聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

明日のことがどうなるのかは、誰にもわからない。
すると、どうしようもなく不安になることがあるかもしれない。
そんな時、なかなか次の一歩を踏み出せないでとどまってしまうこともある。

あるいは、今こうして生きていることに意味があるのだろうか、今自分がやっていることが正しいのかと悩むこともある。
すぐに結果が分かればいいけれど、なかなかそういかないものも多い。

そんな時、どうやって今の自分を肯定していけばいいか。

私なら、そんな時、この御言葉を思い出す。
今こうして生かされていること自体、神様の憐れみのおかげであって、私の命を奪おうと思えば、いつでも奪えるのに、神様はあえてそれをなさらない。
つまり、今ここに生きることを赦されているのだ。
それどころか、何か期待していらっしゃるのかもしれない。
もちろん、どんな大きな功績を残せなくても良い。
「ただあなたがそこにいて、生きていることが嬉しいのだ」と、そんな風に神様は私のことを見てくれていると思う。
それが、何の働きもないのに生きていることを赦されている者の証である。

神様は、一羽の雀よりも、私たちのことをはるかに尊い存在として愛してくれているのだから。

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ルカ12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。
12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

イエス様は、覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないと仰せられる。
全ての事が、必ず明らかにされる日が来るというのである。

先日、ヨハネの黙示録の学びをした際、終わりの時には、人がした全ての行いに応じて裁きが行われるということを学んだ。
そして、その時には、幾つもの書物が読み上げられるという。
おそらく、そこには、私たちの生涯の全ての行動が記されているのであろう。

黙示録20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

正直、こんなことが行われたなら、たまったものではない。
何もかもが明らかにされるのだから、そんな状況の中、生きていられないほどであろう。
けれど、そこでは同時に「命の書」も読み上げられるのだ。
そこに名が記された者は、どんなに多くの罪を犯していても、救われる。
それが聖書の約束。
恐ろしいほどの恥と同時に、驚くべき平安が与えられる。
これが十字架の言葉、聖書の御言葉なのである。

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ルカ11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。
11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、
11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

イエス様は、ファリサイ派の人から食事の招待を受けた時、食事の前の清めの儀式を行わなかった。
ファリサイ派の人たちの罪を指摘するために、あえて、そうなさったのだろう。
ファリサイ派の人たちは、自分たちこそ、神に選ばれた者、神の律法を遵守することのできる者と考え、それ以外の者たちをさげすんでいたようである。
しかし、主なる神様がこのような「律法」の言葉を与えられた目的は何であったかというと、

マタイ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

と語られている通り、神を愛し、隣人を愛するために他ならない。
そう考えると、ファリサイ派の人たちの考えは、この趣旨に反するものであることは一目瞭然である。
どんな戒めも「神を愛し、隣人を愛する」という目的に沿って行われるのでなければ、それは空しい。

そして、究極の律法の業は、十字架で死なれたイエス様の姿にも表されている。
イエス様は、神を愛するが故に、神が創られた人間をも愛し、人間をを救うために、御自身の命を捨てて十字架で死んで下さった。
このようなお姿にこそ、真に律法に従い通したイエス様の愛の深さが表されている。
だから、我々も、どんな善き業を行うにしても、神への愛と、隣人への愛という観点を見失うことなく取り組んでいきたいものである。

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ルカ11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

ともし火は目である。
何を照らし、何を見ているか。
そして、何が映り、何を求めているか。
すべては目が見ているところに答えがある。

もし、光を見ないで、暗いものを見ていれば、目も、そして心も暗くなる。
全身が輝いていくためには、光を見る必要がある。

黙示録19:11 そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
19:12 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
19:13 また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。

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ルカ11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

よこしまな者たちは、信じるためにしるしを必要とする。
しかし、イエス様は、ヨナのしるし以外には与えられないと語られる。
ヨナのしるしとは、すなわち、魚に飲み込まれたけれども、三日目に生き返った出来事についてであり、イエス様が十字架にかけられて殺され、三日目によみがえられることを示しているものと思われる。
だから、しるしが必要というのなら、イエス様御自身がまさにそれであって、それ以外のしるしを求めることは、結局のところ、イエス様を信じることはないということなのだろう。

イエス様を信じない者たちは、ソロモンの時代に、ソロモンの知恵を聞くために南の国からやってきた女王や、ヨナの時代のニネベの人たちによって罪に定められるという。
何も、彼らが再び現われて、彼らを裁くというより、彼らの行動の正しさによって、彼らが信じた神の存在が確かなものであるということが明らかにされていくということなのだろう。
あるいは、彼らの行動の正しさに比較して、信じようとしなかった者たちの不誠実さが際立っていくということかもしれない。
いずれにせよ、神のなさる御業を受け入れ、神に従おうと歩んだ者たちの生き方が、神の存在を顕わにしていることは間違いない。
だから、今の時代に生きる者として、神の御言葉に聞き、従い、行動が変えられていくということが、私たちが信じていることを明らかにすることのできる唯一の手段であり、行動が変わることによって、私たちにも主を証する働きに携わることができると信じて歩んで行きたいものである。

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ルカ11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

我が家の子らが、そろそろ思春期を迎えようとしている。
きっと、いろんな葛藤があったり、親とぶつかり合うことも増えてくるのではないかと思う。
けれど、親とぶつかり合うことができるようなるということは、それなりに成長してきている証なのだろう。
いい意味で、嬉しいことと言える。
子供が小さいころは、育てることに精一杯で、それも楽しいひと時、幸いを感じる時であったとおもうけれど、子供らが成長して、自立していこうとしている姿を見ると、この子らが将来、親をも導いてくれるような存在になってくれたら、どんなに嬉しいことだろうかと思う。
与える時代も幸いだったけど、受ける幸いはもっと大きい。
人間としてのイエス様も、イエス様を産み育てたマリアより、イエス様から血と肉を頂き、赦しと平安を受ける我々がいかに幸いであるかということを覚えるものである。

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マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と仰せられ「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と語られている御言葉の通り、神の憐れみを必要とする者を喜ばれると語られている。
神に憐れまれる者であることを素直に喜びたい。
罪人であり、イエス様の十字架の贖いなしには滅び行く者であったところを、神の憐れみの故に救われた者となったことを感謝したい。
そして、この幸いに与る方が一人でも多く起こされるようにと願うばかりである。

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ルカ9:49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
9:50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

弟子たちにしてみると、「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない」との戒めに反する行為とみなしたのだろう。
しかし、イエス様の御名を用いた者たちは、イエス様の御名によって悪霊を追い出していることは事実であり、それはりっぱな主の働きである。
たまたまイエス様や弟子たちと共に行動しなかったからと言って、それを悪いことと捉えるのは早計であるということなのだろう。

私たちも、牧師の知らない所で行った活動がどうとか、教会とは関係ないからといった理由で、イエス様を信じて行われる活動を否定してはならない。
むしろ、喜ぶべきということなのだろう。
私たちの味方だ、と主はおおせられるのだから。

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ルカ9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

イエス様は、子どものように小さくて弱い存在を受け入れることのできる人は、イエス様をお遣わしになった神を受け入れることができると仰せられる。
子どもを受け入れるということは、子どもの考えに寄り添い、たとえ自分の思いと違っていても、それを認めていくということである。

先日、息子と進路のことについて話し合った。
出来る限り、本人の希望に沿ってあげたいと思う。
けれども、生活のことや学費のことも全て含めて考えていくと、いくら本人の願いとはいえ、やはりそこは相談が必要になってくるし、家族の協力も必要である。
だから、本人の希望をかなえてやりたいという思いと現実との狭間で、どういう風に結論を出せばいいのか、しばらく悩んでいたが、本人のほうから親の願いに近い形の答えを口にしてくれた。
一度は本人の希望通りにしてやろうと思っていたけれど、息子もまた、親の願い通りにしてあげようと考えたのだろう。
お互いがお互いの意見や思いを尊重した結果だから、これでいいのだと思う。


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ルカ9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。
9:44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

イエス様が仰せられた「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」との言葉は、十字架で殺されるであろうことを述べられたものであるが、弟子たちにはその意味が理解できなかったと記されている。
けれど、怖くて尋ねられなかったとも記されていることから、どんな恐ろしいことが起こるのだろうかと不安におびえてはいたはずである。
理解できなかったというより、理解したくなかったというのが正確かもしれない。

人はわからないこと、いまだ見ぬ災いほど恐ろしいものはない。
体験したことのあることなら、ある程度、その恐怖も分かるのだが、未だ誰も体験したことのない恐怖ほど恐ろしいものはない。

そして、それが「人の死」ではないだろうか。
死は誰もが経験することになる。
けれど、それを体験して帰ってきた人はいない。
だから恐ろしい。

聖書は、そこに一つの解決を与えるものであると言える。
解決を知れば、少しは、尋ねてみようと思うのではないだろうか。

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