聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヨハネ 8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

巷では、10月31日はハロウィンだということで、一部で騒ぎが起こるなど問題となっているが、もともとは、ヨーロッパの古いケルトのお祭りがアメリカ経由で日本にも伝わってきたものであるが、日本では宗教的な要素は一切忘れ去られ、ただ仮装してお祭り騒ぎをするだけの無意味なイベントと化している。
なぜそのようなことになるのかということを考えていく時、日本でのハレとケという慣習に突き当たっていくのかもしれない。
とにかく、日常、数多くの我慢や忍耐を強いられ、仮面をかぶり、真面目におとなしく過ごしている人たちが、この日ばかりはと、非日常の仮面をかぶり、大騒ぎをすることで発散する、という図式なのだろう。
そういう意味では、日常に対する非日常という意味では、非日常が特殊なことと思われがちだが、本当はそうではなく、日常のほうが日本独特の様々な文化構造によってさまざまな制限をうけ、ストレスを抱えているからこそ、こういった非日常で爆発しているだけと考えるなら、非日常のほうが本音の部分に近いように思えるのかもしれない。
しかし、実は、どちらも異常なのだ。
日常における仮面も、非日常における仮面も、そのどちらもが結局、自分ではない仮面をかぶり、何ものかを演じている。
そこまでしなければ生きていけない息苦しいのが我々日本の現実なのだろう。
だれもが得体のしれない「世間体」とか「周囲の目」に支配されながら、怯えながら生きている。
本当の自由は、好きな仮面をかぶって、傍若無人なふるまいをすることではない。
様々なことに悩み、傷つき、働き、休み、癒される、そのような人生の全てさえも含めて、ありのままの自分を神に受け入れてもらっているという事実を受け止めた時、はじめて本当の自分に出会い、自由となるのであろう。
そのために必要なことは、神が私を愛しているという事実を、み言葉から聞くことであろう。
それしかないが、それが一番大事な事なのであろう。

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ゼカリヤ 4:1 わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。
4:2 彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。
4:3 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」
4:4 わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに言った。「主よ、これは何でしょうか。」
4:5 わたしに語りかけた御使いは答えて、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしが「主よ、分かりません」と言うと、
4:6 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
4:7 大いなる山よ、お前は何者か ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば 見事、見事と叫びがあがる。」
4:8 また主の言葉がわたしに臨んだ。
4:9 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを あなたたちに遣わされたことを知るようになる。
4:10 誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て 喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」
4:11 わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」
4:12 わたしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」
4:13 彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、絵
4:14 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。

ゼカリヤの見た幻には、七つに分かれた燭台と、二本のオリーブの木があり、それぞれに意味があり、み使いがそれを教えている。
七つに分かれた燭台は、ゼルバベルに向けられた主の言葉であり「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」という意味を示すものであると語られている。
そして、二本のオリーブの木は、主の御前に立つ二人の油注がれたものであると語られ、それぞれ、エルサレム復興のために尽力する総督ベルバベルと大祭司ヨシュアのことを指していると思われる。
ちなみに、オリーブから取れる油は、燭台を灯すために使われたといい、主が語られたみ言葉を実現するために仕えるしもべとして、用いられるのであろう。
一見すると、オリーブオイルが無ければ、燭台が機能しないように思えるが、燭台の働きを全うするために用いられるのがオリーブであり、神に仕える者の立ち位置を考えさせられるものであると言える。
つまり、神の国の働きは、我々人間がいなければ成し遂げられることができない、というよりも、我々は、主なる神の目的があって、そのために作られ、植えられ、そして、用いられるのである、ということであろう。
オリーブの木だけあっても、役に立たないし、主の目的があるからこそ、我々も活躍できるのである。
何のために作られ、生かされているのかということを覚えつつ、今日を生きる者でありたい。

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ゼカリヤ 3:1 主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。
3:2 主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」
3:3 ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。
3:4 御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」
3:5 また、御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。
3:6 主の御使いはヨシュアに証言して言った。
3:7 「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み わたしの務めを守るなら あなたはわたしの家を治め わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたがここで仕える者らの 間に歩むことを許す。
3:8 大祭司ヨシュアよ あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。あなたたちはしるしとなるべき人々である。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる。
3:9 ここに石がある。これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。
3:10 その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」

神の御使いたちの前に立つ大祭司ヨシュア。
そして、彼に語られた言葉や振る舞いは、なかなか味わい深いものがある。
まず、彼の汚れた衣は脱がされ、まっさらな晴れ着を着せてもらい、そして、主の道を歩み、神の務めを守るなら、神の家を治め、神の庭を守る者となる、と語られる。
これらのことは、まるで、神によって召され、救われた者たちに対する神の祝福と同じであろう。
そう考えると、大祭司ヨシュアと言うのは、全てのキリスト者を代表しているのかもしれない。
そして、この後、若枝となる神の僕を遣わすと語られる。
メシアなるキリストの到来の約束であろう。
救いを完成させるために遣わされる主の僕、そのお方が、先に約束された、汚れた衣を脱がせ、晴れ着を着させ、神の道を守り、神の家を治める務めに召すことへと導いて下さる。
ここには、教会と、その頭なるキリストに関する預言が語られている。
それらのことが刻まれた碑文、神の御言葉なる聖書に、今日も耳を傾け、信頼して行こう。

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ゼカリヤ 2:1 わたしが目を留めて見ると、四本の角があるではないか。
2:2 わたしに語りかけた御使いに、「これは何ですか」と尋ねると、彼は、「それはユダ、イスラエル、エルサレムをちりぢりにした角である」と答えた。
2:3 更に主はわたしに四人の鉄工を示された。
2:4 「彼らは何をするために来るのですか」と尋ねると、「これらの角は、だれも頭を上げる者がないほどに、ユダをちりぢりにしたものである。また、これらの人々は、ユダをちりぢりにするために、ユダの地に角を振り上げ、彼らを震え上がらせた国々の角を切り倒すために来るのだ」と言われた。
2:5 わたしが目を留めて見ると、ひとりの人が測り縄を手にしているではないか。
2:6 「あなたはどこに行かれるのですか」と尋ねると、彼はわたしに、「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるためです」と答えた。
2:7 わたしに語りかけた御使いが出て行くと、別の御使いが出て来て迎え、
2:8 彼に言った。「あの若者のもとに走り寄って告げよ。エルサレムは人と家畜に溢れ城壁のない開かれた所となる。
2:9 わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。
2:10 急いで、北の国から逃れよと主は言われる。天の四方の風のようにかつて、わたしはお前たちを吹き散らしたと主は言われる。
2:11 シオンよ、逃げ去れバビロンの娘となって住み着いた者よ。
2:12 栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主があなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者はわたしの目の瞳に触れる者だ。
2:13 わたしは彼らに向かって手を振り上げ彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを遣わされたことを知るようになる。
2:14 娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来てあなたのただ中に住まう、と主は言われる。
2:15 その日、多くの国々は主に帰依してわたしの民となりわたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたに遣わされたことを知るようになる。
2:16 主は聖なる地の領地としてユダを譲り受けエルサレムを再び選ばれる。
2:17 すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」

アッシリヤやバビロンによって国を追われ、亡国の危機に瀕していたイスラエルであったが、主なる神は、再びイスラエルの民をエルサレムへ呼び戻し、今度こそ真の平和の国を建て上げることを告げられるのである。
しかし、そこでは、城壁など必要のない、神ご自身が盾となって民を守って下さる平和な都となるという。
もちろん、そのような都は、この地上には成り立ちえない。
天の都エルサレムを意識しての言葉であろう。
そして、そこには神ご自身が民の中心にいつもいて下さる。
そのような幸いな約束を我々は頂いているのである。
シャローム、主の平安がありますように。

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ゼカリヤ 1:1 ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。
1:2 「主はあなたたちの先祖に向かって激しく怒られた。
1:3 あなたは彼らに言いなさい。万軍の主はこう言われる。わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、と万軍の主は言われる。
1:4 あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに、『万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ』と呼びかけた。しかし、彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる。
1:5 その先祖たちは、今どこにいるか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。
1:6 だが、わたしが僕である預言者たちに命じた言葉と掟は先祖たちに届かなかったろうか。彼らは立ち帰って言った。『万軍の主は、わたしたちの歩んだ道と行った業に従って、わたしたちを扱おうと思い定められ、そのようにされた。』」
1:7 ダレイオスの第二年十一月、シェバトの月の二十四日に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。
1:8 「その夜、わたしは見た。ひとりの人が赤毛の馬に乗って、谷底のミルトスの林の中に立っているではないか。その後ろには、赤毛の馬、栗毛の馬、白い馬がいた。
1:9 わたしが、『わが主よ、これは何ですか』と尋ねると、ひとりの御使いがわたしに語りかけ、『それが何なのか、教えよう』と言った。
1:10 すると、ミルトスの林の中に立っている人が答えて、『これらは地上を巡回させるため、主がお遣わしになったものだ』と言った。
1:11 彼らはミルトスの林の中に立っている主の御使いに向かって答えた。『わたしたちは地上を巡回して来ました。地上の人々はすべて安らかに暮らしています。』
1:12 それに答えて、主の御使いは言った。『万軍の主よ、いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています。』
1:13 わたしに語りかけた御使いに、主は優しい言葉、慰めの言葉をもって答えられた。
1:14 わたしに語りかけた御使いはわたしに言った。『呼びかけて言え、万軍の主はこう言われる。わたしはエルサレムとシオンに激しい情熱を傾け
1:15 安穏にしている諸国の民に対して激しく怒る。わたしはわずかに怒っただけだが彼らはそれに乗じて災いをもたらした。
1:16 それゆえ、主はこう言われる。わたしは憐れみをもってエルサレムに帰りわが家をそこに建て直させると万軍の主はこう言われる。エルサレムには、測り縄が張られる。
1:17 再び、呼びかけて言え。万軍の主はこう言われる。わたしの町々は再び恵みで溢れ主はシオンを再び慰めエルサレムを再び選ばれる。』」

バビロンから祖国の地に帰還したイスラエルの民は、エルサレムの神殿再建に着手するが、周辺の異邦人らの反対によって、途中、挫折してしまう。
その間、イスラエルの民の心はくじけ、神殿再建をあきらめてしまう者たちも続出し、自分たちの生活のことしか考えられないようになっていったようである。
時は流れ、イスラエルの民は、再びエルサレムの神殿再建を復活させるのであるが、18年もの月日が流れていた。
ゼカリヤは、当初から民を励まし、18年もの月日が流れても、変わることなく、むしろ、ますます民を励まし、神の祝福があることを訴えたのである。
しかし、18年にも及ぶ暗黒の時代、ゼカリヤも神の言葉を語ることははばかられ、空しい思いにとらわれていたかもしれない。
けれど、預言者は、神の言葉を託されて語るだけなので、語る人間が落ち込む必要はないのである。
主の時が来れば、神のご計画は動き出すし、み言葉を語る者は、ただ、神が語られた言葉を語り続けていくだけである。
願わくは、我々も民を励まし慰める神の言葉を語り続けていくことができるように、努めていきたいものである。

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2ペテロ 3:1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
3:2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
3:3 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
3:4 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
3:5 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
3:6 当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
3:7 しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
3:11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。
3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
3:14 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
3:15 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
3:16 彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。
3:17 それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。
3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

主の時は必ずやてくる。
しかし、その時がいつ来るかは分からないし、むしろ、一人でも多くの者が悔い改めて救われるようになるのを待ち望みつつ、忍耐してその時を遅らせて下さっているという。
そして、そのような神の忍耐深さを救いと考えなさいと語られている。
「こんな世界、早く終わってしまえばいいのに」と考える人がいたら、それは、神のお考えとは全く異なり、似ても似つかない考えであるということが言えるだろう。
我々にできることは「このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励む」ことである。
しかもその努力は、救われた者として平和に生きることであり、何かと闘ったり、争ったりといったものではないことは明らかであろう。
ましてや、神を知らない人たちや意見の違う人たちを裁いたりすることでもない。
救われた者として、揺るぎない平安の中に身を置いて生きること。
そのような生き方に徹することが、むしろ主の時を早めることにつながるのであろうと思う。
急がば回れである。

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2ペテロ 2:1 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、
2:2 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
2:3 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。
2:4 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。
2:5 また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。
2:6 また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。
2:7 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。
2:8 なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。
2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。
2:10 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。
2:11 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。
2:12 この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。
2:13 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。
2:14 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。
2:15 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、
2:16 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。
2:17 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。
2:18 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。
2:19 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。
2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。
2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
2:22 ことわざに、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。

世の中には、多くの者が富や快楽、欲望といったものに心を惹かれ、それらに完全に支配されてしまっている。
ここでは、そういう者らに対し、神が必ず裁かれるかのように語られている。
しかし、実際にはそういうふうには見えず、そういった者たちの多くが、世の勝利者のごとく振舞っているのを見る。
そして「いつ神は彼らを裁かれるのか」と問いたくなるのであろう。
しかし、この世の富、快楽、欲望といった事柄に心を奪われて、支配されてしまっている時点で、すでい裁かれているのだ。
イエス様を損じるとは、このお方以外に我々を救ってくれる方はなく、永遠の命を与えてくれるものはいない、ということ。
どんなにこの世の富や快楽などが麗しいもののように見えても、それらは人を救ってはくれないし、一直線に滅びへと進んでいるだけである。
富や欲望などは永遠ではない。人を必ず破滅へと導く。
支配された時点で裁かれている。
だから「主よ、彼らをお裁き下さい」などと言う必要はない。
ましてや、富や快楽の奴隷になっている人を妬んでいるようでは、同じ穴のムジナである。
「主よ、あなたこそ真の救い主。あなたの賜る救いは永遠です」と信じて告白していくことが大切であり、そこから本当の平安と喜びは得られる。


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2ペテロ 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

イエス様のご栄光を直接目撃したペテロが言うのである。
作り話であるはずがないし、作り話を作り出す意味もない。
イエス様は、私たちにとって闇を照らす光として、救いをもたらすためにこられたお方であり、そのことは、聖書の預言書においてあらかじめ語られていたことである。
ただ、その預言の言葉を解釈する際、自分勝手に、自分の都合の良い仕方で解釈しようとしてはならない。
聖書で語られていることは、イエス様が救い主であり、この方を信じるものに、その恵みが与えられるということ。
しかし、その恵みは、人の願望や欲望を適えることとは違う。
イエス様が、我々の身代わりとなって十字架で死なれたこと、よみがえられたこと、そしてそのイエス様の十字架と復活の贖いによる救いの事実を、み言葉を通して信じることによってのみもたらされる救いであること、それに尽きる。
今日も、聖書の言葉に生きよう。

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2ペテロ 1:1 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
1:2 神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
1:9 これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。
1:10 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。
1:11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
1:12 従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。
1:13 わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。
1:14 わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。
1:15 自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。

イエス様の栄光と力ある業とで命と信心に関わる全てのものを与えられた私たちは、この豊かな恵みの中に生きる者として、信仰には徳、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には信心、信心には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えていくよう、神の本姓に近ずく生き方を歩むよう招かれている。
しかし、実際はどうか。
一歩進んで二歩下がるかのような歩みをしてはいないだろうか。
イエス様を悲しませるようなことと分かっていながら、人を批判したり、怒ったり、妬んだり、恨んだり、そんな思いにかられたまま、日々を過ごしてはいないだろうか。
毎聖日、聖書のみ言葉を聞いているのにも関わらず、かえってますます傲慢になっていくようなら、聞く者も、語る者も空しい。
それでも主なる神は、我々を慈しんで、愛と慰めに満ちた言葉だけを語ろうとなさろう。
イエス様は「何度までとは言わず、七度を七十倍するほど赦せ」と仰せられた。
七度どころか、一度でも赦せないと言って怒る、そんな生き方はもうやめようではないか。

だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。
こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。



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1ペテロ 5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
5:8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
5:11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
5:12 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
5:13 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
5:14 愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。

先輩の牧師先生から「とにかく、今、教会に来ている人たちを大切にしなさい」とアドバイスを頂いたことがある。
無理に伝道、伝道といって、新しい信者を獲得することに熱心になるあまり、今、教会の働きを笹ている人たちをおろそかにするようなことがあってはならない、ということだろう。
とはいえ、教会も人の集まり。
いろんな人がいて、いろんな意見があって、個性もみな違う。
一致する、とか、一つになる、などというのもまた困難な時もある。
ただ、主にあって救われた者として同じであり、あとは「みんな違って、みんな良い」。
一人一人の個性が生かされて、それぞれに楽しんでいられると良いなあ。
いろんな困難がある中で、せめて、イエス様に愛された者同士が互いを尊重し、己に対しては謙遜に、共に生きていくことができればと願う。

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