聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マタイ 9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

多くの人は、病が癒されること」を望んでいる。
しかし、人が本当に必要としているものは、病の癒しではなく、罪に赦しである。
それが分かった時、人の生き方は変わってくる。
赦しを求めてイエス様のもとへ来るし、赦された者として、感謝して生きるようになるだろう。
病が癒されることは確かに大切なことであるけれども、それは永遠ではない。
罪の赦しは永遠である。

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マタイ 8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

イエス様は、悪霊に取りつかれた者から悪霊を追い出し、豚の群れの中に押し込んで、崖から湖になだれ込ませて死なせた。
それは、悪霊をも支配されるほど力と権威をお持ちであるということである。
我々人間にはこのような力はないかもしれないが、イエス様の御名を彼らは恐れているし、イエス様をほめたたえる者のところには近寄ろうとしない。
だから、我々はイエス様をたたえ、御名を呼び求め、イエス様と共に歩むのである。
たったそれだけのことなのだが、これが大きな力となる。

ローマ 8:36 「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

このような聖書の約束が真実で力あるものだからこそ、私たちは信頼してイエス様に頼るのである。

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マタイ 8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

欧米の方は、こういう聖書の記述を見て、「主なる神様は自然をも支配していられる」と語られる。
確かに、この世界を創られた創造者なのだから、支配して当然と言えるのだろう。
しかし、「神は自然を支配しておられる」と言われても、日本人にはなかなかピンとこないのかもしれない。
八百万の神がいて、自然そのものを神とみなす習慣が普通だからであろう。
あるいは、日本人ほど自然災害に悩まされてきた民族もいないのかもしれない。
確かにヨーロッパなどは、自然は災害をもたらすものというより、神の創造のすばらしさを愛でるもの、といった受け止め方のほうが普通なのかもしれない。
その代わり、民族紛争があったり、様々な戦争の歴史も経験してきたであろうから、それに比べれば、自然は脅威ではなく、心休めるところであると考えるのであろう。
もちろん、日本人も自然は心安らぐところであることに違いないが、時に、脅威ともなることも知っている。
心安らぐところと、脅威のところ、両方の面があるから、自然を畏れ、崇拝する気持ちにもなるのかもしれない。

いずれにしても、自然は人間の力ではコントロールすることはできない。
それは神にしかできないこと。
大切なことは、神は自然を支配しておられても、我々の願い通りには神は自然をコントロールしてはいない、ということである。
もし、我々の願い通りに神が自然を動かしたとするなら、神は人間の奴隷であり、それは単なる偶像でしかない。

運動会シーズン、「神様、明日は晴れにしてください」と祈るのは身勝手な祈りなのだろうか。笑
それよりも、晴れたら晴れの日にできることを行い、雨が降ったら、それ以外のことを行う、晴耕雨読な生き方に徹するのは好ましいのかもしれない。
今日は晴れ。
外に出て働くとしよう。

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マタイ 8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
8:19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
8:20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
8:21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

イエス様を信じ、イエス様に従って行くということは、イエス様と共に「生きていく」ということである。
イエス様が「死者の葬りは死んでいる者たちに任せよ」と仰せられたことは、決して死んだ者を粗末に扱っていいということではなく、むしろ、生きている時にできることのほうが重要である、ということなのだろうと思う。

先週、ある方の葬儀が行われ、ご遺族の方々とお話しする機会があったが、次第に弱られていく家族をお見舞いするのは辛かったと言っておられた。
けれど、お見舞いしてもらうことで、ご本人がどれほど慰められただろうかと思う。
死んでから、幾ら葬儀に時間とお金を費やしても、本人は喜ばないだろう。
生きている時にどれだけ愛を持って接するか、そちらの方が大事である、そういうことなのだろうと思う。

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マタイ 8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

今日は教会であるご婦人の葬儀が行われる。
ご主人が高齢であることもあり、息子夫婦がいろいろと準備をしてくださっている。
とりわけ、二人のお嫁さんたちが細やかに働いている姿が感謝である。
きっと、愛された姑さんだったのだろう。
長らく闘病生活を送ってこられたが、ついに病に打ち勝つことは無く、主のみもとに召されて行かれた。
主なる神様は、彼女の病を治してはくれなかったかもしれないが、癒し、担って下さった。
残されたご家族の姿を見ていると、それがよくわかる。
姑さんは主に癒され、周囲の方々にもその平安を届けられたのだと。

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ルカ24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

イエス様は旧約聖書に預言されている通り、民を救うメシアとして、十字架で死なれ、そして、よみがえられた。
そして、このことを信じる者は救われる、というメッセージは、信じたあなたがたを通して全世界へ伝えられると約束され、今、そのことが実現しつつある。
これもまた、預言が成就しつつあることと言えるだろう。
私たちの時代は、このようなイエス様の語られた言葉が実現し湯落としている時代である。
そんな預言の成就に、我々も用いられていることを誇りに思い、み言葉を宣べ伝えていきたいものである。

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マタイ 8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

百人隊長とは、文字通り、百人の部隊を指揮する隊長であり、彼の指揮のもとに部隊は行動する。
しかし、その責任は大きい。
彼の指揮一つで、部隊全員の命もだが、彼らによって守られる民の命運もかかっているからである。
そんな百人体調だからこそ、誰に従うかということはとても大切な事であるということをよく理解していたはずである。
彼は、イエス様に従う事を重要視し、イエス様の言葉を求めたのである。

我々も、自分がどのように行動すべきか、誰の指示を仰ぐか、それはとても重要なことであろう。
時に人の意見も尊重しなければならないし、自分の意見ばかり押し通すわけにもいかない。
ただ、イエス様の言葉に聞いていくということを大切にしていきたい。
どう行動すればいいかわからない時は、み言葉に聞き、神の御心を求めていくことを大事にしていきたいものである。

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マタイ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

イエス様が癒しの業を行われた時、それを他人に言いふらすのではなく、祭司に報告するよう命じておられる。
具体的な癒しの業よりも、神との関係を重視する言葉であると考えられるのではないだろうか。
人はともすると、結果にこだわるきらいがある。
けれど、そこに至る過程であったり、そうなったあと、どのように神との関係を保って生きていくか、そういった事の方がよほど重要であるという事なのではないだろうか。
何をするのも、どこへ行くのも自由ではあるが、神と人との関係が適切に保たれているのでなければ、自分勝手で、傲慢なだけの歩みとなってしまうだろう。
間違いを犯すことは誰にでもあるし、今自分がどこにいるのか、見えなくなってしまう事のほうが多いのは常である。
神と人との関係を適切に保ちながら、自らの歩みを見出していける者でありたい。

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マタイ 7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

命に通じる門は狭く、その道も細い。
ゆえに、それを見いだす者も少ない。
当然のことであるが、それが真実なのだろう。
逆に言えば、それだからこそ、価値があるとも言えるのではないだろうか。

この国ではキリストを信じる者は、圧倒的に少ない。
それは価値があるというより、それだけの責任を担っている、選ばれし者、ということであろう。
神に選ばれた者であることを誇り、感謝し、我々にしかできない宣教の業を続けていきたいものである。

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マタイ 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と語られている。
律法とは、もともと、私たちが罪人であることを認識し、キリストの救いへと目が開かれていくための働きをを担うものと言える。
しかし、ここでは、神が私たちに良いものを与えて下さったのだから、あなたがたも、神と同じように行動すべきである、という言い方で用いられている。
いわゆる、律法の第三の用法ということになるだろう。
そして、そのことを通して、私たちは高貴な神の御心を知り、なおかつ、完全にはできない自分を見るにつけ、キリストの神のみが完全なるお方であり、この方のすばらしや深い愛を知ることになるのだろう。
できるかどうかが重要なのではなく、神がそう歩まれたし、そう望んでおられるということを知ることが大切なのだろうと思う。

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