聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヨハネの書き記した福音書やその他の書簡を見ると、不思議なほどに旧約聖書の創世記の記述と関係していることが伺える。
というよりも、あえて意識して記したのであろうことは容易に推測できる。
それほど、ヨハネは旧約聖書に親しくなじんでいたということである。
もっとも、イエス様の時代、聖書と言えば旧約聖書しかなかったわけであるから、当然と言えば当然のことである。

私たちには、旧約聖書も新約聖書もある。
両方を丁寧に読み進めていくならば、ヨハネが語っている事柄も、少しずつ理解を深めていくことができらろう。
聖書日課にそって毎日少しずつ読み進めていくことは、そんなに大変なことではないが、忠実さを求められる。
しかし、たったそれだけのことではあるが、それお続けていくときに、主なる神様の御心が見えてくる。
新しい年もそれを続けていきたい。

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使徒7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

聖霊に満たされたステファノは、最後まで主イエス・キリストの福音を宣べ伝え続け、石打ちにされ殺されようとしてもなお、主を証し続けていた。
そして、その証は、単なる言葉によるだけではなく、迫害者たちのとりなしを含むものであり、彼らに対する赦しを請い求める、真実な証であった。

これこそが、真の証であると言えよう。

「イエスは主です」と口先だけで言うのではない。
その主が、命がけで私たちを愛し、罪から救おうとして下さったということを、まさに命がけで証していく。
赦されたのだから、互いに赦し合う者となれるように。
そんなステファノのような信仰の生涯を送りたいものだ。

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イザヤ52:7 いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げあなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る主がシオンに帰られるのを。
52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
52:10 主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。

今年も無事にクリスマスを迎えられた。
世の中は激しく変動している。
しかし、その中にあっても、変わることなく、救いの恵みを告げる福音の言葉が宣べ伝えられた。

私のところにも、主イエス・キリストの救いの知らせが届けられたことを、今更ながらに感謝するものである。

私に福音を伝えてくださった方、その方を送り、背後で祈って下さった方、そして、それらの兄姉たちに、御言葉を語り、信仰を励ましてくださった方、それら全ての背後にあって、いつも恵みで満たして下さる主なる神様に感謝しつつ、御子イエス・キリストの到来を感謝する。

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テトス2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

全ての人々に救いをもたらす神の恵み。
主イエス・キリストのお誕生を心よりお祝い申し上げます。
この恵みは、私たちがこの世の欲望を捨て、思慮深く、正しく、信心深く生活するよう教えるものであると同時に、それは、この世で生きることを教えるもの。
決して、世捨て人のように生きろというのではありません。
ただ、この世の全ての人々の幸いを祈りつつ、ご自身の命を捧げられた主イエス様の救いこそが真の幸いをもたらす恵みであることを伝えるのです。

この世は、ますます混乱した世界となっています。
しかし、一方で、そのような世の中にあっても、変わりなく、欲望を追求しようとする人たちもいます。
本当にそれが必要なのか、それを得ることが本当に幸いなのか。
プレゼントやおいしいご馳走も良いけれど、本当の救いが何であり、どこからもたらされるのか、信仰の目を開いて見据えていきたいものです。

主なる神様は、御自分の御子イエス・キリストの命を私たちにお与えになりました。
ここに救いがあります。
ただこの一事を喜ぶ者となりますように。

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ヨエル2:1 シオンで角笛を吹きわが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
2:2 それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなくこれから後も、代々再び起こることはない。
2:3 彼らの行く手を、火が焼き尽くし彼らの後ろには燃える炎が続く。彼らの来る前、この国はエデンの園のようであった。彼らの去った後には、滅びの荒れ野が残る。何ものもこれを逃れえない。
2:4 その姿は馬のようで軍馬のように駆ける。
2:5 戦車のような響きをたてて山の頂を駆け巡りわらを焼く炎のような音をたてる。これは戦いの備えをした強大な民の姿だ。
2:6 その前に、諸国の民はもだえどの顔も色を失う。
2:7 彼らは勇士のように走り戦士のように城壁をよじ登る。おのおの自分の道を進み進路を外れることはない。
2:8 互いに押し合うことなく自分の前に敷かれた大路を進む。たとえ投げ槍の間に突進してもひるむことはない。
2:9 町の中を駆け巡り城壁の上を走り家々によじ登り盗人のように窓から入り込む。
2:10 その前に、地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う。
2:11 主はその軍勢の前で声をとどろかされる。その陣営は甚だ大きく御言葉を実現される方は力強い。主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。

クリスマスまで、あと2日。
子供たちも、アドベントカレンダーを一つずつめくりながら、その日を待ち望んでいる。
しかし、その喜びの日を迎えるためには、同時に、大きな嘆きと悔い改めの日でもある。
それがあるからこそ、イエス・キリストをお迎えすることが本当の喜びとなるからだ。
私のおろかな罪も、よこしまな思いも、すべて、神の一人子なる主イエス様の尊い贖いによって赦される。
せめて、クリスマスを迎える前に、そのような悔い改めの時を持ちたい。

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ヨエル1:5 酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。
1:6 一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。
1:7 わたしのぶどうの木を荒らしわたしのいちじくの木を引き裂き皮を引きはがし、枝を白くして投げ捨てた。
1:8 泣き悲しめいいなずけに死なれて粗布をまとうおとめのように。
1:9 献げ物の穀物とぶどう酒は主の宮から断たれ主に仕える祭司は嘆く。
1:10 畑は略奪され、地は嘆く。穀物は略奪されぶどうの実は枯れ尽くしオリーブの木は衰えてしまった。
1:11 農夫は恥じ、ぶどう作りは泣き叫ぶ。小麦と大麦、畑の実りは失われた。
1:12 ぶどうの木は枯れ尽くし、いちじくの木は衰えざくろも、なつめやしも、りんごも野の木はすべて実をつけることなく人々の楽しみは枯れ尽くした。
1:13 祭司よ、粗布を腰にまとって嘆き悲しめ。祭壇に仕える者よ、泣き叫べ。神に仕える者よ、粗布をまとって夜を明かせ。献げ物の穀物とぶどう酒は、もはやあなたたちの神の宮にもたらされることはない。
1:14 断食を布告し、聖会を召集し長老をはじめこの国の民をすべてあなたたちの神、主の神殿に集め主に向かって嘆きの叫びをあげよ。
1:15 ああ、恐るべき日よ主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。

年の瀬を迎え、100年に一度とも言われている世界的な大不況の波に飲まれている現況を知らせるニュースであふれている。
そうかと思えば、何の危機感もなく、クリスマスや忘年会などで浮かれている人たちもいる。
酒に酔いたければ酔いしれるがいい。
しかし、現実の世界に目を留めるならば、そんな悠長なことを言っていられる状況ではない。
刻一刻と迫っている主の日に備え、今求められていることは、真の悔い改めと、救いを求めるとりなしの祈りであり、ヨエルは、そのような聖会を持てと語る。
聖会の名のもとに、酔いしれるために集まるのではなく、真実な悔い改めときよめを促す集いとなることを切に祈るものである。

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使徒20:17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
20:18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
20:19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。
20:20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
20:21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
20:22 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
20:23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。
20:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
20:25 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
20:26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。
20:27 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
20:29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
20:30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
20:31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
20:36 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
20:37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
20:38 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。

パウロのエフェソの長老たちに向けたメッセージは、とても感動的であり、かつ、とても重要なものであると言える。
なぜなら、その内容が、今日の教会の信徒たちに向けられたメッセージでもあると言えるからだ。
イエス様の弟子たちやパウロらは、まさに命がけで主イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。
そして、私たちも彼らから伝え聞いた通り、神の救いの御言葉を語り続けていかなければならない。
それが、私たちをお救い下さった神の御心である限り。

誰もが自分の身を守ろうとする。
平和で安定した豊かな生活を送ろうとする。
しかし、そこに、守るべき本当の幸いがあるのかどうか、じっくりと考える時、案外、どうでもいいようなことに一生懸命になっているのではないか。

ヘブル11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。

パウロがエフェソの長老たちに涙ながらに伝えたかったことは、イエス・キリストにある救いの約束こそ、最高の宝であり、それを守り、後の世代の人々に宣べ伝え続けていくことにこそ、真に生涯を捧げるほどに価値あることだということであっただろう。
どんなに苦難と試練満ちた人生だったとしても、キリストと共に歩む人生を過ごしたならば、きっと、天の御国において「良くやった、忠実なしもべよ」との主イエス様のお言葉をいただくことができるだろう。
その日を待ち望みつつ、今日を歩みたい。

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使徒20:1 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。
20:2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、
20:3 そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。
20:4 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。
20:5 この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、
20:6 わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。
20:7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
20:8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。
20:9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
20:11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
20:12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
20:13 さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。
20:14 アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。
20:15 翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。
20:16 パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。

パウロの伝道旅行は、いよいよ大詰めにさしかかっていました。
彼らの旅程を見ると、休む暇もなく集会や移動を繰り返していたことが伺えます。
おそらく、可能な限り各地を巡り、時間のある限りイエス・キリストの救いと復活のメッセージを宣べ伝えていこうとしていたのでしょう。
そんな中、トロアスでは、集会に集まっていた青年がひどく眠気をもよおして、3階の窓から転落してしまう事件が起きてしまいます。
しかも、パウロは、その青年を再び連れ戻し、何事もなかったかのように、明け方まで延々と神の国の言葉を語り続けたのです。
パウロの偉大なまでの宣教に対するパッションは、もちろん、聖霊様による力強いサポートがあったからであると言えるのでしょうが、それにしても、凄い情熱です。

私たちも、パウロほどとはいかないまでも、夜遅くなるまで神の国のことについて語り明かす、そんな情熱を持ちつづけて宣教の働きに携わらせて頂きたいと願わされます。
一人の魂の救いのために。

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使徒19:23 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
19:24 そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。
19:25 彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
19:26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。
19:27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
19:28 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
19:29 そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。
19:30 パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。
19:31 他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。
19:32 さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。

エフェソの町で起こった暴動の最初のきっかけは、アルテミス神殿の模型を売っていた商売人たちが、売上が減ってしまうことを危惧し、偶像の神々を否定するパウロたちに迫害を加えさせようと企んだことによる。
ある種、言いがかりに近いものがある。
しかし、暴動がエスカレートしてくにつれ、群集の中には、一体何のために暴動が起こっているのかすら知らないまま参加していた者たちもいたようで、群集による暴動の怖さを物語っていると言える。

現代にも同じようなことは起こり得る。
世界では、各地で様々なデモが繰り返されているが、中には、デモの目的とは異なり、単なる興味本位で参加している者もいるだろう。
あるいは、日頃の不満をぶつける対象がないために、たまたま近くで起こったデモに参加することで、ストレスを発散させようとしている者もいるかもしれない。
しかし、目的の異なるデモに参加し、クレームを訴えるべきではない所に訴えて、一体、何の解決があるのだろうかと思う。
それよりも、本来訴えるべき所がどこで、誰に申し上げるべきなのかを考えて、正しい訴えを申し上げる者でありたい。

私たちの祈りは、主なる真の神にのみ向けられるようにと願うものである。


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使徒19:11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
19:12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
19:13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
19:14 ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
19:15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
19:16 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
19:17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。
19:18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
19:19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
19:20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

主イエス様の御名を用いて輝かしい業を行い続けるパウロの働きぶりをみて、ユダヤ人の祭司長の息子たちが、自分たちにもできるのではないかと考え、試しに、イエス様の御名を用いて悪霊を追い出そうとしたところ、逆に悪霊たちに襲われてしまいます。
このことは、イエス様の御名をみだりに唱えてはならないという戒めに通じるものであると思うのですが、もし、イエス様のことをよく知らない人は、決してイエス様の御名を用いてはならないと言う風に考えてしまうと、まだイエス様のことを知らない人がなかなか救われなくなってしまいます。
そうではなく、イエス様の御名をみだりに唱えてはならないということは、ここにも記されている通り「試しに」用いることが戒められているということを覚えなければなりません。
「試しに」ということは「本当に神がいるかどうかわからないけど、もしも、この祈りに答えてくれるなら、神を信じてあげよう」といった、言わば、神に対して、高慢な態度でいることを示しており、そこに、正しい信仰があるとは思えないからなのです。
そうではなく、私たちは、神を信じ、必ず答えて下さることを信じて、そして「祈る」のです。
ちなみに「試す」ということは、悪魔の業に通じるものと言えます。なぜなら、悪魔は「試みる者」と呼ばれているからです。

マタイ4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

神を信じる信仰も、神の口から出る一つ一つの言葉によります。
神の上にたち「もし祈りを聞いてくれたら、信じてやろう」といった高慢な態度ではなく「あなたが語られる御言葉の故に、私は信じます」という謙遜な態度で、御言葉に従う者となれますように。


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