聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヨブ 33:1 さてヨブよ、わたしの言葉を聞きわたしの言うことによく耳を傾けよ。
33:2 見よ、わたしは口を開き舌は口の中で動き始める。
33:3 わたしの言葉はわたしの心を率直に表し唇は知っていることをはっきりと語る。
33:4 神の霊がわたしを造り全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。
33:5 答えられるなら、答えてみよ。備えをして、わたしの前に立て。
33:6 神の前では、わたしもあなたと同じように土から取られたひとかけらのものにすぎない。
33:7 見よ、わたしには脅かすような威力はない。あなたを押さえつけようとしているのではない。
33:8 あなたが話すのはわたしの耳に入り声も言葉もわたしは聞いた。
33:9 「わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。
33:10 それでも神はわたしに対する不満を見いだしわたしを敵視される。
33:11 わたしに足枷をはめ行く道を見張っておられる。」
33:12 ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。
33:13 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。
33:14 神は一つのことによって語られまた、二つのことによって語られるが人はそれに気がつかない。
33:15 人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると夢の中で、夜の幻の中で
33:16 神は人の耳を開き懲らしめの言葉を封じ込められる。
33:17 人が行いを改め、誇りを抑え
33:18 こうして、その魂が滅亡を免れ命が死の川を渡らずに済むようにされる。
33:19 苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく
33:20 命はパンをいとい魂は好みの食べ物をすらいとう。
33:21 肉は消耗して見えなくなり見えなかった骨は姿を現し
33:22 魂は滅亡に命はそれを奪うものに近づいてゆく。
33:23 千人に一人でもこの人のために執り成しその正しさを示すために遣わされる御使いがあり
33:24 彼を憐れんで「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら
33:25 彼の肉は新しくされて若者よりも健やかになり再び若いときのようになるであろう。
33:26 彼は神に祈って受け入れられ歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ再び神はこの人を正しいと認められるであろう。
33:27 彼は人々の前でたたえて歌うであろう。「わたしは罪を犯し正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。
33:28 しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」と。
33:29 まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。
33:30 その魂を滅亡から呼び戻し命の光に輝かせてくださる。
33:31 ヨブよ、耳を傾けてわたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ。
33:32 わたしに答えて言うことがあるなら、語れ。正しい主張を聞くのがわたしの望みだ。
33:33 言うことがなければ、耳を傾けよ。沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。

エリフは、自分も一人の罪ある人間として、ヨブw言いくるめようとするのではなく、ただ神の前に一人の救われる魂として語り始めるのである。
ヨブの神に対するつぶやきは、ヨブ自身が自分を正しい者と捉え、神と争うような者と言い、それに対しても、神は応えられないのではなく、人間が神の御業に気が付いていないだけであると語る。
後半では、千人に一人であっても、滅びゆく人のために神が救いの手を差し伸べようとしておられることを告げ、社会から見捨てられたような者であっても、神がその人を愛しておられることを語っている。
人は、誰もが自己中心であり、自分のことしか考えていない。
そして、自分の思いにこたてくれるかどうかで神を見ようとしている。
しかし、世界には多くの人がいる。
神は、その一人一人を愛しておられる。
自分にとっては無関係であったり、時に、害悪と感じるような人に対しても、神はその人が悔い改めて救われることを願っておられるのだ。
ヨブに欠けているのは、そういう視点なのかもしれない。
周囲の人が、自分とは考え方も意見も異なり、言動も違って当然だし、それを受け入れるまではいかなくても、そこに一人の人間がいるという事実を尊重し、神と出会い、神と共に生きるようになることを、愛をもって祈り続けていく、そういう者でありたい。
何でもかんでも自分の思う通りに正そうとするのではなく、とくには沈黙して聞いていくことも大切必要であろう。

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ルカ 24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

イエス様は、聖書に書かれている事柄は必ずすべて実現する、と仰せられ、ご自分の死と復活による救いの約束が、エルサレムから始まって世界中に宣べ伝えられていくと約束された。
そして、あなたがたはその証人となる、というのである。
証人というのは、証言する人であり、ある種、目撃者のような響きを持つ言葉のようであるが「証言する人」という点では、イエス様の御業によって成し遂げられた救いの約束である福音の言葉を宣べ伝える働きに間接的に関わっていることも含まれている。
いや、むしろ、直接的に関わるべきであり、「神は私を救うために御子イエス様を十字架につけ、死を打ち破り、三日目によみがえられた。このお方のおかげで私の救いは確かなのである」と証言していくことが求められているということであろう。
私たちは、単に聖書に記されている神について宣べ伝えていくのではない。
神が私に何をしてくださったのか、私と神との間にどのような関係があり、その関係が今もなお続いており、そのことのゆえに、今、こうして信仰者として生きているということを「証言」していくのである。
そういう意味では、私自身もイエス様の十字架の贖いと復活によってすべての罪を赦して頂き、今もこうしてキリストの救いを証言していきたいと願っている。
神の約束と祝福は、今も、そして、永遠に続いていることを覚え、これからも、キリストの証人としての生涯を歩み続けていきたいものである。

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ヨブ 32:1 ここで、この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分は正しいと確信していたからである。
32:2 さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。
32:3 また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。
32:4 彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、
32:5 この三人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである。
32:6 ブズ人バラクエルの子、エリフは言った。わたしは若くあなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮しわたしの意見をあえて言わなかった。
32:7 日数がものを言い年数が知恵を授けると思っていた。
32:8 しかし、人の中には霊があり悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。
32:9 日を重ねれば賢くなるというのではなく老人になればふさわしい分別ができるのでもない。
32:10 それゆえ、わたしの言うことも聞いてほしい。わたしの意見を述べてみたいと思う。
32:11 わたしはあなたたちの言葉を待ちその考えに耳を傾け言葉を尽くして論じるのを聞き
32:12 その論拠を理解しようとした。だが、あなたたちの中にはヨブを言い伏せ彼の言葉に反論しうる者がない。
32:13 「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。
32:14 ヨブはわたしに対して議論したのではないがわたしはあなたたちのような論法で答えようとは思わない。
32:15 彼らは気を挫かれて、答えようとせず言うべき言葉を失っている。
32:16 わたしは待ったが、彼らは語らず行き詰まり、もう答えようとしない。
32:17 それならわたしが自分の言い分を述べさせてもらおう。わたしの意見を言わせてもらおう。
32:18 言いたいことはたくさんある。腹の内で霊がわたしを駆り立てている。
32:19 見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ。
32:20 わたしも話して、気持を静めたい。唇を開いて、答えたい。
32:21 いや、わたしはだれの顔を立てようともしない。人間にへつらうことはしたくない。
32:22 気づかずにへつらうようなことを言ったらどうか造り主が直ちにわたしを退けてくださるように。

ヨブと3人の友人たちとの議論を聞いていたエリフは、ヨブを言いくるめることのできない友人たちの言葉と、ヨブ自身の言葉の双方に対し、怒りにも似た感情を抱いていた。
それまで、自分よりも年長の者に対し、一定の気遣いをし、語ることを慎んでいたが、彼らの議論があまりにも身勝手過ぎるものばかりだったために、半ば呆れながら聞いていたのかもしれない。
ヨブと三人の友人たちの言動には、驕りが感じられるし、自己中心的な思いが隠されることもなく、赤裸々に表出されてしまっている。
自制が利かず、恥も責めも感じられない、わがままな言動をさらけ出し、誰も止められない。
最近、年配の方が突然キレたり、怒りにまかせて暴言を吐いたりすることが増えているといったニュースを聞くことがある。
年齢を重ねると、知力や体力が衰えるものだが、一番厄介なのが、忍耐力が衰えることではないだろうか。
若い頃のように、人目を気にして行動することもなくなり、長く生きてきたというだけで、何か、自分が偉いものであるかのように思い上がり、傲慢でわがままで、なりふりかまわずエゴを振りかざす人も増えていくのかもしれない。
全ての人がそうとは思わないが、若い人だけでなく、お年を召された方にも、キレる人が増えているのかもしれない。
原因がどこにあるのかは分からないが、便利で快適、贅沢で麗しい生活にすっかり慣れ切ってしまった人たちが、再び不便で貧しい生活に戻ることが困難であるように、悪化していく環境に耐えきれない人が増えているのではないだろうか。
良い時もあれば、悪い時もある。
世の中は必ず成長すると信じ切っている人には、衰退や悪化は受け入れられないものなのだろう。
人は「成長」とか「進化」といった言葉をやたら用いたがる。
しかし聖書な進化ではなく創造を語る。
成長ではなく、救いを告げる。
よく似ているようで、実は全然違う言葉をじっくりと味わいながら、聖書の御言葉に聞いていきたいものである。

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ヨブ 31:1 わたしは自分の目と契約を結んでいるのにどうしておとめに目を注いだりしようか。
31:2 上から神がくださる分は何か高きにいます全能者のお与えになるものは何か。
31:3 不正を行う者には災いを悪を行う者には外敵をお与えになるではないか。
31:4 神はわたしの道を見張りわたしの歩みをすべて数えておられるではないか。
31:5 わたしがむなしいものと共に歩きこの足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら
31:6 正義を秤として量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい。
31:7 わたしの歩みが道を外れ目の向くままに心が動いたことは、決してない。この手には、決して汚れはない。もしあるというなら
31:8 わたしの蒔いたものを他人が食べてもよい。わたしの子孫は根絶やしにされてもよい。
31:9 わたしが隣人の妻に心奪われたり門で待ち伏せたりしたことは、決してない。もしあるというなら
31:10 わたしの妻が他人のために粉をひきよその男に犯されてもよい。
31:11 それは恥ずべき行為であり裁かれるべき罪なのだから
31:12 滅びの国までも焼き尽くす火がわたしの収穫を根まで焼き尽くしてもよい。
31:13 わたしが奴隷たちの言い分を聞かずはしための権利を拒んだことは、決してない。もしあるというなら
31:14 神が裁きに立たれるときわたしが何をなしえよう。神が調べられるとき何と答えられよう。
31:15 わたしを胎内に造ってくださった方が彼らをもお造りになり我々は同じ方によって母の胎に置かれたのだから。
31:16 わたしが貧しい人々を失望させやもめが目を泣きつぶしても顧みず
31:17 食べ物を独り占めにしみなしごを飢えさせたことは、決してない。
31:18 いや、わたしは若いころから父となって彼らを育て母の胎を出たときからやもめたちを導く者であった。
31:19 着る物もなく弱り果てている人やからだを覆う物もない貧しい人をわたしが見過ごしにしたことは、決してない。
31:20 彼らは常にわたしの羊の毛でからだを暖めて感謝したのだ。
31:21 わたしが裁きの座で味方の多いのをいいことにしてみなしごに手を振り上げたことは、決してない。もしあるというなら
31:22 わたしの腕は肩から抜け落ちてもよい。肘が砕けてもよい。
31:23 神の下される災いをわたしは恐れる。その怒りには堪えられない。
31:24 わたしが黄金を頼みとし純金があれば安心だと思い
31:25 財宝の多いことを喜び自分の力を強大だと思ったことは、決してない。
31:26 太陽の輝き、満ち欠ける月を仰いで
31:27 ひそかに心を迷わせ口づけを投げたことは、決してない。もしあるというなら
31:28 これもまた、裁かれるべき罪である。天にいます神を否んだことになるのだから。
31:29 わたしを憎む者の不幸を喜び彼が災いに遭うのを見てわたしがはやしたてたことは、決してない。
31:30 呪いをかけて人の命を求めることによって自分の口が罪を犯すのを許したことは決してない。
31:31 わたしの天幕に住んでいた人々が「彼が腹いっぱい肉をくれればよいのに」と言ったことは決してない。
31:32 見知らぬ人さえ野宿させたことはない。わが家の扉はいつも旅人に開かれていた。
31:33 わたしがアダムのように自分の罪を隠し咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら
31:34 群衆の前に震え、一族の侮りにおののき黙して門の内にこもっていただろう。
31:35 どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を
31:36 わたしはしかと肩に担い冠のようにして頭に結び付けよう。
31:37 わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し君主のように彼と対決しよう。
31:38 わたしの畑がわたしに対して叫び声をあげその畝が泣き
31:39 わたしが金を払わずに収穫を奪って食べ持ち主を死に至らしめたことは、決してない。もしあるというなら
31:40 小麦の代わりに茨が生え大麦の代わりに雑草が生えてもよい。ヨブは語り尽くした。

ヨブは烈火のごとく自身の潔癖を訴え続けている。
もはや、彼の人生には、一点の過ちなど何一つなかったかのように、己の正しさを主張し続けている。
確かにヨブの人生は、ヨブの目から見れば、ヨブ自身が語っているようなものであったのであろう。
しかし、だからと言って、ヨブが完全に正しい人であったかと言えば、必ずしもそうではない面もあったであろうし、現にこうして多くの呟きを神に述べることで、自身の自己中心的な罪深さ、傲慢さをあらわにしているのである。
もちろん、災いが訪れなかったら、これほどの呟きを述べることも無かったのかもしれないが、経緯はどうあれ、これほどのつぶやきを述べていることは事実である。
これは全て、ヨブ自身の言葉なのである。
他の誰かの語った言葉ではなく、ヨブ自身が語った言葉であり、これらの言葉の責任は全てヨブ自身にある。

ヤコブ、3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。
3:3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。
3:4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。
3:5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
3:6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
3:7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。
3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。
3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

人間が語る言葉は、我々が思う以上に、とても重要なものである。
語る言葉の内容に責任があるし、真実さが求められている。
求められているというより、言葉に真実がなければ、その言葉を語る人は、その後、信用されないものとなり、他者との交流を重ねていくことはできなくなっていく。
この時のヨブがまさにそうである。
続く32章では、もはやヨブの友人たちは言葉を紡ぐことを止めてしまっているのだから。

自分の語る言葉が常に真実であるようにと願うけれども、そのようなことは、人間には不可能なことであろう。
そして、他者と断絶していくばかりである。
しかし、唯一、主なる神様だけは、常に真実を語り、語られた言葉に責任を持ち、約束を果たされるお方であり、この方のゆえに、断絶していたところに交わりが回復されるということを覚えたいものである。

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ヨブ 30:1 だが今は、わたしより若い者らがわたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすらわたしは忌まわしいと思っていたのだ。
30:2 その手の力もわたしの役には立たず何の気力も残っていないような者らだった。
30:3 無一物で飢え、衰え荒涼とした砂漠や沼地をさまよい
30:4 あかざの葉を摘みれだまの根を食糧としていた。
30:5 彼らは世間から追われ泥棒呼ばわりされ
30:6 身震いさせるような谷間や土の穴、岩の裂け目に宿り
30:7 茨の間で野ろばのようにいななきあざみの下に群がり合っていた。
30:8 愚か者、名もない輩国からたたき出された者らだった。
30:9 ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種嘲りの言葉を浴びる身になってしまった。
30:10 彼らはわたしを忌み嫌って近寄らず平気で顔に唾を吐きかけてくる。
30:11 彼らは手綱を振り切り、わたしを辱めくつわを捨てて勝手にふるまう。
30:12 彼らは生意気にもわたしの右に立ちわたしを追い出し、災いの道を行かせ
30:13 逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。それを止めてくれる者はない。
30:14 襲って来て甚だしく打ち破り押し寄せて来て廃虚にする。
30:15 死の破滅がわたしを襲いわたしの力は風に吹きさらわれわたしの救いは雲のように消え去った。
30:16 もはや、わたしは息も絶えんばかり苦しみの日々がわたしを捕えた。
30:17 夜、わたしの骨は刺すように痛みわたしをさいなむ病は休むことがない。
30:18 病は肌着のようにまつわりつきその激しさにわたしの皮膚は見る影もなく変わった。
30:19 わたしは泥の中に投げ込まれ塵芥に等しくなってしまった。
30:20 神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。
30:21 あなたは冷酷になり御手の力をもってわたしに怒りを表される。
30:22 わたしを吹き上げ、風に乗せ風のうなりの中でほんろうなさる。
30:23 わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へすべて命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ。
30:24 人は、嘆き求める者に手を差し伸べ不幸な者を救おうとしないだろうか。
30:25 わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。
30:26 わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。
30:27 わたしの胸は沸き返り静まろうとしない。苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。
30:28 光を見ることなく、嘆きつつ歩き人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。
30:29 山犬の兄弟となり駝鳥の仲間となったかのように
30:30 わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち骨は熱に焼けただれている。
30:31 喪の調べをわたしの竪琴は奏で悲しみの歌をわたしの笛は歌う。

ヨブの悩みはますます深まり、ついには、かつて自分が周囲の人たちをさげすんでいた事実まで自ら掘り返してしまう始末である。
ヨブのことをあざ笑う者たちの父親たちを、羊の番犬と比べることすら忌まわしいと思っていたとは衝撃的な発言であるが、これがヨブの隠されていた本心でもある。
人生の成功者として、そうではない者たちを見下し、さげすんでいたとまではいかなくても、自分とは違う者たち、と言った風に侮蔑していたのである。
しかし、ヨブはまだこの時点では、自分の発したこの言葉の中に自分のうちに非があるとは気づいていない感じである。
ただただ、なぜ神は正しく生きてきた自分を苦しめ、彼らのような者たちを祝されるのか、そのような思いでしか物事が見えていないのである。
ヨブのそれは、完全に自己中心の祈りとなってしまっている。

苦しみの中を通る時、人は神に出会うことが多いかもしれない。
しかしそれは、苦しみの中で神にしか助けを求めることができないから、というのもあるかもしれないが、苦しみの中にある時に人はその本性が現れてくるからなのかもしれない。
そして、その本性とは、恐ろしいほどに自己中心的な罪にまみれた滅びゆく者の姿に他ならない。
苦しみの中で、良き心が出てこようはずはない。
かえって、忌まわしい心があぶりだされていくだけであろう。
しかし、それは、苦しみがそうさせているのではなく、もともと自分の内にあった罪の本質が見えているだけなのである。
そのことに気づかされた時、人は自分の愚かさ醜さにうちのめされ、はじめて本当の意味で神に救いを求めていくのではないだろうか。
ヨブの悩みはまだまだ続いていく。

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ヨブ 29:1 ヨブは言葉をついで主張した。
29:2 どうか、過ぎた年月を返してくれ神に守られていたあの日々を。
29:3 あのころ、神はわたしの頭上に灯を輝かせその光に導かれてわたしは暗黒の中を歩いた。
29:4 神との親しい交わりがわたしの家にありわたしは繁栄の日々を送っていた。
29:5 あのころ、全能者はわたしと共におられわたしの子らはわたしの周りにいた。
29:6 乳脂はそれで足を洗えるほど豊かでわたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た。
29:7 わたしが町の門に出て広場で座に着こうとすると
29:8 若者らはわたしを見て静まり老人らも立ち上がって敬意を表した。
29:9 おもだった人々も話すのをやめ口に手を当てた。
29:10 指導者らも声をひそめ舌を上顎に付けた。
29:11 わたしのことを聞いた耳は皆、祝福しわたしを見た目は皆、賞賛してくれた。
29:12 わたしが身寄りのない子らを助け助けを求める貧しい人々を守ったからだ。
29:13 死にゆく人さえわたしを祝福しやもめの心をもわたしは生き返らせた。
29:14 わたしは正義を衣としてまとい公平はわたしの上着、また冠となった。
29:15 わたしは見えない人の目となり歩けない人の足となった。
29:16 貧しい人々の父となりわたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。
29:17 不正を行う者の牙を砕きその歯にかかった人々を奪い返した。
29:18 わたしはこう思っていた「わたしは家族に囲まれて死ぬ。人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう。
29:19 わたしは水際に根を張る木枝には夜露を宿すだろう。
29:20 わたしの誉れは常に新しくわたしの弓はわたしの手にあって若返る。」
29:21 人々は黙して待ち望みわたしの勧めに耳を傾けた。
29:22 わたしが語れば言い返す者はなくわたしの言葉は彼らを潤した。
29:23 雨を待つように春の雨に向かって口を開くように彼らはわたしを待ち望んだ。
29:24 彼らが確信を失っているときわたしは彼らに笑顔を向けた。彼らはわたしの顔の光を曇らせることはしなかった。
29:25 わたしは嘆く人を慰め彼らのために道を示してやり首長の座を占め軍勢の中の王のような人物であった。

ヨブは、かつて主福されていた日々を返してくれと神に求めている。
それは、かつての暮らしが彼にとっても最高のものであったからであろうし、今回のようなことがなければ、もっと幸いな人生になっていたのであろうと考えていたことであろう。
ヨブだけに限らないが、人はみな、人生は成長していくものと考えている。
努力や忍耐を積み重ね、昨日よりも今日、今日よりも明日がさらに良くなっていくと考える。
しかし、そんな保証はどこにもないし、昨日より今日、今日より明日のほうがもっと酷い状態になっていくことも、当然起こりうる。
人はかってに成長していくことしかありえないという幻想に囚われている。
子どもの頃は、大人になるまでに心も体も成長していったことで、そういう考え方が普通になってしまっているのかもしれない。
けれども、人はいつからか、成長はとまり、あとは衰えていくばかりとなる。
なかなかそれを受け入れられないし、あってはならないと考える人もいるのだろう。
人は誰も、成長もするが、衰えもする。
うまく行く時もあれば、うまくいかない時もある。

コヘ 3:1 何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時 保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時 黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。
3:9 人が労苦してみたところで何になろう。
3:10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
3:12 わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
3:13 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。
3:14 わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。

良い時ばかりが人生ではないし、悪い時ばかりでもない。
どんなことが起ころうとも、我々にできることは、いかに人生を喜び、神をほめたたえることができるか、そこにつきるのではないだろうか。

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ヨブ 28:1 銀は銀山に産し金は金山で精錬する。
28:2 鉄は砂から採り出し銅は岩を溶かして得る。
28:3 人は暗黒の果てまでも行き死の闇の奥底をも究めて鉱石を捜す。
28:4 地上からはるか深く坑道を掘り行き交う人に忘れられ地下深く身をつり下げて揺れている。
28:5 食物を産み出す大地も下は火のように沸き返っている。
28:6 鉱石にはサファイアも混じり金の粒も含まれている。
28:7 猛禽もその道を知らず禿鷹の目すら、それを見つけることはできない。
28:8 獅子もそこを通らずあの誇り高い獣もそこを踏んだことはない。
28:9 だが人は、硬い岩にまで手を伸ばし山を基から掘り返す。
28:10 岩を切り裂いて進み価値あるものを見落とすことはない。
28:11 川の源をせき止め水に隠れていたものも光のもとに出す。
28:12 では、知恵はどこに見いだされるのか分別はどこにあるのか。
28:13 人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない。
28:14 深い淵は言う「わたしの中にはない。」海も言う「わたしのところにもない。」
28:15 知恵は純金によっても買えず銀幾らと価を定めることもできない。
28:16 オフィルの金も美しい縞めのうもサファイアも、これに並ぶことはできない。
28:17 金も宝玉も知恵に比べられず純金の器すらこれに値しない。
28:18 さんごや水晶は言うに及ばず真珠よりも知恵は得がたい。
28:19 クシュのトパーズも比べられず混じりない金もこれに並ぶことはできない。
28:20 では、知恵はどこから来るのか分別はどこにあるのか。
28:21 すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。
28:22 滅びの国や死は言う「それについて耳にしたことはある。」
28:23 その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。
28:24 神は地の果てまで見渡し天の下、すべてのものを見ておられる。
28:25 風を測って送り出し水を量って与え
28:26 雨にはその降る時を定め稲妻にはその道を備えられる。
28:27 神は知恵を見、それを計りそれを確かめ、吟味し
28:28 そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵悪を遠ざけること、それが分別。」

かつて、石見銀山遺跡を訪ねたことがある。
山の中に深い坑道を掘り、ひとかけらほどの銀の鉱脈を探して人力で掘り進めていく。
もちろん、現代のように電気も動力もない時代、全ては人の手によって掘り進められていった。
どれほどの時間と労力をかけて、ほんのわずかな銀を掘り当てて行ったことかと感嘆したものである。
そして、神の知恵と分別を知ることは、さらに困難であるとヨブは語る。
もちろんそれは、ヨブの周りの友人たちに対して責める言葉であろう。
けれども、ヨブ自身もまた、神を見失い、神の知恵と分別を測りすることの困難を覚えているのであろう。
神の知恵と分別は、「神の」ものである以上、人間のそれとは異なる。
人間にはどう逆立ちしても、測り知ることのできないものである。
しかし、主なる神は、その知恵を、人を救うために用いられる。

1コリント 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

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ヨブ 27:1 ヨブは更に言葉をついで主張した。
27:2 わたしの権利を取り上げる神にかけてわたしの魂を苦しめる全能者にかけてわたしは誓う。
27:3 神の息吹がまだわたしの鼻にありわたしの息がまだ残っているかぎり
27:4 この唇は決して不正を語らずこの舌は決して欺きを言わない、と。
27:5 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。
27:6 わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。
27:7 わたしに敵対する者こそ罪に定められわたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ。
27:8 神に命を断たれ、魂を取り上げられるのだから神を無視する者にどんな望みがあろうか。
27:9 災いが彼に臨むときその叫びを神は聞いてくださるだろうか。
27:10 全能者によって喜びを得常に神を呼び求めることができるだろうか。
27:11 わたしがあなたたちに神の手の業を示し全能者について隠さずに語ろう。
27:12 あなたたち自身、それを仰いだのになぜ、空しいことを繰り返すのか。
27:13 神に逆らう者が神から受ける分暴虐な者が全能者から与えられる嗣業は次のとおり。
27:14 たとえ多くの息子があっても、剣にかかり子孫は食べ物にも事欠く。
27:15 残った者が死んで葬られてもやもめたちは泣くことすらしない。
27:16 土を盛るように銀を積み粘土を備えるように衣服を備えても
27:17 その備えた衣服は正しい人が着その銀は潔白な人の所有となる。
27:18 家を建てても、しみの巣のよう番人の作る仮小屋のようなものだ。
27:19 寝るときには豊かであっても、それが最後目を開けば、もう何ひとつない。
27:20 破滅が洪水のように彼を襲いつむじ風が夜の間にさらう。
27:21 東風に運び去られて、彼は消えうせその住まいから吹き払われる。
27:22 神は彼に襲いかかり、許さない。御手から逃れようと彼はあがく。
27:23 神は彼に向かって手をたたきその住まいから彼を吹き飛ばす。

ヨブはついに開き直りにも似た心境となり、友人たちを含め、自分以外の者に対する非難の言葉を繰り出していく。
それは、まるで自分が神の代理人でもあるかのように義を語り、神に逆らう者たちへの裁きを宣言するかのようである。
しかし、聖書は次のように語っている。

ローマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

ここには、全ての人間が罪人であると語られている。

しかし、ヨブにとっては、これらの言葉は、神を知らない者だけに当てはまるものと考えて、自分はそうではないと考えていたのであろう。

詩篇 14:1 神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
14:4 悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい主を呼び求めることをしない者よ。
14:5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
14:6 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても主は必ず、避けどころとなってくださる。
14:7 どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるときヤコブは喜び躍りイスラエルは喜び祝うであろう。

周りは全て罪人、自分だけが神を信じる義人、そういう考え方は危険である。
自分の罪が全く見えていない。
ヨブも、自分で言葉を述べながら、自分のうちにある罪のゆえに責められ、矛盾を感じながら苦しんでいたことであろう。
正しいものは一人もいない、という中に、自分自身も含まれていることを知る時、はじめて、神の救いの素晴らしさと必要性が見えてくるのだろう。

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ヨブ 25:1 シュア人ビルダドは答えた。
25:2 恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ天の最も高いところに平和を打ち立てられる。
25:3 まことにその軍勢は数限りなくその光はすべての人の上に昇る。
25:4 どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
25:5 月すらも神の前では輝かず星も神の目には清らかではない。
25:6 まして人間は蛆虫人の子は虫けらにすぎない。
26:1 ヨブは答えた。
26:2 あなた自身はどんな助けを力のない者に与えどんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
26:3 どんな忠告を知恵のない者に与えどんな策を多くの人に授けたというのか。
26:4 誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。
26:5 亡者たち、陰府の淵に住む者たちは水の底でのたうち回る。
26:6 陰府も神の前ではあらわであり滅びの国も覆われてはいない。
26:7 神は聖なる山を茫漠としたさかいに横たわらせ大地を空虚の上につるされた。
26:8 密雲の中に水を蓄えられても雲の底は裂けない。
26:9 神は御自分の雲を広げて玉座を覆い隠される。
26:10 原始の海の面に円を描いて光と暗黒との境とされる。
26:11 天の柱は揺らぎその叱咤に動転する。
26:12 神は御力をもって海を制し英知をもってラハブを打たれた。
26:13 風をもって天をぬぐい御手は逃げる大蛇を刺し貫いた。
26:14 だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。

ビルダドは、ついに言葉を失っていく。
ここでの言葉は、わずか5節ほどとなり、もはや、あきらめの境地となっていたのかもしれない。
言っても無駄、どうせ聞き入れてくれないだろう、そんな思いが、彼の語る気持ちまでそいでしまったのかもしれない。
そんなビルダドに対し、もはやヨブは勝ち誇ったかのように言葉を返していくのである。
そこには、形の上では対話がなされているようでも、実際には断絶している状態とも言えるだろう。
言葉が交わされても、心が通わない状態ほど空しい関係はない。
ビルダドもヨブも、そのような関係にあることを察しているし、この先は、もはやヨブのつぶやきの独壇場となっていくのである。

「言葉を失う」という時、そこには深い断絶が生じているのであろう。

もちろん、それは、イザヤ59章にもあるように、人間の側に問題があって隔ての壁を作り上げているのであるが。

神はそれを打ち砕かれる。

エフェソ 2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

聖書の言葉は、神と人との間の断絶を埋めるように、ほんのわずかの言葉で静かに私たちに語りかけている。
あなたの罪のためにキリストは死なれ、あなたは赦されました、と。


使徒26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。
26:29 パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(新改訳)


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ヨブ 24:1 なぜ、全能者のもとにはさまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が神の日を見ることができないのか。
24:2 人は地境を移し家畜の群れを奪って自分のものとし
24:3 みなしごのろばを連れ去りやもめの牛を質草に取る。
24:4 乏しい人々は道から押しのけられこの地の貧しい人々は身を隠す。
24:5 彼らは野ろばのように荒れ野に出て労し、食べ物を求め荒れ地で子に食べさせるパンを捜す。
24:6 自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ悪人のぶどう畑で残った房を集める。
24:7 着る物もなく裸で夜を過ごし寒さを防ぐための覆いもない。
24:8 山で激しい雨にぬれても身を避ける所もなく、岩にすがる。
24:9 父のない子は母の胸から引き離され貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
24:10 彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き麦束を運びながらも自分は飢え
24:11 並び立つオリーブの間で油を搾り搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。
24:12 町では、死にゆく人々が呻き刺し貫かれた人々があえいでいるが神はその惨状に心を留めてくださらない。
24:13 光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず光の射すところにとどまろうとしない。
24:14 人殺しは夜明け前に起き貧しい者、乏しい者を殺し夜になれば盗みを働く。
24:15 姦淫する者の目は、夕暮れを待ちだれにも見られないように、と言って顔を覆う。
24:16 暗黒に紛れて家々に忍び入り日中は閉じこもって、光を避ける。
24:17 このような者には、朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。
24:18 「大水に遭えば彼はたちまち消え去る。この地で彼の嗣業は呪われそのぶどう畑に向かう者もいなくなる。
24:19 暑さと乾燥が雪解け水をも消し去るように陰府は罪人を消し去るだろう。
24:20 母の胎も彼を忘れ蛆が彼を好んで食い彼を思い出す者もなくなる不正な行いは木のように折れ砕ける。
24:21 彼は不妊の女を不幸に落としやもめに幸福を与えることはなかった。
24:22 権力者が力を振るい、成功したとしてもその人生は確かではない。
24:23 安穏に生かされているようでもその歩む道に目を注いでおられる方がある。
24:24 だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され麦の穂のように刈り取られるのだ。」
24:25 だが、そうなってはいないのだから誰が、わたしをうそつきと呼びわたしの言葉をむなしいものと断じることができようか。

ヨブは、自分自身の身の上に起こった不条理とも思える苦しみの中で、この世界で行われている様々な不条理や、貧しい者たちが虐げられ、富んでいる者たちに搾取されているような現実に対し、怒りにも似た言葉を述べ連ねている。
もちろんこの時点でのヨブは、単なる批判の言葉を繰り出しているだけではあるが、こうした経験を経ながら、彼は、貧しい者たちや虐げられている者たちの現状に目を留め、彼らの苦しみを理解するようになっていったのであろう。
おおよそ、何もかもが祝福され、幸いな日々を送っていた頃には、知りうることも、感じることもなかったことなのだろう。
上手くいっている時、人は、そうではない人たちをみて、貧しい人たちは努力しなかったらそうなったのだろう、といった風に捉えがちである。
けれど、最初からみなが同じスタート地点に立ち、同じ条件で生きているのではない。
最近では格差の連鎖といった問題もクローズアップされることも多くなったが、生まれた時から、貧しく虐げられた人生を歩むことを強いられる人たちも大勢いるのも事実であろう。
人間の世の中には欺瞞や不条理がいっぱいである。
それを覆していくことは難しいことかもしれないが、貧しい人たちや虐げられている人たちの思いを理解していくことは大事であろう。
ヨブは、自分の身の上に災いが降りかかってきて初めてその気持ちを理解することになったのかもしれない。
ここでのヨブの心境は、まだ、苦難の真っ只中にあるため、そのような心の余裕はないが、こういった経験を経て、ヨブは練られ、変えられていっているのだろう。

ローマ5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

ヨブのつぶやきの中に、苦難と練達、そして、救いへの希望へと向かおうとする練達が垣間見えるのではないだろうか。

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