聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




士師記15:9 ペリシテ人は、ユダに上って来て陣を敷き、レヒに向かって展開した。
15:10 ユダの人々は、「なぜ我々に向かって上って来るのか」とただしたところ、彼らは、「攻め上って来たのはサムソンを縛り上げ、我々に対する仕打ちのお返しをするためだ」と答えた。
15:11 ユダの人々三千人が、エタムの岩の裂け目に下って行き、サムソンに言った。「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。なんということをしてくれた。」サムソンは答えた。「彼らがわたしにしたように、彼らにしただけだ。」
15:12 彼らはサムソンに言った。「我々は、お前を縛ってペリシテ人の手に渡すためにやって来た。」サムソンは言った。「あなたたちはわたしに害を加えないと誓ってくれるか。」
15:13 彼らは言った。「我々はただお前を縛って彼らの手に渡すだけだ。殺しはしない。」彼らはこうして、新しい縄二本でサムソンを縛り、岩から連れ出し、上って来た。
15:14 サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。
15:15 彼は、真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した。
15:16 そこで彼は言った。「ろばのあご骨で、ひと山、ふた山 ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」
15:17 こう言い終わると、彼は手に持っていたあご骨を投げ捨てた。こうして、その場所はラマト・レヒ(あご骨の高台)と呼ばれるようになった。
15:18 彼は非常に喉が渇いていたので、主に祈って言った。「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました。しかし今、わたしは喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています。」
15:19 神はレヒのくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされた。彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った。それゆえ、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれ、今日もレヒにある。
15:20 彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。

サムソンを引き渡すように攻め寄ったペリシテ人たちに対し、レビの人たちは、サムソンを縄で縛って彼らに引き渡します。しかし、それがイスラエルに勝利をもたらすための神のご計画でもあり、ペリシテに引き渡されたサムソンは、縛られていた縄を解き、千人ものペリシテ人たちを撃ち殺してしまうのです。
この時のサムソンの心境はどのようなものであったのでしょう。
おそらく、恐れや不安感など微塵も感じていなかったのでしょう。
むしろ、これから起こるであろう事を彼は予測し、ちょうど良い機会だと考えていたのかもしれません。
しかし、ここで注意しておかなければならないことは、神は確かに我々の味方であるけれども、常に私たちの思い通りに助けてくれるというわけではないということです。
もし神が私の願いどおりに動くのならば、それは、私たち自身が神となり、真の神様を我が物のように扱っている、とてつもなく傲慢な行為となってしまうからです。

ローマ8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

神は確かに私たちの味方です。
しかし、どういうご計画の中で、私たちを用いようとしておられるのか、その点を見失わないようにしていきたいものです。

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士師記15:1 しばらくして小麦の収穫のころ、サムソンは一匹の子山羊を携えて妻を訪ね、「妻の部屋に入りたい」と言ったが、彼女の父は入らせなかった。
15:2 父は言った。「わたしはあなたがあの娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹の方がきれいではないか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい。」
15:3 サムソンは言った。「今度はわたしがペリシテ人に害を加えても、わたしには罪がない。」
15:4 サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その二つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた。
15:5 その松明に火をつけると、彼はそれをペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やした。
15:6 ペリシテ人は、「誰がこんな事をしたのか」と言い合った。「あのティムナ人の婿のサムソンがした。彼が婿の妻を取り上げ、その友に与えたからだ」と答える者があった。ペリシテ人はそこで、彼女とその父のところに上って来て、火を放って焼き殺した。
15:7 サムソンは彼らに、「これがお前たちのやり方なら、わたしはお前たちに報復せずにはいられない」と言って、
15:8 彼らを徹底的に打ちのめし、下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ。

サムソンは、妻に合わせてもらなかった報復として、ジャッカル三百匹をペレシテ人の畑に送り込み、すべて焼き払ってしまいます。
一方、ペレシテ人たちも、責任のすべてをサムソンの妻と父親に押し付け、彼らを焼き殺してしまいます。
なんとも無残な話しです。
しかしこれが人間の現実なのでしょう。

先日ある方が「救われた人がなぜ戦争を起こすのか、それでは救いとは何か」と尋ねられました。確かにこの世には救われた人も大勢いるのに、相変わらず戦争や悲しい出来事が続きます。人は相変わらず罪を犯し続けているのです。
しかしだからこそ救いが必要なのです。
救いとは、清らかな人間になることではなく、罪の赦しを受けることだからです。
だから、私も救いが必要です。
しかも、イエス様の十字架の贖いの代価による完全な救いだからこそ、真の救いであることを覚えたいものです。

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士師記14:10 父がその女のところに下って来たとき、サムソンは若者たちの習慣に従い、宴会を催した。
14:11 サムソンを見て、人々は三十人の客を連れて来てサムソンと同席させた。
14:12 サムソンは彼らに言った。「あなたたちになぞをかけたい。宴会の続く七日の間にその意味を解き明かし、言い当てるなら、わたしは麻の衣三十着、着替えの衣三十着を差し上げる。
14:13 もし解き明かせなかったなら、あなたたちが麻の衣三十着と、着替えの衣三十着を差し出すことにしよう。」彼らは、「なぞをかけてもらおう。聞こうではないか」と応じた。
14:14 サムソンは言った。「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」彼らは三日たっても、このなぞが解けなかった。
14:15 七日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「夫をうまく言いくるめて、あのなぞの意味を我々に明かすようにしてほしい。さもないと、火を放ってあなたを家族もろとも焼き殺してやる。まさか、我々からはぎ取るために招待したわけではないだろう。」
14:16 サムソンの妻は、夫に泣きすがって言った。「あなたはただわたしを嫌うだけで、少しも愛してくださらず、わたしの同族の者にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません。」彼は答えた。「父にも母にも明かしていないのに、お前に明かすわけがないだろう。」
14:17 宴会が行われた七日間、彼女は夫に泣きすがった。彼女がしつこくせがんだので、七日目に彼は彼女に明かしてしまった。彼女は同族の者にそのなぞを明かした。
14:18 七日目のこと、日が沈む前に町の人々は彼に言った。「蜂蜜より甘いものは何か獅子より強いものは何か。」するとサムソンは言った。「わたしの雌牛で耕さなかったならわたしのなぞは解けなかっただろう。」
14:19 そのとき主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。
14:20 サムソンの妻は、彼に付き添っていた友のものとなった。

サムソンは、しつこく泣きすがる妻に対して、謎解きの答えを教えてしまいます。
女性に弱いサムソン性格をよく表していると言えるでしょう。

異性に関する誘惑は、いつの時代にも、また、どこの世界にも見られるものです。
そして、異性に対して優しい態度をとることは、それ自体では悪いことではないように見られるのですが、その目的、下心など、よくよく注意しなければならないことには言うまでもありません。

マタイ5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

イエス様の仰せられることは、とても高尚なことである。
我々には、とうていできっこないことかもしれない。
しかし、このことは、イエス様ご自身がどういうお方であられるかということを教える言葉。
そのことを忘れずにいるならば、完全な歩みに少しでも近づけるのかもしれない。
近づきたいと願うものである。

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士師記14:1 サムソンはティムナに下って行ったが、そのティムナで一人の女、ペリシテ人の娘に目をひかれた。
14:2 彼は父母のところに上って行って、「ティムナで、一人の女、ペリシテ人の娘に目をひかれました。どうか彼女をわたしの妻に迎えてください」と言った。
14:3 父母は言った。「お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは。」だがサムソンは父に、「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたしは彼女が好きです」と願った。
14:4 父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。
14:5 サムソンは父母と共に、ティムナに向けて下って行った。ティムナのぶどう畑まで来たところ、一頭の若い獅子がほえながら向かって来た。
14:6 そのとき主の霊が激しく彼に降ったので、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた。しかし、彼は自分の行ったことを父母には言わなかった。
14:7 彼は、女のところに下って行って言葉をかけた。サムソンは彼女が好きであった。
14:8 しばらくして彼は彼女を迎えに戻って行ったが、あの獅子の屍を見ようと脇道にそれたところ、獅子の死骸には蜜蜂の群れがいて、蜜があった。
14:9 彼は手で蜜をかき集め、歩きながら食べた。また父母のところに行ってそれを差し出したので、彼らも食べた。しかし、その蜜が獅子の死骸からかき集めたものだとは言わなかった。

サムソンの両親は、サムソンがなぜペリシテの女性に心惹かれているのか、それが神のご計画のうちに進められている出来事であるとは、全く理解できませんでした。

先日、あるクリスチャンの方と、どうしたら、未信徒の方に教会に来てもらえるだろうかということを話し合った時、もっと若者の興味のあることを取り入れたほうが良いのではないかという意見が出ました。一方で、教会があまりにそのようなことに熱心になってしまうと、教会が持っている本質的な福音のすばらしさを伝えることを忘れてしまうことになってしまう恐れもあり、なかなか人が集まらないようでも、あせらずに、福音のメッセージのすばらしさを前面に出し、正攻法で行くのがよいのでは?という意見も出されました。
大切なことは、神から離れず、福音のメッセージを伝えることを目的にしているかどうかであり、その点では、サムソンの行動も、結果的には神の救いのメッセージを伝えるものとなっていることを覚えなければなりません。
サムソンは単なる女好きとは違います。神に選ばれ、用いられた士師の一人であるということを覚えておきたいものです。


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士師記13:19 マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。
13:20 すると、祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアとその妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。
13:21 主の御使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った。
13:22 マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。
13:23 だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。
13:24 この女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。
13:25 主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネ・ダンにいたときのことであった。

神の御使いを目の当たりにしてしまったマノアと妻は、もはや死ななければならないのではと思ってしまいます。
しかし、もし主が死なせようとするのなら、捧げ物を受けたりはしないだろうと考え、むしろ、神の御使いを目撃した者として、そのことを証していく使命があることを悟るのです。

私たちも、聖書の神様と出会い、信じるようになった者。
ある意味で、神を目の当たりにした者ともいえます。
しかし、地上での人生を終えたわけではなく、まだまだやるべき事があるのでしょう。いな、むしろ、主なる神は、そのために私たちを召して用いて下さるのです。
神を目撃した者(主の証人)として。

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士師記13:3 主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。
13:4 今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。
13:5 あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」
13:6 女は夫のもとに来て言った。「神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず、その方も名前を明かされませんでした。
13:7 ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました。」
13:8 そこでマノアは、主に向かってこう祈った。「わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください。」
13:9 神はマノアの声をお聞き入れになり、神の御使いが、再びその妻のところに現れた。彼女は畑に座っていて、夫マノアは一緒にいなかった。

マノアのもとに現れた御使いは、マノアに生まれてくる子どもを聖別し、ナジル人として捧げるように命じました。
ところが、マノアは、生まれてくる子をどうすれば良いのか教えて下さいと訴えており、御使いは、再び同じ事をマノアに告げているのです。
もちろん、マノアが御使いのおおせられたことを聞いていなかったわけではないのでしょう。しかし、もう一度確認せざるを得ないほど驚くべき出来事であったということなのでしょう。

神様が私たちに告げられていることは、これと同じように、驚くべき出来事ばかりなのかもしれません。尋ねる必要がないほどに、はっきりと告げられているにも関わらず、「主よ、本当なのですか?」と尋ねてしまいたくなるほど、主なる神様のなさった御業は素晴らしいのでしょう。

士師記13:18 主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。

本来ありえないほどの大きな大きな恵みによって救われている不思議を感謝いたします。

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士師記12:8 その後、ベツレヘム出身のイブツァンが、士師としてイスラエルを裁いた。
12:9 彼には三十人の息子と三十人の娘があった。三十人の娘は一族以外の者に嫁がせ、三十人の息子には一族以外から三十人の嫁を迎えた。彼は七年間、イスラエルを裁いた。
12:10 イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。
12:11 その後、ゼブルンの人エロンが、士師としてイスラエルを裁いた。彼は十年間、イスラエルを裁いた。
12:12 ゼブルンの人エロンは死んで、ゼブルンの地アヤロンに葬られた。
12:13 その後、ピルアトンの人ヒレルの子アブドンが、士師としてイスラエルを裁いた。
12:14 彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間、士師としてイスラエルを裁いた。
12:15 ピルアトンの人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山、エフライムの地にあるピルアトンに葬られた。

ここには、イスラエルを裁いた士師たちの名前が三人ほど列記されています。
このうち、イブツァンとアブトンには、非常に多くの子どもたち、そして孫たちがいたことが記されています。
もちろん、一人の妻だけではなかったかもしれないので、今の時代とは単純な比較はできないかもしれませんが、多くの祝福を神様から頂いていたということが伺えます。

1テモテ3:1 この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。
3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、
3:4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。
3:5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。

家庭を治めることができるということは、教会を監督する者にとって重要なことであり、神様からの賜物の一つであると言えます。
まずは自分の家族を大切にすることから始めていきたいものです。


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士師記12:1 エフライム人が勢ぞろいして、ツァフォンに赴き、エフタに言った。「アンモン人との戦いに出向いたとき、なぜあなたは、わたしたちに同行を呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる。」
12:2 エフタは彼らに言った。「わたしとわたしの民がアンモン人と激しく争っていたとき、あなたたちに助けを求めたが、敵の手からわたしを救ってくれなかった。
12:3 あなたたちが救ってくれることはないと思い、わたしは命がけでアンモン人に向かって行った。主は、わたしの手に彼らを渡してくださった。どうして今日になってわたしに向かって攻め上り、戦おうとするのか。」
12:4 エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」と言ったからである。
12:5 ギレアドはまた、エフライムへのヨルダンの渡し場を手中に収めた。エフライムを逃げ出した者が、「渡らせてほしい」と言って来ると、ギレアド人は、「あなたはエフライム人か」と尋ね、「そうではない」と答えると、
12:6 「ではシイボレトと言ってみよ」と言い、その人が正しく発音できず、「シボレト」と言うと、直ちに捕らえ、そのヨルダンの渡し場で亡き者にした。そのときエフライム人四万二千人が倒された。
12:7 エフタは六年間、士師としてイスラエルを裁いた。ギレアドの人エフタは死んで、自分の町ギレアドに葬られた。

エフライムの民は、ギレアドのエフタの手によってアンモン人との戦いに勝利を収めたことが気に入らなかったのであろう。
戦いの時、何故自分たちにも声をかけかなかったのかといって、言いがかりをつけているのである。
エフライムの民にとっては、戦いに同行できなかったことよりも、エフタが勝利者扱いをされることが受け入れられなかったのかもしれない。

働きに実際に加わらない者は、通常、その勝利に与ることはない。
しかし、何の働きがないにも関わらず、勝利に与らせて下さるお方がいる。

ローマ4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

エフライムとは全く同じではないが、何の働きもない者が救われている幸いを覚えたいものだ。

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士師記11:34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。
11:35 彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
11:36 彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」
11:37 彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」
11:38 彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。
11:39 二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。
11:40 来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。

エフタは、アンモン人に対する勝利とひきかえに、たったひとりの娘を失うことになってしまいます。
エフタの気持ちは、いかばかりであっただろうかと思うと、さぞ辛い気持ちであったことだろうと思います。
しかし、この出来事は、主なる神様が私たちの救いのために、唯一の御子、イエス様の尊い犠牲を支払われた出来事を思い起こさせてくれます。
主なる神様は、どのようなお気持ちでイエス様を十字架に送られたのか、それを思う時、軽はずみな言葉で「主よ助けて下さい」とか「主よお救い下さい」とか言っている自分の祈りに、もっと真剣な気持ちを込めて祈らなければと思わされます。

主よ、あなたは私の救いのために最も尊い御子イエス様の命をお捧げ下さいました。このことの故に救われていることの重大さ、恵みの大きさを覚え、感謝いたします。

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士師記11:29 主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。
11:30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、
11:31 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
11:32 こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。
11:33 彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。

エフタは、アンモン人との戦いに勝利を求め、主なる神様に、勝利を与えて下さるならば、帰還した時、最初に迎えに出てくる者を焼き尽くすいけにえの犠牲として捧げると言ってしまいます。
34節以下には、その時出てきたのが自分の娘であったことが記されており、エフタの落胆は想像を越える大きなものであったことでしょう。
あるいは、まさか自分の娘が出てくるとは、少しも考えなかったのでしょうか。
しかし、エフタの勝利を信じ、神に祈り、喜びを共にする者は、一番エフタに近い人物となるであろうことは、おおよそ推察できたことであろうと思います。
私たちも、気がついていないかも知れないのですが、意外なところで、私たちの働きのために心を合わせ、祈り支えていてくださる方が、身近にいることを覚えたいものです。

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