聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

主イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫び、息を引き取られた。
イエス様も全ての人と同じように、こうして死を味わわれたのである。

すべての人がいつかこの時を迎えるのだ。
その時、イエス様のように、潔く神の御手に自分の命を委ねることができたなら、どんなに幸いであろうか。
しかしそれが難しいから、誰もが必死に生きることをもがいているのかもしれない。

全ての人が必ず同じ経験をしなければならないけれど、生きているうちに主イエス様と出会い、主なる神に自分の命の全てを委ねることができたなら、きっと、もっと幸いな人生となるのだろう。

これからの人生にどんなことが起こるかわからないが、主に全て委ねていきたい。


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ルカ23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

ここには、主イエス様が十字架にかけられた時のことが記されている。
おそらく、人類史上、最も重大な出来事であるはずなのに、淡々と事実だけが記されている。
しかし、イエス様はここでも類まれな憐れみに満ちた心をお示しになっている。
自分が今まさに殺されようとしているのに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。
このイエス様の十字架の出来事と、イエス様の祈りの言葉が全てであろう。
私が生きていることも、ここにその根拠と目的と理由があるのだ。
イエス様の十字架を見上げていこう。
ただそれだけである。

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ルカ23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、
23:7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。
23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
23:9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
23:10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。
23:11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。
23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

ヘロデは、以前からイエス様に会いたいと願っていたため、イエス様とはじめて対面した時、喜んだと記されている。
しかし、その喜びとは、単なる興味本位のもので、イエス様のことを面白がっているだけの「喜び」であった。
その証拠に、彼はイエス様をあざけり、侮辱して、派手な着物をみさせてピラトに送り返したのである。
おそらく、普段から同じようなことを繰り返していたのではないだろうか。
人を人とも思わず、馬鹿にして、仮に命を落とすようなことがあっても、むしろそう望んでいるような者であったかもしれない。
いつの時代にも、権力者とは、かように恐ろしいものなのだろう。
けれど、人の本質は、権力者に限らず、似たり寄ったりかもしれない。
つまり、私のうちにもヘロデと同じ血が流れ、人を人とも思わぬ残忍さや冷酷さが影を潜めているという事実は否定できないものなのだろう。
人が失敗すれば、くすっと笑ったり、そんな性質だって同じ根っこなのかもしれないのだし。

教会の礼拝では、使徒信条において、イエス様は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と告白する。
しかし、それは、全ての人間を代表して名前を使っているだけであって、もし、ピラト一人に罪をなしつけるような思いで告白しているとしたら、ピラトよりもさらにひどいのかもしれない。
人間は皆同じ。
一人の罪人である。
ピラトと同じ罪人であるということを忘れないたでいたい。

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ルカ22:66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、
22:67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。
22:68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。
22:69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
22:70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
22:71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

人が何かを信じるということは、それとは異なる事実を信じないということに他ならない。
イエス様を捕らえた祭司長や律法学者たちがそうである。
彼らは、自分たちの考えが正しいと信じ、イエス様の言葉を何一つ信じようとせず、イエス様が真の神であるということを信じようとせず、ただ、イエス様が神を冒涜しているだけだと頑なに信じているのだ。

だから、人がイエス様を神であると信じるようになるためには、それを信じようとしないための何かを信じているのであって、まずそこを確かめ、それが本当に信頼に値するものなのかどうかを問い正してみればいいのかもしれない。

イエスは主、イエス様だけがゆるぎない救いの土台。
そこによって立つ者でありたい。

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ルカ22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
22:49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
22:50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。
22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

イエス様に敵対する者たちは、イエス様を捕らえるために兵士たちを遣わし、弟子たちもこれに剣で応戦した。
剣には剣でしか立ち向かえない悲しい現実がある。

昨日から北朝鮮が休戦協定の一方的な無効を宣言し、にわかに朝鮮半島における戦争の危機が高まっている。
剣を振りかざせば、相手も同じように剣で応戦してくるはずで、剣を振りかざすことは、結局、自分の身も傷つけることになるというのに。
剣によって解決されるものなど何一つない。
かわりに、失うもののほうが多い。
人の命であり、平和であり、喜びもそう。
そう考えると、主イエス様の救いによってもたらされるものは、これと全く反対のものであることがわかる。
イエス様は、命を与え、平安を与え、そして、喜びを与えてくれる。
剣を振りかざすことをやめようよ。
暴力をふるっても、結局自分も傷つくだけなのだから。

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ルカ22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔
22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

子供たちにデボーションを習慣づけさせようとするため、毎日聖書を読んだ時間の半分の時間だけパソコンでゲームをしてもいいというルールを作った。
もちろん、それだけだとどれだけ読んでいるかわからないので、読んだ箇所から必ず感想を分かち合うこととした。
以来、子供たちも毎日熱心に聖書を読み、きちんと感想を分かち合ってくる。

ある時、ある聖書の箇所を読んで「悪霊に誘惑されないように、イエス様に従っていきたいと思う」と分かち合ってくれたことがあった。
そこまでは良かったのだが、感想を分かち合った直後にまっすぐにパソコンに向かい、何やら得たいの知れないゲームをやり始めた。
思わず「それが悪霊の誘惑とちがうん?」とつっこみたくなったが、自分だって人のことをとやかく言えるような人間ではないし、黙っておいた。
イエス様は、すぐに誘惑に負けてしまうような私たちをよそに、ただ一人、真剣なまなざしでご受難に立ち向かっていかれた。
汗が血の滴るように落ちるほどに、苦しみもだえ、切に祈ってくださった。
ただただ、こんな愚かな私たちの救いのためにである。


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ルカ22:35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、
22:36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
22:37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
22:38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

主なる神様の恵みに信頼し、主の導きに委ねて歩んでいくという時、神様がどんな素晴らしいみ業をなしてくださるのかと期待して、何も準備しないでいい場合もある。
一方で、その恵みを見出すためにやらなければならない日頃の準備というものもある。
恵みを受けるために必要な準備もあり、それをすることは、私たちに委ねられた責任でもある。
恵みと責任、どちらも大切。
両者の違いをしっかりとわきまえ、混同せずに、きちんと対応できるものでありたい。

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ルカ22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

イエス様はペテロがつまづいてイエス様を三度も知らないと言うであろうということを知っておられた。
けれど、それと同時にペテロが必ず立ち直ることも知っておられたのである。

イエス様は同じように、あなたが必ず立ち直ることを知っておられる。
立ち直った時には、兄弟たちを力づけてあげられるようになることも知っておられる。
だからくじけないで、主の時を待とう。

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ルカ22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

イエス様は、過ぎ越しの食事を弟子たちと共にすることを願っておられた。
そして、その過ぎ越しとは、イエス様が私たちの救いのために十字架で死なれたことを共有するためのものである。
つまり、イエス様は私たちのために十字架で体を裂き、血を流し、死なれたということである。

教会の礼拝では、このことが聖餐式において共有される。
イエス様の十字架は私たちのためのもの。
イエス様によってもたらされた永遠の命の約束は、私たちのためのものである。

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ルカ22:1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
22:4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
22:5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
22:6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

祭司長や律法学者たちは、イエス様を殺すにはどうしたらいいか思案していたが、立場上、自分たちの手で捕らえて殺すことは出来なかったのだろう。
そんな折、イエス様の弟子の一人のユダがサタンに心を奪われて、イエス様を捕まえる役目を果たしていくことになるのである。

サタンはいつでも私たちを狙っている。
だから、よこしまな思いや企みを抱いている時には、それを手助けするものが上手いぐあいに現れるのである。
そのタイミングも絶妙だから、我々も誘惑に引っかかりやすいのだ。
タイミングが良いのではない。
サタンも常に狙っているというだけなのだ。

世の中に美味しい話などというものはどこにもない。
もうけ話や、悪巧みなどは、一見、上手く事が運んでいくように見えるものだが、確実に破滅へと向かっていく。

しかし、そんな弱い者のためにイエス様が売り渡されて十字架で死なれたということを忘れないで痛い。

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