聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マタイ12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

物の考え方、言動、態度などを、外に向かって出て行くもの(アウトプット)を良いものにしたければ、入れるもの(インプット)を良いものにしていかなければならない。
そして、それを入れ続けていけば、次第にそれで満たされていくはずである。
だから、日々、聖書の御言葉に聞き続けることは大切なことである。
良い実を結ぶために、良い御言葉を聞き続けていきたい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

悪霊が同じ仲間の悪霊から追い出されるのなら、単なる仲間割れで、大きな力を発揮することはできない。
人の世界でも同じこと。
人同士が争い、ねたみ、傷つけあっている間は、なんの成長も働きもできない。
人よりも大きな力を持っておられる神のご支配にゆだねることが大切である。
大いなる方、救い主イエス・キリストのみ手にゆだね、したがっていくときに、人は大いなる働きを成し遂げていけるのだろう。
恵みの支配のもとに身をおく幸いを覚えたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

人はいつも自分の立場を守ろうとしては他人を落としいれようとする。
イエス様を取り巻いていた人たちも、どうやってイエス様を訴える口実を見つけようかと、そればかりに心を囚われていた。
しかし、イエス様は違う。
イエス様は、いつも人を助けたいと願い、仮に自分の立場が危うくなったとしても、人を救いたいと願われた。
その最たる姿が、十字架の死である。
人間は羊よりもはるかに大切なもの。
だから安息日には、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死なれたことによって私たちが救われるのだという聖書の福音のメッセージを聞くことは善いことであり、わたしたちにとって必要なことなのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主なのである。」

組織を維持運営していくためには、ある程度のルールは必要である。
しかし、あまりにもルールに縛られすぎ、原則化してしまうと、組織の運営は、やがて硬直化し、有益な働きを続けることができなくなってしまう。
教会も、ある程度のルールは必要だが、あまりにルールに縛られすぎてしまうと、何のための教会なのか分からなくなってしまうこともある。
だから、教会などの組織が機能的に維持運営されてっくためには、その組織が存在することの第一義的な意義をきちんと確認し、それに従って運営されていくことが大事である。
ファリサイ派の人たちは、あまりに細かいルールに縛られすぎてしまい、その教えが神のものであり、神の御心に従って生きていくためのものであることを見失い、人間的な発想で、神の言葉を理解し、生活の隅々にまで律法の教えを摘要しようとしていた。
しかし、それは、本来の意図を見失っている。
神の御言葉は、人を強制し、見張るだけのものではない。
罪と死の縄目から解放し、本当の自由を与えるものである。
神が求めるものは、いけにえではなく、憐れみである。
私たちが神の憐れみを受け、神に憐れまれるようになることを望んでおられるのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

イエス様は悔い改めない町の人たちのために、厳しい言葉を述べている。
しかし、それは、単なる裁きの言葉が述べられているというわけではない。
むしろ、憐れみと嘆きに満ちた言葉であると言えるのではないだろうか。

イエス様の目に、救われなくてもよい魂などというものはない。
一人の魂さえも滅んで欲しくない。
そういう気持ちのこもった嘆きの言葉なのかもしれない。

イエス様を信じないまま、不幸な人生を歩み続けず、イエス様を信じて幸いな人生を歩むことができるように願う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ9:32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
9:33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
9:34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

マタイ9章38節のイエス様の御言葉は、単に収穫の主に働き人を送ってもらえるように祈るように勧められているわけではない。
原文では「送り出す」という意味の言葉が用いられており、後に続く10章1節以下の箇所で、この言葉を聞いた弟子達が、実際に送り出されていることからも、この祈りが、自分達を働き人として主に送り出してもらえるように祈りなさいと命じられていると捉えることができる。
つまり、働き人を送ってください、と他人に期待する祈りではなく、自らを収穫の働きのために働く者として、主に送り出してもらえるように祈れということなのであろう。
働き人として主に召され、主が送り出して下さるのなら、それは本当に幸いなことである。
全ての働き人がこのような祈りによって主に送り出していただけるようになることを祈るばかりである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

二人の盲人は、イエス様に対し「わたしたちを憐れんでください」と言いいながら、イエス様のあとを追った。
しかし、彼らの言葉には、目を開いて欲しいとか、何かをして欲しいといった直接的な要求はなく、ただ「憐れんでほしい」という憐れみの心をを求めるものである。
その行為に対し、イエス様は「私にできると信じるのか」と答えられているが、何ができるかということについては直接触れず「あなたがたの信じているとおりになるように」との言葉を持って、彼らの本心に対する応答をしているのである。
このことは、彼らがイエス様に対して抱いている信仰の通りになることが、彼らに対する憐れみそのものとなるということを示している。
つまり、それは、神が彼らに対して望んでおられることを、彼らがそのまま受け入れることよりも、彼らが望んでいることを、神が受け入れて下さるところに憐れみの本質があるということではないだろうか。
神は憐れみ深いお方である。
私たちの心の嘆きや願いなど、全てをご存知で、それらにも応えて下さるお方。
そのように信じて従っていくところに、神の偉大な恵みの御業は明らかにされていくのであろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。

指導者の娘が癒され、十二年間も出血が続いていた女性も癒された。
これらの出来事は、全て、主イエス様の御業によるものであるが、それを信じる信仰者の信仰が引き寄せた神の恵みでもある。
どんなにイエス様が癒し、赦し、救おうと願っても、信じようとする者がいなければ、どんな恵みも無駄になってしまう。
だから、ただひたすらに恵みを求める信仰を保ち続けていきたい。

「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

イエス様のこの言葉に慰めと励ましを頂く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
8:19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
8:20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
8:21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

この世には、イエス様の居場所、特に、安住できるような居場所はなかった。
ただひたすら、失われた者を探して救うため、歩き、働き続けた。
しかしそれは、死んでいる者のためではなく、生きる者のためである。

今朝は、何十年ぶりに朝露の上を歩いたと言われた方がいらした。
潤いのある世界に歩むことができるのは、本当に幸いなことである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

イエス様は、ペテロの家に行き、熱を出して寝込んでいる姑をご覧になり、手を触れて癒してあげられた。
そして、起き上がってイエス様をもてなしたと記されている。
イエス様と出会い、救われた者のあるべき姿であると言えるのかもしれない。
失われていたものが見出され、癒し、仕える人に変えられるのである。
祝福とは、こういうことを言うのかもしれない。

しかし、その背後で、イエス様が「彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」ということを覚えなければならない。
ただの祝福ではない。
大きな大きな犠牲を伴う、大きな大きな祝福である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ