもしれません。
しかし、国が滅びる危機的状況の中では、その国の王であり続けることは困難なことです。それすら考えが及ばないほどに、もはや、王としての地位に安住してしまっていたということなのでしょう。

1コリント4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。

裕福になり、何一つ困ることの無い状況にある時、人は、その地位に安住し、まるで「王様」のように傲慢に振舞い始めます。
しかし、本当の意味での「王」というのは、その国を守るために立てられた器であり、パウロはそういう意味で「実際、王様になっていてくれたら」と言っているのでしょう。
国と王様ほど、大きな規模、影響力ではないにしろ、私たちが置かれている立場や責任、そのようなものを感謝して誠実にあたること、これが「王様」としての成すべき務めなのではないでしょうか。

1ペテロ5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。

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出エジプト9:27 ファラオは人を遣わし、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。
9:28 主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない。」
9:29 モーセは言った。「町を出たら、早速両手を広げて主に祈りましょう。雷はやみ、雹はもう降らないでしょう。あなたはこうして、大地が主のものであることを知るでしょう。
9:30 しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」

一見したところ、悔い改めたような態度をとるファラオでしたが、まだまだ真実の悔い改めをしていないことをモーセは見抜いていました。
しかし、これらのことが全て神の御業であることを知らしめるために、あえて、ファラオの願い通り、雹を降らせることを止め、本当の意味で主を畏れることができるように、しるしを繰り返していきます。
つまり、悔い改めない者には、何度でも災いがもたらされるということであり、おそらく、心頑なな者たちは、何度も災いを経験し、悔い改めて(いるようなふりをして)も、同じ過ちを繰り返していくのでしょう。

人は、結局の所、何を望むか、何を願っているかによって、その生き方が違ってきます。
神様からの祝福を願う者は、神様が下さる祝福に目を留めていきます。
そして、そのために、神の御前で悔い改めへと導かれていきます。
しかし、この世の成功や快楽などを求めているものは、自ずと、それらを優先した生き方になっていきます。
そして、試練が訪れ、一見したところで悔い改めたようなふりをしても、その根本的な求めが己の欲望に支配されたままである限り、生き方は変わりません。
そして、同じような過ちを繰り返し、「試練だ試練だ」と騒ぐだけで、一向に真実な神の御前に悔い改めようとはしないのです。


今、あなたは、何を求めていらっしゃいますか?
この世の祝福を求め続けるのなら、その故に味わわなければならない災いの覚悟は出来ていることでしょう。
しかし、もしそうでないのなら、神の助けを求め、神様が下さる祝福を求められますよう、お祈りいたします。

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出エジプト9:1 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
9:2 もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、
9:3 見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。
9:4 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。

主なる神様がなさった御業は、心頑なにするエジプトの民に災いをもたらすものでありましたが、同じ国に住んでいたイスラエルには、それらの災いがもたらされることはなく、はっきりと区別されていました。
この「区別」という言葉は、聖書中、非常にわずかな箇所でしかも用いられていない言葉であり、モーセを通して、エジプトに災いがもたらされた時、イスラエルが区別された場合と、他は、わずかに詩篇において賛美の言葉として用いられている程度です。
しかし、なぜ、賛美に用いられている言葉であるのかというと、実はこの言葉は「区別」という用法以外に「奇しい」とか「驚くべき」「不思議な」といった意味で用いられており、主なる神様がなさった「驚くべき」「奇しい」救いの御業を関係していることを思わされるのです。
つまり、分け隔てできるような状況ではない中、主なる神様は、不思議な業を持ってイスラエルだけを区別され、そして、これを神の愛する民として聖別されたということなのです。
そう考えると、主なる神様の救いの御業とは、神様がご自分の民をお選びになられたことであり、それは同時に、本来ならばありえないほどの奇しい恵みの御業であったということなのでしょう。

出エジプト33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」

主はご自分の民をお選びにになり、聖別して、これを特別に扱って下さいます。
まさにVIP扱いとでも言うのでしょうか。
神の御子イエス様の尊い贖いにより、神の子たる身分を頂いたのですから。


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