聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ 43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし クシュとセバをあなたの代償とする。
43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。
43:5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り 西からあなたを集める。
43:6 北に向かっては、行かせよ、と 南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
43:7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し 形づくり、完成した者。

詩篇 126:1  都に上る歌。 主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう 「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

フィリピ 2:19 さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
2:20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
2:21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
2:22 テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
2:23 そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
2:24 わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。


イザヤ書43章の御言葉は、なんとも素晴らしく、大いに慰めと励ましを頂くことのできる言葉である。
ただ、その背景を思う時、水の中、火の中を歩んでいるような状況であることには変わりなく、それでも、主なる神様は我々を守り「わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と仰せられ、私たちの命を生かして下さるのである。
たとえ周囲の全ての人が私に対して牙をむき、迫害にさらされようとも「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。」と言って下さるのだ。
なんという幸いであろうか。
イエス様の十字架を見上げる時、このイザヤ書の言葉が文字通り語りかけてくるようである。
あなたを決して滅ぼしはしない、なぜなら、私があなたの身代わりとなってあなたへの裁きを全て引き受けたからだ、と。
何があろうと、誰が何と言おうと、このイエス様を見あげ、主なる神の御言葉に信頼して歩んで行こう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




列王記下 4:1 預言者の仲間の妻の一人がエリシャに助けを求めて叫んだ。「あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。ところが債権者が来てわたしの子供二人を連れ去り、奴隷にしようとしています。」
4:2 エリシャが、「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい」と促すと、彼女は、「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」と答えた。
4:3 彼は言った。「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。
4:4 家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです。」
4:5 彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、子供たちが器を持って来ると、それに油を注いだ。
4:6 器がどれもいっぱいになると、彼女は、「もっと器を持っておいで」と子供に言ったが、「器はもうない」と子供が答えた。油は止まった。
4:7 彼女が神の人のもとに行ってそのことを知らせると、彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」

詩篇 53:1  指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。
53:2 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:5 悪を行う者は知っているはずではないか パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 神を呼び求めることをしない者よ。
53:6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を 神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。
53:7 どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び躍り イスラエルは喜び祝うであろう。

ルカ 9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。



私たちが生きていくためには、食べて行かねばならない。
一般的には、食べて行くためには食べ物を買わなければならず、その食べ物を買うためには働いてお金を稼ぐ必要もある。
しかし、誰もが健康で働くことができるというわけでもないし、働くことのできない人のためにも助けあって生きて行くことは必要であろう。
イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰せられたが、持っていたものはごくわずかであった。
ごくわずかな食べ物しかなかったが、イエス様はそれを祝福された。
弟子たちにできたことは、イエス様の言葉に従って、食べ物を分け合うために働いたということである。
今の時代、働いてもお金にならない仕事もあるし、ストレスフルな社会の中、働く気力さえ失ってしまう人も多い。
何ができるのだろうか、どうすれば良いのだろうか、いつも考えさせられるが、自分にできることはわずかであり、イエス様の言葉を語るだけしかない。
真の食べ物、命の糧、神の御言葉を「あなたがたがが彼らに与えなさい」と仰せられるのならば、それを続けるだけである。

使徒 3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

食べ物を与えることも、病気を癒す力もないが、生きていこうと思える希望を分かち合って行けるように、命の糧、神の御言葉を宣べ伝えて行きたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




レビ 25:1 主はシナイ山でモーセに仰せになった。
25:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。
25:3 六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、
25:4 七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。
25:5 休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。
25:6 安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、
25:7 更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる。
25:8 あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。
25:9 その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、
25:10 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。
25:11 五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。
25:12 この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。
25:13 ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。
25:14 あなたたちが人と土地を売買するときは、互いに損害を与えてはならない。
25:15 あなたはヨベル以来の年数を数えて人から買う。すなわち、その人は残る収穫年数に従ってあなたに売る。
25:16 その年数が多ければそれだけ価格は高くなり、少なければそれだけ安くなる。その人は収穫できる年数によってあなたに売るのである。
25:17 相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。
25:18 あなたたちはわたしの掟を行い、わたしの法を忠実に守りなさい。そうすれば、この国で平穏に暮らすことができる。
25:19 土地は実りを生じ、あなたたちは十分に食べ、平穏に暮らすことができる。

詩篇 53:1  指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。
53:2 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:5 悪を行う者は知っているはずではないか パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 神を呼び求めることをしない者よ。
53:6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を 神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。
53:7 どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び躍り イスラエルは喜び祝うであろう。

黙示 19:9 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
19:10 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」



罪に満ちた人間にとって、慈愛に満ちた神の言葉は、時に理解を超え、複雑なことのように感じることもある。
そのため、書き記すことが大切であったのだろう。
人間は意外といい加減なもので、ちゃんと聞いているようで、それぞれ自分の都合の良いように捉え直して聞き入れようとしている事が多い。
だから、お互いの間に「言った、言わない」といった言い争いも生じるし、互いに理解しあうことなど夢のまた夢のごとく、争いが続くのであろう。
できれば、言葉を正確に書き留めておくことが大切なのだろう。
現代では、様々な争いや裁判などに備えて、会話を録音したりすることも行われたりする恐ろしい時代になってきたが、主なる神様の前では、私たちの人生全てが記憶されている。
神はそれほど恐ろしいお方である。
しかし、味方になれば、これほど心強いお方はいない。
私たちのために、御子イエス様の命をも投げだして、私たちの全てをとりなして下さるのだ。
この約束が書き記された聖書の御言葉に聞きながら、揺るぎない救いの約束の上に歩んで行きたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




レビ 23:26 主はモーセに仰せになった。
23:27 第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
23:28 この日にはいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前においてあなたたちのために罪の贖いの儀式を行う日である。
23:29 この日に苦行をしない者は皆、民の中から断たれる。
23:30 また、この日に仕事をする者はだれであれ、わたしはその者を民の中から滅ぼす。
23:31 あなたたちは、いかなる仕事もしてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。
23:32 この日はあなたたちの最も厳かな安息日であり、あなたたちは苦行をせねばならない。この月の九日の夕暮れから翌日の夕暮れまでを安息日として安息しなさい。
23:33 主はモーセに仰せになった。
23:34 イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。
23:35 初日に聖なる集会を開きなさい。いかなる仕事もしてはならない。
23:36 七日の間、燃やして主にささげる物をささげ続ける。八日目には聖なる集会を開き、燃やして主にささげる物をささげる。これは聖なる集まりである。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。
23:37 以上がイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日である。あなたたちはこれらの定められた日に、燃やして主にささげる焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、ぶどう酒の献げ物をささげる。
23:38 このほかに主の安息日、主にささげるさまざまの献げ物、満願の献げ物、随意の献げ物がある。
23:39 なお第七の月の十五日、あなたたちが農作物を収穫するときは、七日の間主の祭りを祝いなさい。初日にも八日目にも安息の日を守りなさい。
23:40 初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。
23:41 毎年七日の間、これを主の祭りとして祝う。第七の月にこの祭りを祝うことは、代々にわたって守るべき不変の定めである。

詩篇 53:1  指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。
53:2 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:5 悪を行う者は知っているはずではないか パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 神を呼び求めることをしない者よ。
53:6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を 神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。
53:7 どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び躍り イスラエルは喜び祝うであろう。

黙示 19:1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
19:2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである。」
19:3 また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
19:4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
19:5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。」
19:6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。
19:7 わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。
19:8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」



聖書には「正しい人はいない、ひとりもいない」と語られている。
主なる神様がこの世界をご覧になった率直な感想であり、まぎれもない事実であろう。
私たちは他人を見て「あの人は罪を犯している」などと平気で口にするが、すでにその言葉を口にした時点で罪を犯している。
それなのに、そのことに気づかない。
「自分は正しい、他人はおかしい」と、もはやその時点で二つも間違っているのだ。
主なる神様は、そのような罪の中に生きている現実に気づくように、悔い改めよと語られるのである。
「悔い改めよ」というのは「あなたは滅んでいますよ」というのと同義であろう。
なぜなら、私たちに自分の罪を改める力などないからである。
できるとしたら、気づくだけであろう。
せめて己の罪の現実に気づき、どうすることもできない絶望の淵に立たされている事を知った時、はじめて本当の意味でキリストの十字架の必要性がわかるのである。
分かるというより、もはやそれしか方法はないし、完全なる絶望からしか真の希望は見えなてこないのである。
ノアの時代に大洪水で滅んだのは私、ソドムとゴモラの町で滅んだのも、出エジプトの時、海のもくずとなって滅んだのもこの私だったのかもしれないと、それくらいの認識がなければキリストの十字架の意味も、本当の救いの意味も見えてこない。
キリストの十字架の前の己の罪を見つめる四旬節の時、静かに滅んでいたはずの自分と、そんな自分を愛し、救おうとされた主なる神の深い愛を覚えて過ごしたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出エジプト 32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、
32:8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」
32:9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
32:10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
32:11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。
32:12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。
32:13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」
32:14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

詩篇 32:1  ダビデの詩。マスキール。 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

ルカ 15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


モーセに現れた神は、イスラエルの民が頑なであることに対し、激しい怒りを表しておられる。
しかし同時に、神は憐れみ深いお方であるため、モーセのとりなしにより、民に災いを下すことは思いなおされたと語られている。
神が憐れみ深いお方であることには違いないが、その憐れみとは、何でも許してくれるような優しいものというよりも、本当に愛しているからこそも厳しさを合わせ持っておられるということであろう。
ルカ福音書でイエス様が語られている百匹の羊や10枚のドラクメ銀貨のたとえでは、見失った羊や銀貨を見つかるまで探そうとなさる神様の深い愛の心が示されていると言えよう。
見つかるまで探すということは、それほどに深く深く愛していることの現われであろう。
私たち人間なら簡単にあきらめてしまうようなことも神は決してあきらめることはない。
たとえ御自分の命を犠牲にしてもまでも、それほどに深く私たちのことを愛し、救われることを強く強く願っておられるお方であるということであろう。
そのような深くて強い愛の中に生きる幸いを覚えたいものである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨシュア 4:14 その日、全イスラエルの見ている前で、主がヨシュアを大いなる者とされたので、彼らはモーセを敬ったように、ヨシュアをその生涯を通じて敬った。
4:15 主はヨシュアに言われた。
4:16 「掟の箱を担ぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させなさい。」
4:17 ヨシュアが祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来い」と命じ、
4:18 主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の流れは元どおりになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。
4:19 第一の月の十日に、民はヨルダン川から上がって、エリコの町の東の境にあるギルガルに宿営した。
4:20 ヨシュアはヨルダン川から取った十二の石をギルガルに立て、
4:21 イスラエルの人々に告げた。「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、
4:22 子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。
4:23 あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。
4:24 それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」

詩篇 32:1  ダビデの詩。マスキール。 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

2コリント 5:6 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
5:9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。
5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。
5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。


イスラエルの民がヨルダン川を渡り、そこに後の世代の人たちへの証しとなるよう石碑を築いた時、「それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである」と語られている。
神に選ばれたイスラエルの民が優れていることを示すのではなく、イスラエルの民を救われた主なる神が素晴らしいことを示し、その神をあなたがたが敬うようにするためであると語られているのである。
人間は、どこまでいっても罪人であるし、何ら誇れるようなものなど何一つ持っていない。
むしろ、神に敵対していたようなものである。
そのことを忘れてはならないし、むしろ、そのような者を救って下さったからこそ、神は素晴らしいのだ。
私たちが誇るのは、主によって救われた「我々」ではない。
こんな私たちを救って下さった「主なる神」であり、その主なる神が私たちのために成し遂げて下さった救いの御業を誇るのである。
イエス様を信じ、救われたからと言って、私たち自身が急に変わるわけでもなく、相変わらず罪人のままである。
今もなお、神の裁きの前に立ち尽くすしかないものである。
しかし、主イエス様が、こんな小さな者の身代わりとなって十字架において、私の罪のために裁きを受けて下さった。
それゆえに、私はゆるされている。
その喜びに生きるだけである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨシュア 4:1 民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。
4:2 「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、
4:3 彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」
4:4 ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、
4:5 言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。
4:6 それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、
4:7 こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」
4:8 イスラエルの人々はヨシュアの命じたとおりにした。主がヨシュアに告げられたように、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、十二の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを携えて行き、野営する場所に据えた。
4:9 ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に十二の石を立てたが、それは今日までそこにある。
4:10 主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで川を渡った。
4:11 民が皆、渡り終わると、主の箱と祭司たちとは民の先頭に立った。
4:12 ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族は、モーセがかつて告げたとおり、隊伍を整え、他のイスラエルの人々の先に立ち、
4:13 約四万の武装した軍勢が主の前を進み、戦うためエリコの平野に向かって行った。

詩篇 32:1  ダビデの詩。マスキール。 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

2コリント 4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。


ヨシュア4章の箇所には、イスラエルの民が神の導きによって約束の地カナンへ入植した際、のちのちの世代にたいし記念のしるしとなるよう、もともと川底にあった石を積み上げて記念碑としたことが記されている。
これを見れば、この時代を知らない世代の人たちも、かつて主なる神様がイスラエル民を救った事を知ることができるからである。
しかし、本来なら、自分たちの民族がそこに存在しているというだけで、神がイスラエルをお救い下さったことの証しとなりうるはずである。
もし、神がイスラエルを救わなければ、誰一人残らず滅んでいたであろうし、子孫も存在しているはずがないからである。
しかし人は弱く、日々の暮らしに負われているうちに、自分が生きていることの意味も、存在する意義も見失ってしまうのだ。
自分がここに生きているだけでも、どれだけ多くの神の憐れみを受け、恵みのうちに生きてこられたかということを物語っているのに、である。
我々は罪深く、ちっぽけな存在である。
全能の神が滅ぼそうと思えば、いつでも簡単に滅ぼすこともできるだろう。
しかし、神はそうはなさらない。
こんなにも愚かで弱いものを、ただただ愛し、赦し、そして生かして下さるのだ。
神がどれほど我々を愛して下さっているのかを常に覚えていたい。
川底から拾った石はなくても、私たちには主イエス様の十字架がある。
いつでもこの十字架のイエス様を見上げて生きていきたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




民数記 13:17 モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、
13:18 その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、
13:19 彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、
13:20 土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。
13:21 彼らは上って行って、ツィンの荒れ野からレボ・ハマトに近いレホブまでの土地を偵察した。
13:22 彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。
13:23 エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。
13:24 この場所がエシュコルの谷と呼ばれるのは、イスラエルの人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。
13:25 四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。
13:26 パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。
13:27 彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。

詩篇 39:1  指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。
39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
39:3 わたしは口を閉ざして沈黙し あまりに黙していたので苦しみがつのり
39:4 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。
39:5 「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯はどれ程のものか いかにわたしがはかないものか、悟るように。」
39:6 御覧ください、与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。
39:7 ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
39:8 主よ、それなら 何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。
39:9 あなたに背いたすべての罪からわたしを救い 神を知らぬ者というそしりを 受けないようにしてください。
39:10 わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。
39:11 わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。
39:12 あなたに罪を責められ、懲らしめられて 人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。
39:13 主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。
39:14 あなたの目をわたしからそらせ 立ち直らせてください わたしが去り、失われる前に。

ルカ 13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。
13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」



イエス様は、神の国について、からし種やパン種にたとえて語られている。
からし種は、人がそれを庭に蒔くと、成長して木になり、やがてその枝に空の鳥が巣を作るまでになると語られる。
そして、パン種は、女がそれをとって三サトンの粉に混ぜると、やがれ全体が膨れると語られている。
しかし、それらはあくまでそのような可能性を秘めているということであり、結果を期待して行動しなければ、からし種はからし種のまま、パン種もパン種のままである。
ただ、イエス様はそれらのことも含めて、神の国とはそのようなものであると仰せられているのだろう。
蒔いているのに、なぜ大きく育たないのか、混ぜているのに、なぜ増え広がって行かないのかと悩むこともあるかもしれないが、イエス様は神の国は「からし種」のようであり「パン種」のようであると語られている。
結果はすぐに現れるとは限らないし、もしかしたら、上手くいかないこともあるかもしれない。
おおよそ、全ての事は時間がかかる。
それでも、イエス様が「ここに神の国がある」と仰せられれば、結果が出ていなくとも、そこはもはや神の国なのだ。
私たちの目に見えていないだけ、信じようとしていないだけなのかもしれない。

マルコ8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。


大切なことは信じる心を絶やさず、イエス様を信じて従っていくことである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エゼキエル 17:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
17:2 「人の子よ、イスラエルの家に向かって謎をかけ、たとえを語りなさい。
17:3 あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。大きな翼と長い羽をもち 彩り豊かな羽毛に覆われた大鷲が レバノンに飛来する。その鷲はレバノン杉の梢を切り取り
17:4 その頂の若い枝を折って 商業の地に運び、商人の町に置いた。
17:5 また、その地の種を取って苗床に蒔き 苗を豊かな水のほとりに柳のように植えた。
17:6 やがてそれは育ち 低く生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向かって伸び 根はその鷲の下に張り 若枝を広げ、つるの伸びたぶどうの木となった。
17:7 また、もう一羽の大鷲がいた。これも大きな翼と多くの羽毛を持っていた。このぶどうの木は その植えられていた場所から 根をこの鷲の方に向け 若枝をこの鷲の方に伸ばして 水を得ようとした。
17:8 このぶどうの木は 枝を伸ばし、実を結ぶ 立派なぶどうの木となるように 水の豊かなよい地に植えられていた。
17:9 語れ。主なる神はこう言われる。このぶどうの木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ 実はもぎ取られないだろうか。芽生えた葉はすべてしおれてしまわないだろうか。それはしおれてしまう。それを根から引き抜くのに 大きな力も、多くの人も必要としない。
17:10 それは植えられはしたが 果たして成長するだろうか。東風が吹きつけたなら しおれてしまわないだろうか。その芽を出した場所で、しおれるであろう。

詩篇 39:1  指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。
39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
39:3 わたしは口を閉ざして沈黙し あまりに黙していたので苦しみがつのり
39:4 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。
39:5 「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯はどれ程のものか いかにわたしがはかないものか、悟るように。」
39:6 御覧ください、与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。
39:7 ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
39:8 主よ、それなら 何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。
39:9 あなたに背いたすべての罪からわたしを救い 神を知らぬ者というそしりを 受けないようにしてください。
39:10 わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。
39:11 わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。
39:12 あなたに罪を責められ、懲らしめられて 人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。
39:13 主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。
39:14 あなたの目をわたしからそらせ 立ち直らせてください わたしが去り、失われる前に。

ローマ 2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。


大木がどのような枝ぶりで、どのような姿、形となって行くのかは、その木が生きた証そのものであろう。
人の生涯もそれと似ていて、ゆっくりとではあるが、少しずつ形を変え、次第にその本性をあらわしていく。
小さい頃や若い頃には分からなかったことや、それまで歩んできた歴史が、次第におもてに現れるようになる。
イライラして怒ってばかりだったり、他人を恨んだり妬んだりしてばかりいる人は、どことなくそういう表情をしている。
できることなら、いつも穏やかに過ごし、表情にもその年輪が刻まれるように、つねに笑顔でいたいものである。
そのために私たちができる事は何だろうか。
私たちのために命をかけて愛し、赦し、生かして下さる主イエス様の御言葉の約束に信頼していくほかない。
人生は長いようで、あっという間である。
平穏で幸いな日々の歩みを、一日一日大切にしていこう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エレミヤ 11:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
11:2 「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ。
11:3 彼らに向かって言え。イスラエルの神、主はこう言われる。この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる。
11:4 これらの言葉はわたしがあなたたちの先祖を、鉄の炉であるエジプトの地から導き出したとき、命令として与えたものである。わたしは言った。わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。
11:5 それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を彼らに与えるためであった。」わたしは答えて言った。「アーメン、主よ」と。
11:6 主はわたしに言われた。「ユダの町々とエルサレムの通りで、これらの言葉をすべて呼ばわって言え。この契約の言葉を聞き、これを行え。
11:7 わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。
11:8 しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。今、わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる。それを行うことを命じたが、彼らが行わなかったからだ。」
11:9 主はわたしに言われた。「ユダの人とエルサレムの住民が共謀しているのが見える。
11:10 彼らは昔、先祖が犯した罪に戻り、わたしの言葉に聞き従うことを拒み、他の神々に従ってそれらを礼拝している。こうしてイスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖と結んだ契約を破った。」
11:11 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らに災いをくだす。彼らはこれを逃れることはできない。わたしに助けを求めて叫んでも、わたしはそれを聞き入れない。
11:12 ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいていた神々のところに行って助けを求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。
11:13 ユダよ、お前の町の数ほど神々があり、お前たちはエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇を設けた。
11:14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない。」
11:15 わたしの家で わたしの愛する者はどうなったのか。多くの者が悪だくみを行い 献げ物の肉を彼女から取り上げている。あなたに災いがふりかかるとき、むしろ喜べ。
11:16 主はあなたを、美しい実の豊かになる 緑のオリーブと呼ばれた。大いなる騒乱の物音がするとき 火がそれを包み、その枝を損なう。
11:17 あなたを植えられた万軍の主は、あなたについて災いを宣言される。それは、イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに香をたいてわたしを怒らせたからだ。

詩篇 39:1  指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。
39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
39:3 わたしは口を閉ざして沈黙し あまりに黙していたので苦しみがつのり
39:4 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。
39:5 「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯はどれ程のものか いかにわたしがはかないものか、悟るように。」
39:6 御覧ください、与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。
39:7 ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
39:8 主よ、それなら 何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。
39:9 あなたに背いたすべての罪からわたしを救い 神を知らぬ者というそしりを 受けないようにしてください。
39:10 わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。
39:11 わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。
39:12 あなたに罪を責められ、懲らしめられて 人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。
39:13 主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。
39:14 あなたの目をわたしからそらせ 立ち直らせてください わたしが去り、失われる前に。

ローマ 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。



聖書には、イスラエルの民が真の神に背を向け、数々の偶像礼拝をおこなってきたことが記されている。
偶像とは、人間が自分の欲望や都合の良いように造り出した神々であり、実際には存在しない。
正確に言えば、存在しないのは偶像であって、そのような神々を生み出す人間の欲望や身勝手な思いがそれらを形作っているのであり、人間の悪が存在しているに過ぎない。
偶像のせいにしてはいるが、神に背を向け、罪を犯しているのは人間である。
その人間に対し、主なる神様は何度も何度も悔い改めを促してきたが、それは裁きではない。
神の憐れみによるものである。
滅んでも良いようなどうでも良い存在なら、神も放っておかれたことだろう。
けれど、主なる神様は、決してあきらめることなく、絶えず人間を救いに導こうと、時には厳しいことを行われることがあっても、人間を救うために語りかけて来られたのである。
それは今も変わらない。
私たちに対しても同じ憐れみの心で語りかけておられる。

使徒2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

十字架にかけられて殺されたイエス様を見上げて行こう。
そこには、主なる神様がいかに私たちを愛し、憐れみ、そして救って下さったかという事が、いつでも現されているのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ