デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ 9:49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
9:50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

私たちは、ともすると物事をあまりにも単純に考えようとしているのかもしれない。
あれは悪、これは聖といった感じ、つまり、二元論的に捉えようとする。
けれど、この世界で起きている事柄は、もっといろいろと入り組んでいて、複雑なのだろう。
自分自身の心ですら一筋縄ではいかないのだから、ましてや他人のことをとやかく言えるはずもないし、どうすることもできないのだろう。
ただ、神は違う。神様には力があり、我々にはできないこと、不可能と思われることもなしうる力をお持ちである。
そして、私たちの目には、様々な要素が複雑に絡み合っている中で、時折、神様の御業を目の当たりにし、驚くのであろう。
どこで神様の御業が働いているのか、しっかりと心の目を開いて、見逃さないようにしたい。
そして、願わくは、私たちの周りでも神様が働いて下さることを信じつつ、信仰の目をもって、すべてを見届けていきたいものである。

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ルカ 10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

悪霊はイエス様には絶対に勝てない。
我々はそれを知っているから、必要以上に恐れる必要はない。
仮にこの国がほとんどの領域で悪魔の勢力が強いとしても、イエス様はそれに打ち勝つお方である。
少なくとも、私たちはそれを知っているし、そのことを忘れずに、主イエス様の恵みの支配が広がっていくことを願いつつ、まずは己の名が天に記されている喜びを携えて生きていこう。

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ルカ 9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

ここでイエス様が語られていることは、子供が一番偉いということではなく、子供を受け入れる者が一番偉い、ということである。
つまり、謙遜さや慈しみの心を持つことが大切だということであろう。

昨日、ある方と子育てのことに関して話す機会があった。
子供が小さい頃は、それこそ育てることに必死だったし、何もかも親が決め、準備し、指示していたが、思春期を迎え、やがて自立していくであろう子供らに対し、今までのように考えていたのでは衝突もするし、自立させることを先延ばししていくだけなのかもしれない。
大きくなった子供たちの考えを受け入れ、尊重し、支持していく、そんな風に変わっていかなければならないだろう。
本当は、小さな子供でも、彼らの思いを尊重してやることは大切なこと。
一人の人格を持った人として、受け入れ、尊重し、そして支持していく、そんな大人でありたいものである。

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ルカ 9:43 イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
9:44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

多くの病人を癒されたり、悪霊を追い出したり、様々な神の御業をなさったイエス様が、この後、人々の手に引き渡されようなどとは、おおよそ弟子たちには想像できなかったことであろう。
はたして、イエス様は予告された通り、捕らえられ、そして、十字架において殺されてしまうのである。
しかし、イエス様は、そのために人として世に来られた。
イエス様の人としてのご生涯は、十字架の死に極まる。
このことが理解された時、人は、本当の救いを得ることができる。
だから、イエス様を見上げよう。
いつでも十字架のイエス様を思い起こそう。

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9:37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
9:38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
9:40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
9:42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。

弟子たちの力では悪霊を追い出せなかったことについて、イエス様は「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と嘆いておられる。
それは、イエス様が地上で人としての生涯をおくられたことについて述べられているのであろう。
イエス様も私たち人間と同じように我慢や忍耐を強いられたのであろう。
だから、十字架にかけられ、復活し、天に昇られるまでは、辛く厳しい日々を送られていたに違いない。
しかし、イエス様はこの地上での人としての歩みを全うされ、天に昇り、今や神の右の座についておられる。
そして、イエス様にできないことはない。
私たちはそう信じたいし、そう信じる。
イエス様は完全な勝利者である。
そのことを覚え、信じ、神をほめたたえつつ、歩んでいきたいものである。

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ルカ 9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

親戚に食パンミックスなるものを頂いていたので、今朝、久しぶりにホームベーカリーで焼いたパンを食べた。
東京自由が丘のお店のものとうたわれているが、普通にスーパーでも売っているものらしく、近所のスーパーにもたくさん置いてあったそうな。
ちなみに、今我々が住んでいるところは、比較的大きなスーパーが近くにあり、いつでも歩いて買い物に行くことができて、とても便利である。
新幹線が停車する駅や、高速道路のインターも近く、なかなか便利なところである。
かつては周囲に何もなく、スーパーへ買い物に行くにも車で出かけなければならないようなところに暮らしていたことを思うと、今の便利さは異常なほどでもある。
そんな便利な生活にすっかり慣れた今、今朝の日課に記されているような事柄が、どれだけ身近なこととして受け止めることができるだろうかと思いあぐねる。
かつてはまだ同感できる部分もあったが、便利な生活にすっかり慣れてしまった今、他人事、昔話としてしか聞こえてこない。
きっと、現代の多くの人々が聖書を読む時に、そんな風に感じてしまうのではないだろうか。
便利さの背後には、必ず多くの人が働いて、物資を運び、陳列し、販売し、そういったことが常に行われているからであって、そういったことが滞れば、どんな便利な町に暮らしていたからと言って、寂しい町に暮らす人々と同じ問題に気が付くはずである。
かつて震災に見舞われた時、いっせいにコンビニの商品が消え去った時、そのことを感じた。
今、私たちが見ているものは、幻想とまでは言わないまでも、いつなんどき、もろく崩れ去るかもしれない世界である。
そんな中に生きる者として、永遠の命を約束される主イエス・キリストの御声に耳を傾けながら、何が真実で、何が永遠であるか、見極めながら歩んでいきたいものである。


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ルカ 9:7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、
9:8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。
9:9 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

ヘロデは、自分が殺したヨハネが生き返ったのではないかと噂されているイエス様に会ってみたいと考えていた。
もしそうなら、どんな姿なのか、怖いものみたさのような気持ちもあったかもしれないし、あるいは、何度生まれ変わろうと、もう一度捕らえて殺してしまおうと考えたのかもしれない。
ヘロデの言動には、そんな不気味さが漂っているように見える。
彼は、イエス様もヨハネも恐れてはいなかった。
それほどの権力を持ち、当時のユダヤ社会を支配していたということであろう。
人は権力を握ると、恐れることを忘れてしまう。
恐れを忘れると、傲慢になり、正しい行動をとることが難しくなる。
そうならないためには、どんな立場になっても、謙遜でいられるよう、己の罪深さを認識することが大切であろう。
今日も聖書のみ言葉の前に、すべての人は罪人であるとのみ言葉にひざまづき、恐れと信頼をもって主に救っていただいた者であることを思い起こしたいものである。


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ルカ 9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。

イエス様は、弟子たちを宣教へと遣わしていかれた。
しかも、必要最低限の物資さえも持たず、出かけたところから支援を受けて、さらに次のところへ遣わされていくようにという方法を勧めている。
弟子たちにとっては、非常に過酷な使命ではあるが、イエス様はこのような方法で弟子たちを用いようとされたのである。
イエス様一人でもできることにはできると思うのだが、なぜイエス様自身でなさらず、弟子たちを用いるのか。
そこには、弟子たちにも神の国の働きの携わる幸いを味わわせたいからではないだろうか。
決して楽な仕事ではない。
けれども、救われる人が起こされた時の喜びは非常に大きい。
イエス様は、そんな喜びを私たちにも味わわせたいのではないだろうか。


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マタイ 9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

イエス様は徴税人や罪人たちを大勢招き、彼らの中には、十二弟子のひとりとなったマタイもいた。
マタイがかつてどんなことをしていて、どんな人物であったか、そんなことはイエス様には関係ない。
わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない、つまり、どれだけの仕事ができるかとか、どれだけ捧げたとかではなく、どれだけ心が向けられたか、どれだけ憐れんでもらったかが重要であるということであり、救いが人の業によるのではなく、ただただ神の一方的な憐みと選びによるのであることを示していると言えよう。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

イエス様のこの言葉に、罪深い自分を思いつつも、慰められるのである、

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ルカ 8:40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。
8:41 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
8:42 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
8:43 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
8:44 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
8:45 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。
8:46 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
8:47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」
8:50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
8:51 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
8:52 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
8:54 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。
8:55 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。
8:56 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

二人の女性の癒しと救いの出来事について語られている。
一人は、十二年もの間、出血が止まらず、医者に全財産を使い果たした女性で、それこそ、決死の覚悟でイエス様に触れようとしたのであろう。
自分のようなものがイエス様に触れると、イエス様を汚すのではないかといった恐れや、それでも癒されたいと願う必死な思いで、彼女はイエス様に触れたのであろう。
イエス様の方では、ご自分から力が出て行ったことを知り、それが誰であるか突き止めようとしておられる。
あるいは、このことは、彼女自身の申し出を促すためであったのだろう。
彼女は勇気をもって、自分が振れたことを申し出るのであるが、その行動をイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と褒められたのである。
信仰を表明することは勇気のいることである。
けれど、もし信仰を表明しなかったら、救いは成り立たない。
仮に癒しが行われても、それ以上にははならない。
癒しよりも大切なこと、それが救いである。
一方、ヤイロの娘は、彼女自身の信仰によるのではなく、彼らを取り巻く人々の信仰が彼女を救っている。
それもまた不思議なことではあるが、イエス様は彼女を救われたのは事実である。
あるいは、その娘も、元気な時は神を信じ、信仰をもって生活を送っていたのかもしれないし、息を引き取る直前まで神に助けを求めていたのかもしれない。
大切なことは、イエス様を信じ、そして頼るかどうか、信じて頼るなら、信仰の告白も行動も伴うものであろう。
神を信じているけれども、洗礼は受けないとか、教会へは行かないとかいうのは、それはイエス様の語られた約束に最後まで信頼していることにはならないと思う。
イエス様は信じて洗礼を受ける者は救われると仰せられるし、人々に罪の赦しの約束を告げ、洗礼を授け、福音を宣べ伝えるように、教会を召されている。
それは聖書に語られている神の勧めである。
聖書に語られているすべてのみ言葉に聞き従い、歩んでいくものでありたいものである。

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