聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




士師記 21:1 イスラエル人はミツパにおいて、「我々はだれも自分の娘をベニヤミンに嫁として与えないことにする」と誓った。
21:2 民はベテルに帰って、夕方まで神の御前に座り、声をあげて泣き叫んだ。
21:3 「イスラエルの神、主よ。なぜイスラエルにこのようなことが行われ、今日イスラエルから一つの部族が欠けることになったのですか。」
21:4 翌日、朝早く民は起きて、そこに祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。
21:5 イスラエルの人々は言った。「誰かイスラエルの全部族の中で、主の御前における集会に上って来なかった者がいるか。」というのは、ミツパに上って主の御前に出なかった者に対しては、「必ず死なねばならない」との、堅い誓いがなされていたからである。
21:6 イスラエルの人々は兄弟ベニヤミンのことを悔やみ、「今日イスラエルの中から一つの部族が切り捨てられた。
21:7 その生き残りの者たちに妻を与えるにはどうすればいいだろう。わたしたちは、彼らには娘を嫁がせないと主に誓った」と言った。
21:8 イスラエルの人々はそこで、「イスラエルのどの部族がミツパに上って、主の御前に出なかったのだろうか」と尋ねた。すると、ギレアドのヤベシュからはだれ一人この陣営に来ることなく、集会に出ていなかった。
21:9 民の数が調べられたとき、ギレアドのヤベシュの住民は一人もそこにいなかったことが分かった。
21:10 共同体は一万二千人の兵を派遣することにし、彼らにこう命じた。「行って、ギレアドのヤベシュの住民を女や子供に至るまで剣にかけよ。
21:11 これがあなたたちのなすべきことである。男はもとより、男と寝たことのある女もすべて滅ぼし尽くさなければならない。」
21:12 彼らはこうして、ギレアドのヤベシュの住民の中に男と寝たことのない処女の娘四百人を見いだし、カナンの地にあるシロの陣営に連れ帰った。
21:13 全共同体は、リモンの岩場にいるベニヤミンの人々に使者を送って和解を呼びかけた。
21:14 ベニヤミンがこのとき帰って来たので、彼らはギレアドのヤベシュの女たちの中で生かしておいた娘たちをベニヤミンの人々に与えた。しかし、まだ足りなかった。
21:15 民はベニヤミンのことを悔やんだ。主がイスラエル諸部族の間を引き裂かれたからである。
21:16 共同体の長老たちは言った。「生き残った者に妻を与えるにはどうすればいいだろう。ベニヤミンの女は絶えてしまった。」
21:17 彼らはまた言った。「ベニヤミンに生き残る者を得させ、イスラエルから一つの部族も失われないようにしなければならない。
21:18 だが、わたしたちは、娘を彼らの嫁にやるわけにはいかない。イスラエルの人々は、『ベニヤミンに嫁を与える者は呪われる』と誓った。」
21:19 彼らは更に言った。「そうだ。年ごとにシロで主の祭りが行われる。」――シロの町はベテルの北側、ベテルからシケムに通じる大路の東側、レボナの南側にあった。
21:20 そこで彼らはベニヤミンの人々にこう言い渡した。「ぶどう畑に行って、待ち伏せし、
21:21 シロの娘がそろって踊りに出て来るのが見えたら、ぶどう畑から出て行って、シロの娘の中からそれぞれ妻にしようとする者を捕まえ、ベニヤミンの地に帰りなさい。
21:22 もし彼女らの父や兄がわたしたちに文句を言いに来たら、こう言おう。『我々に免じて憐れみをかけてやってほしい。我々は戦争の間それぞれ妻を迎えることができなかったし、あなたたちも彼らに娘を与えることができなかった。与えていたら、あなたたちは罪に問われたはずだ』と。」
21:23 ベニヤミンの人々はそのようにした。彼らは踊っている女たちを奪い、その中から自分たちの数だけ連れ去って、自分の嗣業の地に帰り、町を築き、そこに住んだ。
21:24 イスラエルの人々もそのときそこを去り、それぞれ自分の部族、自分の氏族のもとに帰って行った。そこからそれぞれ自分の嗣業の地に向かって出て行った。
21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。

ベニヤミンに対する全イスラエルによる制裁は、思慮を欠いたものとなっていたようである。
悪いことをした部族には罰を与えなければならないが、滅ぼされてしまうのは好ましいことではないと考え、ベニヤミンの人たちがどうすれば嫁を迎えることができるか提案するのだが、結局、シロの娘たちを強奪するというところに落ち着いていくのである。
その結果、一人のレビ人の側めが辱められたこと以上に、さらに悪行を重ねていくようなことになってしまっているのである。
人間の考える案は、ここまで愚かなものとなるのかと思わされる。
中途半端な義を振りかざしたところで、そもそも自分自身も同じ罪人なのだから、罪人の考える更生など、なんの効果もないといったところであろうか。
罪を犯した者に対する更生のための裁きというのは、本当に難しいし、おそらく不可能なことなのかもしれない。
しかし、それでも、罪に対する償いは必要であるし、どこかで不完全な裁きとなっていくのだろう。
しかし、神のなさる罪の裁きは完全な形で成されている。
神の御子キリストが、十字架で死なれることで、愚かな罪人の罪の償いは完了している。
と同時に、「さりとて同胞を活かしておきたい」との憐れみも果たしている。
人間には正しい裁きはできない。しかし、神にはそれができる、ということであろう。
赦されているのか赦されていないのか分からないような中途半端なところで生きるより、完全なる赦しと完全なる義の約束を頂ける、神の御言葉に信頼して歩んで行きたいものである。

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士師記 20:1 イスラエルの人々は皆出て来て、ダンからベエル・シェバ、またギレアドの地まで、一団となって一人の人のようになり、ミツパで主の前に集まった。
20:2 イスラエルの全部族、すべての民の要職にある者たちも、神の民、剣を携えた四十万の歩兵たちの集いに参加した。
20:3 ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々がミツパに上って来たことを伝え聞いた。イスラエルの人々が、「このような犯行がどうして行われたのか説明してもらいたい」と言ったので、
20:4 殺された女の夫であるレビ人はこう答えた。「ベニヤミンのギブアに来て、わたしは側女と共に宿をとっておりました。
20:5 ギブアの首長たちがわたしに向かって来て、夜、わたしの泊まった家を取り囲み、わたしを殺そうとし、側女を辱めて死に至らせたのです。
20:6 わたしは側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。彼らがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです。
20:7 あなたたちイスラエルのすべての人々よ。ここで話し合って協議していただきたい。」
20:8 すべての民は一人の人のように立ち上がり、こう言った。「我々はだれも自分の天幕に帰らず、だれも家に戻らない。
20:9 我々が今、ギブアに対してなすべきことはこうだ。ギブアに対してまずくじを引いて攻め上ろう。
20:10 イスラエル全部族から百人につき十人、従って千人なら百人、一万人いれば千人を選んで糧食を調達させ、部隊をベニヤミンのギブアに行かせ、ベニヤミンがイスラエルの中で行ったすべての非道を制裁しよう。」
20:11 こうしてイスラエルの者が皆、一人の人のように連帯を固めてその町に向かって集まった。
20:12 イスラエルの諸部族は、全ベニヤミン族に人を送って、こう告げた。「あなたたちの中で行われたあの犯行はなんということか。
20:13 今、あのならず者の犯人がギブアにいれば、引き渡せ。犯人を殺してイスラエルの中から悪を取り除こう。」だが、ベニヤミンの人々は、その兄弟たち、イスラエルの人々の声を聞こうとはしなかった。
20:14 かえってベニヤミンの人々は町々からギブアに集まり、イスラエルの人々と戦おうとして出て来た。
20:15 その日、町々からはせ参じたベニヤミンの人々は、数を調べると、剣を携えた兵士二万六千人、そのほかにギブアの住民からえり抜きの兵士七百人であった。
20:16 七百人のえり抜きの兵士からなるこの部隊の皆が左利きで、髪の毛一筋をねらって石を投げても、その的をはずすことがなかった。
20:17 一方、イスラエルの人も、ベニヤミンを除いて数を調べると、剣を携えた兵士四十万で、彼らは皆、軍人であった。
20:18 彼らは立ち上がってベテルに上った。イスラエルの人々は神に問うて言った。「我々のうち誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか。」主は、「ユダが最初だ」と言われた。
20:19 翌朝、イスラエルの人々は行動を起こし、ギブアに対して陣を敷いた。
20:20 イスラエル人はベニヤミンとの戦いに出陣し、ギブアに対して戦闘態勢に入ったが、
20:21 ベニヤミンの人々はギブアから出撃して、その日、二万二千人のイスラエル兵を地に打ち倒した。
20:22 しかし、イスラエル人の部隊は奮起し、最初の日に戦闘態勢に入った場所で、態勢を立て直した。
20:23 イスラエルの人々は主の御前に上って、夕方まで泣き続け、主に問うて言った。「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えねばなりませんか。」しかし、主は言われた。「彼らに向かって攻め上れ。」
20:24 二日目もイスラエルの人々はベニヤミンの人々に向かって進撃した。
20:25 しかし、ベニヤミンは、二日目にもギブアから出撃してそれを迎え撃ち、またもイスラエルの人々一万八千人を地に打ち倒した。彼らは皆、剣で武装した者であった。
20:26 イスラエルの人々は皆、そのすべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。
20:27 イスラエルの人々は主に問うた。――当時、神の契約の箱はそこにあり、
20:28 また当時、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが御前に仕えていた――イスラエルの人々は言った。「兄弟ベニヤミンとの戦いに、再び繰り返して出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す。」
20:29 イスラエルはギブアの周囲に伏兵を配置した。
20:30 三日目もイスラエルの人々はベニヤミンの人々に向かって攻め上り、前と同じようにギブアに対して戦闘態勢に入った。
20:31 ベニヤミンも、その軍団を迎え撃とうとして出て来た。彼らは町から遠くへおびき出され、一方はベテルに、他方はギブアに通じる大路を進んだ。野でイスラエルの部隊に死傷者が出始め、約三十人が倒れた。
20:32 ベニヤミンの人々は、「初戦と同様、敵を打ち負かした」と思ったが、イスラエルの人々は、「撤退して敵を町から大路におびき出そう」と謀っていた。
20:33 イスラエルの人々は皆、自分の持ち場から立ち上がり、バアル・タマルで戦闘態勢に入った。イスラエルの伏兵も自分の持ち場であるゲバの平原から躍り出た。
20:34 全イスラエルのえり抜きの兵士一万人がギブアに向かって進撃し、激戦となった。ベニヤミンの人々は自分たちに不幸な結末が訪れるとは思ってもみなかった。
20:35 主はイスラエルの目の前でベニヤミンを撃たれたので、イスラエルの人々が、その日打ち滅ぼしたベニヤミンの兵は二万五千百人に上った。彼らは皆、剣を携える者であった。
20:36 ベニヤミンの人々は敗北を認めざるをえなかった。イスラエル人はギブアに対して配置した伏兵を信頼していたので、ベニヤミンに戦場を明け渡した。
20:37 その伏兵がギブアを急襲した。伏兵は突入し、町をくまなく剣をもって撃った。
20:38 イスラエル人と伏兵との間に打ち合わせがあって、町からのろしの煙が高々と揚がると、
20:39 イスラエル人は戦線に復帰することになっていた。ベニヤミンは、イスラエル人に死傷者が出始め、約三十人の兵を打ち倒したとき、「初戦と同様に、敵を打ち負かした」と思ったが、
20:40 雲の柱のようなのろしが町から揚がり始め、ベニヤミンが振り返ると、町全体が火に包まれ天に燃え上がっていた。
20:41 そこへイスラエル人が引き返して来たので、ベニヤミン人は、自分たちに、不幸な結末が訪れるのを知って、うろたえた。
20:42 彼らはイスラエル人を見て荒れ野の方に向かったが、戦いを逃れることができなかった。町々から出て来た人々も加わって彼らを屠り去った。
20:43 彼らはベニヤミンを包囲し、追いつめ、手を緩めずギブアの向こう側、東側まで踏みにじった。
20:44 ベニヤミンの中で一万八千人が倒れたが、彼らは皆、軍人であった。
20:45 他の者は荒れ野のリモンの岩場に向かって逃げたが、イスラエル人は大路でその五千人を討ち、彼らが、壊滅するまで追い迫り、二千人を打ち殺した。
20:46 この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。
20:47 六百人が荒れ野のリモンの岩場に逃げて、四か月、そこリモンの岩場にとどまった。
20:48 一方、イスラエル人はベニヤミンの人々のところに戻って来て、町の男たちから家畜まで、見つけしだい、残らず彼らを剣で撃ち、どの町にも見つけしだい火を放った。

ベニヤミンの間で行われた、一人のレビ人の側めに対する辱めと殺人の事件は、その死体を切り刻んでイスラエルの各部族に送られたことで、ベニヤミン対全イスラエルの全面戦争という一大事へと発展していくことになる。
自分の側めを殺されたレビ人が、これほどの大騒ぎになると想像していたのかどうかは分からないが、ベニヤミンに対する怒りと報復の念に駆られていたレビ人にとっては、当然のことくらいに思っていたのかもしれない。
けれど、そこで死んだ人間の数は、莫大である。
町や野も荒らされ、甚大な被害が出ていることには違いない。
果たして、そこまでの甚大な被害をもたらすほどの全面戦争にまで発展しなければならないほどの極悪な事件であったのだろうかといった疑念は残る。
ベニヤミンの人たちも、最初は面白半分でいたずら程度に考えていたのかもしれない。
しかし、人間の怒りや憎悪は果てしなく増幅していくもの。
最初の事件がそれほど悪いことではないということでもなく、最初の事件の割にその後の騒動が大きすぎるということでもなく、ただ、人間の怒りと憎悪が増幅していくことで、ここまで大きな事件へと発展していくのだということを思う時、人間とは何と恐ろしい存在なのだろうと思わされる。
もっとも、主なる神も、一見したところ、ベニヤミンへの制裁を許しているような様子も伺える。
悪は悪として、取り除かれるべき、ということは分からないでもない。
ただ、ここまでの大事件になる前に、なんとか穏やかに解決する方法は無かったのかとも思う。
話し合っても解決しない愚かな人間だから、戦うしかないのかもしれない。
キリストの十字架は、そんな愚かな人間の救いのためにもある。
ちょっとしたいじりが深刻ないじめへとエスカレートしていくこともあるだろう。
ちょっとだけ気に入らないことがあっただけで、人間関係が完全に崩れ、酷い時は、自分の人生まで崩壊していくこともあるかもしれない。
エスカレートしていく前に、どこかで頭を冷やし、和解もしくは、停戦を合意するよう話し合いを重ねるなど、願わくは、キリストの十字架を見上げながら、人間が互いに生きていくための知恵と工夫を探し求めていけたらと思う。

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士師記 19:1 イスラエルに王がいなかったそのころ、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた。彼はユダのベツレヘムから一人の女を側女として迎え入れた。
19:2 しかし、その側女は主人を裏切り、そのもとを去ってユダのベツレヘムの父の家に帰り、四か月ほどそこにいた。
19:3 夫は若者を伴い、一軛のろばを連れて出で立ち、彼女の後を追い、その心に話しかけて連れ戻そうとした。彼女が彼を父の家に入れると、娘の父は彼を見て、喜び迎えた。
19:4 そのしゅうと、娘の父が引き止めるので、彼は三日間そこにとどまり、食べて飲み、夜を過ごした。
19:5 四日目の朝早く彼は起きて出発しようとしたが、娘の父が婿に、「パンを一切れ食べて元気をつけ、それから出かけた方がいい」と言うので、
19:6 二人は一緒に座り、食べて飲んだ。娘の父は男に、「どうか、もう一晩泊まってくつろいでください」と言った。
19:7 男は立ち上がって出発しようとしたが、しゅうとがしきりに勧めるので、また泊まることにした。
19:8 五日目も朝早く彼は出発しようとしたが、娘の父が、「元気をつけた方がいい」と言うので、二人は日の傾くころまでゆっくり食事をした。
19:9 彼が側女と若者を連れて出発しようとすると、そのしゅうと、娘の父は、「日もかげってきて、もう夕方です。もう一晩お泊まりください。日は暮れかけています。ここに泊まってくつろぎ、明朝早く起きて旅路につき、家に帰ることにしてはどうですか」と言った。
19:10 しかし、男は泊まろうとせず、立ち上がって出発し、エブスすなわちエルサレムを目の前にするところまで来た。彼は鞍をつけた一軛のろばと側女を連れていた。
19:11 彼らがエブスの近くに来たとき、日は大きく傾いていた。若者は主人に、「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしてはいかがですか」と言ったが、
19:12 主人は、「イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい。ギブアまで進むことにしよう」と答えた。
19:13 更に彼は若者に、「さあ、このいずれかの場所に近づいて行き、ギブアかラマに泊まることにしよう」と言った。
19:14 彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没した。
19:15 彼らはギブアに入って泊まろうとして進み、町の広場に来て腰を下ろした。彼らを家に迎えて泊めてくれる者はいなかった。
19:16 夕暮れに、一人の老人が畑仕事を終えて帰って来た。この人はエフライム山地の出身であったが、ギブアに滞在していた。土地の人々はベニヤミン族であった。
19:17 老人は目を上げて、町の広場にいる旅人を見、「どちらにおいでになりますか。どちらからおいでになりましたか」と声をかけた。
19:18 彼は老人に答えた。「わたしたちは、ユダのベツレヘムからエフライム山地の奥にあるわたしの郷里まで、旅をしているところです。ユダのベツレヘムに行って、今、主の神殿に帰る途中ですが、わたしたちを家に迎えてくれる人がいません。
19:19 ろばのためのわらも飼い葉もありますし、わたしとこの女、あなたの僕の連れている若者のためのパンもぶどう酒もあります。必要なものはすべてそろっています。」
19:20 老人は、「安心しなさい。あなたが必要とするものはわたしにまかせなさい。広場で夜を過ごしてはいけません」と言って、
19:21 彼らを自分の家に入れ、ろばに餌を与えた。彼らは足を洗い、食べて飲んだ。
19:22 彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」
19:23 家の主人は彼らのところに出て行って言った。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。この人がわたしの家に入った後で、そのような非道なふるまいは許されない。
19:24 ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思いどおりにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない。」
19:25 しかし、人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。
19:26 朝になるころ、女は主人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた。
19:27 彼女の主人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、
19:28 「起きなさい。出かけよう」と言った。しかし、答えはなかった。彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。
19:29 家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた。
19:30 これを見た者は皆言った。「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」

イスラエル全体を治める者がいない時代は、ほとんどの民が神を信じることを忘れ、次第にその心が遠く神から離れていたようである。
倫理も秩序も欠けた時代、人々は、堕落の一途を辿っていた。
士師記19章に記されている出来事は、その典型的な例であり、人々は欲望の赴くままに、好き放題に罪を重ねていた。
罪を犯しても、バレなければとがめられることも無く、やりたい放題であった。
しかし、おぞましい罪の実体が全イスラエルに知らされることとなっていく。
本来なら、全ての罪がこのように明らかにされていくべきなのだろうけれども、残念ながら、多くの罪は闇に葬り去られていくことが多い。
現在、この国の政治も経済も、個人個人の行動も、バレさえしなければ何をやってもいいといった風潮があるように思う。
しかし、終わりの時には、神の御前で全ての人が、すべての罪に関して申し開きをすることになる。
その時、キリストを知る者と、そうでない者とでは、天と地ほどの違いがある。
我々も、日々、多くの罪を犯し続けているが、すべての罪が赦されているという驚くべき恵みを携えながら、神の御前に全てが明かされていることを覚えながら生きて行きたいものである。

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ヨハネ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

人はとかく他人と自分を比較しがちである。
他人より自分がどうであるとか、自分より他人のほうがどうであるとか、比べたところで何も変わらないのにも関わらず、である。
もちろん、他人と比較することで、自分らしいところはどういう所かといった事を見つけることはあるだろう。
自分らしさとは何か、とにかく自分にできることをやってみるだけである。
できないことは幾ら背伸びしたところで、てもはしきない。
そして、周りの目を気にし過ぎるのも良くない。
自分は自分、他人は他人、神様は何等かの意図をもってそれぞれの個性を創られただろうし、その個性を生かし、託された場所で託された務めを担っていくだけである。
きっとそれを続けていれば、世界でただ一人のオリジナルの証となるのだろう。
命の書に、自分の人生の全ても記されている事を信じつつ。

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マタイ 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

イエス様のお誕生をお祝いするクリスマスを迎え、新たな気持ちで来たる新しい年を迎えたいと思う。
しかし、暦が変わったところで、世界は相変わらず悪に満ちている。
むしろ、イエス様はそのために来られたと言ってもいいのだろう。
悪に満ちた世だからこそ、イエス様は必要なお方なのだ。
毎日のように残念なニュースや悲しいニュースを聞き、心も魂も沈みがちであるが、罪人のために血を流されたイエス様の愛と救いのメッセージが、一人でも多くの方に届くようにと祈りつつ、新しい年を迎えたい。
これからどんな困難なことが起ころうとも、イエス様は必ず共にいて下さる。
イエス様と共に、今の時代を生きて行こう。

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ヨハネ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

言は神であり、この世界が創られる前から存在していた。
そして、その言は、肉となり人となって現れ、全ての人を救うための贖いのいけにえとして十字架で死なれた。
言が肉となった、ということは、神の私たちに対する愛の現われであり、神の愛の言が具現化、実体化したものと言える。
思いは言に現わさないと伝わらないし、その言葉が実体を伴って表れてこなければ、真実なものとはいえない。
主なる神様は、それを実行された。
そもそも、言葉というのは、言の葉と表されるように、言が実体を伴ってこそ、はじめて言葉と言えるのだろう。
実体の伴わない言葉は、空しいだけだし、そもそもそれは言葉ではない。
嘘、偽り、詐欺といったものは、本来、言葉ではない。
言葉は真実を伴ってはじめて言葉なのだ。
そのことを覚えつつ、自分が語る言葉にも常に責任を持って真実だけを語り続けていけるように心がけたいものである。
真実な言葉を語ることに注意していけば、自ずと、その人生も真実なものとなるのだから。

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ルカ 2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

今年も平安のうちにクリスマスを迎えることができ感謝である。
子どもの頃は、クリスマスと言えば、ケーキとプレゼントが楽しみなイベントでしかなかった。
学生の頃はアルバイトに明け暮れ、クリスマスと言えば、書き入れ時なため、働く日。
クリスマスを楽しんでいる人たちを横目に見ながら、空しさや多少の妬みにかられながらも、ひたすら働いていた。
そして、イエス様を知ってからは、クリスマスが少し変わった。
ケーキやプレゼントが復活し、相変わらず働いてはいるが、かつてのような心がすさんだような働き方ではない。
喜びもあるし、平安もある。
でも、相変わらず、いつも何かに心乱されながら、そわそわしながら、慌ただしく過ごしている。
時々、果たして本当にそれで良かったのだろうかと思うこともある。
もう少し静かに、何もしないで、ただじっと聖書の御言葉を読み、イエス様のお誕生をお祝いできれば、それが一番幸いなのではないか。

世界で最初のクリスマスには、羊飼いたちが、ひっそりとした家畜小屋でイエス様とお会いした。
派手なこと、楽しいこと、おいしいことなんか何一つなかった。
でも、そこには幸いがあった。
最も大切な神様からのプレゼント、神の御子イエス・キリストのお誕生を、心から喜び、お祝いしたい。



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士師記 18:1 そのころ、イスラエルには王がいなかった。またそのころ、ダンの部族は住み着くための嗣業の地を捜し求めていた。そのころまで、彼らにはイスラエル諸部族の中で嗣業の地が割り当てられていなかったからである。
18:2 ダンの人々は土地を探り、調べるために、自分たちの氏族の者でツォルアとエシュタオル出身の勇士五人を自分のところから遣わして言った。「行って、土地を調べよ。」彼らはエフライムの山地のミカの家まで来て、そこで一夜を過ごした。
18:3 彼らはミカの家の近くに来て、あの若いレビ人の声がするのに気づいて立ち寄り、「誰があなたをここに連れて来たのか。あなたはここで何をしているのか。ここでのあなたの務めは何か」と尋ねた。
18:4 彼はこれこれしかじかの次第でミカに雇われ、彼の祭司になったと答えた。
18:5 彼らは言った。「我々の進めている旅がうまくいくかどうか知りたいのだが、神に問うていただきたい。」
18:6 祭司は、「安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる」と答えた。
18:7 五人は更に進んでライシュに着き、その地の民が、シドン人のように静かに、また、穏やかに安らかな日々を送っているのを見た。その地には人をさげすんで権力を握る者は全くなく、シドン人からも遠く離れ、またどの人間とも交渉がなかった。
18:8 五人がツォルアとエシュタオルの兄弟たちのもとに帰ると、兄弟たちは、「どうだった」と尋ねたので、
18:9 五人は答えた。「彼らに向かって攻め上ろう。我々はその土地を見たが、それは非常に優れていた。あなたたちは黙っているが、ためらわずに出発し、あの土地を手に入れて来るべきだ。
18:10 行けば、あなたたちは穏やかな民のところに行けよう。神があなたたちの手にお渡しになったのだから、その土地は大手を広げて待っている。そこは、この地上のものが何一つ欠けることのない所だ。」
18:11 ダンの氏族六百人は武器を身に帯び、ツォルアとエシュタオルから出発し、
18:12 上って行って、ユダのキルヤト・エアリムに陣を敷いた。それゆえ、その場所は今日までマハネ・ダンと呼ばれ、キルヤト・エアリムの西にある。
18:13 彼らはそこからエフライムの山地を進み、ミカの家まで来た。
18:14 ライシュの地を探り歩いた五人が口を切って、兄弟たちに言った。「この建物の中にエフォドとテラフィム、彫像と鋳像があるのを知っていますか。今、どうすべきか決めてください。」
18:15 五人はそこに向かうことにし、若いレビ人の家、ミカの家に入り、変わりはないか、と尋ねた。
18:16 武器を身に帯びた六百人のダンの者を門の入り口に立たせておいた。
18:17 土地を探り歩いた例の五人は上って入り込み、彫像、エフォド、テラフィム、鋳像を奪った。祭司は武器を身に帯びた六百人と共に門の入り口に立っていた。
18:18 五人がミカの家に入り、彫像、エフォド、テラフィム、鋳像を奪ったとき、祭司は彼らに、「何をするのです」と言ったが、
18:19 彼らは、「口に手を当てて、一緒に来てください。わたしたちの父となり、祭司となってください。一個人の家の祭司であるより、イスラエルの一部族、氏族の祭司である方がよいのではありませんか」と言った。
18:20 祭司はこれを快く受け入れ、エフォド、テラフィム、彫像を取って、この民に加わった。
18:21 彼らは子供、家畜、家財を先頭に前に進んで行った。
18:22 彼らがミカの家を遠く離れてから、ミカの家の近くに住む家族の者が呼び集められ、ダンの人々に追いついて来て、
18:23 呼びかけた。ダンの人々は振り返ってミカに、「兵をそろえて何事か」と言った。
18:24 ミカは、「あなたたちはわたしの造った神々と祭司を、奪って逃げた。わたしにはもう何もない。何事かとはよく言えたものだ」と言った。
18:25 ダンの人々は言った。「そんなたわごとを我々に聞かせるな。さもないと、苦々しく思った連中があなたたちを打ちつけ、あなただけでなくあなたの家族も命を失うことになろう。」
18:26 ダンの人々は旅を続け、ミカは彼らの方が強いと見て引き返し、家に帰った。
18:27 彼らはミカが造った物と彼のものであった祭司を奪って、ライシュに向かい、その静かで穏やかな民を襲い、剣にかけて殺し、町に火を放って焼いた。
18:28 その町はシドンから遠く離れ、またどの人間とも交渉がなかったので、助けてくれる者がなかった。それはベト・レホブに属する平野にあった。彼らはその町を再建して住み着き、
18:29 その町を、イスラエルに生まれた子、彼らの先祖ダンの名にちなんで、ダンと名付けた。しかし、その町の元来の名はライシュであった。
18:30 ダンの人々は、自分たちが拝むために例の彫像を立てることにした。またモーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫が、その地の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を勤めた。
18:31 こうして、神殿がシロにあった間、ずっと彼らはミカの造った彫像を保っていた。

ダンの部族が居留地を探し求めていた頃、ライシュの町に住む人たちが、平和で穏やかな暮らしを送っているのを見て、そこに攻め入ることを決めるのである。
その際、偵察隊の5人がミカの家に個人的に祭司が雇われていることに気づき、ライシュに攻め入る前に、ミカおかかえの祭司をダン部族の祭司として取り込んできまうのである。
当然、ミカは不満を訴えるが、そもそも、祭司を個人で雇っている事のほうが有り得ないことであり、祭司は部族の民全体のために働くことの方が正当性があり、兵士たちも大勢いたこともあり、ミカは言われるままに祭司はおろか、エフォデなどの祭具もろとも奪われてしまうのである。
ミカの家に仕えていた祭司も、部族に仕えたほうが待遇がいいことはわかっていたであろうから、二つ返事でミカの家を去っていくのである。

数は力
人間の数も、お金の数も、多ければ多いほど力を発揮するのがこの世の常である。
それは、神なき世界の特徴なのかもしれない。
人間とは恐ろしいもので、あちらの方に利があると思えば、お世話になった人も簡単に裏切ってしまうし、都合の良い時だけ真っ当そうな理由を持ってきて、自らの悪行をも正当化しようとする。
人間は恐ろしい。

しかし、そんな人間の世界に神の子キリストは人として生まれてこられた。
イエス様は、世界で最初のクリスマス、住民登録に参加できなかった羊飼いたちのもとに、その姿を見せられた。
数の力によって世間から見捨てられてしまうような人たちのためにも、イエス様は来られたのである。
イエス様は「すべての人を救う救い主」であられる。

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ヨハネ 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

イエス様が弟子たちの前に復活された姿を見せられた時、何かやむを得ない事情があったのか、トマスは一緒にいなかった。
そのため、自分だけ一人取り残されたような気持ちが彼をかたくなにさせた部分はあるだろう。
しかし、どんな用事があったか知らないが、その時、トマスだけ仲間から離れていたのも事実である。
早々に失望して立ち去っていたのかもしれない。
イエス様がトマスに対し「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのも、そういった背景があったのかもしれない。
それでもイエス様は、一人仲間から外れかけていたトマスを顧み、それこそ彼のためだけの特別な取り扱いをされたのである。
どんなに不信仰で、ひねくれた人間であっても、神はそのその上をいくし、何もかもご存知なのだ。
ならば、ちっぽけな抵抗をしたりすることが、どんなに惨めなことなのかということを思い知らされるのは、結局は自分である。
ひねくれても、遠ざかっても構わないが、神は全てをご存知である。
そして、いつもと変わりない温かい愛で迎え入れてくれる。
信じない者ではなく、信じる者として生きられますように。


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士師記 17:1 エフライムの山地に名をミカという男がいて、
17:2 母に言った。「銀千百シェケルが奪われたとき、あなたは呪い、そのことをわたしにも話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです。」母は言った。「わたしの息子に主の祝福がありますように。」
17:3 彼が母に銀千百シェケルを返すと、母は言った。「息子のために彫像と鋳像を造っていただこうとして、この銀はこの手で聖別し、主におささげしたものです。今これをあなたに返します。」
17:4 彼が銀を母に返すと、母は銀二百シェケルを取って銀細工師に渡し、彫像と鋳像を造らせた。ミカの家にあったのはそれである。
17:5 このミカという男は神殿をもっており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていた。
17:6 そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。
17:7 ユダのベツレヘムに、ユダ族の一人の若者がいた。彼はレビ人でそこに寄留していた。
17:8 適当な寄留地を求めて、その人はユダのベツレヘムの町を離れ、旅を続けてエフライムの山地にあるミカの家まで来た。
17:9 ミカが、「どちらからおいでになりましたか」と声をかけると、彼は、「わたしはレビ人で、ユダのベツレヘムから来ました。適当な寄留地を求めて歩いているのです」と答えた。
17:10 ミカが、「わたしの家に住んで、父となり、祭司となってください。あなたには年に銀十シェケル、衣服一そろい、および食糧を差し上げます」と言った。レビ人は進み出た。
17:11 レビ人はその男と共に住むことに同意し、若者はその息子の一人のようになった。
17:12 ミカがこのレビ人の手を満たしたので、若者は祭司となり、ミカの家にとどまった。
17:13 ミカは、「レビ人がわたしの祭司になったのだから、今や主がわたしを幸せにしてくださることが分かった」と言った。

士師記の時代は、約束の地カナンに入植したにも関わらず、民の進むべく方向性は定まらず、混沌とした状況が続いていた。
17章に記されている事柄からも、当時の無法ぶりが伺え、ミカの母親は息子のために銀を蓄え、そして、彼のために像を造ろうとしている。
それはもちろん、偶像礼拝に他ならない。
かつてモーセやヨシュアを導いた主なる神などあてにならないと考えられるような時代だったのだろう。
そして、彼らは私的な祭司を雇うことになる。
祭儀も極めて個人的、私的な思惑で執り行われていたという事であり、自分の家だけが恵まれればそれで良かったのであろう。
自分さえ良ければいいという宗教を利用したエゴイズムは、偶像礼拝の典型である。
日本の多くの人は、こういう形でしか宗教を捕らえることはできないのだろう。
儲かるために何をすればいいのか、病や困難が取り除かれるためにはどうすればいいか、そのようなことのためだけに宗教は利用される。
もともと偶像の神々など存在しないから「利用される」のではなく「勝手に利用している」のかもしれないが、存在しない神々に頼ってまで生きようとするところに、本当は神を必要としているということが示されていると言えるのであろう。
宗教が忘れられていくように見える時代でも、人は神を必要としている、それは変わらないことなのだろう。
もちろん、神も人を必要な存在と言って下さる。
一日も早く多くの人がそのことに気づき、主なる真の神を信じるようになることを願うものである。

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