聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヨブ21:7 なぜ、神に逆らう者が生き永らえ年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
21:8 子孫は彼らを囲んで確かに続きその末を目の前に見ることができる。
21:9 その家は平和で、何の恐れもなく神の鞭が彼らに下ることはない。
21:10 彼らの雄牛は常に子をはらませ雌牛は子を産んで、死なせることはない。
21:11 彼らは羊の群れのように子供を送り出しその子らは踊り跳ね
21:12 太鼓や竪琴に合わせて歌い笛を吹いて楽しむ。
21:13 彼らは幸せに人生を送り安らかに陰府に赴く。
21:14 彼らは神に向かって言う。「ほうっておいてください。あなたに従う道など知りたくもない。
21:15 なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか。」
21:16 だが、彼らは財産を手にしているではないか。神に逆らう者の考えはわたしから遠い。

自分は潔白であり、何故、神は助けてはくれないのかと訴えるヨブと、ヨブにこのような災いがもたらされたのは、ヨブに何らかの原因があったはずだからと主張する友人たちとの対話は、平行線を辿り、ますます批判の応酬へと進んでいきました。
そして、ヨブは、友人たちの主張する「神を畏れ敬う者は神に祝福され、神に逆らう者は罰を逃れることはできない」という因果応報的な考えに対し、現実には、神に逆らって生きている者たちが富を蓄え、その子孫もさらに祝福されているではないかと言って、彼らの主張が理想論に過ぎないものであると指摘しているのです。
確かにこの世では、神を畏れ誠実に生きる者よりも、神に逆らい、己の利益を優先させている者の方が一見幸いな人生を送っているようにも思えます。
しかし、そこには大きな落とし穴があることを見失ってしまいがちです。
確かにこの世で成功している人たちの多くは、神を畏れず、利益優先で、合理的に生きているようにも見えます。一方で、神を畏れ、正直に生きている人は、裕福とは無縁の生活を送っていることもあるでしょう。
しかし、果たして全てがそうなのでしょうか。中には、神を畏れ敬いつつ、世の中で貢献し、成功を収めている人もいますし、神を畏れず、傍若無人な振る舞いをして、その身に裁きを招いている人たちもいるでしょう。
そして、ヨブが語っているように、善人も悪人も、終には等しく死を迎えるのであり、その点だけについて言えば、人は平等だと言えるのです。
つまり、富や成功に限って見るなら、この世はいかにも不公平なところであり、生と死に関して言うならば、死は誰にも公平に訪れるものであるということなのです。
ヨブは、そのことについて、おぼろげに気がつきはじめていたのかもしれませんが、しかし、まだ人間の幸いとは、この地上での祝福された生活にあるという考え方からは、完全には解放されていなかったようです。
いかにも、地上に生きる人間の限界、人間の生の姿を見ているようです。
人間にとって、何が本当に幸いなことなのか、それに気がついた時、私たちは、神がどれほど大きな恵みを賜わっていて下さるかということを知ることが出来るのではないでしょうか。

マタイ16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

私の人生は、命あってのもの。
しかも、それは、神の御子キリストの尊い代価によって贖われたものであることを覚えたいものです。

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ヨブ20:1 ナアマ人ツォファルは答えた。
20:2 さまざまな思いがわたしを興奮させるのでわたしは反論せざるをえない。
20:3 あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。
20:4 あなたも知っているだろうが昔、人が地上に置かれたときから
20:5 神に逆らう者の喜びは、はかなく神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。
20:6 たとえ彼が天に達するほど頭が雲に達するほど上って行っても
20:7 自分の汚物と同様、永久に失われ探す者は、「どこへ行ってしまったのか」と言わなければならなくなる。
20:8 夢のように飛び去り夜の幻のように消えうせだれも見いだすことはないだろう。
20:9 彼を見ていた目はもう彼を見ることなく彼のいた所も二度と彼を見ない。
20:10 その子らは貧しい人々に償いをし子孫は奪った富を返済しなければならない。
20:11 若さがその骨に溢れていたがそれも彼と共に塵の上に伏すことになろう。

ナアマ人ツォファルは、ヨブと他の友人たちとの問答を聞いているうちに、自分のうちに様々な思いが沸き起こり「興奮」させるので、反論せざるを得ないと語っています。
彼の興奮は、怒りにも似た、悪を決して許しはしないという正義にも似たものであったことでしょう。
しかし、皮肉なことに、そのような彼のヨブに対する姿勢は、彼自身「あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる」と言っている通り、結果的にヨブを非難していることに気付いておらず、何ら、悪意とか責めとかいった感情を抱いてはいないのです。
人とは、かくも恐ろしいもの。
自分も同じ罪を犯しているというのに、他人が同じ罪を犯していると、徹底的に裁こうとすることができてしまうのです。

マタイ7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

私もツォファルと同じ罪を犯しているのでしょう。
「ツォファルはどうだ。ヨブはどうだ。」と言って裁いているようなものですから。
しかし、だからこそ、神の御前に、この私自身の罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いの故に赦されている事実を、信仰を通して受け取ることができるようにしたいものです。

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ヨブ19:23 どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれるように。
19:24 たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。
19:25 わたしは知っているわたしを贖う方は生きておられついには塵の上に立たれるであろう。
19:26 この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。
19:27 このわたしが仰ぎ見るほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

もはやヨブにとって、神の存在は、彼を悩ます友人たちと同等で、自分を苦しめるだけの敵のような存在として語られている。
しかし、そのようなヨブが、自分を助け出してくれる方、贖ってくれる方が必ず生きていると訴えている。
つまり、彼の中では、神と救い主(もしくは贖い主)とは、まったく別々の方として捉えられているということである。
しかし、神はお一人である。
徹底して義なるお方であり、徹底して愛なるお方である。
それ故に、神自ら、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、贖って下さったのである。

神の義と愛のあるところ。それが、イエス・キリストの十字架。


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ヨブ18:1 シュア人ビルダドは答えた。
18:2 いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。
18:3 なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。
18:4 怒りによって自らを引き裂く者よ あなたのために地が見捨てられ 岩がその場所から移されるだろうか。

ヨブを慰めようとしていた友人たちの言葉は、ヨブに罪を認めさせ、悔い改めさせることによって、救い出されるというものであり、そのようなヨブを諭そうとする言葉は、ヨブにとっては単なる裁きの言葉でしかなく、かえってヨブを苦しめるだけのものとなっていました。
そうしたやり取りが続く中、ついにビルダドはヨブを裁くような言葉を吐き出してしまいます。
しかし、彼自身も言葉の罠の掛け合いをしている者であるという自覚は持っていないようです。誰も、自分は正しい、自分だけは正しいと思うもので、他の二人とヨブの問答を指して「言葉の罠の掛け合い」と評しているのでしょう。
誰も、自分のことは見えているようで、何も見えていないものです。
そして、他人を裁く言葉によって、自分を裁いてしまうものです。

ローマ2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

あの人は罪を犯していると思う、その同じ罪を私も犯している。
だから主イエス様の贖いが必要なのです。

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ヨブ17:11 わたしの人生は過ぎ去りわたしの計画も心の願いも失われた。
17:12 夜は昼となり暗黒の後に光が近づくと人は言うが
17:13 わたしは陰府に自分のための家を求めその暗黒に寝床を整えた。
17:14 墓穴に向かって「あなたはわたしの父」と言い蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。
17:15 どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。
17:16 それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。

ヨブは、多くの苦しみの中にあって、もはや自分の人生は終わりを遂げ、死者の行くべき陰府に横たわっているも同然であると嘆いている。
それほど、絶望的であったということを示しているのだろう。
しかし、ユダヤの人たちにとって、陰府とは、死者の世界であり、復活の希望がなかったわけではない。にもかかわらず、ヨブがこれほどの絶望を口にしているのは、地上での生涯があまりにも苦しく、神に裁かれたも同然であると考えたからなのだろう。
暗黒の後に光が近づくと教えたのは、ヨブの友人たちであったかもしれないが、ヨブ自身、この言葉を使っていること自体、その先に希望があることを見失ってはいなかったのだろう。あるいは、わずかな望みに託していたのかもしれない。
そう思う時、試練の中でついついつぶやいてしまう私たちも、口では絶望をつぶやきながら、心のどこかでわずかな希望を抱きつづけているのだろう。
神の形に似せて人が創られたのであるからこそ、人は最後まで望みを捨てようとはしないのかもしれない。
そうだとするなら、もっと積極的に神に求め、希望を見出していけるようになりたい、と私は思う。

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使徒9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
9:20 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
9:21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
9:22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

本日は、使徒パウロの日となっている。
あの偉大な伝道者パウロを覚える日。
パウロの召しは、他の使徒たちとは少々異なり、イエス様が天に昇られてから後のことである。そういう意味では、現代の私たちが、自分の救いや召しについて考える時、パウロの召しに注目することは重要である。
パウロは、異邦人に福音を宣べ伝えるために召された使徒である。
そして、その召しに従って、彼は数々の試練、困難をも乗り越えて、イエス・キリストによる救いの約束という福音のメッセージを宣べ伝えていった。

召しとは、召された事実よりも、その働き、目的が重要なのである。
クリスチャンとなったことに甘んじるのではなく、なぜ主が私をお選びになったのかを考え、私にできる福音宣教の働きを担っていきたいと願うものである。


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ヨブ16:1 ヨブは答えた。
16:2 そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。
16:3 「無駄口はやめよ」とか「何にいらだってそんな答えをするのか」と言う。
16:4 わたしがあなたたちの立場にあったならそのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ねあなたたちに向かって頭を振り
16:5 口先で励まし唇を動かすことをやめなかっただろうか。
16:6 語っても苦しみはやまず黙っていても、それは去りません。

試練の真っ只中にあったヨブに対し、友人たちの言葉は何の慰めにもならないばかりか、ますますヨブを苦しめる結果となっていました。
むしろ、ヨブが負った試練の中で、彼らからの責めのほうが最も辛いものであったかもしれません。

私たちも、友人が試練の中にある時は、慰めてあげたいと願うものです。
しかし、上っ面の言葉だけで、どんな慰めを与えることができるのでしょう。
かえって、言葉をかけないほうがいい時もあります。
そんな時、イエス様ならどうなさるだろうかと考えてみます。

ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女性が公の場に引きずり出され、石打ちにされようとしていた時、イエス様は、だまって地面に何か書いておられたということが記されています。
イエス様は、なぜ、彼らを無視していたのか。
おそらく、わざと無視していたのでしょう。
そして、彼らに対し「罪のない者が最初に石を投げよ」と命じられると、そこにいた人たちは全て立ち去り、最後に残ったイエス様も「私もあなたを罪に定めない」とおおせられたのです。
イエス様がそう仰るならば、私たちが「おまえは罪人だ」と言って誰かを非難する資格などないはずです。
イエス様が「私の命を持ってあなたの罪を償ったのだ」と仰せられる時、私たちに「あなたの罪は赦されない」とは言えないのです。

安易な言葉を持って誰かを慰めることはできないですが、イエス様の慰めがあることをお伝えすることによって、真の慰めを得てほしいと思うものです。

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ヨブ15:1 テマン人エリファズは答えた。
15:2 知恵ある者が空虚な意見を述べたりその腹を東風で満たしたりするであろうか。
15:3 無益な言葉をもって論じたり役に立たない論議を重ねたりするであろうか。
15:4 あなたは神を畏れ敬うことを捨て嘆き訴えることをやめた。
15:5 あなたの口は罪に導かれて語り舌はこざかしい論法を選ぶ。
15:6 あなたを罪に定めるのはわたしではなくあなた自身の口だ。あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ。
15:7 あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか。
15:8 神の奥義を聞き知恵を自分のものとしたのか。
15:9 あなたの知っていることでわたしたちの知らないことがあろうか。わたしたちには及びもつかないことをあなたが悟れるというのか。
15:10 わたしたちの中には白髪の老人もありあなたの父より年上の者もある。
15:11 神の慰めなどは取るに足らない優しい言葉は役に立たない、というのか。
15:12 なぜ、あなたは取り乱すのか。なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか。
15:13 神に向かって憤りを返しそんな言葉を口に出すとは何事か。
15:14 どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が正しくありえよう。
15:15 神は聖なる人々をも信頼なさらず天すら、神の目には清くない。
15:16 まして人間は、水を飲むように不正を飲む者憎むべき汚れた者なのだ。

エリファズのヨブに対する言葉は、ある面、正しいことも述べているのでしょうが、ヨブの置かれている状況を見るとき、あまりにも場違いな、厳しい言葉となっており、ますますヨブの怒りを燃え立たせるだけのものとなっています。
どんなに正しい言葉であっても、それを用いる状況、相手、言い方、表情など、よくよく考えなければならないものです。ましてや、普段からのその人との人間関係が上手く築かれていないような場合など、あまり親しくもない人から「あなたは罪人だ」などと言われることは、怒りを助長するだけでしょう。
一方で、それほど親しくもない人であっても、本当に困っている時にあたたかい言葉をかけてくれる人を見つけたら、その人こそ、真の友と呼ぶにふさわしい人であるといえます。
そういう意味では、人は試練の中にある時に、はじめて本当の友が誰であるかを知ることができるのかもしれません。

ヨハネ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

イエス様こそ、真の友。
なぜなら、私を滅びの穴より救い出して下さるお方だからです。

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ヨブ14:1 人は女から生まれ、人生は短く苦しみは絶えない。
14:2 花のように咲き出ては、しおれ影のように移ろい、永らえることはない。
14:3 あなたが御目を開いて見ておられるのはこのような者なのです。このようなわたしをあなたに対して裁きの座に引き出されるのですか。
14:4 汚れたものから清いものを引き出すことができましょうか。だれひとりできないのです。
14:5 人生はあなたが定められたとおり月日の数もあなた次第。あなたの決定されたことを人は侵せない。
14:6 御目をこのような人間からそらせてください。彼の命は絶え傭兵のようにその日を喜ぶでしょう。
14:7 木には希望がある、というように木は切られても、また新芽を吹き若枝の絶えることはない。
14:8 地におろしたその根が老い幹が朽ちて、塵に返ろうとも
14:9 水気にあえば、また芽を吹き苗木のように枝を張る。
14:10 だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。
14:11 海の水が涸れ川の流れが尽きて干上がることもあろう。
14:12 だが、倒れ伏した人間は再び立ち上がることなく天の続くかぎりはその眠りから覚めることがない。
14:13 どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまでわたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてくださいわたしを思い起こす時を。
14:14 人は死んでしまえばもう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。

ヨブは、苦しみの中で生き続けるよりは、いっそ、神に見捨てられ、死んだほうがマシだと言わんばかりに、神につぶやき続けていきます。
しかし、その表現は、人はあたかも咲いては枯れゆく花のようで、時が来れば新芽を吹き、新たな新緑の季節を迎える木々とは異なり、刈れてしまえば、もう二度と同じ茎からは咲くことのない一年草の草花のように、はかない存在に過ぎないと、極めて詩的な表現を用いているのです。
詩的な表現は、ヨブに限らず、聖書のあちこちに見られるものですが、多くの場合、神を讃美する時に用いられているものです。
ヨブのつぶやきは、内容的には神に対するつぶやきとなっているものの、形式的には讃美のようなスタイル、そして、実態は「祈り」なのです。
つまり、人は絶望の淵に立たされてもなお、讃美の心を忘れず、祈り続けるものなのだということなのかもしれません。
そして、その祈りとは、救いを求める人間の持つ根源的な性質であると言えるでしょう。
つまり、ヨブは「自分など見捨ててくれ」と神につぶやきつつ、その実態は、「はやく助けてください」というものであるということなのでしょう。
神に対する人間の根源的な祈りは「主よ、救ってください」というものでありましょう。その祈りに忠実な言葉を素直に口にすることができるようにしたいものです。


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ヨブ13:16 このわたしをこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか。
13:17 よく聞いてくれ、わたしの言葉を。わたしの言い分に耳を傾けてくれ。
13:18 見よ、わたしは訴えを述べる。わたしは知っている、わたしが正しいのだ。
13:19 わたしのために争ってくれる者があればもはや、わたしは黙って死んでもよい。
13:20 ただ、やめていただきたいことが二つあります御前から逃げ隠れはいたしませんから。
13:21 わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。
13:22 そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。
13:23 罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください。
13:24 なぜ、あなたは御顔を隠しわたしを敵と見なされるのですか。

ヨブの訴えは、いよいよ切実さを増し、三人の友人たちとのやり取りを通り越して、主なる神様へと向かおうとしています。
しかし、その主張は、自分は正々堂々と神の御前に立ち、神に訴えているのであり、それ故に自分は正しい者であるということ、正しい者であるが故に、とにかくこの苦しみを取り除いてほしいというようなものとなっています。
しかし、このような態度は、果たして本当に正しいものなのでしょうか。
自分の信仰は、他の誰かよりも優っているとか、自分の信仰は正しいが、あの人の信仰は間違っているとか、そのような思いは、それこそ、本当に正しいものなのでしょうか。
イエス様は次のように仰せられています。

マタイ7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

たいへん厳しい御言葉ですが、捉え方によっては、御言葉に聞き、従うことを大切にしていけば良いということになるでしょう。
クリスチャンらしく振舞うことと、クリスチャンとして生きることの違いを見極めながら、主の御言葉に聞き従う者でありたいと願う者です。

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