デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ガラテヤ2:1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。
2:2 エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。
2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。
2:4 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。
2:5 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。
2:6 おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。
2:7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。
2:8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。
2:9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。
2:10 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

異邦人伝道というパウロの召しは、当時のユダヤ人社会においては、なかなか理解を深めることの難しい特別な働きであったのだろう。
パウロ自身、いろいろと悩みを抱えつつも、イエス様の弟子たちとの連絡を密にしながら、イエス様ご自身も命じられた世界宣教の幻を実現していくために苦闘していたことだろう。

いつの時代にも、新しい働きや特別な伝道というのは、なかなか理解を深めるのが難しい。
しかし、そこに救われる魂があり、これも主の働きであるという御言葉による確信が与えられるならば、どんなに理解が少なかろうと、その働きは継続されるべきであると思う。

今、私も、キャンプ伝道という特殊な働きの現場にいる。
教会の働きの中では、本当に特別なポジションであろう。
しかし、ここにも救われる魂が、救われなければならない魂が送られてくる。
数が少なかろうと、特殊な領域であろうと、これが主の働きであるという確信がある限り、この働きを続けていきたいと願わされる。

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ガラテヤ1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、
1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、
1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。
1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。
1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。
1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、
1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

かつてクリスチャンを迫害する者であったパウロが、キリストとの出会いを機に、偉大な伝道者となって言ったことは、まさに、神のなさる不思議な御業であるという他ない。
しかし、人々の反応は、そう簡単に使徒として受け入れられるようなものではなかったのだろう。
しかし、地道な伝道を続け、彼の信仰が本物である事を人々が認め始めたとき、はじめてパウロも使徒として受け入れられるようになっていったのかもしれない。
その努力たるや、並大抵のものではなかったであろう。
もっとも、パウロ自身には、そのような思いはさらさらなかったかもしれないし、受け入れられなくて当然と思っていたかもしれない。
それでも、パウロが経験したキリストの出会いが、あまりにも素晴らしく、罪赦された喜び、そして、福音を宣べ伝えるという偉大な使命を受け、パウロは恐れることなく伝道を進めていったことであろう。

周囲の信頼を勝ち得る事は、とても時間がかかる。
しかし、本物の信仰、実直な歩み、評価を気にしない真実な働きを続けていくならば、いつかは素晴らしい伝道の実りを残せるほどになっていくのであろう。
パウロの働きを見ていると、そのように思わされる。

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ガラテヤ1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

聖書に記されている福音の言葉とは、神の御子イエス・キリストによる十字架の贖いによてもたらされた、何ら、行いや業を要求しない救いの約束である。
それは、私たちを救いうることのできる唯一の方法であり、この方以外に私たちの罪を清める方法や救いをもたらすものなどは存在しない。
だから、「ほかの福音」などというものはありえない。
ガラテヤの教会の人たちが追い求めた「他の福音」とは、かつてのイスラエルの民が大切にしていた律法の言葉に頼ることだったのかもしれない。
しかし、律法は福音とは違う。
むしろ、律法は、福音の言葉へと導くために必要な言葉であり、人間の罪の故に律法を守る事で救いに与ることはできなくなってしまった。
そこに神の恵みによる救いの手が差し伸べられているのである。

使徒4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」


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ガラテヤ1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
1:2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。
1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

ガラテヤの教会のクリスチャンたちに対して書き送られたパウロの手紙には、随所に、パウロ自身の祈りの言葉が記されている。
そして、それらの祈りは、全て、神の御心から来るものであることが伺える。
神が私たちを救いたいと願われたから、パウロもそれを願い、神がその事を知ってほしいと願われたから、パウロもまた、宣教の働きを続けるのである。

全ては神の御心からくるもの。

私の全ての祈り、生活、働きも、神の御心から来るものとなるようにと願う。

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エレミヤ20:7 主よ、あなたがわたしを惑わしわたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ人が皆、わたしを嘲ります。
20:8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。
20:9 主の名を口にすまいもうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
20:10 わたしには聞こえています多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
20:11 しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。
20:12 万軍の主よ正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。
20:13 主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。
20:14 呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。
20:15 呪われよ、父に良い知らせをもたらしあなたに男の子が生まれたと言って大いに喜ばせた人は。
20:16 その人は、憐れみを受けることなく主に滅ぼされる町のように朝には助けを求める叫びを聞き昼には鬨の声を聞くであろう。
20:17 その日は、わたしを母の胎内で殺さず母をわたしの墓とせずはらんだその胎をそのままにしておかなかったから。
20:18 なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い生涯を恥の中に終わらねばならないのか。

預言者エレミヤは、神から託された預言の言葉を語らなければならない使命の故に、多くの試練や迫害に甘んじていました。
しかし、神の御言葉はあまりにも力強く、これを語らずにはいられなかったのでしょう。

エレミヤは、恐れや不安の中にありながらも、神の御言葉を語る預言者として、御言葉を語ることによる神の勝利を見させてくださるようにと訴えています。
つまり、それほどに、人の目には、神の勝利の姿というものが見えにくいものであるということなのでしょう。

そう考えるとき、神を信じたから万事がうまくいくというようなことは、意外に少ないのではと思わされます。
むしろ、神の勝利の姿は、この世の中においては、ほとんど目に見えないものなのかもしれず、気がついていないか、目を背けているか、どちらかなのかもしれません。

マタイ5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

心の目を研ぎ澄まし、真実の神の国の姿を見る事ができますように。

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ローマ8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

ローマ8章の箇所には、私たちがあらゆる困難に直面しようとも、主なる神が万事を益としてくださるであろうことが語られている。
試練も迫害も、様々な困難な事柄も、それはできるだけ避けて通りたいもの。
しかし、28節の箇所には「万事が益となるように『共に』働く」と語られているのである。
「共に」働くということは、良い事ばかりではなく、良いことも、悪い事も、それぞれが「共に」働くとき、そこに、主なる神様の人間には諮り知ることのできない大いなるご計画があることを思うのである。
良きも悪しきも、万事が益となるように共に働いていることを感謝し。神のなさる御業に心を留めていられるようにと願うものである。

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エレミヤ20:1 主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。
20:2 パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
20:3 翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。
20:4 主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。
20:5 わたしはこの都に蓄えられている物、労して得た物、高価な物、ユダの王たちの宝物をすべて敵の手に渡す。彼らはそれを奪い取り、バビロンへ運び去る。
20:6 パシュフルよ、お前は一族の者と共に、捕らえられて行き、バビロンに行って死に、そこに葬られる。お前も、お前の偽りの預言を聞いた親しい者らも共に。」

エレミヤは祭司パシュフルに対し「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる」と告げています。
なんとも恐ろしい呼び名でしょうか。
恐怖というのは、本当に耐え難いものです。
なぜならば、自分の身に迫りくるであろう試練や苦痛など、得体のしれないものであればあるほど、その恐怖感は大きなものとなりうるからであり、実際の苦難よりも恐ろしい場合もあるかもしれません。
もちろん、恐怖感にも様々な種類のものがあるのでしょうが、それが四方から迫りくるようなものであるとするならば、もはや、逃れる場所さえない状態であり、耐え難いものであったことでしょう。

得体のしれない、しかも、逃れる事のできない恐怖と言うとき、私たち自身にとってそれが何か考えてみると、死という出来事があげられるのではないでしょうか。
誰も経験した事のないもので、それがどんなに苦痛を伴うものであるのかわからず、得体の知れない恐怖感を放っていると言えます。なおかつ、誰もが必ず経験しなければならない恐ろしさ。
この死の問題に対する解決を持っているかどうかは、その後の人生に対して、大きな違いをもたらすことになるのでしょう。

「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とはイエス様の言葉。
死に対する解決をもたらす聖書の言葉に信頼して歩み続けていきたいものです。

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エレミヤ19:1 主はこう言われる。「行って、陶器師の壺を買い、民の長老と、長老格の祭司を幾人か連れて、
19:2 陶片の門を出たところにある、ベン・ヒノムの谷へ出て行き、そこでわたしがあなたに語る言葉を呼ばわって、
19:3 言うがいい。ユダの王たち、エルサレムの住民よ、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしは災いをこのところにもたらす。それを聞く者は耳鳴りがする。
19:4 それは彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである。
19:5 彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった。
19:6 それゆえ、見よ、と主は言われる。このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る。
19:7 わたしはユダとエルサレムの策略をこのところで砕く。わたしは彼らを剣によって、敵の前に倒し、その命を奪おうとする者の手に渡し、彼らの死体を空の鳥、野の獣の餌食とする。
19:8 わたしはこの都を恐怖の的とし、嘲られるものとする。通りかかる者は皆、恐怖を抱き、その打撃を見て嘲る。
19:9 彼らの敵と命を奪おうとする者が彼らを悩ますとき、その悩みと苦しみの中で、わたしは彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いに肉を食らうに至らせる。
19:10 あなたは、共に行く人々の見ているところで、その壺を砕き、
19:11 彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。
19:12 わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。
19:13 エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる。これらの家はすべて、屋上で人々が天の万象に香をたき、他の神々にぶどう酒の献げ物をささげた家だ。」
19:14 エレミヤは、主が預言させるために遣わされたトフェトから帰って来て、主の神殿の庭に立ち、民のすべてに向かって言った。
19:15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」

神様の素晴らしい救いの御業を宣べ伝えるために立てられた民イスラエルは、近隣諸国の偶像礼拝の慣習を持ち込み、神様をおおいに悲しませることになってしまいます。
それは、まるで、陶器師が丹精込めて作り上げた陶器の壷をやむなく打ち砕いてしまわなければならないほどに悲しい出来事であったことでしょう。
神様は、良い器としてイスラエルを立てられたのである。
それなのに、どんどん神様から離れる方向へ行ってしまう。
神様の嘆きは、単に悪いほうへ言ってしまった事への怒りの感情だけでなく、愛する者に対する愛の大きさの裏返しでもあると言えるのでしょう。
そこに目を留めながら、エレミヤの預言の言葉に耳を傾けていくとき、神様の大きな大きな愛あ少しでも見えてくるのではないでしょうか。

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エレミヤ18:18 彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」
18:19 主よ、わたしに耳を傾けわたしと争う者の声を聞いてください。
18:20 悪をもって善に報いてもよいでしょうか。彼らはわたしの命を奪おうとして落とし穴を掘りました。御前にわたしが立ち、彼らをかばいあなたの怒りをなだめようとしたこと御心に留めてください。
18:21 彼らの子らを飢饉に遭わせ彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり夫は殺戮され若者は戦いで剣に打たれますように。
18:22 突然、彼らに一団の略奪者を襲いかからせてください彼らの家から叫ぶ声が聞こえるように。彼らはわたしを捕らえようと落とし穴を掘り足もとに罠を仕掛けました。
18:23 主よ、あなたはご存じですわたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう御怒りのときに彼らをあしらってください。

エレミヤに対して迫害を加えるような者たちに対し、ついにエレミヤは、彼らの上に裁きがもたらされるように祈ってしまいます。
しかし、彼の願いは、自分の身が守られるために、ではなく、あくまで、民に正しく神の御言葉が語り伝えられるためであったのでしょう。

神の御言葉を捻じ曲げる者を取り除き、正しく御言葉を取り次ぐ者の働きが妨げられないようにすること、そのような環境を整えていく事も大切であります。
そう考えると、教会の働きにおいても、このような姿勢は大切であると思います。
単に自分たちの居心地のいい場所を作るために熱心になるのではなく、神の御言葉が正しく語られるために、その一点を大切にしていきたいものです。

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エレミヤ17:19 主はわたしにこう言われた。「行って、ユダの王たちが出入りする民の子らの門や、エルサレムのすべての門に立ち、
17:20 彼らに言うがよい。これらの門を入るユダの王たち、ユダのすべての者、エルサレムのすべての住民よ、主の言葉を聞け。
17:21 主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。
17:22 また安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。
17:23 それをわたしはあなたたちの先祖に命じたが、彼らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くして、聞き従わず、諭しを受け入れようとしなかった。
17:24 主は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、
17:25 ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう。
17:26 ユダの町々、エルサレムの周囲、ベニヤミンの地、シェフェラ、山地、ネゲブなどから、人々は焼き尽くす献げ物、いけにえ、穀物の献げ物、乳香をもたらし、主の神殿への感謝の献げ物とする。
17:27 もし、あなたたちがわたしに聞き従わず、安息日を聖別せず、安息日に荷を運んで、エルサレムの門を入るならば、わたしはエルサレムの門に火を放つ。その火はエルサレムの城郭を焼き尽くし、消えることはないであろう。」

多くの人が集まるところ、必ず人や物の交流が起こり、商売が営まれる機会となる。
そして、そのためにますます多くの人々が集まる結果になるのだが、それがエスカレートしていくとき、本来の礼拝の意味が失われていくのである。
主なる神様がイスラエルの民に対し問われたのは、まさにそのような礼拝に臨む態度であると言えるだろう。

私もふだん、お客様相手の仕事に携わっていただいている。
多くの人が集まれば集まるほど、商売の機会や仕事の量がどんどん増えていく。
しかし気をつけなければならない。
一体何のために集まり、何をなそうとしているのか。

そう考えるとき、集会に集まる人数が少ない事もよいことなのかもと思わされる。
純粋に集まること、礼拝を捧げる事の意味を覚えながら集いたいものである。


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