聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

イエス様は、弟子たちに「偉くなりたいと思う者は、給仕する者、仕える者になりなさい」と命じておられる。
この世では、偉い者が食事の席につき、給仕する者は仕える者であるが、神の国では、給仕していた者、仕えた者が神と共に食事の席につくことになると語られている。
神の国では、この世とは逆転の現象が起きているということ。
そもそも、イエス様もそのようなお方。
神の国では、全能の主なるお方。
しかし、その方が、あえてこの世では仕える者となってくださった。
しかもそれは、罪人の身代わりに十字架にしょけいされるという仕方で。
給仕するとは、ただ食事の世話をするだけではなく、その後始末もしなければならない。
イエス様こそ、私たちの罪の後始末をきちんと片付けて下さったお方。
そのイエス様に見習う者となれるように。

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ルカ5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

イエス様が癒された重い皮膚病は、当時の医療技術では、とうていなおすことの出来ないものであったと考えられる。
だから、この病にかかった人は、癒されることはあきらめて、その病と共に生きていくことを受け入れざるを得なかったのであろう。
それがどれほど過酷なもので、絶望的で、まるで生き殺しのような状態であったのかもしれない。
そのような絶望的な状況にあった人が、イエス様の御心一つで癒されたのである。
もちろん、イエス様は、病を癒したことは誰にも話さないようにと命じられたが、かつて病に苦しんでいた人が癒されて暮らしているのを周囲の人々が見ないわけがないし、変えられた人生を喜ばずにはいられないだろう。
自ずと、このようなうわさは広まっていくものだ。
しかし、イエス様が与えられたのは、単なる病の癒しではなく、人に生きる希望を与えるものであり、生きる喜びを見出すことのできる「魂の癒し」なのである。
主イエス様を信じて救いの約束を頂いたクリスチャンも、これと同じ喜びを頂いている。はずである。


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ルカ4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

人は基本的に、自分のことを中心に物事を考え、自分にとって益となるように神に祈り求めるもの。
けれど、イエス様は違う。
イエス様は、いつでも他人のことを思い、他人の祝福を願われる方。
だから、自分たちのところだけにとどまって欲しいとの群集の願いに対しても、イエス様はほかの町の人たちにも福音を告げ知らせたいと願われるのである。
イエス様のこのような思いに、少しでも私の思いが近づけたらと願う。

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ルカ4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

病に苦しんでおられる多くの方々にとって、「わぜ私が病に苦しまなければならないのか。」といった問いは、信仰をも揺るがしかねない重大なものであると思う。
「神様は、なぜ私を助けてくれないのか。そもそもこの病も神からのものなのか」とつぶやきたくなることも多いのではないだろうか。
けれど、この箇所では、イエス様は熱をしかりつけておられる。
そして、当然ながら、悪霊を戒めて、彼らを静めることもしておられる。
病や悪霊は、私たちにとって敵であるように、イエス様にとっても敵であるということは伺えるだろう。
なぜなら、イエス様は私たちの味方なのだから、私たちに敵対するものにイエス様が勝利して下さるのは当然のことだから。
そして、イエス様は私たちの最後の敵である死とも戦って下さり、これに勝利して下さった。
私たちの最高の味方であるイエス様は、そのようなお方なのである。

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ルカ3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
3:24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、
3:25 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、
3:26 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、
3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、
3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、
3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、
3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、
3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、
3:32 エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、
3:33 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、
3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、
3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、
3:36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、
3:37 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、
3:38 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

イエス様が宣教を始められた時は、およそ30歳であったと記されている。
気力、体力も充実し、知恵も霊性も一番優れた年齢、イエス様は、そのような時に十字架にかかられた。
痛みも辛さも人一倍強く感じられたのではないだろうか。
そして、イエス様、そのような「人」として世に来られた。
人の子の人の子の・・・ずっとさかのぼっていくと、神に至る。
イエス様はもちろん、すべての人も神の子孫。
サルの子孫なんかじゃない。
ならば、自信を持って人として生きようではないか。

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ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
1:7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
1:8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
1:11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
1:12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
1:13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
1:18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
1:19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
1:20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
1:21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
1:22 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。
1:23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
1:24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
1:25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

主の聖所で祭司の職務を行っていたザカリヤに、天使がヨハネ誕生の知らせを告げられる。
生まれてくる子は、ザカリヤにとって喜びとなり、楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜び、その子は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する、と。
そんな素晴らしい働きを担う子が与えられるのは、本当に光栄なことであろうし、自分もそんな人として用いられたらと思うこともある。
しかし、そんな偉大な働きをする子は、いかにも生真面目に生活し、派手な生活もせず、子がいないことを恥としながらも、与えられた任務を忠実にこなし続けてきた老夫婦のもとに生まれてきたのである。
子どもをりっぱに成長させたいと願うならば、まずは、己が忠実に生きて行くことが先であろう。
子供は大人の生き様をよく見、そこから多くのことを学ぶのだから、何ができたかどうかは大切なことではなく、どう生きたか、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝して生きていけたらと思う。

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ルカ1:1 -2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

たった4節の非常に短い箇所にも関わらず、この福音書を記録した人物の性格や意気込みたいなものを強く感じることができる。

「わたしたちの間で実現した」
「最初から目撃して」
「すべての事を初めから詳しく調べて」
「順序正しく書いて」
「確実なものである」
「よく分かっていただきたい」

これほど真実さを強調し、誠実に伝えようと勤めている姿勢の伝わってくる表現はないのではないかと思えるほどである。
それほどに、ルカ福音書に書かれている事柄が、全て真実であるということの表われでもある。
だから、この真実な御言葉に真実に聞いていくものでありたいものである。


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エゼキエル48:1 部族の名は次のとおりである。「北の限界は、ヘトロンの道からレボ・ハマトを経てハツァル・エナンに至る。これがダマスコとの国境である。その北側にハマトがある。その東の端から海までがダン族のものである。これが一部族。
48:2 ダン族の境界線に沿って、東の端から西の端までがアシェル族のものである。これが一部族。
48:3 アシェル族の境界線に沿って、東の端から西の端までがナフタリ族のものである。これが一部族。
48:4 ナフタリ族の境界線に沿って、東の端から西の端までがマナセ族のものである。これが一部族。
48:5 マナセ族の境界線に沿って、東の端から西の端までがエフライム族のものである。これが一部族。
48:6 エフライム族の境界線に沿って、東の端から西の端までがルベン族のものである。これが一部族。
48:7 ルベン族の境界線に沿って、東の端から西の端までがユダ族のものである。これが一部族。
48:8 ユダ族の境界線に沿って、東の端から西の端までは、あなたたちがささげる献納地にしなければならない。その幅は二万五千アンマで、長さは東の端から西の端に及ぶ各部族の割り当て地の長さと同じである。その中央に聖所が置かれる。
48:9 あなたたちが主にささげる献納地は、長さ二万五千アンマ、幅は一万アンマである。
48:10 祭司のものである聖なる献納地の広さは、次のとおりである。北側の長さは二万五千アンマ、西側の幅は一万アンマ、東側の幅は一万アンマ、南側の長さは二万五千アンマである。その中央に主の聖所が置かれる。
48:11 この聖別された土地は祭司たち、つまりツァドクの子孫である祭司のものである。彼らはイスラエルの子らが迷ったとき、レビ人たちが迷ったように迷うことなく、わたしの務めを守った。
48:12 彼らの献納地は、国の献納地のなかで最も神聖であり、レビ人の領地に沿っている。
48:13 レビ人のものは祭司の領地に沿っており、長さ二万五千アンマ、幅一万アンマである。両者を合わせた全体の長さは二万五千アンマ、幅は二万アンマである。
48:14 その一部でも売却したり、交換したりしてはならない。この最良の土地を譲り渡してはならない。それは主に属する聖なるものだからである。
48:15 幅五千アンマ、長さ二万五千アンマの残りの土地は一般用であり、居住地として、また牧草地として都に属するものである。都はその中央に置かれる。
48:16 都の大きさは、次のとおりである。北側は四千五百アンマ、南側も四千五百アンマ、東側も四千五百アンマ、西側も四千五百アンマである。
48:17 都の牧草地は北へ二百五十アンマ、南へ二百五十アンマ、東へ二百五十アンマ、西へ二百五十アンマである。
48:18 都の両側に残された土地は聖なる献納地に沿い、長さは東へ一万アンマ、西へ一万アンマである。それは聖なる献納地に沿っている。この土地の産物は都で働く人々の食糧になる。
48:19 都で働く人々は、イスラエルの全部族から出た人々でありこの土地を耕す。
48:20 献納地は全体で二万五千アンマ四方である。あなたたちは聖なる献納地を都の所有地と合わせてささげねばならない。
48:21 聖なる献納地と都の所有地の両側にある残りの土地は、君主のものである。それは献納地の二万五千アンマの長さに沿っており、そこから東の境までである。西の方も二万五千アンマの長さに沿い、そこから西の境までである。それは部族の割り当て地に沿っており、君主のものである。その中央には神殿の聖所のある聖なる献納地がある。
48:22 君主の所有地は、レビ族の所有地と都の所有地の両側にあって、ユダ族の境界線とベニヤミン族の境界線の間にある。それは君主のものである。
48:23 また残りの部族については、東の端から西の端まで、先ずベニヤミン族のものである。これが一部族。
48:24 次に、ベニヤミン族の境界線に沿って、東の端から西の端まで、シメオン族のものである。これが一部族。
48:25 次に、シメオン族の境界線に沿って、東の端から西の端まで、イサカル族のものである。これが一部族。
48:26 次に、イサカル族の境界線に沿って、東の端から西の端まで、ゼブルン族のものである。これが一部族。
48:27 次に、ゼブルン族の境界線に沿って、東の端から西の端まで、ガド族のものである。これが一部族。
48:28 ガド族の境界線に沿って、南側に南の境界線が延びている。それはタマルからカデシュのメリバの泉を経て、大海に注ぐ川に達する。
48:29 これが、あなたたちが嗣業としてイスラエルの各部族に割り当てるべき土地である。以上が彼らの割り当て地である」と主なる神は言われる。
48:30 都の出口は、次のとおりである。北側は長さ四千五百アンマである。
48:31 都の門はイスラエルの部族の名にしたがって、北の方に三つの門がある。ルベンの門が一つ、ユダの門が一つ、レビの門が一つである。
48:32 東側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。ヨセフの門が一つ、ベニヤミンの門が一つ、ダンの門が一つである。
48:33 南側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。シメオンの門が一つ、イサカルの門が一つ、ゼブルンの門が一つである。
48:34 西側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。ガドの門が一つ、アシェルの門が一つ、ナフタリの門が一つである。
48:35 都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。


イスラエルの嗣業の割り当てについての詳細が記されている。
都の北側には、北からダン、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベン、ユダの7つの部族の割り当て地が平行に配置され、その次に都の奉納地が配置され、その中央に、聖所が置かれ、その土地は祭司のものと定められている。
祭司に割り当てられた領地に沿ってレビ人の領地が割り当てられ、残りの部分に、一般の居住地、牧草地として、都の所有地が置かれる。
そして、祭司とレビ人の所有地の両側にあって、北の7部族と南の5部族との間に君主の土地が割り当てられる。
そして、その南側に、北側と同じように、ベニヤミン、シメオン、イサカル、ゼブルン、ガドの5つの部族が平行に土地を割り当てられる形となる。
これが全イスラエルの嗣業の割り当ての詳細であり、この中心に都が置かれ、その都は「主がそこにおられる」と呼ばれると語られている。
神に選ばれた民イスラエルが、神の指示に従って都を中心に整然と並び、神を礼拝する民として整えられた姿がここに示されていると言えよう。
形だけが重要なのではないが、神を礼拝する心が整えられていくとき、自然に形も整っていくのであろう。
まずは、心を神に向け、信仰を整えていくことが大切なのだろう。

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エゼキエル47:1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
47:2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。
47:3 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。
47:4 更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
47:6 彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。
47:7 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。
47:8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
47:9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
47:10 漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。
47:12 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」
47:13 主なる神はこう言われる。「あなたたちが、イスラエルの十二部族に土地を嗣業として割り当てるときの境界線は、次のとおりである。ヨセフの割り当て地は二倍である。
47:14 あなたたちは、土地を平等に割り当てねばならない。この土地は、わたしがあなたたちの先祖に与える、と手を上げて誓ったものである。この土地は、あなたたちに嗣業として割り当てられる。
47:15 以下が土地の境界線である。北の端は大海からヘトロンの方へ、レボ・ハマト、ツェダド、
47:16 ベロタ、シブライム――それはダマスコの国境とハマトの国境の間にある――を経て、ハウランの境界線に臨むハツァル・ティコンに及ぶ。
47:17 こうして、境界線は海から始まり、ダマスコの国境の北にあるハツァル・エノンに至る。ハマトの国境は更に北にある。これが北の端である。
47:18 東の端はハウランとダマスコの間を通り、更にギレアドとイスラエルの土地の間、つまりヨルダンを経て東の海に接する地域からタマルに及ぶ。これが東の端である。
47:19 南の端は、南の方に向かってタマルからカデシュのメリバの泉に至り、大海に注ぐ川に及ぶ。これが南方、南の端である。
47:20 西の端は大海で、レボ・ハマトに向かい合った地域に及んでいる。これが西の端である。
47:21 あなたたちは、この土地を自分たちイスラエルの各部族に分けねばならない。
47:22 この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。
47:23 外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われる。

主の神殿から沸きあがる水は、やがて泳げるほどの川の流れとなり、その水の流れ行くところは、すべてきれいになり、全てのものが生きるようになり、あらゆる果樹が大きく育ち、葉は枯れることなく、豊かな実を結ぶと語られている。
主の御言葉が語られているところでは、まさに、このような出来事が起こるのである。
そして、その地に住む者たちは、割り当ての地を与えられ、平安に過ごすことができるのである。

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エゼキエル46:1 主なる神はこう言われる。「内庭の東向きの門は、仕事をする六日の間、閉じておかねばならない。安息日には門を開く。また、新月の日にも門を開かねばならない。
46:2 君主は外から門の廊を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居の所で礼拝した後、出て行く。門は夕方まで閉じてはならない。
46:3 国の民は、安息日と新月に、門の入り口の所で主に向かって礼拝しなければならない。
46:4 君主が、安息日に主にささげる焼き尽くす献げ物は、無傷の小羊六匹と無傷の雄羊一匹である。
46:5 また、穀物の献げ物は、雄羊一匹について麦粉一エファ、小羊については、彼が望むだけの穀物の献げ物をささげる。また、麦粉一エファについて油一ヒンを添える。
46:6 新月の日にささげるものは、無傷の雄牛の子一頭、そして、小羊六匹、雄羊一匹である。これらも無傷でなければならない。
46:7 この雄牛一頭について一エファ、雄羊一匹についても一エファの穀物をささげねばならない。そして、小羊については、そのときに可能なだけの穀物をささげねばならない。麦粉一エファについては、油一ヒンを添える。
46:8 君主が入るときは、門の廊を通って入り、また、そこを通って出て行かねばならない。
46:9 しかし国の民が、定められた祝日に主の前に入るときは北の門を通って、礼拝に来た者は南の門を通って出て行き、南の門を通って来た者は、北の門を通って出て行かねばならない。入って来た門を通って帰ってはならない。真向かいの門から出て行かねばならない。
46:10 君主は彼らの間にあって、彼らが入るときに入り、彼らが出るときに出て行かねばならない。
46:11 巡礼の祭りと定められた祝日とに、穀物の献げ物は、雄牛一頭について麦粉一エファ、雄羊一匹について麦粉一エファ、小羊については、彼が望むだけの穀物の献げ物をささげる。また、麦粉一エファについて、油一ヒンを添える。
46:12 また、君主が、随意の献げ物をささげるとき、それが焼き尽くす献げ物であれ、和解の献げ物であれ、随意に主にささげようとするときは、彼のために、東に面した門を開かねばならない。そして、彼は安息日に行うように焼き尽くす献げ物、または和解の献げ物をささげることができる。彼はささげ終わると出て行く。彼が出て行った後、門は閉じられる。
46:13 あなたは、朝ごとに無傷の一歳の小羊一匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。
46:14 あなたは、朝ごとにそれに添えて穀物の献げ物をささげねばならない。すなわち、朝ごとに上等の小麦粉六分の一エファと、それに振りかける油三分の一ヒンである。これは、主にささげる穀物の献げ物であり、変わることのない永遠の掟である。
46:15 朝ごとに、小羊一匹と穀物の献げ物と油をささげねばならない。これは、変わることのない朝ごとの焼き尽くす献げ物である。」
46:16 主なる神はこう言われる。「君主が、その子のだれかに嗣業を贈与するならば、それはその子の所有地となり、それは嗣業に含まれる。
46:17 君主が家臣のだれかに嗣業の一部を贈与すれば、それは解放の年まで彼のものとなる。しかしその後、君主に返さねばならない。君主の嗣業を所有できるのは、その子らだけである。
46:18 君主は民の嗣業を取り上げてはならない。彼らの所有地を奪ってはならない。自分の所有地は自分の子らに相続させねばならない。それは、わが民の一人でも、その所有地から追い立てられることがないためである。」
46:19 彼はまた、門の傍らにある入り口から、北に面した祭司の聖なる部屋にわたしを連れて行った。そこには西向きの隅に一つの場所があった。
46:20 彼はわたしに言った。「ここは、祭司たちが賠償の献げ物と贖罪の献げ物を煮、穀物の献げ物を焼くところである。これらのものを外庭に持ち出して、神聖さを民に移すことがないためである。」
46:21 彼はわたしを外庭に連れ出して、庭の四隅を回らせた。庭のそれぞれの隅には、また庭があった。
46:22 四隅の庭は、それぞれ囲まれた庭であり、長さ四十アンマ、幅三十アンマであった。四つの庭は同じ大きさで、四隅にあった。
46:23 四つとも、その周囲は石壁で囲まれており、また、石垣を巡らせた煮る場所が設けられていた。
46:24 彼はわたしに言った。「ここは、神殿に仕える者たちが、民のささげるいけにえを煮る場所である。」

君主とは、国を治めるために立てられたものである。
しかし、その君主が、国民のために働くという意識を持たないならば、その国は滅ぶ。
国民が安心して暮らすことができるように国を治めるならば、その国は豊かに繁栄するのである。

ここでは、君主は、民のために最良の捧げ物を捧げるべきと語られている。
そして、国民のために、彼らが安心して暮らすことが出来るように嗣業(土地)を与えるようにも語られている。

神の国の真の君主はイエス・キリスト。
この方は、民のために、自らの犠牲による命の約束という最高のものを与えてくださる。
最高の捧げ物、そして、最高の嗣業を与えて下さるお方だから。


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