聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マタイ26:6 さて、イエスがベタニアで重いひふ病の人シモンの家におられたとき、
26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。
26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

イエス様の頭に高価な香油を注いだ女性、そして、それを「無駄使い」と表現する弟子たち。
イエス様に対する認識の違いが、それぞれの態度の違いになって表れている。

そして、イエス様はどうかと言うと、彼女の取った行動は、ほめられるものであり、この福音が宣べ伝えられるところでは、記念して語り伝えられるであろうと仰せられる。
ここで注目したいことは、イエス様が仰せられた「この福音」という言葉である。
イエス様の言葉から、「この福音」という言葉が、この女性が行った行為そのものではないことが伺える。では、何を指して「この福音」と言っているか。
それは、「私を葬る準備」である。
しかも、香油を注いだことが準備であるから、「私を葬る」が「この福音」ということになる。
つまり、イエス様は、御自分の死をもって、それこそが「福音(=よき知らせ、喜びのおとずれ)」であると仰せられているのだ。

私の身代わりの死、あらゆる罪を贖うための神の小羊、イエス・キリストの十字架の死こそ、我らの福音。
私もこの女性のごとく、イエス様の十字架の死を感謝し、「この福音」が宣べ伝えられるための良き証をさせていただきたいと願う。

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マタイ26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
26:4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

もうまもなく過越しの祭りを迎えようとしていた時、イエス様は、弟子たちにご自分が捕らえられて十字架にかけられて殺されるであろうことを告げられ、いよいよその時がやってきたということを告げられます。
それは、まさにイスラエルの民がかつてエジプトの奴隷から解放された時、いけにえの犠牲の血によって災いが過ぎ越された時のように、私たちを救い出すための贖いの血であり、イエス様ご自身が、いけにえの小羊であられることを示しています。
今年は、例年になく寒い日が続き、まだまだ春の訪れも当分先のような気がしていますが、もうすぐ受難週を迎えようとしています。
そろそろ気持ちを引き締めていかねば、と思うのですが、「祭りの間はやめておこう」というような身勝手な考えをしていた祭司長たちの言葉を見ると、イエス様の覚悟とは遠くかけ離れた、ぬくぬくと過ごしている自分を見ているような気がしてしまいます。
今日与えられている個所に留まらず、一度、イエス様が十字架で死なれた全ての聖書個所を読み、心して備えていきたいと思います。


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マタイ25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

有名なタラントンのたとえである。
イエス様はここで、天の国にたとえて語られているのであるが、主人とは神、僕とは私たちのことであるということであろう。
では、タラントンとは何か。
神様から委ねられた賜物、恵み、御言葉等、あらゆる事柄を想定しているのだろう。
しかし、ここで注目しておきたいことは、主なる神様は、私たちに委ねられたタラントンを、どのように用いるべきかということまで指示しているわけではないということである。あくまで、委ねられた者が考え、ある程度自由な裁量で用いることを望んでいらっしゃるのだ。
つまり私たちは、決められた労働をするためのロボットのような働きを求められているのではなく、あくまで自由な裁量の中で、何が一番良いことであるか、考え、試し、失敗もすれば反省し、修正し、より良い用い方はないか、常に考えて行動することが求められているのではないだろうかと思う。
そう思う時、主なる神様は、私たちを最大限に期待していらっしゃるのではないだろうかと思わされるのだ。
1タラントンを預けた者に、主人は、少なくとも、銀行に預けておくなど、知恵がないなら、ないなりに、なすべきことはあったはずではないかと仰せられる。
それが生きている者の証ではないか。
私たちは、生きて、考え、私自身が活用されていくことを望んで行動していくとき、もっとも自分らしく生き生きとしていられるのかもしれない。

主が私に期待してくださる。
なんと嬉しいことだろう。
主の期待に応えていきたいものだ。

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マタイ24:45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
24:46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
24:47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
24:48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
24:49 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
24:50 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

常に緊張感を保ち続け、非常時に備えておくということは、とても大変なことである。
しかし、常に自分が何物であるかを悟り、その分に応じて生きていくことは、それほど難しいことではない。
イエス様の仰せられることは、そういうことではないだろうか。

管理を任された僕は、主人がいつ帰ってきても良いように常に緊張感を持って備えるよりも、管理を任されたものとして、自分のなすべき務めが何であるかを考え、それに忠実に生きていくならば、きっと、それが一番の備えになるであろう。

私の務めとは何であろうか。
来るべき日に備えて何を準備するかではなく、今日成すべき務めを果たしていきたいと願う。

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マタイ24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

連日、海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」と漁船の衝突事故のニュースが報道されている。
万が一にもあってはならない事故。
しかし、それが起こってしまった。
監視員は、万に一つの、そのたった一つの瞬間のために、日々備えておかなければならないのだ。
確かに、万に比べれば、一という数字は、無いに等しく思えるのかもしれない。
しかし、万にせよ、一にせよ、数字が存在することを表しているものである以上、それは必ず「起こる」もの。

イエス様が語られている「終わりの時」も、それがいつ、どのようにして起こるのか、誰も知らない。しかし、それは必ず「起こる」もの。
万が一に備えて、そのたった一つの「一」に備えて、日々、怠ることなく、御言葉に信頼して歩む者でありたいと願う。

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マタイ24:34 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
24:35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

私たちの住んでいる、この世界は、やがて滅びる時が来る、とイエス様は仰せられる。
しかし、イエス様の言葉は決して滅びないと。
それは何故か。
この世界の全ては、神の言葉によって創られたものだからである。
創造者なる神とこの世界の被造物との関係は、作家と作品の関係に似ている。
私たちは神の作品。

エフェソ2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

たとえ私の歩みが消え行くようなものであったとしても、私を創られた神の言葉が永遠であるなら、私は幸いである。

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マタイ24:15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
24:18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
24:19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
24:20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
24:22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。

主イエス様は、世の終わりの時が必ずや来るであろうことを告げられ、その時の兆候として起こるであろ、様々な事柄について語られています。
その際、多くの苦難がもたらされるとのことなのですが、神様の願いは、それらの苦難に負け、信仰を捨ててしまうことではなく、あくまで、それらに耐え忍び、やがてもたらされる栄光の命に与ることに尽きると言えるでしょう。
そのために、苦難の期間を縮めて下さるとも語られているのです。
願わくは、これらの時に、耐えうる信仰を与えて下さいますように。
そして、輝く栄光の御国において、主イエス様とお会いすることができることを待ち望みつつ、備えて祈りの日々を続けていきたいものです。

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マタイ24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

イエス様は、世の終わりが確かにやってくることを告げられ、その前触れに怒るであろう恐ろしい出来事を幾つか告げられている。
メシアを名乗るものや、偽預言者たちの出現。
各地で戦争や暴動が起こり、民同士、国同士が争い始める。
そして、方々に飢饉や地震が起こり、まさに、苦難の時代がやってくるであろうと言うのである。
人々の間には不正がはびこり、愛は冷え、いったい、何を信用したらよいのか分からなくなってしまうかもしれない。
しかし、イエス様は、このような苦難の時代が必ず起こるであろうことを告げられたあと、「この福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる」と仰せられている。
一体、どこが福音なのか。何が喜びの知らせというのだろうか。
3~13節の記述の中で、福音と呼びうる事柄は、ただ一つ。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という記述の「救われる」という言葉である。
正確には「(彼は)救われるであろう」というように、未来形の受身の形となっている。
やはり、それまでは忍耐しなければならないということであろう。
しかし、救いは受けるものであるということを覚える時、それが大きな福音であるということを思う。
私の忍耐が根拠なのではなく、救いはあくまで「受ける」もの、神からの賜物であるということを覚えたいものである。

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マタイ24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

神殿の境内に入ると、弟子たちは、イエス様に神殿の建物を指差して、暗に「あの神殿はどうなるのですか」と尋ねようとしたのでしょう。律法学者やファリサイ派の人たちに対する裁きの言葉を聞いているうちに、弟子たちのうちに「まさか神殿まで裁きの対象になってしまうのだろうか」というような不安な気持ちが宿り始めていたのかもしれません。
しかし、イエス様は、なんらためらうことなく、「この神殿もいつの日か崩されてしまう時が来る」ということを告げられるのです。

ある人にとっては、人生最大のプロジェクトがマイホームの建設だったりするかもしれません。しかし、それとて、永遠に残るようなものではありません。
半永久的と思われていたコンクリートの建造物ですら、月日の経過と共に、崩壊する危険性があることがわかってきたそうですが、ましてや、石を積み上げただけの建造物や、日本の伝統的な建築物である、木造建築などは、ひとたび地震や火災が発生すると、たちまち灰燼に帰してしまうのです。

ヨハネ14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

永遠に損なわれることのない私たちの住まい。
天の真の都に住まうことのできる約束を感謝します。



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マタイ23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

めん鳥が雛を思う気持ちとは、いかばかりであったであろうか。
イエス様の深い悲しみの心を思うとき、私たちは、いったいどれほど神様を悲しませてきたのだろうかと思う。

イエス様の深い愛の心に触れ、神の御思いに応じる者でありたい。
きっとそこに主はおられるのだから。

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