デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

ここで言われている「しるし」というのは、「神が本当にいるのなら、その証拠を見せて見よ」といった類の「証拠」のようなものであろう。
たとえば、「神が私を愛し、救って下さったというなら、今すぐその証拠として病をいやしてください」といった風に思う時、その癒しの業がなければ、その人は神を信じようとしないのだろう。
しかしイエス様は「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と仰せられる。
もちろん、イエス様は全く「しるし」を見せられないお方でもない。
時に応じて、イエス様がお見せになりたいと願われた時には、しるしも現わされている。
しるしを見なければ信じないという人は、神の御業を自分の思い通りに動かそうとしていることに気づかなければならないだろう。
案外、しるしを見せなければ信じない人のところには、しるしは現れず、しるしなどなくても信じる人のところにしるしは現わされるのかもしれない。
イエス様は「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」
何もしてくださらなかったと捉えれば、見捨てられたように見えるかもしれないが、現状がどうであれ、神の恵みと救いは変わらないということを示しておられるのかもしれない。
しるし如何に関わらず、神の恵みを信じるものでありたい。

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