マタイ12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主なのである。」
組織を維持運営していくためには、ある程度のルールは必要である。
しかし、あまりにもルールに縛られすぎ、原則化してしまうと、組織の運営は、やがて硬直化し、有益な働きを続けることができなくなってしまう。
教会も、ある程度のルールは必要だが、あまりにルールに縛られすぎてしまうと、何のための教会なのか分からなくなってしまうこともある。
だから、教会などの組織が機能的に維持運営されてっくためには、その組織が存在することの第一義的な意義をきちんと確認し、それに従って運営されていくことが大事である。
ファリサイ派の人たちは、あまりに細かいルールに縛られすぎてしまい、その教えが神のものであり、神の御心に従って生きていくためのものであることを見失い、人間的な発想で、神の言葉を理解し、生活の隅々にまで律法の教えを摘要しようとしていた。
しかし、それは、本来の意図を見失っている。
神の御言葉は、人を強制し、見張るだけのものではない。
罪と死の縄目から解放し、本当の自由を与えるものである。
神が求めるものは、いけにえではなく、憐れみである。
私たちが神の憐れみを受け、神に憐れまれるようになることを望んでおられるのである。
| Trackback ( 0 )
|