マタイ 8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
欧米の方は、こういう聖書の記述を見て、「主なる神様は自然をも支配していられる」と語られる。
確かに、この世界を創られた創造者なのだから、支配して当然と言えるのだろう。
しかし、「神は自然を支配しておられる」と言われても、日本人にはなかなかピンとこないのかもしれない。
八百万の神がいて、自然そのものを神とみなす習慣が普通だからであろう。
あるいは、日本人ほど自然災害に悩まされてきた民族もいないのかもしれない。
確かにヨーロッパなどは、自然は災害をもたらすものというより、神の創造のすばらしさを愛でるもの、といった受け止め方のほうが普通なのかもしれない。
その代わり、民族紛争があったり、様々な戦争の歴史も経験してきたであろうから、それに比べれば、自然は脅威ではなく、心休めるところであると考えるのであろう。
もちろん、日本人も自然は心安らぐところであることに違いないが、時に、脅威ともなることも知っている。
心安らぐところと、脅威のところ、両方の面があるから、自然を畏れ、崇拝する気持ちにもなるのかもしれない。
いずれにしても、自然は人間の力ではコントロールすることはできない。
それは神にしかできないこと。
大切なことは、神は自然を支配しておられても、我々の願い通りには神は自然をコントロールしてはいない、ということである。
もし、我々の願い通りに神が自然を動かしたとするなら、神は人間の奴隷であり、それは単なる偶像でしかない。
運動会シーズン、「神様、明日は晴れにしてください」と祈るのは身勝手な祈りなのだろうか。笑
それよりも、晴れたら晴れの日にできることを行い、雨が降ったら、それ以外のことを行う、晴耕雨読な生き方に徹するのは好ましいのかもしれない。
今日は晴れ。
外に出て働くとしよう。
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