聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
6:14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
6:15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
6:16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

イエス様が弟子たちを召されたのは、彼らを近くに置き、イエス様の言葉や働きの目撃者として、証人とするためであった。
そして、それは、我々イエス様を信じる者も同様であろう。
イエス様によって救っていただいたことを、身をもって世に証していくのである。

ただ、その証にも気を漬けねばならない。
人は、あたかも自分のことを話したがるからである。
たとえば「イエス様が働いてくれたので、自分も隣人を赦すことができた」とか、「イエス様に祈ったら、上手くいった」といったような内容の証は、ともすると自分の行った業を言いたいがために証を利用しているようにも思える。
証とは純粋に「私はイエス様に赦していただいた」とか「イエス様に救っていただいて嬉しい」といったことを言い表すものであろう。

イエス様の弟子たちも、その時は分からなかったかもしれないが、後に自分たちが召されたことの意味を理解し、あるものは福音書も記し、ただただイエス様の語った言葉、なさった事柄を書きとどめたのであろう。
彼らがいたから、後の時代にも福音が伝えられている。
我々もそういう者でありたいものである。

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ルカ 6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

律法学者やファリサイ派の人たちは、善か悪かといったことに限らず、とにかく安息日には働くことが禁じられていると考えていた。
だから、たとえ目の前に困った人がいようとも、安息日には手を出してはいけないと考えるのである。
それで神に従っていると言うのである。
しかし、イエス様は、安息日の本来の目的は、人が癒され、平安のうちに過ごすことができるようにすることと考えられており、苦しんでいる人や困っている人を助けるのは当然と考えたのであろう。
実は、それこそ、神の働きの本質であり、安息日とは、神の癒しの業であったり、神の慰めの言葉を受ける日と考えるべきである。
そう考えるなら、我々もまた、神の安息をお届けする働きをしている間は、安息を届ける日となるのである。
そして、自分自身もまた、神のもとに立ち返り、神の恵みと慰めを受ける日を週に一度は持っていたい。
それが日曜日であり、礼拝において、神の恵みと慰めの言葉を受け取る日ということなのである。
安息の日を大切にしつつ、神の安息を届けていく働きに日常的に携わらせていただきたいものである。

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ルカ 6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

昨日までの三日間、新人教職者の先生方の研修会に参加してきた。
いちおう、指導する側の立場であるが、指導する側とされる側といった雰囲気はなく、和気あいあいとした雰囲気での研修会である。
それでも、心のどこかで「きちんとしなければ」といった思いがあるのか、体は緊張していたようである。
夜など、寝ていても、神経が昂るのか、ほとんど眠れないし、そのせいもあってか、腸の働きが悪くなり、あまり綺麗な話ではないが、普段の時と、トイレにいく回数が異なるのである。

そして、研修会を終えて帰宅すると、いつもの状態に戻る。
不思議なものである。
やはり、心も体も休める状況というのは必要である。
時には緊張することも必要だが、緊張しっぱなしというのも良くない。
疲れを覚えた時、緊張し続けている時こそ、救い主イエス様の御前で、安心していられる、そんなものでありたい。

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ルカ 5:33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
5:34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
5:35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
5:36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
5:37 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
5:38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
5:39 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

キリスト教会は、イエス様の到来以来、2千年にわたって、変わらぬメッセージを語り継いできた。
だから、基本的に同じメッセージを語り続けていても問題ではない。
しかし、語る人や聞く人は、常に入れ替わり、立ち替わり、替わり続けてきた。
時代も変われば、また、必要とされる「言葉」も違ってくるのかもしれない。
そんな時「今日」「この人に」「なぜ」このメッセージを語るのかということを思う時、古くて新しいメッセージを語ることの意味を思う。
変えてはならない所と変えなければならないところ。
きちんと見分けていくのは難しいことかもしれないが、今、この時代を生きる人たちに必要とされる言葉を取り次いでいきたいと思う。
言葉は生きている。
生きている人が語り、聞いた人が生かされる時、それは可能なのであろう。

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ルカ 5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

長年、収税所で働いていたレビは、「わたしに従いなさい」とのイエス様の言葉に、何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従った。
そして、自分の家にイエス様を招き、盛大な宴会を催したと言う。
何もかも捨てたというが、もてなしをしたということは、捨てたのは、地位であったり、見栄でったり、人間関係などであったかもしれない。
財産のすべてを捨てたのではなく、自分のために使うことを捨てたのかもしれない。

当時、自分の家に知人たちを招いてもてなすことは、善き業として律法を行う業として行われていたのであろう。
けれども、レビのそれは、見栄を張るためのものではなく、純粋にイエス様をおもてなししたいという、心からのおもてなしであったことと思われる。
イエス様に愛して頂いたこと、赦して頂いたこと、癒していただいたことが、純粋に嬉しかったものだろう。

人目を気にして、不自由な生き方を続けていても、疲れるだけである。


何もかもむやみやたらと捨て去ればいいのではなく、自分のために用いることを捨て、神と人とのたみに用いて行けるようしたいものである。

人目を気にし、もてなしている自分を見せるための「善き業」は要らない。

イエス様に愛され、赦され、癒されたものとして、そのままに生きよう。

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ルカ 5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
5:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

注目すべきことは、イエス様は中風の人を運んできた人たちの信仰を見て、この人に「あなたの罪は赦された」と告げられたことであろう。
この人の信仰ではなく、彼の友人たちの信仰なのである。
きっと、友情の熱い人たちであったであろうし、なんとしてもこの人を助けてあげたいと願って、ここまでの行動に出たことと思う。
しかし、連れられてきた人の心境はどうであったかと想像するに、ありがたい反面、気恥ずかしい気持ちもあったのではないだろうか。
特に人前に病状をさらすということは、誰もが避けたいことなのではないかと思うからである。

牧会の働きに携わるようになり、多くの方をお訪ねしたり、お見舞いに伺ったりしてきた。
けれど、申し訳ないという気持ちや、やはり恥ずかしいという気持ちもあってか、病気で入院されても知らせないで欲しいと願われる方が増えているように思う。
特に女性の場合など、お化粧もできず、パジャマで横たわっている姿など、できることなら、人様に見せたくない姿であることは明らかであろう。
気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、できればそっとして欲しいという時もあるに違いない。

イエス様のもとに運び込まれた人が、どんな思いでいたのかは分からないが、結果的には癒され、そして、自分の家に帰って行った。
嬉しかっただろう。
ありがたかっただろう。
恥ずかしいところを人前にさらすことは勇気がいるけれど、結果的にはそれも幸いへと導かれていったことを思う時、まずは自分自身の恥とも思える部分をひた隠そうとせず、作らず、飾らず、主に運ばれるままに用いて頂けたらと願う。

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ルカ 22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

「人に仕えていく」ということは、最も困難なことの一つであろう。
仮に、仕える仕事に従事していたとしても、心の中で「仕えてやっている」などといった傲慢な態度でいるのなら、それもまた無意味なこと。
人に仕えることのできる賜物、環境、そしてそれを与えてくれる神と人とに感謝していられるなら、その人は幸いである。

詩篇 8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。

我々人間は、神と人とに仕えるように神に創られたものである。
創られたものが、作った方の意思に反し、傲慢に生きるなら、それは空しい。
仕える幸い、生きる喜びを感じられる人でありたいものである。

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ルカ 5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

聖書を読んでいると、イエス様は気まぐれのように病に苦しんでいる人を癒してあげられているかのように見えることがある。
なぜ全ての人に同じようにしないのか、などと思う事もある。
しかし、全ての人が同じではないし、イエス様は人間の願いに応じるだけのお方ではなく、神ご自身として、御心に沿って行動されるお方である。
「私の願いを聞いてくれたら神で、聞いてくれなかったら神ではない」などといった考えは、まさに偶像礼拝のそれと変わりない。
なぜ、ある人を癒し、ある人は癒されないといったことが起こるのか、それはただ神のみぞ知る、ということであろう。

病を癒されてしまえば、それで満足してどこかへ行ってしまう人も多いなか、イエス様は癒された人に「だれにも言ってはならない」と戒められた。
イエス様のなさることが、単なる癒しだけに留まらないように注意が必要である。
大切なことは、癒され、清められた後、どう生きるか、である。


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ルカ 4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

イエス様は、群衆を残し、人里離れたところにも出かけて行き、そこでも宣教をされた。
大勢の人が集まるところにだけイエス様にとどまってもらおうと考えるのは、結局は自分のことしか考えていないのと同じである。
都会だけでなく、田舎や寂しいところにも、イエス様の救いの言葉が伝えられるべきであろう。
少なくとも、イエス様はそう願われた。
寂しいところ、孤独に悩む人たちのことが疎かにされないように心がけていきたいものである。


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ルカ 4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

イエス様は悪霊を戒め、ものを言う事をお許しにならなかったという。
それは、いくら彼らがイエス様のことを知っていても、イエス様の名を用いることが証にはならないからであろう。
証とは、ただ単にイエス様のことを知っているとか、イエス様のことについて話しているだけではなく、このお方に自分は救っていただいたということを語り、イエス様こそ真の救い主であるということを自らの体験を持って語ることと言えるだろう。
大切なことは、知識だけではない、イエス様との人格的な関係にある。
だから救っていただいた人は、イエス様のために生きようと考えるし、他者に仕えようと考えるのだろう。
イエス様に救っていただいたのに、自分の事だけを考えて行動しようとしている人は、イエス様との関係が成立していないことになるのだろう。
それでは証にならない、ということであろう。

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