聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヘブル 13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
13:3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
13:4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
13:6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」
13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
13:10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。
13:11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。
13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
13:13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。
13:14 わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。
13:15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
13:16 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
13:17 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。
13:18 わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。
13:19 特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。
13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、
13:21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
13:22 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。
13:23 わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。
13:24 あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
13:25 恵みがあなたがた一同と共にあるように。

信仰者に求められる生き方は、そう特別なものではない。
むしろ、普遍的で、誰もがそうありたいと願うようなことばかりではないだろうか。
兄弟を愛し、旅人をもてなし、捕らわれている者や虐待されている人たちの事を思いやり、結婚を尊び、みだらな行為を避け、金銭に執着せず、今持っているもので満足する。
何ら特別なことが求められているわけではなく、これらのことが普通に守られていくならば、社会も平和で豊かなものとなるのであろう。
そして、それらに加えて、我々の罪を贖うために十字架でご自分の命を捧げて下さったイエス様のことを覚え、イエス様が誰のために命を捧げられたのかということを覚え、イエス様の愛の向けられた人々へお仕えしていく。
イエス様の思いは、全ての人に向けられていることを覚え、私が出会っていく人、一人一人にイエス様の愛が注がれていくように、私たちの生き方も用いて頂ければと願う。
まずは、イエス様の思いがどういうものであり、誰に向けられてるのかをしっかりと心にとどめて歩んでいきたいものである。

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ヘブル 12:14 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
12:15 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
12:16 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。
12:17 あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。
12:18 -19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
12:20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。
12:21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
12:22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
12:23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、
12:24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
12:25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
12:26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
12:27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
12:29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

聖なる者として生きるということは、何を選択し、何に触れていくかが大切である。
人は自分が大切にし、身近に置いておくものによって、その生き方はおろか、先々の結果もみな変わってくるからである。
まさに「朱に交われば赤くなる」のごとくであろう。
そこで、自分の生き方を振り返ってみる。
なんと、世的な事柄に囲まれて、それらのものの虜になっていることだろう。
全てを捨てるとまではいかないにしても、せめて、心は常にイエス様に向けた状態で、身を滅ぼさぬよう生きていきたいものである。
今目に見える全てのものは、いつか必ず揺り動かされ、滅びゆくもの。
それらのモノにとらわれ過ぎず、揺り動かされることのない御国の約束に心を留めて歩んでいきたいものである。

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ヘブル 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。
12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

聖書を読むとき、多くの信仰者たちの信仰の戦いや格闘、苦闘を知ることができる。
もちろん、イエス様の十字架の御業もそうである。
私たちは、こうした人々やイエス様の歩んでこられた道を知り、彼らが今や、神のみもとで生きていることを思うとき、「おびただしい証人に囲まれている」との証言によって、大いに励まされもする。
そして、何時の日か、自分もそこに加わるだろう。
そして、後の人たちにとって、励ましとなり、慰めとなるような、そんな生涯を全うしたいと望む。
もちろん、今を共に生きている人たちにとっても励ましとなれるよう心掛けていきたいものである。
そのために、信仰の創始者であり完成者であるキリストを見上げながら、この方の贖いによって救われていることを覚えつつ、歩んでいきたいものである。

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ヘブル 11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、
11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、
11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。
11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

この箇所を読むと、信仰に生きれば、誰もがどんな試練をも耐え抜くことができ、力強い歩みを続けていくことができるかのように思えるかもしれない。
しかし、実際には、ここに名前の挙がった人たちでさえ、悩み、つぶやき、時には神の御心を損なうような歩みもたくさん積み重ねている。
いわゆる、普通の人間なのである。
しかし、神の御心に従うべきかどうか、究極の選択を迫られた時には、やはり「神に従う」ということを選び、決断し、行動してきた、ということであろう。
そういった出来事がクローズアップされているからこそ、彼らの信仰の生涯が素晴らしいものに見えるのであろう。
そんな「信仰の生涯」を送った信仰の祖を見上げながら、我々もまた、彼らと同じように主なる神のみを恐れ敬い、神が備えて下さる約束のものを求めながら、信仰の生涯を歩んでくことは、ここでの勧めの中心なのであろう。
彼らに比べたら、なんとちっぽけなことで悩んだり恐れたりしているのだろうか、などと悩むことがあるかもしれないが、そうではなく、彼らもまた、恐れ、悩み、苦しんだのである。
ただ、ここぞという時には、主なる神に従ったのである。
それはどんな時かと言えば、もはや自分の力ではどうするこもできない絶望的な時にこそ、彼らは神に立ち返り、神を頼り、神に従ったのである。
多くの信仰者が迫害に苦しみ、殉教していった者たちもいる。
そんな彼らも、死の瀬戸際まで追い詰められ、もはやこれまで、という中で、キリストへの信仰が最後の望みであったであろうし、人が死ぬ直前に想うことは「神様、助けて!」という信仰の叫びなのだろうと思う。
死の直前だけでなくとも、我々はいつでも死に瀕しているし、何度も絶望の淵に立たされる。
だからこそ、神を求める信仰が必要であるし、養われていくのかもしれない。
願わくは、多くの試練を経ない、平穏な生涯を歩み続けたいところであるが、何気ない平凡な日常の中にも、主なる神を求め、祝福を祈りつつ歩み続けていけるように。

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ヘブル 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである、と述べられ、旧約聖書の時代に生きた人たちも、希望を抱いて神の祝福を待ち望みつつ、いまだ見えていない救いの時を覚えながら、信仰の生涯を歩んだ、といったことが語られている。
つまり、彼らは、望んでいたものを実際には手に入れることはできなかった、ともとれる。
手に入れることはできなかった、というのは正確ではないが、手に入ったから神に従った、のではなく、いつか必ず手に入るだろうから従って行く、といった生涯を歩んだということなのだろう。

今の時代を振り返ってみると、あまりにも結果を重視過ぎる。
そして、少しでも早く結果を得ようと、常に追い立てられている。
そんな状況下にあって、良い結果が得られるとも思わないが、もう少し、結果にこだわらない生き方があっても良いし、仮に失敗したとしても、そこから得られるものもあることと思うし、時間をかけて、得られるかどうかもわからない希望を目指して歩んでく、そんな人生を送るのも悪くはないし、本当はそうあるべきなのかもしれない。
ヴィジョンという言葉があるが、ヴィジョンとは、かくあるべき結果、そうならねばならない結末、ではない。
なるかどうかわからないが、それを目指して歩んでくための指標のようなものであり、それが神の御心であるならば、必ず実現していく、ということなのだろう。
時には御心と違うところを目指して歩み続けていることがあるかもしれないが、それは仕方のないことだし、あまり気にする必要はないと思う。
間違っていることが分かったら、その時点で改め、やり直せばいい。
信仰とは、目には見えない神と共に歩むこと。
常に神に助けを求めながら、一歩一歩、前に進んでいくこと。
そんな風に捉えて歩んでいければ、それで良いと思う。

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マタイ 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

イエス様は「なたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と仰せられている。
一見、価値観の逆転を導く言葉のように思えるが、実際には、人の上に立つということは、それなりの責任があり、結局は多くの人のために仕えることになるし、そうでなければならない。
しかし、多くの人は意外とこのことを分かっておらず、人の上に立ち、人を奴隷のように扱ってしまいがちなのだろう。
本当はそういう人は、人の上に立っているのではなく、自分が奴隷のように扱っている人たちに養ってもらっているだけであり、上か下かと言えば、下なのであろう。
イエス様が人としてこられた理由は「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と語られている。
イエス様の十字架の御業がそれであり、多くの人を養い、支え、本質的に言えば「上に立つ」お方なのである。
周囲の人と見比べて、自分の方が上か下かと思い悩む前に、まずは、どうすれば周囲の人々のお役に立ち、お手伝いできるだろうか、そんな視点で物事を考えていけたら良いと思う。
きっと、イエス様も、そんな風に我々が生きることを願っておられるだろうから。


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ヘブル 10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。
10:20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
10:21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、
10:22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
10:24 互いに愛と善行に励むように心がけ、
10:25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
10:26 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。
10:27 ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。
10:28 モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。
10:29 まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。
10:30 「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言い、また、「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。
10:31 生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。
10:33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。
10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
10:35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
10:37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
10:38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」
10:39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

イエス様が自らの命をもって、神との間にあった隔ての壁を打ち破って下さり、私たちを神のみもとに立たせて下さることになった救いの約束。
それは、神が約束されたものである限り、真実であり、何があろうとも損なわれることのない約束である。
そのことを私たちは覚え、どんな困難があろうとも、この真実な約束に立って信仰者としての人生を歩み続けていくべきであろう。
もちろん、恐れ、ひるむこともあるかもしれない。
だからこそ、このような勧めの言葉なのかもしれない。
恐れ、ひるみ、逃げ出したくなることもあるかもしれない。
しかし、主イエス様は、私たちの救いのために、恐れることも、ひるむこともなく、真っすぐに十字架へと進んで行かれたのである。
他ならない、この私の救いのために。
このイエス様の十字架へと向かわれた思いに心を留め、しんどい時こそ、イエス様の御業を思い起こし、弱くとも、小さくとも、信仰に生きる者として歩み続けていきたいものである。

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ヘブル 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。
10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
10:5 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。
10:6 あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。
10:7 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
10:8 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、
10:9 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。
10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、
10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。
10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
10:15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
10:16 「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。
10:17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

律法では、罪を赦してもらうために、犠牲のいけにえを捧げることが語られている。
しかし、その本質は、己の罪を悔い改め、神の御前に赦しを乞うところにあるのであり、犠牲のいけにえが何であるべきとか、どう捧げるべきかといったことは大きな問題ではないのであろう。
しかし、人は、何を捧げたか、どう捧げたか、そういうところに注目してしまいがちである。


そもそも、この世界の全てを創された神様にとって、ご自身が創造された被造物を捧げられたところで、何ら喜ばしいことはないだろう。
それよりも、ご自分が創造された人間が、神のみもとに立ち返り、神の御心に従って生きようとすることを喜ばれるに違いない。

詩篇51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 

イエス様の十字架の贖いによって、あなたの罪のための犠牲のいけにえはもう必要ではなく、必要なのは、このイエス様の十字架の贖いのおかげで完全なる赦しと救いが約束されていることを素直に受け止めていくことである。
それがまことの悔い改めであり、信仰に必要なことである。


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ヘブル 9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。
9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

1節には「天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないが、天にあるもの自体は、これよりまさったいけにえによって、清められねばならない」と記されている。
この世のものは、この世のものをいけにえとして捧げることで清められ、天のものは、天にあるものをいけにえとして清められる、といった感じであろうか。
そうならば、我々は、この世にいながら、既に天のいけにえによって清められ、天のものとなっている、ということである。
既に天にある栄光を頂きながら、この世にいる、ということであろう。
天のものは永遠であり、滅びることはない。
これほど光栄な命の約束を既に頂きながら、あえて有限の世に生かされているということは、もはや、何の心配も要らない人生を過ごせるということではないだろうか。
そのために、イエス様がただ一度、ご自身の命をもって、このような素晴らしい救いを実現して下さったことを覚え、救いは既に完成しているということに希望を抱き、安心して、与えられた所での歩みを全うしていきたいものである。

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ヘブル 9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。
9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。
9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、
9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。
9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。
9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。
9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。
9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。
9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
9:14 まして、永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
9:16 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。
9:17 遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。
9:18 だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。
9:19 というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、
9:20 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。
9:21 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。
9:22 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

旧約聖書に規定されている聖所における礼拝の仕組みは、のちのキリストによる永遠の贖いのひな型となっている。
だから、決して、旧約聖書の言葉が不要になったのではなく、イエス様によって成し遂げられた贖いの御業を理解するために必要なのである。
しかし、その大祭司のとりなしのはたらきについては、「ただ一度」でなしとげられた「永遠」のものであるという点で決定的に違っており、それ故に、私たちの救いも完全であり永遠であると言えるのである。
毎週の礼拝では、この事実をみ言葉を通して聞き、恵みの支配のうちに置いていただいていることを確認するのである。
ともすると、なにか「礼拝を捧げる」といった風に受け止めがちであるが、私たちの側に捧げるものなどなく、全ては与えられたものである。
与えられたものであることを知り、感謝するのであり、捧げられるとすれば「感謝」の心しかないだろう。
イエス様が十字架において、体を裂き、血を流し、自らの命を捧げて下さったことで、全ての罪は清められており、安心して、神のみもとに立ち返ることができるのである。
このような契約のうちに、神の国の相続者としていただいたことを感謝し、頂いた恵みを無駄にしないように過ごしていきたいものである。

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