聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




1コリント 12:31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

どんな優れた能力や賜物を持っていても、愛がなければ無に等しいと語られる。
愛とは、積極的な行動や、能動的な働きというよりも、むしろ、相手を受け入れようとする心を持った受動的なものであり、何もしていないようで、最も尊い働きのあり方なのだろうと思う。
もちろん、やりたい放題、好き勝手にやられることを、全て受容すればいいというわけではないだろうが、相手がなぜそのような行動をするのか、その背後に、どんな思いが込められているのか、少なくとも、相手の気持ちを理解してあげようと努めることは大切なことであろう。
自分の益を追い求めるのではなく、相手も同じ人間であることを覚えつつ、どうやったら本当に喜びと平安に満ちた人生を送ることができるかを考えつつ、時には忍耐しつつ、互いに信頼しあう関係を築いていけたらと願う。
それは、まず、主イエス様が私に対してしてくださったことだから。

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1コリント 12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

教会は、キリストにあって一致するべきである。
この言葉に異論はない。
しかし「一致する」とか「一つ」になるという事は、皆が同じことをする、ということとは違う。
むしろ、それぞれに与えられた賜物を活かし、主のために用い、皆がバラバラに動いているように見えても、同じ思いとなって行動しているなら、そこにキリストにある一致がある、と言えるのではないだろうか。
大切なことは、自分の思いや考え、都合だけを優先するのではなく、他者の思いや考え、都合も考慮して行動していくことであろう。
そのために、話し合いや交わりは大切である。
考え方や行動に多少の違いはあって良いが、なぜそうするのか、きちんと説明し、共感まで至らなくても、互いを尊重し、認め合っていける交わりとなっていくことを願う。
そして、全体として、キリストの御心に沿っているならば、それで良いのだろう。

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1コリント 12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には"霊"によって知恵の言葉、ある人には同じ"霊"によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ"霊"によって信仰、ある人にはこの唯一の"霊"によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の"霊"の働きであって、"霊"は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

12~14節に記されている「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」との表現は、実に見事に三位一体の神様のご性質について表されていると言えよう。
賜物を与えるのは聖霊、全ての人の罪を贖うための務めを果たされた主なるキリスト、そして、天地創造以来、全てのことを創り、支え、働いておられるのは父なる神ご自身である。
そして、その三位一体の神は、一つの賜物、すなわち、同じ恵みをもたらすために働いておられるのであり、私たちを愛し、癒し、慰め、救うために、行動されるお方なのである。
そう考えると、この世界の全てのものも、本来、主なる神様が私たちを癒し、慰めようとして創られ、与えられたものであると言えるし、私たち一人一人を創り、今日も生かして下さっているのは、そのような神の恵みが世にあらわされるためでもあると言えるのだろう。
神は無意味にこの世界に私たちを生かしておられるのではない。
何か特別なことができなかったとしても、少なくとも、神をほめたたえる者として、生かされている喜びを表現する者として、この日を過ごしたいものである。

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1コリント 11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

イエス様が制定されたパンとぶどう酒を頂く聖餐式について、パウロは「ふさわしくないままで」あずかるべきではない、と記している。
これを「洗礼を受けている」とか「信仰告白をしている」といった事柄だけで考えていると、十分ではないように思う。
仮に、イエス様を救い主であると信じて信仰を告白し、洗礼を受けていたとしても、己の罪に対する悔い改めと、そのために主イエス様が死なれたという事実を、パンと食べるたびに、ぶどう酒を飲むたびに思い起こすのでなければ、主の聖餐にあずかる意味はないし、聖餐にあずかるたびに、そのような悔い改めと信頼の心が問われている、ということであろう。
つまり、そのような姿勢で聖餐式に臨んでいるかどうかが、ここで言われている「ふさわしい」か「ふさわしくないか」ということなのであろう。
もちろん、信仰を告白し、洗礼を受けていることは重要であるし、イエス様を自分の救い主として受け入れていることは重要である。
その上で、聖餐にあずかるたびに、イエス様が私のために十字架で死んで下さったのだということを証していく機会として、大切に守っていきたいものである。

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マルコ 1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1:12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

マルコの福音書は、非常に完結な文章が特徴的である。
一説によると、イエス様のすぐそばで、イエス様の働きを目の当たりにしたペテロの証言をマルコが記録したのではないかと言われている。
ペテロはもともとガリラヤの漁師であったし、それほど語学に長けてはいなかったけれども、お金持ちの家の出身のマルコは、様々な教育も受けていたようで、それを活かして、ペテロら使徒たちの手伝いをになっていたのであろうと考えられている。

使徒12:12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
12:13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。

しかし、そのような境遇に育ったゆえに、少々ひ弱いところもあったのだろう。
パウロらが伝道の働きを勧めている時に、途中で投げ出して帰ってしまったことも記されている。

使徒15:37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。
15:38 しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。

しかし、最終的にはパウロにも頼りにされるほどの優れたスタッフとして認められていたことが伺える。

2テモテ 4:9 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。
4:10 デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。
4:11 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。

そんなマルコの働きの実でもあるマルコ福音書。
端的な表現の中に、ペテロの語る言葉を忠実に書き取ろうとしたであろう気真面目さを見ることができる。

マルコ、ペテロ、パウロとバルナバ、そして、イエス様。
当時の人たちの生きた証として、聖書に聞いていく者でありたい。

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1コリント 11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

いろいろな人が集まるところには、様々な境遇を生きてきた、価値観も違えば、生活のスタイルも異なる人々が共存することになるのは当然のことである。
それを、一部の人間の価値観や生活スタイルを押し通してしまおうとすれば、そこに軋轢が生じてしまうのは当然であろう。
こういったことは、おおよそ、力ある者、能力の長けた者、裕福な者、などの意見が通りやすいのであるが、皆が等しく安心して過ごせるような環境を整えていくことが大切であろう。
病弱な方にも一緒に参加できること、貧しい人も遠慮なく意見が言える雰囲気、なかなか難しいけれども、そこにイエス様がおられるならば、きっとそれは可能である。

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1コリント 11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
11:4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
11:11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
11:12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
11:14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

聖書における伝統的な男女観については、現代社会の価値観とは相いれないなど、賛否両論があって難しい問題であろうと思われる。
しかし、事実として、男性には子供を産むことができないし、男性と女性の体のつくりやそれに伴う性質の違いなどもあることは認めなければならない。
全ての点で、男女平等に扱えないこともあるということであろう。
神が創造された男と女、そして、その違いによる生き方や働き方などに違いが生じてくるのは仕方のないことであるし、むしろそこは神の御心として尊重していくことも大切であろう。
男性らしさとか女性らしさと表現すると、問題にされることもあるかもしれないが、神が創られた私らしさ、そして、その人らしさ、というのはあっても良いし、どちらが上か下かとか、どちらが優れているかとかではなく、神が一人一人に何を願われてそのように創られたのか、思いを巡らしながら生きて行けたなら、きっと幸いな人生を過ごせるのだろうと思う。
他の誰かにはできない、私に求められた働き、仕事、家庭、社会、人生を、創られた方の思いに、自分自身、同意して、神の御心に寄り添いながら歩んでいけたなら、それが本当に自分のアイデンティティ(自己同一性)となるからである。

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1コリント 10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

この世のものはすべて神が創られたもの。
それゆえ、それ自体で「汚れている」といったものはなく、それをどう用いるかによって聖なるものとなったり、邪悪なものとなったりするのであろう。
コリントの手紙においては、食べ物に関して書かれているが、食べ物だけでなく、我々が行うこと。行動や働き、あるいは、文化的な活動なども、それを何のために行っているかということが問われてくる。

先日は、ある方と、キリスト教以外の葬儀に出席するべきかどうかについて話す機会があったが、キリスト教だからと言って頑なに他宗教の葬儀に出席することを拒むなら、それは同時、他宗教の葬儀に出席している方々に、キリスト教の葬儀に出席するなと言っているに等しいこととなる。
そのような偏狭な考え方を持ち続けるならば、この世の誰にもキリストの福音を宣べ伝えることなどできなくなる。
しかし、イエス様は「全ての人の罪の贖いのために」十字架にかかられたのであるし、十字架の上で「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分で何をしているのかわからずにいるのです」と言って、とりなしの祈りまでも捧げて下さったお方である。
私たちは、このようなイエス様の思いにしたがって行動すべきであり、安易な考えで「これは聖なるもの、これは汚れたもの」などと言って、身勝手な判断で断絶すべきではないことは明らかである。
もちろん、イエス様以外のものに心を奪われてしまうようなことは言語道断であろうけれど、愛と忍耐の心を持って、絶えず祈り続けながら、どんな境遇にも身を置くことのできる心を保ち続けていきたいものである。
それがここで言われている「良心」というものなのかもしれない。

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1コリント 10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、
10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、
10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。
10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。
10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。
10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。
10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。
10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

どんなコミュニティーにも言えることかもしれないが、長らく教会に集っていると、様々な事がマンネリ化してきたり、いつも同じ人、いつも同じメッセージ、新鮮味が欠けて来たり、喜びが薄れてきたように感じることがあるかもしれない。
そのような時、人は新たな刺激を求めて、他のところを覗いてみたくなることもあるだろう。
しかし、我々が教会に集う理由は、神に救われたからであって、我々が喜ぶためというのが優先されるようだと、少々おかしなことになる危険性がある。
つまり、楽しくなければ集いたくないとか、刺激がないとか、そういった個人的な主観に基づいて行動するようになり、そのような行動の根本には、かつてイスラエルの民があそうであったような、偶像礼拝につながる思想が影響していると言えるのかもしれない。
私たちが愛すべき方は主イエス様お一人であるし、コリントの手紙にも記されている通り、私たちを召して下さったその召しにとどまることは、神の御心でもある。
どんなに自分の集っている教会が面白くなくても、それが理由で別のものを探し求めていくのは、愛すべき方ではないものを愛そうとする偶像礼拝の形とそっくりだからである。
ずっと同じところにいることで、時には忍耐しなければならないこともあるだろう。
けれど、無意味にそのような忍耐があるわけではなく、きっと、そこに私たちが取り組まなければならない事があるからこそ、試練のようなことも生じてくるのかもしれない。
逃げたら、それ以上のことは起こらないかもしれないが、解決しないまま、かえってこじれてしまう事もあるだろう。
なかなかすぐには解決しない問題もあるかもしれないが、できる限りとどまって、そこから何を学ぶべきか、何をなすべきか、見いだし、取り組んでいくことができたなら、きっとそこに、神が私をそこに置かれた意図が見えてくることだろうし、そこで現わされる神の御業を目の当たりにしていくことができるのだろうと思う。
自分がやるべきことを探すことは大切だが、召されたところを忘れないこともまた大切であるということを覚え、しっかりと腰を据えて歩んでいきたいものである。

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1コリント 9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、弱い人に対しては弱い人のようになる、とのパウロの言葉は、相手の立場を理解し、共に歩んでいく上では重要な事である。
しかし、それはとても難しいことである。
それでもパウロがこのように記したのは、イエス様が神の子たる身分でありながらも、それに固執することなく、己を空しくし、人となってこの世に来られたという事実があってのことであろう。

フィリピ 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

イエス様があらゆる点で私たち人間の悩みや苦しみ、嘆きや悲しみを全て味わい尽くされたからこそ、私たちのことを理解して下さっているし、慰めと救いの約束を頂くことができるのであり、私たちは、そのような者として神の御前に立たせていただけるのである。
このような約束があるからこそ、私たちもまた恐れることなく勇気をもって歩むことができるし、パウロが語っているように、どんな境遇にも身を置くこともできるということなのであろう。
自己保身に走る者は、結局、周囲からの信頼も含めて、何もかも失っていくことになるだろう。
そうではなく、愛を持って他者を理解し、他者と共に歩む道を模索していくならば、自分も相手も祝福されるだろうし、何より、神の国における栄光の冠を受け取ることができるのである。
やがて朽ち果ててしまうようなこの世の栄冠ではなく、永遠に滅びることのない御国の栄冠を目指して歩んでいきたいものである。



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