聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




創世記 16:7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、
16:8 言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、
16:9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
16:10 主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
16:11 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい 主があなたの悩みをお聞きになられたから。
16:12 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので 人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
16:13 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
16:14 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
16:15 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。

詩篇 22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。

マルコ 8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。



主なる神様は、奴隷の女ハガルをも顧みられ、彼女に息子イシュマエルを与えられた。
イシュマエルの子孫は、後にイスラエルの民を悩ます存在となっていくのであるが、神はイシュマエルの子孫も見捨てているわけではない。

創世記 16:13 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。

神は人がどう生きるのか、常に見届けておられる。
もちろん、それがいつも神のみ旨に適っているとは限らないことも多いし、、むしろ、敵対することばかりを自ら選んでしまっているかもしれない。
それでも神は人を顧み、見続けておられるのだ。
ローマ皇帝を崇拝する者たちの建てた町、フィリポ・カイザリアに住む人たちは、とうていイエス様が神の子メシア、救い主であるなどと信仰を告白する者などいなかったであろう。
それでも神は、この町に住む人たちのことも気に留めておられるに違いない。
だから、私たち人間が「この人たちは滅ぶべきだ」などと勝手に裁くべきではないし、そのような思いを抱くことこそ、神の御心に反する思いであるということを覚えたいものである。
私たちも、イシュマエルのようなもの。
神を恐れず、横暴に振舞い、神を困らせてばかり。
それでも主なる神様は、一人でも多くのものが悔い改めて真の神に立ち返ることができるように、今日も私たち一人一人を顧み、見守り続けておられるのである。

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創世記 16:1 アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。
16:2 サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。
16:3 アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。
16:4 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。
16:5 サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
16:6 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。

詩篇 22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。

ローマ 4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。
4:8 主から罪があると見なされない人は、幸いである。」
4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。



アブラムの妻サライは、自分に子供が生まれないことに悩み、アブラムと自分との間に子孫が生まれないことを憂い、奴隷の女ハガルを側女としてアブラムの子を産ませようとした。
しかし、いざハガルに子供が生まれると、今度は自分を軽んじるようになったハガルを迫害し始めるのである。
なんとも自分勝手な行動であるが、人はこのような罪を犯しがちである。
ある時は、自分の家柄の名誉のため、そしてその結果、今度は自分自身の名誉のため、人は身勝手に考え方や態度を変えていくのである。
おそらく、サライ自身も、自分で何をしたいのかが分からず、世間体や自尊心などに動かされて、その時々で思いついたことを行っているだけなのであろう。
これが罪に支配された人間の現実の姿なのだろう。
サライの夫アブラムも、ここではさして自分の考えを述べたりしている様子はうかがえないが、妻サライの提案を受けて、ハガルとの間に子をもうけているのである。
つまり、アブラムも同罪であろう。
あるいは「サライがそこまで言うのなら」と言った具合に、罪の責任をサライに押し付けて、自分の行為を正当化していたかもしれないのである。
人はかくも罪人なのだ。
そんな罪人が、どうやって救われるのか。
神の憐れみと恵みの御業がなければ、人は決して救われることはない。
イエス様が私たち人間の全ての罪を担って、あの十字架で死んで下さらなければ、誰一人、救われることはなかった。
もちろん、アブラムもサライも、その子イサクも、ヤコブも、みな同じである。
神の憐れみと恵みのゆえに救われる、そのような幸いな神の約束の言葉に信頼し、感謝と喜び、平安の中を歩んで行こう。

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創世記 15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
15:12 日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
15:13 主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
15:14 しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。
15:15 あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
15:16 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
15:17 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。
15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、

詩篇 22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。

ローマ 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。



ローマ3章の箇所には、聖書の神様のなさった救いの御業について、恵みにより、信仰によって全ての人が救いの約束に与ることができる幸いについて明解に語られていると言える。
それは、どんな人間の良き行いや能力などによるのではなく、誰にでもできる「信じる」という手段によって得ることのできる救いであり、だからこそ、主なる神様が真実で愛に満ちたお方であると言えるのである。
もちろん、そのために神の御子イエス様ご自身が支払って下さった命の犠牲は、あまりにも大きく、測り知ることのできないほどの恵みである。
それは星の数ほどにも増え広がる膨大な数の子孫に至るまで約束されたものであり、神の恵みは、人がこの世に生きている間、永遠に続いていくのである。
私たちは、そのような神の永遠の愛の中に日々生かされている。
生きていれば、いろんなことで悩むことがあるかもしれないが、神の恵みが永遠に約束されていることを覚え、平安のうちに歩んでいきたいものである。

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箴言 30:1 ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
30:2 まことに、わたしはだれよりも粗野で 人間としての分別もない。
30:3 知恵を教えられたこともなく 聖なる方を知ることもできない。
30:4 天に昇り、また降った者は誰か。その手の内に風を集め その衣に水を包むものは誰か。地の果てを定めたものは誰か。その名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているのか。
30:5 神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。
30:6 御言葉に付け加えようとするな。責められて 偽る者と断罪されることのないように。
30:7 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
30:8 むなしいもの、偽りの言葉を わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。
30:9 飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。

詩篇 77:1  指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。
77:2 神に向かってわたしは声をあげ 助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ 神はわたしに耳を傾けてくださいます。
77:3 苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され わたしの魂は慰めを受け入れません。
77:4 神を思い続けて呻き わたしの霊は悩んでなえ果てます。
77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神 諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を ヤコブとヨセフの子らを贖われました。
77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし 深淵はおののいた。
77:18 雨雲は水を注ぎ 雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い
77:19 あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し 地はおののき、震えた。
77:20 あなたの道は海の中にあり あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
77:21 あなたはモーセとアロンの手をとおして 羊の群れのように御自分の民を導かれました。

マタイ 4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。




人が生きていく上で、多くの悩みがある。
そして、それは生きている間、尽きることはない。
たとえ人があらゆるモノを手に入れ、何不自由ないほどの暮らしができるほどの富や権力を手に入れても、新たな悩みに悩まされるであろう。
人とはそういう生き物である。
そして、イエス様も人として生きられた。
貧しい者、弱い者の悩み、富める者、権力を持つ者の悩み、ありとあらゆる悩みをご存知であられる。
そして、それら全ての悩みに打ち勝ち、私たちのために救いの御業を成し遂げて下さったのである。
もちろんそこには、イエス様にしか分からない悩みもあっただろう。
けれど、それよりも私たち人間の救いを優先して下さったのである。
イエス様の受けられたお苦しみを覚えつつ、救われた者として、悩みは尽きないけれども、生きて行こう。

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ヨブ 5:8 わたしなら、神に訴え 神にわたしの問題を任せるだろう。
5:9 計り難く大きな業を 数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。
5:10 神は地の面に雨を降らせ 野に水を送ってくださる。
5:11 卑しめられている者を高く上げ 嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。
5:12 こざかしい者の企てを砕いて 彼らの手の業が成功することを許されない。
5:13 知恵ある者はさかしさの罠にかかり よこしまな者はたくらんでも熟さない。
5:14 真昼にも、暗黒に出会い 昼も、夜であるかのように手探りする。
5:15 神は貧しい人を剣の刃から 権力者の手から救い出してくださる。
5:16 だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。
5:17 見よ、幸いなのは 神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。
5:18 彼は傷つけても、包み 打っても、その御手で癒してくださる。
5:19 六度苦難が襲っても、あなたを救い 七度襲っても 災いがあなたに触れないようにしてくださる。
5:20 飢饉の時には死から 戦いの時には剣から助け出してくださる。
5:21 あなたは、陥れる舌からも守られている。略奪する者が襲っても 恐怖を抱くことはない。
5:22 略奪や飢饉を笑っていられる。地の獣に恐怖を抱くこともない。
5:23 野の石とは契約を結び 野の獣とは和解する。
5:24 あなたは知るだろう あなたの天幕は安全で 牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
5:25 あなたは知るだろう あなたの子孫は増え 一族は野の草のように茂ることを。
5:26 麦が実って収穫されるように あなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
5:27 見よ、これが我らの究めたところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい。

詩篇 77:1  指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。
77:2 神に向かってわたしは声をあげ 助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ 神はわたしに耳を傾けてくださいます。
77:3 苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され わたしの魂は慰めを受け入れません。
77:4 神を思い続けて呻き わたしの霊は悩んでなえ果てます。
77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神 諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

1ペテロ 3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
3:10 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。
3:12 主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。



ヨブ記におけるヨブの友人たちの言葉と、ペテロの手紙における勧めとでは、似ているようで異なる。
ヨブの友人たちの言葉だと、神は公平な裁きをなさるお方であり「正義」という言葉にふさわしいお方であることが語られているように思う。
一方、ペテロの手紙におけるペテロの勧めには、正しいことを行うように勧められてはいるが、それは他者への「愛」に基づくものであり、善き業に対する報いを求めない姿勢が伺える。
誰にでも公平、公正に裁きを行う事も、もちろん全ての人に対する神の「愛」のゆえであると言えるが、報いを求めず、ただ一方的に与えるだけの「愛」は、まさに、主なる神様が御子キリストを世に送り、十字架にかけられて全ての罪の償いを成し遂げて下さったことに通じるものがあり、その救いの約束は、すべての人が受けることができるように「信じるだけで受け取れる」という恵みとして提供されており、それゆえに、再び神の公平、公正さが際立ってくるのであろう。
私たちの救いは、神の一方的な愛のゆえに、恵みにより、信仰により、値なしに誰にでも受け取ることのできる約束であり、実に素晴らしい福音となっている。
そういう意味では、旧約聖書の言葉も新約聖書の言葉も、どちらも必要であり、旧約を理解するために新約を、新約を理解するために旧約を、双方、読み進めながら、神の義と愛と、恵みと信仰、幸いな救いの約束として受け止めたいものである。

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ヨブ 4:1 テマン人エリファズは話し始めた。
4:2 あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが 誰がものを言わずにいられようか。
4:3 あなたは多くの人を諭し 力を失った手を強めてきた。
4:4 あなたの言葉は倒れる人を起こし くずおれる膝に力を与えたものだった。
4:5 だが、そのあなたの上に何事かふりかかると あなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる。
4:6 神を畏れる生き方が あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが あなたの希望ではなかったのか。
4:7 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ 正しい人が絶たれたことがあるかどうか。
4:8 わたしの見てきたところでは 災いを耕し、労苦を蒔く者が 災いと労苦を収穫することになっている。
4:9 彼らは神の息によって滅び 怒りの息吹によって消えうせる。
4:10 獅子がほえ、うなっても その子らの牙は折られてしまう。
4:11 雄が獲物がなくて滅びれば 雌の子らはちりぢりにされる。
4:12 忍び寄る言葉があり わたしの耳はそれをかすかに聞いた。
4:13 夜の幻が人を惑わし 深い眠りが人を包むころ
4:14 恐れとおののきが臨み わたしの骨はことごとく震えた。
4:15 風が顔をかすめてゆき 身の毛がよだった。
4:16 何ものか、立ち止まったが その姿を見分けることはできなかった。ただ、目の前にひとつの形があり 沈黙があり、声が聞こえた。
4:17 「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。
4:18 神はその僕たちをも信頼せず 御使いたちをさえ賞賛されない。
4:19 まして人は 塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。
4:20 日の出から日の入りまでに打ち砕かれ 心に留める者もないままに、永久に滅び去る。
4:21 天幕の綱は引き抜かれ 施すすべも知らず、死んでゆく。」

詩篇 77:1  指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。 
77:2 神に向かってわたしは声をあげ 助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ 神はわたしに耳を傾けてくださいます。
77:3 苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され わたしの魂は慰めを受け入れません。
77:4 神を思い続けて呻き わたしの霊は悩んでなえ果てます。
77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神 諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を ヤコブとヨセフの子らを贖われました。
77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし 深淵はおののいた。
77:18 雨雲は水を注ぎ 雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い
77:19 あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し 地はおののき、震えた。
77:20 あなたの道は海の中にあり あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
77:21 あなたはモーセとアロンの手をとおして 羊の群れのように御自分の民を導かれました。

エフェソ 2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。



ヨブの友人たちは、ヨブの上に起こった災いを見て、きっとヨブが何か悪いことをしたに違いない、だから神に罰せられたのだと考えたのであろう。
彼らの思考は、正しい者は祝福され、そうでない者は罰せられる、というものであり、因果応報の発想に縛られていることが伺える。
正しく生きようとしている人の上にも災いは起こるし、正しくない者が祝福されているかのように見えることもあるだろう。
実際には、正しい人などいない、全ての人は罪を犯している、のである。
ただ、その罪人に対する処罰は、みな、イエス様が引き受けて下さった、それが聖書の語るメッセージである。

昨日の日課の箇所では、ノアの箱舟の出来事を通して、「私たちは神を信じて救われた人、神を信じなかった人たちは大洪水で滅ぼされた」といった単純な発想は好ましくない事を学んだ。
正しい人などいない、みな罪を犯している、しかし主なる神は、その正しくない人のために死なれ、正しくない人たちを救いへと導かれた、といのが聖書に語られている真実である。
私たちが救われたのは、私たちが正しかったからではない。
ただただ主なる神様が私たちを憐れみ、御子イエス様の命を惜しむことなく十字架に捧げられたから、である。
私たちには、このお方を信じるしかない。
それが唯一、正しくない者が救いに与る道である。
長らくクリスチャンとして生きていると、いつの間にか「自分は正しい人」のように思ってしまいがちであるが、救われる前と後とでは、私自身は何も変わってはいない。
ただ救っていただいた喜びと平安がある。
ただそれだけのことなのかもしれないが、救われた喜びと平安のうちに生きて行くことこそ、私たちにできる最善の業なのであろう。

1ペテロ 3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

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詩篇 32:1  ダビデの詩。マスキール。 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって 主の道はすべて、慈しみとまこと。

マタイ 9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」



イエス様は、中風の人ではなく、彼を運んできた人たちの信仰を見て、この人の罪を赦し、そして癒された。
彼と彼を運んできた人たちの関係については、詳しくは記されていないが、おそらく友人か、かつてお世話になった人なのではないだろうか。
屋根を剥がしてまでしてイエス様のところへ運ぼうとしたのである。
そうまでして助けたいと思うほど、彼にはお世話になっていたか、それだけのことをしたいと思わせる人物であったということなのだろう。
そこには、親しい友人を助けてあげたいといった優しいさや思いやりの心などがあったであろうし、そのためならば、どんな犠牲をもいとわないほどの感謝の気持ちがあったということであろう。
そして何より、イエス様のところへお連れすれば、きっと癒されるはずだと信じて彼を運んできたこと、そのような信仰をイエス様はご覧になったということであろう。
しかしイエス様の最初の言葉は「子よ、あなたの罪は赦されました」というものである。
彼を運んできた人たちは、少々面食らったかもしれないが、この言葉によって、体の癒しよりも、罪の赦しの方が何より幸いなことであるということを知り、彼が本当に必要としていたことは「赦しの言葉」であったということを悟ったことであろう。
人を生かすのは、自分が赦されているということ、愛されているということを知っていることによる。
友人たちに運ばれて、そして、イエス様に赦して頂き、彼はきっと大いなる力を与えられた事であろう。
私たちには、人を癒す力はないけれど、彼らのように、人をイエス様のもとへお運びし、イエス様から愛されていることをしってもらうことの手助けならできるかもしれない。
きっとそれが私たちにできる最高の愛の業なのだろう。

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』

どんな愛の業も、他者の視点に立ち、まずは他者を思いやる心をもつことが大切であろう。
でなければ、どんな愛の業も押し付けがましいものとなってしまうかもしれないし、その人が本当に必要としている手助けなのかどうかも疑わしいからである。
願わくは、本当に必要な手助けをお届けできる者でありたいものである。



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ダニエル 9:15 わたしたちの神である主よ、強い御手をもって民をエジプトから導き出し、今日に至る名声を得られた神よ、わたしたちは罪を犯し、逆らいました。
9:16 主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください。わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も、近隣の民すべてから嘲られています。
9:17 わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主御自身のために御顔の光を輝かしてください。
9:18 神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。
9:19 主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。」
9:20 こうしてなお訴え、祈り、わたし自身とわたしの民イスラエルの罪を告白し、わたしの神の聖なる山について、主なるわたしの神に嘆願し続けた。
9:21 こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた。それは夕べの献げ物のころのことであった。
9:22 彼は、わたしに理解させようとしてこう言った。「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。
9:23 お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。
9:24 お前の民と聖なる都に対して 七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり 罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し 幻と預言は封じられ 最も聖なる者に油が注がれる。
9:25 これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての 御言葉が出されてから 油注がれた君の到来まで 七週あり、また、六十二週あって 危機のうちに広場と堀は再建される。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって 主の道はすべて、慈しみとまこと。

2テモテ 4:1 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
4:3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、
4:4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
4:5 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。



ダニエルは、まるで神に見捨てられ、見放されているかのように長らく続くイスラエルの荒廃を憂い、神に憐れみととりなしの祈りを続けていた。
そして、ついに主な神が答えられたのであるが、その応えは「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。」というものであった。
神が眠っていたのではない。眠っていたのは、ダニエルよ、お前自身なのだ、ということである。
私たちも神に祈る時「なぜ神様は応えて下さらないのか、なぜ私たちを見放しておられるのか」とつぶやきがちである。
しかし、恵み豊かな神が、私たちを見放しているはずがあるだろうか。
私たちの方が神を見放しているのではないだろうか。
都合の良いときだけ神に祈り、何事もなければ、神など必要ない、そんな生き方を過ごしている人は多い。
神は生きている。
常に生きていて、今日も私たち一人一人のためにとりなしておられるのだ。
自らの命を十字架に捧げてまで私たちを救おうとしてくださったお方が、私たちのことを見捨てることなどあろうか。

ローマ8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

イエス様が常に私たちのためにとりなして下さっているのだから、私たちもまた、神が愛し、救おうと願われている人たちのために、常に祈り、とりなし、御言葉を宣べ伝えて行きたいものである。

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ダニエル 9:1 ダレイオスの治世第一年のことである。ダレイオスはメディア出身で、クセルクセスの子であり、カルデア人の国を治めていた。
9:2 さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。
9:3 わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。
9:4 わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、
9:5 わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。
9:6 あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、父祖、そして地の民のすべてに語ったのに、それに聞き従いませんでした。
9:7 主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。
9:8 主よ、恥を被るのはわたしたちであり、その王、指導者、父祖なのです。あなたに対して罪を犯したのですから。
9:9 憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。
9:10 あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。
9:11 イスラエルはすべて、あなたの律法を無視し、御声に耳を傾けませんでした。ですから、神の僕モーセの律法に記されている誓いの呪いが、わたしたちの上にふりかかってきたのです。あなたに対して罪を犯したからにほかなりません。
9:12 わたしたちにも、わたしたちを治めた指導者にも告げられていた主の御言葉は成就し、恐ろしい災難が襲いました。エルサレムに下されたこの災難ほど恐ろしいものは、いまだ天下に起こったことはありませんでした。
9:13 モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。
9:14 主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。わたしたちの主なる神のなさることはすべて正しく、それに対して、わたしたちは御声に聞き従いませんでした。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって 主の道はすべて、慈しみとまこと。

1ヨハネ 1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。



本日の日課のダニエル書と詩篇の中に「恥」という言葉が何回か用いられている。
イスラエルの民が神に従わなかったために、神の裁きの結果として、異邦の民らから辱めを受けたりする様子などが「恥」として語られているように伺える。
日本人が「恥」という言葉を使う時、そこには「神の裁き」といった意味合いは少なく、どちらかと言うと、他者と自分を比べたとき、自分がどれだけ劣っているかといったことを卑下するものであったり、人には知られたくないような隠しておきたい要素といった、内面的なものを考えるのではないだろうか。
たまに「日本は恥の文化、西洋は罪の分化」といった表現を耳にすることがある。
もちろん、西洋に「恥」という概念がないわけではないだろう。
恥ずかしいものは人間なら誰にでもある。
ただ問題なのは、そこに「神」が絡んでくるかどうか、ではないだろうか。
日本は八百万の神とは言うが、実質的に神はいない。
世間体といったこともあるが、ほとんどの場合「己」が神である。
自分自身の判断で、自分が他者より優れているか、劣っているかといったこと決め、「恥」も自分次第である。
しかし、自分で決められる以上、その判断は必要以上に厳しいものとなったり、逆に、全く甘い判断にもなりかねない。
そのような曖昧な基準のもとでは、善も悪も無い、いい加減なものとなってしまう。
暑いか寒いか、辛いか甘いか、何もかもが人によって感じ方が違うように、絶対的な基準さえも消え去っていくところでは、本当の赦しや揺るぎない平安を得ることは非常に困難なものとなろう。
しかし、ひとたび本当の神の御前に立つならば、その神が語られる言葉は絶対であり、揺るぎない基準となる。
その神が「あなたの罪は赦された」と語られるならば、その赦しは完全であり、揺るぎない平安が与えられるのである。
そこでは、もはや「己」が基準のあやふやなものに振り回されることもなく、確かな救いの約束を頂いて、「恥」から解放されて生きられることであろう。
だからこそ、常に神の御前に生きるものでありたい。

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ヨエル 2:1 シオンで角笛を吹き わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
2:2 それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が 山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく これから後も、代々再び起こることはない。
2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。
2:14 あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。
2:15 シオンで角笛を吹き 断食を布告し、聖会を召集せよ。
2:16 民を呼び集め、会衆を聖別し 長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め 花婿を控えの間から 花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
2:17 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き 主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず 国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』と なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」

詩篇 51:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。

マタイ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」



灰の水曜日とは、己の罪を悔い改めて懺悔をする日であろう。
罪を悔い改めるということは、自分自身の思いや行いを否定することにもつながるため、そう簡単ではないし、やすやすと人前で話せるようなものでもないだろう。
本当に辛いことは、神の御前だけでしか告白することはできない。
でも、それで良いし、それこそが本当の悔い改めなのだろうと思う。
ルターは、免罪符を購入する人たちに対し、人に見せるための悔い改めであると言って厳しく戒め、そこから宗教改革は進んで行った。
今風に言えば「やってる感」を表すだけで、実際には無益なことであるし、むしろキリストの十字架の贖いによって救われるという聖書の恵みを無にする行為に他ならず、忌まわしいものと考えたのである。
己の罪を悔い改めることは、己の死を意味するものであり、そこに十字架のキリストがおられるからこそ、神の救いの恵みは尊いのである。
人に見せるための善行が無意味であるのと同様、人に見せるための悔い改めも無意味であり、むしろ好ましいことではないのだろう。
奥まった部屋で、一人静かに神の前に立ち、己の罪の全てを神に申し述べ、キリストの十字架にある赦しの約束を頂こう。
そこにこそ本当の平安と慰めがあるのだから。

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