聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ書 32:9 憂いなき女たちよ、起きて、わが声を聞け。安んじている娘たちよ わが言葉に耳を傾けよ。
32:10 安んじている女たちよ 一年余りの時を経て お前たちは慌てふためく。ぶどうの収穫が無に帰し 取り入れの時が来ないからだ。
32:11 憂いなき女たちはおののく 安んじている女たちは慌てふためく。衣を脱ぎ、裸になって 腰に粗布をまとえ。
32:12 ぶどう畑のために、胸を打って嘆け 美しい畑、実り豊かであったぶどうの木のために
32:13 茨といらくさに覆われたわが民の畑のために 喜びの家、陽気な町のために。
32:14 宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ 見張りの塔のある砦の丘は とこしえに裸の山となり 野ろばが喜び 家畜の群れが草をはむ所となる。
32:15 ついに、我々の上に 霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり 園は森と見なされる。
32:16 そのとき、荒れ野に公平が宿り 園に正義が住まう。
32:17 正義が造り出すものは平和であり 正義が生み出すものは とこしえに安らかな信頼である。
32:18 わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう。
32:19 しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。
32:20 すべての水のほとりに種を蒔き 牛やろばを自由に放つあなたたちは なんと幸いなことか。

詩篇 80:1  指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。
80:2 イスラエルを養う方 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ 御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください
80:3 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい わたしたちを救うために来てください。
80:4 神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:5 万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。
80:6 あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ なお、三倍の涙を飲ませられます。
80:7 わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ 敵はそれを嘲笑います。
80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。
80:17 それを切り、火に焼く者らは 御前に咎めを受けて滅ぼされますように。
80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり 御自分のために強められた 人の子の上にありますように。
80:19 わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。
80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。

ヤコブ 3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。


桃栗三年柿八年、といった言葉があるが、他の果物はどうだろうと思い調べてみたが、ぶどうに関するものはなかなか見つからなかった。

桃栗三年柿八年 柚子の大馬鹿十八年
桃栗三年柿八年 梨の馬鹿目が十八年
桃栗三年柿八年 梅は酸い酸い十三年 梨はゆるゆる十五年 柚子の大馬鹿十八年 みかんのマヌケは二十年

などである。
ちなみに、これらの言葉は、単に果物が実を結ぶまでに時間がかかることを言っているだけではなく、人が成熟していくにも相当な年数がかかるものであり、大馬鹿な者ほど長い年月を必要とする、ということであろう。
面白いものでは、次のようなものもあった。

桃栗三年柿八年 女房の不作は六十年 亭主の不作はこれまた一生

このあたりになると、もはや果物のことを言っているのではないことは明白である。
女房が女房として認められるまでに六十年もかかるというこであろうし、亭主に至っては一生かかる、つまりそれは、生きている間は成熟して実を結ぶことは無いといったことの皮肉として言われているのであろう。
人は愚かな者であり、罪深い者である。
知恵ある者と思ってみても、知らなければならないことのほとんどのことを分かっていないし、有能でも有益なものでも、何ものでもない。
それでも神は、私たちに豊かな実りを約束されている。
救いの約束、そして、永遠の命を無償で与えて下さるのである。
そのために必要なことは、全て神が成し遂げて下さった。
ぶどうが実を実らせるために必要な全てを、である。

1ヨハネ 4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

桃栗三年柿八年
自分の力では永遠に無理でも、主イエス様を信じれば永遠の実り


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イザヤ書 5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。
5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
5:3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
5:4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
5:5 さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
5:6 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
5:7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)。

詩篇 80:1  指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。
80:2 イスラエルを養う方 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ 御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください
80:3 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい わたしたちを救うために来てください。
80:4 神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:5 万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。
80:6 あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ なお、三倍の涙を飲ませられます。
80:7 わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ 敵はそれを嘲笑います。
80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。
80:17 それを切り、火に焼く者らは 御前に咎めを受けて滅ぼされますように。
80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり 御自分のために強められた 人の子の上にありますように。
80:19 わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。
80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。

ガラテヤ 5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。


本通りと呼ばれる商店街を歩いてみる。
どこの町でも似たような光景が拡がっているのかもしれないが、俗にいうシャッター街というやつである。営業しているのか、閉店してしまっているのかよく分からないお店もあるし、シャッターが閉まったまま、完全に無人化しているような建物も見受けられる。
よく見ると、アーケードの柱が一部朽ちていて、ボロボロと崩れそうになっているところもあり、大丈夫かな?と心配してしまう。
シャッター街もそうだが、少し町を外れると、かつては田んぼや畑であったであろうと思われる空き地が、草ぼうぼうの状態で放置されていたりするのを見ると、本当にこの国はこの先どうなっていくのだろうと不安に思う事もある。
家も畑も、適切に管理されていれば、そこまで酷い状態になることはないと思うし、なんとかならないものかと思う。
ところで、それらを管理するべき人はどうだろう。
そもそも、人の心が荒れ果ててしまっているから、家や畑の管理などもおろそかになってしまうのではないだろうか。
では一体どうするのが良いか。
なかなか良いアイデアは思いつかない。
しかし、荒れ果てた人の心を養うことのできるものがある。
それは神の愛である。
人が神の無限の愛で愛されていることを知った時、枯れ果て、荒れ果てていた心も癒され、潤されていく。

イザヤ58:11 主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
58:12 人々はあなたの古い廃虚を築き直し あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び 「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。

主なる神様は、私たちのために尊い命を捨ててまで、愛しぬいて下さった。
この愛によって愛されていることをしった時、人は癒され、潤され、朽ち果てていたものが立て直されていくごとく、新たな命に生まれ変わらせて頂けるのである。


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アモス書 9:7 イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちは クシュの人々と変わりがないではないかと 主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から ペリシテ人をカフトルから アラム人をキルから、導き上ったではないか。
9:8 見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け これを地の面から絶たれる。ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしないと 主は言われる。
9:9 見よ、わたしは命令を下し イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。ふるいにかけても 小石ひとつ地に落ちないように。
9:10 わが民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。彼らは、災いは我々に及ばず 近づくこともない、と言っている。
9:11 その日には わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し その破れを修復し、廃虚を復興して 昔の日のように建て直す。
9:12 こうして、エドムの生き残りの者と わが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
9:13 見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ すべての丘は溶けて流れる。
9:14 わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる。
9:15 わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないと あなたの神なる主は言われる。

詩篇 22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。

マルコ 4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」


少子高齢化による人口減少社会では、これまでのような右肩上がりの発想をしていては、何もかも上手くいかなくなっていくのは当然のことであろう。
成長することだけが正義のように考えていても、現実がそうでないのならば、それに見合った考え方や選択をしていかなければならないだろう。
いろいろなことを縮小させていくのか、それとも、可能な限り現状を維持していくことを優先するのか、現実をしっかり見極め、受け入れていく覚悟も必要である。
神の国は土に蒔く時は地上のどんな種よりも小さくても、やがて成長してどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が巣を作れるほど大きな枝をはると語られているが、これは「神の国」のことについてであることを覚えなければならない。
この世の国についての約束ではない。
むしろ、地上においては、神の国に属するものは、からし種ほどの小さなものでしかないというのが現実である。
しかし、見た目には小さな小さなからし種であっても、神の目には、そこに大きな枝を張り巡らせた巨木が立っているようなものと言うことであろう。
誰の目にもとまらない小さな働きで構わない。
大切なことは、そこに神の国の一端が現わされているかどうか。
大きな事、目立つこと、人から賞賛されるようなことでなくても、何も問題はない。
忠実に、主なる神様が私に示して下さったこと、現わして下さってこと、共にいて下さることを信じて、今日も小さな歩みを大切にしよう。


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アモス書 8:11 見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
8:12 人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない。
8:13 その日には、美しいおとめも力強い若者も 渇きのために気を失う。

詩篇 22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。

使徒 8:9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
8:10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
8:11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
8:12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
8:13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
8:14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
8:15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
8:16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
8:17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 シモンは、使徒たちが手を置くことで、"霊"が与えられるのを見、金を持って来て、
8:19 言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
8:20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。
8:21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。
8:22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。
8:23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
8:24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
8:25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。



食べ物や飲み物が不足し、飢え渇く状況とは、非常に過酷で悲惨なことであり、生死に関わる重大な問題と言えよう。
しかし、それよりも魂の飢え渇いている状態のほうがもっと深刻である。
多くの人はそれに気づかず、魂にまことの命と平安を与える神の救いの約束の言葉を無視し、主を信じる者ですら、御言葉に聞く機会を軽んじている。
できれば、たとえわずかずつでも良いから、毎日聖書の御言葉に耳を傾ける習慣を持ってみると、考え方や生き方も少しずつ違ってくる。
何と言うか、神に愛されているということを聞き続けていくうちに、少しずつ心が落ち着いた生活を送れるようになってくるのだ。
それが魂の飢え渇いていない状態、ということなのかもしれない。
できれば、もっともっと聖書の御言葉に積極的に耳を傾け、神様が約束されている救いの約束にしっかりと信頼し、揺るぎない平安と喜びを頂いて生きていられるならば、幸いな人生となることだろう。
そうなることを願いつつ、少しずつ、御言葉に触れていく機会を持っていただけるように、私にもできることがあるならば、細々とでも続けていこう。


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アモス書 6:1 災いだ、シオンに安住し サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。諸国民の頭である国に君臨し イスラエルの家は彼らに従っている。
6:2 カルネに赴いて、よく見よ。そこから、ハマト・ラバに行き ペリシテ人のガトに下れ。お前たちはこれらの王国にまさっているか。彼らの領土は お前たちの領土より大きいか。
6:3 お前たちは災いの日を遠ざけようとして 不法による支配を引き寄せている。
6:4 お前たちは象牙の寝台に横たわり 長いすに寝そべり 羊の群れから小羊を取り 牛舎から子牛を取って宴を開き
6:5 竪琴の音に合わせて歌に興じ ダビデのように楽器を考え出す。
6:6 大杯でぶどう酒を飲み 最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。
6:7 それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き 寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。

詩篇 22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。

使徒 8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
8:1 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。
8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
8:4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
8:5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
8:7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
8:8 町の人々は大変喜んだ。



皮肉なことであるが、宣教の働きは、クリスチャンに対する迫害が拡がるのにつれて、世界の各地に拡がっていった。
もちろん、福音を宣べ伝えていた人たちは、家や町を追われた人たちであったのであろうから、普通に生活することすら困難な中にありつつも、福音を宣べ伝えていったということであろう。
そもそも彼らが宣べ伝えていった福音とはなにか。
福音とは喜びの知らせという意味であるが、彼らのおかれていた状況は、決して喜ばしい環境とは程遠いものであったに違いない。
それでも彼らには大きな喜びがあった。
この世のどんな満たされた生活や楽しい催し事などなくても、彼らにはイエス・キリストによる救いの約束の言葉があり、それこそが最高の喜びであったし、それさえあれば十分であった、ということなのであろう。
彼らはキリストによる救いの約束の言葉を宣べ伝えた。
そして、そこには大きな喜びがあり、福音を聞いた人々のうちにも大きな喜びがもたらされたことであろう。
喜びとは何だろう。
モノに満ちあふれていなくても、楽しいイベントなど無くても、神が私を愛し、イエス様が命をかけて救って下さったことを知る福音の言葉を聞く人生は幸いである。


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ミカ書 7:8 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光。
7:9 わたしは主に罪を犯したので 主の怒りを負わねばならない ついに、主がわたしの訴えを取り上げ わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ わたしは主の恵みの御業を見る。
7:10 「お前の神、主はどこにいるのか」と わたしに言っていた敵は このことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。
7:11 あなたの城壁を再建する日 それは、国境の広げられる日だ。
7:12 その日、人々はあなたのもとに来る アッシリアからエジプトの町々まで エジプトからユーフラテスまで 海から海、山から山まで。
7:13 しかし、大地は荒れ果てる そこに住む者の行いの実によって。
7:14 あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで 草をはむことができるように。
7:15 お前がエジプトの地を出たときのように 彼らに驚くべき業をわたしは示す。
7:16 諸国の民は、どんな力を持っていても それを見て、恥じる。彼らは口に手を当てて黙し 耳は聞く力を失う。
7:17 彼らは蛇のように 地を這うもののように塵をなめ 身を震わせながら砦を出て 我らの神、主の御前におののき あなたを畏れ敬うであろう。
7:18 あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。
7:19 主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
7:20 どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

詩篇 95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

マルコ 14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。


気持ちが折れてしまう事、逃げ出したくなってしまう事など、誰にでもあるだろう。
人はそんなに強くはない。
イエス様が御自分が死なれることを予告された時、弟子たちは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言ったが、イエス様が捕らえられた時には、弟子たちはみな、一目散にイエス様を見捨てて逃げ去ってしまった。
まさにイエス様が「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。」と仰せられた通り、弟子たちもまた散ってしまうのである。
残念ながら、人間とはそういうものである。
いくらイエス様のことを慕い、何があろうと最後まで従い続けるという気持ちを持っていても、いざ自分の身に危険が及ぶと、それまでの言動など無かったかのように自己保身に走るのである。
しかし、打たれたのは弟子たちではなく、イエス様である。
弟子たちは打たれる前に逃げ出してしまったが、イエス様は逃げることなく、まっすぐに御自分が受けられるご受難に向かって歩まれたのである。
イエス様は打たれた。
イエス様だけが私たちのために打たれ、そのおかげで私たちは赦され、救われるのである。
イエス様を置いて逃げ出してしまうような私たちなのに。
しかし主なる神様はそれを見て由しとされる。
イエス様はこんなにも愚かな私たちを命を捨ててまで愛しぬいて下さった。
なんとも申し訳ない気持ちであるけれど、なんと有難く、嬉しいことであろう。
どうせ逃げ出すのなら、せめてこの救いの約束の前に、逃げ込む者でありたい。
イエス様はすぐに逃げ出してしまうような弱いわたしをご存知の上で、命をかけて救って下さったのだから。


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歴代誌上 11:1 すべてのイスラエル人はヘブロンのダビデのもとに集まり、こう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。
11:2 これまで、サウルが王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。あなたの神、主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがわが民イスラエルの指導者となる』と。」
11:3 イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデはヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちは、主がサムエルによって告げられたように、ダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
11:4 ダビデはすべてのイスラエル人と共にエルサレムに向かった。この町はエブスと言われ、エブス人がその地の住民であった。
11:5 エブスの住民はダビデに、「お前はここに入れまい」と言った。しかし、ダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。
11:6 ダビデは、「真っ先にエブス人を撃ち倒した者が頭となり、将軍となる」と言ったが、ツェルヤの子ヨアブが真っ先に攻め上って頭となった。
11:7 ダビデはこの要害に住んだ。それゆえ、それはダビデの町と呼ばれるようになった。
11:8 彼は町の周囲をミロから一周するまで築城して固め、ヨアブは町の他の部分を修復した。
11:9 ダビデは次第に勢力を増し、万軍の主は彼と共におられた。

詩篇 95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

黙示録 7:13 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
7:15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。
7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。
7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」


人はだれも勝ちたい。
勝利者となって、栄誉を自分のものにしたいと願う。
しかし、勝利とはなんだろう。
何に対して勝利するというのだろう。
昨日、図書館で本を読んでいたら「敵は怒りである」といった言葉を目にした。
怒りを向ける相手が敵ではなく、怒っている自分自身が敵なのだと。
私たちはいったい何と戦い、何に勝利すべきなのだろう。
自分のうちにある罪こそ戦うべき相手であり、勝利すべき対象なのではないか。
しかし、それができないから、したくないから、自分の外に敵を定めて攻撃しようとするのではないか。

コロサイ1:21 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
1:22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

罪の奴隷となり、滅びることしかできなかった私たちを、イエス様は自らの命をかけて救って下さった。
罪の奴隷から解放し、永遠の死を打ち破り、まことの命にあずからせるために。
ここに、本当の勝利がある。
私たちの力では成し得なかったけれども、神が与えて下さる恵みのを通して与えられる勝利の約束を、素直に信じて受け取りたいものである。



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サムエル記上 16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

詩篇 95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

1ペテロ 4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
4:17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
4:18 「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。


主なる神様は、イスラエルの初代の王としてサウルをお選びになった。
しかし、サウルは神の御心を損ない、王位から退けられることになる。
そして、サウルに代わって、ダビデが新しいイスラエルの王として立てられることとなる。
ダビデは神の御心に適う者として、良き王として知られているが、実際には多くの罪を犯し、神の御心を損なう事も行っている。
その際、主なる神様からしっかりと裁きも受けている。
神に選ばれた器であるといっても、所詮、彼らも一人の人間であり、私たちと同じように、何度も罪を犯す罪人である。
神が私たちを選んで下さったとはいえ、私たちもまた神の御心を損なう時もあるし、裁きを受けることもあるだろう。

ヤコブ9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

私たちは、神に選ばれた者として、救いの約束を頂いているものである。
しかし、そのために、全ての人が受けなければならない裁きを、イエス様が身代わりとなって十字架で死んで下さったことを覚えなければならない。
簡単に罪赦されたのではない。
しかも、赦された者とはいえ、今日もまた罪を犯してしまうような愚かな者である。
だからこそ、罪を犯してしまうたびに、私の罪の贖いのゆえに十字架で死んで下さったイエス様のことを思い起こしたい。
神に選ばれ、救いの約束を頂いていることは嬉しいなことであるが、そのためにどれほどの大きな犠牲が支払われているのか、本来ならばありえないほどの大きな恵みを頂いているということを覚え、神の救いの約束に対し、大いなる畏れの心をもって、信じて従っていきたいものである。


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創世記 48:8 イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねた。
48:9 ヨセフが父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えると、父は、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」
48:12 ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。
48:13 ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。
48:14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで 導かれた牧者なる神よ。
48:16 わたしをあらゆる苦しみから 贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に 祝福をお与えください。どうか、わたしの名と わたしの先祖アブラハム、イサクの名が 彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に 数多く増え続けますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」

詩篇 23:1  賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

マルコ 6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。


イエス様は、人が多くて食事をする暇もないほど働いていた弟子たちに、人里離れたところへ行って休むように命じている。
イエス様は弟子たちを宣教の働きに遣わしてはいるが、食事を取る暇もないほど働くようにとは望んでおられない。
むしろ、神が与える救いの約束は、様々なしがらみから解放され、永遠の安息にあずかることであるならば、働くことよりも休むことの方が大切であると言っても過言ではない。
働きながらでも食事を取る事はできるかもしれないが、しっかりと休みを取ることはなかなか難しい。
多くの人は、休みの日にも仕事のことを考えていたり、実際に仕事をしてしまう人もいるだろう。
仕事があることは良いことだが、休む暇もなく働き続けることは好ましいことではない。
神が創造の御業において、7日目に安息日を設けられたことは重要なことである。
私たちを安息に与らせるために、安息日は設けられた。
神の救いの御言葉を聞き、自分の業に頼るのではなく、神の恵みに信頼し、安心して生きることができるように、そして、喜んで働くことができるように。
聖日は魂の安息を頂くために、恵みの礼拝にあずかろう。


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創世記 46:28 ヤコブは、ヨセフをゴシェンに連れて来るために、ユダを一足先にヨセフのところへ遣わした。そして一行はゴシェンの地に到着した。
46:29 ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。
46:30 イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」
46:31 ヨセフは、兄弟や父の家族の者たちに言った。「わたしはファラオのところへ報告のため参上し、『カナン地方にいたわたしの兄弟と父の家族の者たちがわたしのところに参りました。
46:32 この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します。
46:33 ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、
46:34 『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。
47:1 ヨセフはファラオのところへ行き、「わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります」と報告した。
47:2 そのときヨセフは、兄弟の中から五人を選んで、ファラオの前に連れて行った。
47:3 ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。「お前たちの仕事は何か。」兄弟たちが、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、
47:4 更に続けてファラオに言った。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」
47:5 ファラオはヨセフに向かって言った。「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来たのだ。
47:6 エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう。もし、一族の中に有能な者がいるなら、わたしの家畜の監督をさせるがよい。」

詩篇 23:1  賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

使徒 4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。


人が生きていくためには、食べるものや住むところなど、衣食住などの全てが満たされる必要がある。
しかも、意外に重要なのは「下」のことで、地震などの災害で一番困るのがトイレであると言われている。
現代では、水洗トイレが主流となっているため、水道が止まってしまうと、とたんにトイレを使用することができなくなってしまい、多くの人が集まる避難所などでは、大きな問題となってしまう。
人が大勢集まるところでは、災害などが発生していなくても、平常時から問題となりやすい。
汚物の処理がままならないとことでは、様々なトラブルが発生しやすく、争いに発展することもあるだろう。
エジプトの人たちが羊飼いを忌み嫌っていたのもわかるような気がする。
古代とはいえ、高度に文明が発達した地域では、汚れたものや臭いものなどの処理も、比較的適切に行われていたのであろうし、衛生的な日常生活に慣れてしまった人には、ちょっとした匂いでも耐えられなくなってしまうものである。
汚物など、臭いからといって忌み嫌うことは仕方がないとしても、人が生きていれば、これらの問題はつきものである。
誰かが処理をしなければならないし、どこかに捨てなければならない問題である。
ところで、人の罪の問題はどうだろう。
罪の問題も、人が生きていれば、切り離して考えることはできない問題である。
人の世の中には、常に罪の問題があるし、汚物などよりも重大な問題であると言えるのではないだろうか。
この罪の処理について、聖書は語る。
神の御子イエス様があなたの罪を引き取って、十字架で処分されたと。
本来なら、まるで汚物にまみれて汚れた生き方を強いられるように、罪にまみれて汚れた人生を歩んでいたはずの私たちを、イエス様がきよめて聖なるものとして生かして下さるのである。
トイレに行くたびにイエス様のことを思い出し、そこで祈るのもよいかもしれない。


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