聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




アモス5:21 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。
5:22 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても穀物の献げ物をささげてもわたしは受け入れず肥えた動物の献げ物も顧みない。
5:23 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
5:24 正義を洪水のように恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。
5:25 イスラエルの家よかつて四十年の間、荒れ野にいたときお前たちはわたしにいけにえや献げ物をささげただろうか。
5:26 今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。
5:27 わたしは、お前たちを捕囚としてダマスコのかなたの地に連れ去らせると主は言われる。その御名は万軍の神。

イスラエルの犯した罪は、一言で言えば「偶像礼拝」に他ならない。
本当の神ではないものを神として造り、拝み、そして、それを自分たちの利益になるよう利用するのである。

日本人の多くがこれと同じような罪を犯している。
本当の神を知らず、己のの都合の良い神々を作り上げ、拝み、そして利用している。

もし聖書の御言葉に誠実に耳を傾ける心があるなら、これらの警告は、大いに参考になるはず。
私も含め、自分で作り上げた神々を礼拝する者とならないように気をつけたいものである。

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アモス5:16 それゆえ、万軍の神なる主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起こりどの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が嘆くために泣き男が呼ばれる。
5:17 どのぶどう畑にも嘆きが起こる。わたしがお前たちの中を通るからだと主は言われる。
5:18 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。
5:19 人が獅子の前から逃れても熊に会い家にたどりついても壁に手で寄りかかるとその手を蛇にかまれるようなものだ。
5:20 主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。

主なる神様は、神様にそむき続けてきたイスラエルに対する裁きの言葉を告げています。その様子は、もはや、どこへ逃れようとも安全な場所などないかのように、本来屋すらはずの場所である家の中にまで押し寄せているのです。

家庭崩壊という言葉さえ聞かれるような今の時代も、このような様に似ているのかもしれません。
そんな安らぎの場所さえ見失っている人たちに、本当の意味で心や安らうことのできる場所が、主なる神様の救いの約束の中にあることを覚えたいものです。

そういう意味で、聖書の御言葉に向かう黙想の時、リトリート等、今私たちが取り組んでいる働きは大切なものなのでしょう。

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アモス5:13 それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。
5:14 善を求めよ、悪を求めるなお前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように万軍の神なる主はお前たちと共にいてくださるだろう。
5:15 悪を憎み、善を愛せよまた、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主がヨセフの残りの者を憐れんでくださることもあろう。

知恵は知恵でも、悪知恵というものがある。
普通の知恵とどこが違うかと言うと、知恵の用い方に違いがあり、おおよそ、自分の利益になるように知恵を用いるとき、それは悪知恵となるのだろう。
しかし、悪知恵を働かせ、自分に利益がもたらされるように行動したつもりでも、結局は周囲の人からの信用を失っていく。
それは長い目で見ると、決して利益ではない。
むしろ、損失につながっている。
多くの人がそれに気がついていないのかもしれない。
いや気がついているはず。
だが、その時々のことしか目に見えていないのだ。

人はどこから来て、どこへ行くのか、それが見えている人は、知恵をもっと豊かな方法で用いる。
イエス様のお姿がそれを示している。

ルカ23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

己の命を投げ捨てて、他人を救おうとされた。
しかし、自分が知恵ある者と思う者には、このイエス様のお姿が愚かに見えるのだろう。
本当の知恵とは何か。
イエス様のご生涯に習って生きる者でありたい。




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アモス5:9 主が突如として砦に破滅をもたらされるとその堅固な守りは破滅する。
5:10 彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み真実を語る者を嫌う。
5:11 お前たちは弱い者を踏みつけ彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ切り石の家を建ててもそこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作ってもその酒を飲むことはできない。
5:12 お前たちの咎がどれほど多いかその罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り町の門で貧しい者の訴えを退けている。

格差社会という言葉があるが、富める者と貧しい者の格差は、いつの時代にも見られるものである。
そして、豊かな者は、より豊かになるためにその富を用いる。
豊かな町を取り囲む砦も、その入り口において賄賂を取り立てたり、権益を守るための仕組みが確立されていたのであろう。
このような態度は、あつかましいというか、貧しさそのものである。

私たちがこの世界で生きていくために、富はとても有益な道具である。
しかし、その使い方を見誤ってはならない。
本来それらの富は、貧しい者が豊かになるために用いられるべきものであろう。
それは、給付金のように、富をただ再分配すれば済むような話ではないと思う。

2コリント8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、
8:6 わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。
8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
8:8 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。
8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

本当の豊かさとは、貧しい者が豊かになるために、惜しみなくその富を用いるところにあるのだろう。主イエス様がなされたように、本当の豊かさを示すための富の用い方を心がけたいものである。

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2テモテ4:6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
4:7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
4:9 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。
4:10 デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。
4:11 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
4:12 わたしはティキコをエフェソに遣わしました。
4:13 あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。
4:14 銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。
4:15 あなたも彼には用心しなさい。彼はわたしたちの語ることに激しく反対したからです。
4:16 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。
4:17 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。
4:18 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

パウロは、まもなく自らの命が奪い去られるかもしれないという状況の中、テモテをはじめ、信頼する信徒たちに励ましと慰めの多くの言葉を手紙に託して書き送っている。
その際、信頼できる弟子たちのうちに、かつて、伝道旅行にでかける際、一度は信頼を損なったマルコの名前をあげ、優秀な弟子として、自分の所に連れてきてくれるように頼んでいる。
おそらく、このときのマルコは、かつてのマルコとは違い、大いに成長していたのであろう。

人が成長するためには、ずいぶんと時間がかかるもの。
自分も含め。

だから、あせらず、じっくりと構え、再びチャンスを与える、そのような態度で隣人とも接することができればと思う。
それができたとき、自分も少しだけ成長していくのだろうと思う。

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アモス5:4 まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。
5:5 しかし、ベテルに助けを求めるなギルガルに行くなベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移されベテルは無に帰するから。
5:6 主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のようにヨセフの家に襲いかかり火が燃え盛ってもベテルのためにその火を消す者はない。
5:7 裁きを苦よもぎに変え正しいことを地に投げ捨てる者よ。
5:8 すばるとオリオンを造り闇を朝に変え昼を暗い夜にし海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。

わたしを求めよ。そして生きよ。

なんと力強いメッセージであろうか。
これほどまでの圧倒的な招きの言葉は他にはない。
そして、このお方のもとにしか「生きる」道はないのだ。

生きよ。

この言葉の持つ重みを味わいつつ、生きる者でありたい。

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アモス5:1 イスラエルの家よ、この言葉を聞け。わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を。
5:2 「おとめイスラエルは倒れて再び起き上がらず地に捨てられて助け起こす者はいない。」
5:3 まことに、主なる神はこう言われる。「イスラエルの家では千人の兵を出した町に、生き残るのは百人 百人の兵を出した町に、生き残るのは十人。」

主なる神様は、神様に背いていたイスラエルに裁きをもたらされました。
しかし、それは神様ご自身にとっても「悲しみの歌」を歌うほど、悲しい出来事であったのです。
誰が好き好んで愛する民を懲らしめるものがいるでしょうか。
愛するが故に、大切な民であるが故に、神の御心に従う道を歩んで欲しいとの切なる願いを覚えることができるのでしょう。

かくいう私はどうであろうか。
神様を悲しませるような歩みをしてはいないか。
せめて、この世に主の救いを証するために選ばれ、召された者として、生き残りの民のなせる業に務めていきたいものです。



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アモス4:10 かつて、エジプトを襲った疫病をわたしはお前たちに送りお前たちのえり抜きの兵士と誇りとする軍馬とを剣で殺した。わたしは陣営に悪臭を立ち上らせ鼻をつかせた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる。
4:11 かつて、神がソドムとゴモラを覆したようにわたしはお前たちを覆した。お前たちは炎の中から取り出された燃えさしのようになった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる。
4:12 それゆえ、イスラエルよわたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえにイスラエルよお前は自分の神と出会う備えをせよ。
4:13 見よ、神は山々を造り風を創造しその計画を人に告げ暗闇を変えて曙とし地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。

主なる神様は、イスラエルに対し「自分の神と出会う備えをせよ」と命じられています。

昨日、荒島教会の方々が、ボランティア作業のお手伝いのためにバイブルキャンプに来られました。
せっかく遠くから来てくださるのですから、限られた時間で気持ちよく働くことができるよう、スタッフは、朝早くから準備を進めてくれていました。
しかし、いざ作業に取り掛かると、あれこれ、足らないものがでてきます。
そのつど、倉庫にいったり、物置にいったり、必要な道具を揃えながら作業をすることになります。
ある程度はわかっているものの、やはり、実際に作業を始めてみないとわからないこともあるものです。

神様に出会うための備え、それが一体、どのような準備画必要なのか。
実際に神様に出会ってみなければわからない事柄もあるかもしれませんが、必要な備えはそれほど数多くのことではないのかもしれません。
己の誇りとするものを捨て、神のみもとに立ち返る。
たったこれだけのことなのでしょうが、これが難しいのです。
しかし、きちんとした備えができていれば、いざ本番にあわてなくて済むもの。
日ごろから、きちんとした備えを心がけておきたいものです。

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アモス4:1 この言葉を聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる女たちよ。「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」と夫に向かって言う者らよ。
4:2 主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ最後の者も釣鉤で引き上げられる。
4:3 お前たちは次々に、城壁の破れから引き出されヘルモンの方へ投げ出されると主は言われる。

かつて欲望のままに欲しいものを手に入れ、自分の夫に対してまで誘惑するかのように勝手気ままに振舞っていたサマリやの貴婦人たち。
彼らの傍若無人な振る舞いに対する結末は、あまりにも惨めなものであったようである。
ここに記されている様子は、まるで魚を釣り上げる釣り針にでも引き上げられるように、鉤(かぎ)に引きずられ、しまいには、その鉤さえも数が足らなくなり、文字通り、魚を釣るための釣り鉤に縛られて連行されていく姿を物語っている。
それほど、多くの者たちが神に逆らい、勝手気ままな生活を送っていたということなのだろう。

今、この世界の人々のことを思うとき、誰もが欲望の赴くままに、勝手気ままに生きている。
このままでは、まさに、ここに記されているような惨めな結末を迎えてしまうのだろう。
惨めな結末に遭わないためにも、一刻も早く、神のもとに立ち返る人が起こされることを願う。
そして、そのために、御言葉を宣教べ伝えていかねばならないと願わされる。

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アモス3:9 アシュドドの城郭に向かってエジプトの地にある城郭に向かって告げよ。サマリアの山に集まりそこに起こっている狂乱と圧政を見よ。
3:10 彼らは正しくふるまうことを知らないと主は言われる。彼らは不法と乱暴を城郭に積み重ねている。
3:11 それゆえ、主なる神はこう言われる。敵がこの地を囲みお前の砦を倒し、城郭を略奪する。
3:12 主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から二本の後足あるいは片耳を取り戻すようにイスラエルの人々も取り戻される。今はサマリアにいて豪奢な寝台やダマスコ風の長いすに身を横たえていても。
3:13 万軍の神、主なる神は言われる。聞け、ヤコブの家に警告せよ。
3:14 わたしがイスラエルの罪を罰する日にベテルの祭壇に罰を下す。祭壇の角は切られて地に落ちる。
3:15 わたしは冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び、大邸宅も消えうせると主は言われる。

主なる神様のイスラエルの民に対する熱情は、すさまじいものがある。
「羊飼いが獅子の口から二本の後足あるいは片耳を取り戻すようにイスラエルの人々も取り戻される。」と表現されている事態を考えてみて、既に獅子に口にくわえられ、取り戻しても生きては返れない状態であり、方耳だけでも取り返したところで、羊の命は戻ってこないのだ。
それでも羊飼いは自分の羊を取り戻そうと必死に獅子と相対する。

私たちも、既に獅子に加えられて、死んだも同然のものなのかもしれない。
そして、取り返されたとして、見るに無残な姿をさらけ出しているのかもしれない。
しかし、主なる神様は、それでも私たちを神のもとに立ち返らせようとなさる。
たとえ格好が悪くても、死んだも同然のようなものでも、神の御手のもとにあることが幸い。
私の行いや働きが、いかに死んだも同然のようなものでも、今、神の御手にあることが幸いであるということを覚えていたいものである。

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