デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

言葉は人と人とが交流したり、分かりあったりするためには有益な道具である。
しかし、使い方次第では、相手との関係を良くもし、悪くもしてしまう。
言葉には、多かれ少なかれ、その人の心のあり方や、その人に対する態度がにじみ出てしまうものである。
イエス様のところにやってきたファリサイ派はヘロデ派の人たちは、明らかにイエス様を陥れようとして質問をしており、皇帝に税金を納めるべきかどうかといった事柄について、純粋に教えてもらおうという気持ちなど微塵もなかったのだろう。
そう考えれば、全く必要のない言葉である。
言葉は、相手にとって益となるものを厳選し、不要であったり、かえって気分を害するようなものなら、黙っておくのも賢い方法であろう。
黙ってばかりいると、何を考えているのか分からないと思われることがないこともないが、下手な言葉を用いて気分を害したり、関係を悪くしたりするくらいなら、余計なことは言わないほうが良い。
大切なことは、常に相手にとって益となるように願い、そのために必要な言葉を用いることを心がけること、であろう。
「皇帝のおのは皇帝に、神のものは神に返しなさい。とイエス様は仰せられた。
私の人生も、かたる言葉もみな、本来、神のものである。
かたるべき言葉も、神に返すように心がけたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )