聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




士師記6:19 ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。
6:20 神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。
6:21 主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。
6:22 ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」
6:23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」
6:24 ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。
6:25 その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭、すなわち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。
6:26 あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物としてささげよ。」
6:27 ギデオンは召し使いの中から十人を選び、主がお命じになったとおりにした。だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った。

ギデオンは、主なる神と顔と顔とをあわせてしまったことで、もはや自分は滅んでしまうと考え、恐れを抱いたようですが、「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」との主なる神の御言葉を聞いて、そこに祭壇を築き「平和の主」と呼びました。
私たちも、本当の神の御前に、真実ありのままの姿で立ち、イエス・キリストの尊い贖いの犠牲により、全ての罪を完全に赦されていることを知った時、本物の平和、平安を得られることを覚えたいと思うのです。
見せかけの平和、偽りの神々、これらに心を奪われること無く、正しく主なる神の御前に立ち続けることができますように。

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士師記6:11 さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」
6:13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」
6:14 主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
6:15 彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」
6:16 主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」
6:17 彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。
6:18 どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。

聖書の中で、勇者として知られることの多いギデオンですが、その最初の記述は、なんとも弱々しい姿であるように語られている。
ミディアン人の襲撃を逃れるように、酒ぶねの中にこっそり隠れて、麦打ちの作業をしていたのである。
しかし、逆に言えば、そこまでしても、生き延びることに必死であったということ、可能な限りの知恵を尽くし、最後まであきらめない姿こそ、真の勇者たる所以でもあろう。
可能性がある限り、仮に可能性がついえたかのように見える状況の中にあっても、そこで何をなすべきか、常に考え、行動していける者でありたい。

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士師記6:6 イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。
6:7 イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、
6:8 主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。
6:9 わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。
6:10 わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」

イスラエルの民がミディアン人たちの脅威にさらされた時、主なる神様は、一人の預言者をお遣わしになります。
この預言者の第一声は「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。」というものであり、それゆえ、エジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手からも救い出すというものです。
つまり、まず最初に、エジプトの奴隷から解放されたという救いの出来事があって、その上に、あらゆる助け、祝福がもたらされるということ、これは、私たちの救いの出来事とも深く関係しているといえます。
私たちは、まず主の憐れみの故に救いの約束を頂き、それゆえ、これからも様々な困難から助け出してくださる、それが神様の約束なのです。
まず救われているという事実、そして、それゆえ、あらゆる困難から助け導いて下さる主に信頼して歩みたいものです。

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士師記5:1 デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った。
5:2 イスラエルにおいて民が髪を伸ばし進んで身をささげるとき主をほめたたえよ。
5:3 もろもろの王よ、聞け君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かってわたしは賛美の歌をうたう。

民が髪をのばし、進んで身を捧げる時という表現は、イスラエルの民らの献身の姿勢を表しているものと思われる。
その時、主なる神をほめたたえよということは、彼らの献身の業すらも、神の偉大な御業の現れに他ならないということを表しているのだろう。

私たちも神様の救いに応答し、献身を表明し、主に従う人生を歩み始めて行く。
しかし、そこにも「私の業」はなく、全てが神の御業であるということを覚える者でありたい。
献身している私が偉いのではなく、主の召しこそ素晴らしく、私たちは、ただそれに従うまでである。

主の御名はほむべきかな。

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士師記4:12 シセラはアビノアムの子バラクがタボル山に上ったとの知らせを受けると、
4:13 すべての戦車、すなわち九百両に及ぶ鉄の戦車に加えて自分に属するすべての軍隊を召集し、ハロシェト・ハゴイムからキション川に向かわせた。
4:14 デボラはバラクに言った。「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」バラクは一万の兵を従え、タボル山を下った。
4:15 主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた。
4:16 バラクは、敵の戦車と軍勢をハロシェト・ハゴイムまで追いつめた。シセラの軍勢はすべて剣に倒れ、一人も残らなかった。
4:17 シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベル一族との間は友好的であったからである。
4:18 ヤエルが出て来てシセラを迎え、「どうぞこちらに。わたしの主君よ、こちらにお入りください。御心配には及びません」と言うと、彼は彼女に近づいて天幕に入った。彼女は布で彼を覆った。
4:19 シセラが彼女に、「喉が渇いた。水を少し飲ませてくれ」と言うので、彼女は革袋を開けてミルクを飲ませ、彼を覆った。
4:20 シセラは彼女に、「天幕の入り口に立っているように。人が来て、ここに誰かいるかと尋ねれば、だれもいないと答えてほしい」と言った。
4:21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さった。疲れきって熟睡していた彼は、こうして死んだ。
4:22 そこへバラクがシセラを追ってやって来た。ヤエルは出て来て彼を迎え、「おいでください。捜しておられる人をお目にかけましょう」と言ったので、彼は天幕に入った。そこにはシセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには釘が刺さっていた。
4:23 神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。
4:24 イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

シセラは、デボラが預言したとおり、カイン人の女性の手によって殺され、バラクの名誉とはなりませんでした。

人が成功を収めるとき、必ず高慢になります。
もちろん、だからと言って、失敗ばかりしていることが良いわけではありません。
成功を収めたとき、それが誰の手によってもたらされたものであるかということ、主なる神さまの御業であるということを覚えることが大切なのです。

ローマ8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

私たちを愛してくださる方によって与えられる勝利をほめたたえます。


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ローマ8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

主なる神様は、私たち一人一人を神のご計画に従って、神の御用のために召し、用いてくださる。
しかし、その召しとは、御子の姿に似たものにしようと定められたものであると記されている。
これは、とても大切なことである。

時々「私は~に召されている」という証を聞くことがある。
それはそれで尊いことだし、否定するつもりはない。
しかし、もしそこに、自分の栄光を表そうとして、いわゆる「自己実現」のために「召し」という言葉を用いているとしたら、それは大変な神への冒涜であると言えるだろう。

神の召しとは、御子の姿に似たものとなるように召されるものと語られている。
それは、きわめて地味で、人の嫌がること、苦難に満ちたもの、しかしそれは誰かがしなければならないことであり、必ず救われる人が起こされていく。
私もそのような召しに忠実に応えていきたい。

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士師記4:1 エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、
4:2 主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。
4:3 イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。
4:4 ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。
4:5 彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。
4:6 さて、彼女は人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。
4:7 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」
4:8 バラクはデボラに言った。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」
4:9 デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。
4:10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに召集した。一万人が彼に従って上り、彼と共にデボラも上った。
4:11 カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。

女預言者デボラは、バラクに対し、ヤビンの将軍シセラとの戦いに向かうよう命じます。
これに対し、バラクは、デボラ自身もこの戦いに同行するよう求めています。
デボラは預言者であり、しかも女性。戦いとは無縁の人物であるはずなのですが、バラクにとっては、神の御言葉を取り次ぐ預言者は、どんな勇敢な兵士や強力な軍隊よりも力強い味方であったことでしょう。

詩篇46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返りその高ぶるさまに山々が震えるとも。
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与えるいと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

主なる神は、どんな力強い軍勢よりもはるかにまさって力強いお方。
死をも打ち破る命の神。
私もこのお方をほめたたえます。

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士師記3:15 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った。
3:16 エフドは刃渡り一ゴメドの両刃の剣を作り、それを右腰に帯びて上着で隠し、
3:17 モアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を納めに行った。王は非常に太っていた。
3:18 エフドは貢ぎ物を納め終わると、貢ぎ物を運んで来た者たちを去らせ、
3:19 自らはギルガルに近い偶像のあるところから引き返し、「王よ、内密の話がございます」と言った。王が、「黙れ」と言うと、そばにいた従臣たちは皆席をはずした。
3:20 エフドは近づいたが、そのとき王は屋上にしつらえた涼しい部屋に座り、ただ一人になっていた。エフドが、「あなたへの神のお告げを持って来ました」と言うと、王は席から立ち上がった。
3:21 エフドは左手で右腰の剣を抜き、王の腹を刺した。
3:22 剣は刃からつかまでも刺さり、抜かずにおいたため脂肪が刃を閉じ込めてしまった。汚物が出てきていた。
3:23 エフドは廊下に出たが、屋上にしつらえた部屋の戸は閉じて錠を下ろしておいた。
3:24 彼が出て行った後、従臣たちが来て、屋上にしつらえた部屋の戸に錠がかかっているのを見、王は涼しいところで用を足しておられるのだと言い合った。
3:25 待てるだけ待ったが、屋上にしつらえた部屋の戸が開かないので、鍵を取って開けて見ると、彼らの主君は床に倒れて死んでいた。
3:26 彼らが手間取っている間にエフドは抜け出し、偶像のあったところを過ぎてセイラに逃れた。
3:27 到着すると、彼はエフライムの山地に角笛を吹き鳴らした。イスラエルの人々は彼と一緒になり、彼を先頭に山を下った。
3:28 彼は言った。「わたしの後について来なさい。主は敵モアブをあなたたちの手に渡してくださった。」彼らはそのエフドに従って下り、モアブに向かうヨルダンの渡しを手中に収めた。彼らはだれ一人そこを渡らせなかった。
3:29 彼らはこのとき約一万のモアブ人を打ち殺した。皆たくましい兵士たちであったが、一人として逃れた者はいなかった。
3:30 モアブはこの日イスラエルの手中に落ちて屈服し、国は八十年にわたって平穏であった。

イスラエルをモアブから救ったエフドは、多くの貢物を携え、あたかもモアブの王エグロンを慕うかのようにして近づき、腰に隠していた刀で一突きして殺してしまいました。
巧妙と言えば巧妙ですが、そこまでしなければ、イスラエルを救い出す機会を見出すことが困難だったのかもしれません。

時を見極めること、必要以上に自分の思いを周囲に漏らさないこと、なすべきことを確実に果たしていくためには、確固たる信念が必要です。
周囲の様々な誘惑に心を奪われることなく、したたかに、なすべき務めを果たしていきたいものです。

マタイ10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

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士師記3:7 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、彼らの神、主を忘れ、バアルとアシェラに仕えた。
3:8 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの人々は八年間、クシャン・リシュアタイムに仕えなければならなかった。
3:9 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである。
3:10 主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた。彼が戦いに出ると、主は、アラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡してくださったので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えることができた。
3:11 国は四十年にわたって平穏であった。こうしてケナズの子オトニエルは死んだ。

イスラエルの民は、主の目に悪とされることを行い、聖書はそれを、かれらの神、主を忘れ、他の神々に仕えることであると語っている。
何が善であり、何が悪であるかということは、人の価値基準によって幾らでも変わってしまう。ある人にとって、悪と思えることも、他の人にとっては益をもたらすものであったりする。そもそも、誰かにとって益になるとことは、その分誰かが損をしているはずだから、万人にとって益となることというのは、そうそうあるものではないのかもしれない。
しかし、主なる神は、すべての人の益となるために、ご自分を捧げられたお方。
ご自分の御子イエス・キリストの尊い命の代価を支払って、私たちを救うおうとされたのである。
実に、これが主の目に善なることなのだ。
ご自分を捨て、われわれ人間を救おうとされた主。
この神を忘れず、主と共に生きてきたいと思う。

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士師記3:1 カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。
3:2 そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。
3:3 ペリシテ人の五人の領主、すべてのカナン人、シドン人、バアル・ヘルモンの山からレボ・ハマトに及ぶレバノンの山地に住むヒビ人がそれである。
3:4 彼らはイスラエルを試みるため、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。
3:5 しかし、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、
3:6 彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた。

主なる神様は、イスラエルの民が、様々な文化や宗教の中から、唯一の救い主なるお方を選び取らせるために、あえてカナンの地の人たちを残し、彼らとの戦いの機会をお与えになられたようである。

神を信じるかどうかは自由である。
しかし、そこには戦いがある。
真の神を選び取るための戦い。
私は何と戦っていくべきだろうか。
主なる神を見えなくさせるものすべてとの戦いである。

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