聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




レビ記 23:1 主はモーセに仰せになった。
23:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日は、次のとおりである。
23:3 六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。
23:4 以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。
23:5 第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。
23:6 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。

詩篇 81:2 わたしたちの力の神に向かって喜び歌い ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。
81:3 ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし 琴と竪琴を美しく奏でよ。
81:4 角笛を吹き鳴らせ 新月、満月、わたしたちの祭りの日に。
81:5 これはイスラエルに対する掟 ヤコブの神が命じられたこと。
81:6 エジプトの地を攻められたとき ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
81:7 「わたしが、彼の肩の重荷を除き 籠を手から取り去る。
81:8 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い 雷鳴に隠れてあなたに答え メリバの水のほとりであなたを試した。
81:9 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。
81:10 あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
81:11 わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

ローマ 8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


主なる神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷の民から救い出された時、そのことを子々孫々にわたって忘れることのないように、過ぎ越しの祭りを定め、救いの出来事を記念するよう命じられている。
しかし主なる神様は、それよりも先に、この世界を創造された時、六日で創造の御業を完成され、七日目を安息の日として定められ、一週間に一度という安息の日を守るように勧められている。
それは、ただ単に仕事をやめて休むというだけではなく、人が神の恵みによって生きているのだということを思い起こし、覚える日であり、自分の業に頼るのではなく神の救いの御業に頼るからこそ、そこにまことの安息の意味があると言えるのである。

ヘブル4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。


安息を得るとは、御子イエス様の十字架と復活の御業によって成し遂げられた神の救いの御業にすっかり頼ることであり、それは福音の言葉を聞くことによる。
そのための安息日を大切に守りたいものである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出エジプト記 31:12 主はモーセに言われた。
31:13 あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。
31:14 安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。
31:15 六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。
31:16 イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。
31:17 これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。
31:18 主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。

詩篇 81:2 わたしたちの力の神に向かって喜び歌い ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。
81:3 ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし 琴と竪琴を美しく奏でよ。
81:4 角笛を吹き鳴らせ 新月、満月、わたしたちの祭りの日に。
81:5 これはイスラエルに対する掟 ヤコブの神が命じられたこと。
81:6 エジプトの地を攻められたとき ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
81:7 「わたしが、彼の肩の重荷を除き 籠を手から取り去る。
81:8 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い 雷鳴に隠れてあなたに答え メリバの水のほとりであなたを試した。
81:9 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。
81:10 あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
81:11 わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

使徒 25:1 フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った。
25:2 -3祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。
25:4 ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、
25:5 「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。
25:6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。
25:7 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。
25:8 パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。
25:9 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」
25:10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。
25:11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」
25:12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。



出エジプト記の箇所では、安息日を破り、主の聖なる安息の日に仕事をする者は死刑に処せられると、かなり厳しい言葉が述べられている。
それほどに安息日を守り、神の賜る命と救いの約束を頂くことは大切な事であるということであろう。
死刑に処せられるとは少々大げさなようにも聞こえるが、神の賜る命と救いの約束をおろそかにするのなら、自ら死と滅びを選んでいるようなものと言えるかもしれないし、あながち言い過ぎているというわけでもないのかもしれない。

昨日、ある精神科医の書かれた文章に目が留まり、面白いことが書かれていたので、その一文を引用してみる。

「何が正義で何が悪かなど、客観的な基準に基づいて規定できることは、実は世の中にはほとんどありません。お金だけは、数字で損をしたか得をしたかがわかると思うかもしれませんが、金銭的に損をしたとしても、自分の気分がよければそれでいいはずです。」

高齢の人が高価なものを買ったりして贅沢をしているとして、それが他者に対してどんな悪いことをしているというのか、本人が喜んでいるのならそれはそれでいいことではないか、といった内容である。
贅沢をすることが好ましいことかどうかは置いておいて、それを周囲の人間がアレは良いとか悪いとか言う資格はないことには違いない。
私たちはあまりに周囲の目を気にし過ぎるし、社会で生きていくために、様々な事を我慢したり、自分の思いとは違う事をしてしまったりすることがあるが、人生、それほど長くはないのかもしれないし、なにより一度きりである。
今という時は、二度とやって来ない。
ならば、あとで後悔するような生き方を選択しないで、堂々と、今の自分が良いと思う事をすれば良いし、全ての責任は自分が負うのだから、他人の目など気にする必要もないだろう。

というわけで、私は生けるまことの神を信じて生きる人生を選びたい。
そこには命と救いがあるのだから。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




民数記 6:22 主はモーセに仰せになった。
6:23 アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。
6:24 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
6:25 主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。
6:26 主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。
6:27 彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。

詩篇 20:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
20:2 苦難の日に主があなたに答え ヤコブの神の御名があなたを高く上げ
20:3 聖所から助けを遣わし シオンからあなたを支えてくださるように。
20:4 あなたの供え物をことごとく心に留め あなたのささげるいけにえを快く受け入れ
20:5 あなたの心の願いをかなえ あなたの計らいを実現させてくださるように。
20:6 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように。
20:7 今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを。
20:8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。
20:9 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
20:10 主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。

マルコ 4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」


本日の日課の三つの箇所から、それぞれに思わされたことを記してみる。

民数記6:27 彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。

24~26節には、いわゆる祝祷と呼ばれる神がイスラエルの民を祝福された言葉が述べられ、その直後に、イスラエルの民が神の御名をあがめることが祝福されるための条件のように述べられているように見える。
しかし、祝福の言葉が先に述べられているのは確かなこと。
神に祝福されているのだからこそ、御名をあがめる者でありたいものである。

次は詩篇。

詩篇20:4 あなたの供え物をことごとく心に留め あなたのささげるいけにえを快く受け入れ

主なる神さまは私たちの捧げるどんな供え物を喜ばれるのだろうか。
きっと、どんなに高価なものや、清い業などをささげるよりも、私のために神の御子イエス様ご自身の命が捧げられたことを感謝することにまさるものはないのだろう。
「私の罪の償いのために、イエス様がご自分の命を私の身代わりに捧げて下さいましたことを感謝します」と祈る時、それが最高のささげものと言えるのだろう。

マルコ4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。

イエス様が私の身代わりで十字架で死んで下さったことにより、私たちは、主イエス様の御名によって祈ることが可能となった。
自分自身の力に頼るのではなく、主イエス様の御名に頼るのである。
それはまるで、小さな器にモノを入れて運んだりするのではなく、はるかに大きな器に入れてモノを運ぶようなものであり、何でも入るし、どれだけ大きなもの入れても、あふれることもない。
神の懐は広く、深く、大きく、そして愛と憐れみに満ちている。

まとめると「主イエス様に頼りなさい」ということであろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出エジプト記 25:1 主はモーセに仰せになった。
25:2 イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。
25:3 彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、
25:4 青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、
25:5 赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6 ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、
25:7 エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。
25:8 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
25:9 わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。
25:10 アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。
25:11 純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。
25:12 四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。
25:13 -14箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。
25:15 棒はその環に通したまま抜かずに置く。
25:16 この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
25:17 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。
25:18 打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、
25:19 すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。
25:20 一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。
25:21 この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。
25:22 わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

詩篇 20:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
20:2 苦難の日に主があなたに答え ヤコブの神の御名があなたを高く上げ
20:3 聖所から助けを遣わし シオンからあなたを支えてくださるように。
20:4 あなたの供え物をことごとく心に留め あなたのささげるいけにえを快く受け入れ
20:5 あなたの心の願いをかなえ あなたの計らいを実現させてくださるように。
20:6 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように。
20:7 今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを。
20:8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。
20:9 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
20:10 主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。

1コリント 2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
2:10 わたしたちには、神が"霊"によってそのことを明らかに示してくださいました。"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。


パウロがコリントの町で宣教の働きを始めた時、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と書かれている通り必ずしも良い状態ではなかったようである。
それでもパウロは、「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用い」ず、「隠されていた、神秘としての神の知恵」を語ることに努めたのである。
果たしてどれだけの成果があっただろう。
ひどく不安に悩まされ、怯えていたかもしれない。
けれども、神はパウロと共におられ、パウロの宣教の働きを導いていかれたのである。
もちろん、パウロの宣教によってコリントの教会は成長し、信じて救われる人たちもどんどん増えて行ったかもしれないが、同時に迫害や無関心もあったであろうし、そのようなことはいつの時代でも同様であろう。
神の国は確かに成長していく。
けれど、目に見える形で、いかにも成功したと思えるような状況ではない場合もあるかもしれない。
なにより宣教の働きの中で語られていくのは「隠されていた、神秘としての神の知恵」によるのものであるから、なかなか見いだす人は少ないのが実情であろう。
それでもあきらめないで、パウロは語り続けていったのであろうし、我々も現実を見ると、恐れ怯えてしまうようなことばかりではあるが、それでもなお主の約束に信頼して、語り続けていくだけである。
それを続けていれば、きっと「神が"霊"によってそのことを明らかに示してくださる」だろうから。
自分の業にではなく、主の御業に期待しよう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




民数記 9:15 わたしが身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。わたしは両手に二枚の契約の板を持っていた。
9:16 わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。
9:17 わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。
9:18 主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。
9:19 わたしは、主が激しく怒りに燃え、あなたたちを滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、わたしに耳を傾けてくださった。
9:20 アロンに対しても、主は激しく怒って滅ぼそうとされたが、わたしはそのとき、アロンのためにも祈った。
9:21 また、あなたたちの罪、あなたたちが造った子牛を取り上げて火に投じ、粉々に砕いて塵とし、その塵を山から流れる川に投げ捨てた。
9:22 あなたたちはタブエラでも、マサでも、キブロト・ハタアワでも主を怒らせた。
9:23 主がカデシュ・バルネアからあなたたちを遣わし、「上って行って、わたしが与える土地を取りなさい」と言われたときも、あなたたちの神、主の命令に背き、主を信頼せず、その声に聞き従わなかった。

詩篇 20:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
20:2 苦難の日に主があなたに答え ヤコブの神の御名があなたを高く上げ
20:3 聖所から助けを遣わし シオンからあなたを支えてくださるように。
20:4 あなたの供え物をことごとく心に留め あなたのささげるいけにえを快く受け入れ
20:5 あなたの心の願いをかなえ あなたの計らいを実現させてくださるように。
20:6 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように。
20:7 今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを。
20:8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。
20:9 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
20:10 主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。

黙示録 4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
4:2 わたしは、たちまち"霊"に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。
4:3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。
4:4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。
4:5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。
4:6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」


ヨハネが見た幻は、天における神の栄光の様であったであろうと考えられる。
しかし、それを人間の知りうる知識や言葉を用いて表現するには限界がある。
黙示録の表現が分かりにくいのは、そういう理由もあるだろう。
それほどに神の栄子は測りがたく、人間がその全貌を悟りうることは難しいのかもしれない。
けれど、神は預言者たちに幻を見させ、言葉に表して語りつぐように導かれた。
どんなに限界があろうとも、どんなに断片的であろうとも、私たちにそれを期待しておられる。
不完全でもいいではないか。
不十分でもいいではないか。
最初から神様はそのようなことは御存じの上で、私たちを救い、神の救いの素晴らしさをこの世界に生きる人たちへ証しするように命じておられる。
それは何のためかというと、もちろん御言葉を聞いて救われる人たちのためでもあるが、御言葉を語る私たち自身が神と共に生きることによって恵まれるためである。
畏れつつ、おののきつつであっても構わない。
勇気を出して神の言葉を証していく時、そこにイエス様も共におられるのだから。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ書 5:15 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。
5:16 万軍の主は正義のゆえに高くされ 聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。
5:17 小羊は牧場にいるように草をはみ 肥えた家畜は廃虚で餌を得る。
5:18 災いだ、むなしいものを手綱として、罪を 車の綱として、咎を引き寄せる者は。
5:19 彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ 早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」
5:20 災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし 苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
5:21 災いだ、自分の目には知者であり うぬぼれて、賢いと思う者は。
5:22 災いだ、酒を飲むことにかけては勇者 強い酒を調合することにかけては 豪傑である者は。
5:23 これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し 正しい人の正しさを退ける。
5:24 それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし 炎が枯れ草を焼き尽くすように 彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

ヨハネ 15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。


世に愛されていないのは、世に属していないからであり、世から憎まれたとしても、それは神の国のものであるからであり、むしろ好ましいことなのかもしれない。
そんな私たちのために、イエス様は神から遣わされる弁護者、真理の霊を与えて下さると約束して下さっている。
もちろんその弁護者は、世の弁護者ではなく、神の国の弁護者であるから、あいかわらず世の中で生きていくために有利になるように助けてくれるわけではないかもしれない。
けれども、どんなに世から憎まれようとも、迫害されようとも、神が約束された永遠の救いを確かなものとして、より強く信じることができるように導いて下さるのであるから心強い。
世で生きていく上で、困難なことがあっても、滅ぼされるわけではない。
どんなに厳しくても、打ち倒されることもないのなら、かえって幸いなことではないだろうか。

イザヤ42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
42:3 傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。
42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。
42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。
42:7 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ書 2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2:2 終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。
2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

ローマ 8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。
8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。


離散している民が祖国イスラエルの地に帰還しようというシオニズム的な考え方を肯定している人もいるかもしれない。
しかし、今日の日課のイザヤ書の箇所を見れば、それを実現するため、人間の力、特に戦争は相いれないものであることは一目瞭然であろう。
イスラエルもアメリカも、聖書の言葉を根拠にイスラエル建国を目指そうとするのなら、今すぐ軍事力による他国への侵攻などやめて、軍事力に頼らないまことの和平を模索して欲しいものである。
戦争だけではない。
人間の考えや力に頼っている間は、そこにまことの平和は訪れないし、あいかわらず混乱や貧困が蔓延している。
それはまるで、世界が創造される前の混沌とした状態のようであり、神の御業を受け入れない世界には闇しか存在しない。
神はそのような闇の世界に「光あれ」と仰せられ、光を創造される。

イザヤ2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

この世界にまことの平和をもたらして下さるもはイエス様だけであるということを覚えて、今日もイエス様と共に生きよう。

ヨハネ8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ書 1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。
1:2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
1:3 牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。
1:4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民 悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

ローマ 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。


聖書では、神さまのことを「主」と呼んでいることが多い。
非常に独特な表現ではあるが、神がどういうお方なのかということを知る上では、とても的確な言葉であると言えるだろう。
なぜなら、人が誰を頼りに、誰に従って生きているかによって、それが主であり、神と言えるからである。

マタイ6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

人が何を大切にし、何に囚われ、何のために生きているのか、その人の生き様や言動などをみていると、隠そうとしてもだいたい節々に現れてくるものである。

先日、母親から「お前は趣味とか無いのか?」と聞かれ「無いね」と答えたところ「寂しい人生やな」と言う。
その話しを教会の方に話したら「キリスト教が趣味みたいなものでしょ」と言って下さった。
まあ、確かにそんな感じかもしれないが、趣味とはまた違うけれど、心がいつもイエス様に向いていれば、まことの喜びや平安を与えて下さるのだから、その他のことに熱心になる必要はないのかもしれない。
もちろん、人生は楽しみたい。
ただ、人生の意味や目的を見失い、それを探し求めることに必死になるあまり、疲れや虚しさを覚えたりするようなら、どうか永遠の祝福を与えてくれる聖書の神さまのことを知って欲しいと切に願う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エゼキエル書 37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
37:4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
37:7 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
37:8 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。
37:9 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
37:10 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
37:11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
37:12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
37:13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
37:14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

ヨハネ 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


聖霊降臨の日、様々な国の言葉で神の御業を語り始めたということが使徒言行録に記されている。
聖霊は、神の御業を、とくにイエス・キリストによって成し遂げられた十字架と復活の御業による救いの約束について語る。
しかし聖霊の働きはそれだけではなく、神が創造のはじめ、人に命の息を吹き込まれた時も、そこに聖霊の働きがあったことが語られている。
聖霊は人の命を生かすことのできるお方、ということであろう。
そして慰め主とも助け主とも呼ばれている。
つまり、人はイエス様のことを証しし、その救いの御業を証言していく時にこそ「生きるもの」となり、まことの慰めを頂くことができるということであろう。
果たして自分はどんな時に「ああ、自分は生きているなあ」と実感できているだろうか。
楽しい時間を過ごした時であろうか。
充実した仕事をしている時であろうか。
愛する家族に囲まれて幸いな暮らしを送っている時であろうか。
それらのことからも生きているという実感を得ることはできるかもしれないが、それらは永遠ではない。
永遠にいきておられる真の神が私と共にいて下さり、私も永遠に生きるものとして下さる幸いな約束を受け取る時、その時こそ、本当の意味で「生きている」と言えることを覚え、聖霊と共にあって神の救いを証しながら、幸いな時を過ごしていきたいものである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




創世記 11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

1コリント 12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。



創世記に記されているバベルの塔の出来事は、人間の技術力の向上が傲慢さをもたらした一件と言える。
それまでは、建物を作る時、形の揃わない石をしっくいで固めて積み上げていったため、どうしても強度が弱く、高い建物を建てることには限界があった。
しかし、形の揃ったレンガを焼き、さらにそれをアスファルトで固めてしまうのであるため、ガチガチに固まった比較的強度の高いビルのような建築物を建てることができるため、天にまで届きそうな高い塔を造り上げようとしたのである。
この出来事は、人間の頑なさを物語っていると言えるだろう。
高い技術力を誇り、傲慢になることもさながら、四角四面の型にはまったレンガを、しかも、ガチガチに固めてしまうアスファルトで積み上げていくのである。
ひとたび固まってしまった建物は、もはやほとんど崩れることも壊れることもないほどに強固な建物となってしまう。
人間の考えや意見もそれと似ていて、四角四面の凝り固まったものは、周りのものが何を言おうとびくともしないし、さらに言うならば、己を誇り、傲慢になりがちである。
それに加えて、丸い石は、確かに形はそれぞれ一つ一つ違い、建物を建て上げていくには難しい面もあるが、もともと角が少ないために周りを傷つけることも少ない。
なにより、一つ一つ個性が違う。形も重さも、強さも、色合いも、一つ一つ違う。
規格の揃ったものが綺麗に並んで積み上げられたさまは、確かに美しいかもしれないが、形も色も違ったものが複雑にからみあって積み上がっているさまは、もっと美しいし、麗しいものである。

多様性という言葉もあるが、神は一人一人の人間を顔も形も性格も能力も、みな一人一人違う存在として造られている。
だから麗しい。
みんな同じで、みんな四角四面だったら、正直、一つくらい無くてもたいして問題ではない。
「みんな違って、みんな良い」のだ。
キリストの体なる教会とは、そういう違う個性をもった一人一人が集まって、それぞれに与えられた個性や役割を発揮して、互いに助け合っていくから素晴らしいのである。
ある程度のルールを決めることは大切かもしれないが、四角四面で、凝り固まった考え方にしばられ、個性を発揮できないところになっていないだろうか。
一人一人が生き生きとした存在でいられるようにと願う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ