聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




エレミヤ11:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
11:2 「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ。
11:3 彼らに向かって言え。イスラエルの神、主はこう言われる。この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる。
11:4 これらの言葉はわたしがあなたたちの先祖を、鉄の炉であるエジプトの地から導き出したとき、命令として与えたものである。わたしは言った。わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。
11:5 それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を彼らに与えるためであった。」わたしは答えて言った。「アーメン、主よ」と。
11:6 主はわたしに言われた。「ユダの町々とエルサレムの通りで、これらの言葉をすべて呼ばわって言え。この契約の言葉を聞き、これを行え。
11:7 わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。
11:8 しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。今、わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる。それを行うことを命じたが、彼らが行わなかったからだ。」
11:9 主はわたしに言われた。「ユダの人とエルサレムの住民が共謀しているのが見える。
11:10 彼らは昔、先祖が犯した罪に戻り、わたしの言葉に聞き従うことを拒み、他の神々に従ってそれらを礼拝している。こうしてイスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖と結んだ契約を破った。」
11:11 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らに災いをくだす。彼らはこれを逃れることはできない。わたしに助けを求めて叫んでも、わたしはそれを聞き入れない。
11:12 ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいていた神々のところに行って助けを求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。
11:13 ユダよ、お前の町の数ほど神々があり、お前たちはエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇を設けた。
11:14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない。」
11:15 わたしの家でわたしの愛する者はどうなったのか。多くの者が悪だくみを行い献げ物の肉を彼女から取り上げている。あなたに災いがふりかかるとき、むしろ喜べ。
11:16 主はあなたを、美しい実の豊かになる緑のオリーブと呼ばれた。大いなる騒乱の物音がするとき火がそれを包み、その枝を損なう。
11:17 あなたを植えられた万軍の主は、あなたについて災いを宣言される。それは、イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに香をたいてわたしを怒らせたからだ。

主なる神様がエジプト脱出以来、イスラエルに語り続けてきた言葉は、神の御言葉に従うなら祝福されるというものであった。
これは、一般的には律法の言葉として知られている。
しかし、果たしてそれは律法とひとくくりにしてしまってもいいものなのだろうか。
ルターによる律法の定義によると「律法の説教とは、あらゆる面でわれわれの罪と神との怒りについて語るところのものである。他方、福音とは、キリストにおける恵みと罪の赦し以外のなにものをも示さないし、また与える事のない説教である」(カールFヴィスロフ「説教の本質」より)と言う風に、必ずしも、イスラエルの民に対する「御言葉に聞き従え」という命令が、単純に律法の要素だけを語るものではないようにも思える。
かといって、これが福音の言葉であるかというと、それもまた単純なくくり方はできない。
そう考えると、この命令の中にも、律法の要素と福音の要素、いずれの要素も織り交ぜられて語られているものと言えるのかもしれない。
ただ、この命令は、私たち罪深い人間にとって、完全に守る事のできない命令であったから、それが律法の言葉となって私たちに罪の自覚と裁きをもたらすものとなっているのである。

罪深い者に対する裁きの言葉は、のちに、イエス・キリストの出現を持って、あの十字架の裁きの上に引き受けられることによって、信じる全ての者に赦しと祝福がもたらされる事になる。これが福音の言葉である。
イエス・キリストの贖いの故に、私たちは、主なる神様の「わたしの民となり、わたしはあなたの神となる」との祝福の御言葉が、わたしたちのものとなるのだ。
そのことを覚えつつ、このエレミヤを通して語られた神の御言葉に耳を傾けるものでありたい。

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エゼキエル34:7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。
34:8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
34:9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
34:10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
34:11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
34:12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
34:13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
34:14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。
34:15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
34:16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

主なる神様は、牧者と称し、その実情は私腹を肥やすためだけに働いているような者たちを一蹴し、ご自身自らがイスラエルの民を牧すようになるとおおせられている。
しかも、それは、羊が一人の羊飼いのもとに一箇所に集められるようなものではなく、ある者は山々で、ある者は谷間、ある者は居住地でとあるように、それぞれ、彼の土地において養うというのだ。
もちろん、それでいて、一人の主、一つの群れである。
そういう意味では、ここに、幸いな教会の姿が描かれていると言えるのではないだろうか。

主は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする、と語られている。
(マタイ10章6節、15章24節、マルコ2章17節、ルカ19章10節など参照)
イエス様がどういう意図で教会をお立てになったか、常に思い出しながら、教会の働きに携わらせていただきたいと願う。

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エレミヤ10:17 包囲されて座っている女よ地からお前の荷物を集めよ。
10:18 主はこう言われる。見よ、今度こそわたしはこの地の住民を投げ出す。わたしは彼らを苦しめる彼らが思い知るように。
10:19 ああ、災いだ。わたしは傷を負いわたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。「これはわたしの病わたしはこれに耐えよう。」
10:20 わたしの天幕は略奪に遭い天幕の綱はことごとく断ち切られ息子らはわたしのもとから連れ去られてひとりもいなくなった。わたしの天幕を張ってくれる者もその幕を広げてくれる者もいない。
10:21 群れを養う者は愚かになり主を尋ね求めることをしない。それゆえ、彼らはよく見守ることをせず群れはことごとく散らされる。
10:22 声がする。見よ、知らせが来る。北の国から大いなる地響きが聞こえる。それはユダの町々を荒廃させ山犬の住みかとする。
10:23 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず歩みながら、足取りを確かめることもできません。
10:24 主よ、わたしを懲らしめてくださいしかし、正しい裁きによって。怒りによらずわたしが無に帰することのないように。
10:25 あなたの憤りを注いでくださいあなたを知らない諸国民の上に。あなたの御名を呼ぶことのない諸民族の上に。彼らはヤコブを食い物にし彼を食い尽くしその住みかを荒廃させました。

群れが散らされる時、それは、集められる時と違って、あっという間である。
人が集まるように願い、どんなに苦労を重ねて集めても、散らされる時は、あっという間である。

しかし、それも主なる神様のなさる御業であるなら、甘んじて従うより仕方ない。
なぜなら、それは、怒りによるのではなく、正しい裁きによるものなのだから。

人が集められるときも大切だが、散らされる時、それをどう受け止め、散らされたことにも主の意図があるということを汲み取ることができたとき、きっとそこにも主は共にいてくださるのだろう。

群れから離れ、一人になったとき、静まって祈り、主と共に歩めますように。

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エレミヤ10:1 イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。
10:2 主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
10:3 もろもろの民が恐れるものは空しいもの森から切り出された木片木工がのみを振るって造ったもの。
10:4 金銀で飾られ留め金をもって固定され、身動きもしない。
10:5 きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも幸いをもたらすこともできない。
10:6 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方御名には大いなる力があります。
10:7 諸国民の王なる主よあなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でもあなたに並ぶものはありません。
10:8 彼らは等しく無知で愚かです。木片にすぎない空しいものを戒めとしています。
10:9 それはタルシシュからもたらされた銀箔ウファズの金、青や紫を衣として木工や金細工人が造ったものいずれも、巧みな職人の造ったものです。
10:10 主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震えその憤りに諸国の民は耐ええない。
10:11 このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る、と。
10:12 御力をもって大地を造り知恵をもって世界を固く据え英知をもって天を広げられた方。
10:13 主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ稲妻を放って雨を降らせ風を倉から送り出される。
10:14 人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず霊を持っていない。
10:15 彼らは空しく、また嘲られるもの裁きの時が来れば滅びてしまう。
10:16 ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者でありイスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。

偶像を礼拝することは、きゅうり畑のかかしを恐れるようなものである。
全くその通りだと思う。

昨日、大仏をかたどった品のない携帯ストラップが売り出されたことに、クレームがついたと言う記事を目にした。
信仰の対象に対して、尊厳を損なうようなことは慎むようにとのこと。
では、なぜ大仏の頭に鹿の角が生えたキャラクターに対してはクレームをつけないのか。
尊厳という点では同じではないだろうか。
逆に、一般の人の意見では、品のない携帯ストラップは面白くて、頭に角の生えた大仏は気持ち悪いとのことだったと思う。
そもそも、大仏に対して、なぜ尊厳を保つようにすべきか、そこを知りたい。
なぜ像に力があるのか。
像そのものが信仰の対象なのか。

その点、聖書ははっきりと語っている
人が刻んだ像はみな、偶像で、唯一、我々を救う事のできるお方は、全ての被造物をお創りになられた主なる神であられるということを。

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エレミヤ9:12 主は言われる。「それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。」
9:13 彼らは、そのかたくなな心に従い、また、先祖が彼らに教え込んだようにバアルに従って歩んだ。
9:14 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は言われる。「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。
9:15 彼らを、彼ら自身も先祖も知らなかった国々の中に散らし、その後から剣を送って彼らを滅ぼし尽くす。」
9:16 万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ。
9:17 急がせよ、我々のために嘆きの歌をうたわせよ。我々の目は涙を流しまぶたは水を滴らせる。
9:18 嘆きの声がシオンから聞こえる。いかに、我々は荒らし尽くされたことか。甚だしく恥を受けたことか。まことに、我々はこの地を捨て自分の住まいを捨て去った。
9:19 女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え互いに哀歌を学べ。
9:20 死は窓に這い上がり城郭の中に入り込む。通りでは幼子を、広場では若者を滅ぼす。
9:21 このように告げよ、と主は言われる。人間のしかばねが野の面を糞土のように覆っている。刈り入れる者の後ろに落ちて集める者もない束のように。
9:22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
9:23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
9:24 見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する。
9:25 エジプト、ユダ、エドムアンモンの人々、モアブすべて荒れ野に住みもみ上げの毛を切っている人々すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰しまた、心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。

偶像であるバアルを礼拝し、空しい富を追い求めていたイスラエルに対し、主なる神様は、裁きと共に、悔い改めを促している。
そして、その際、泣き女を招き、哀歌を歌うようにと語られている。

不思議な事に、聖書には「哀歌」というタイトルの書簡が備えられている。
もちろん、そこに記されている事柄は、イスラエルの現状を哀しみ、哀れむ言葉であるが、それが全て、神から発せられ、民が朗読すべき言葉として語られている事実を思うとき、深い神の御愛と憐れみの心を思わずにはいられない。
主なる神様は、私たちが哀しみ、沈んでいる日にすら歌う歌を備えていて下さるのだから。
哀しみの日に、何も慰めの言葉もないのは、実に悲しい。
しかし、それがどれほど悲哀に満ちた言葉であれ、神が共に泣き、共に嘆いてくださることを知った時、そこには大きな慰めがある。
神様の裁きの言葉の中には、そのような哀しみの心、私たちに向けられた愛ゆえの憐れみの心があることを覚えておきたいものである。

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ルカ1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
1:65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
1:80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

祭司ザカリヤは、自分の子供として生まれたヨハネについて、救い主に先立って生まれ、その道を整えるための働きをする預言者となるであろうと述べている。
その言葉もまた、預言の言葉であり、そういう意味で、ザカリヤもまた、預言者であったと言える。
そして、ヨハネは、イエス様の到来を告げる最後の預言者として、その生涯を送っている。
使徒13章のパウロの言葉を見ると、聖書の歴史が概観されて述べられているが、新約聖書の時代の出来事は、このヨハネの活動だけが述べられており、あたかも旧約聖書の人物の一人でもあるかのように語られているが、彼こそ、旧約と新約とを取り持つ重要な役割を果たした預言者であるということであろう。
そういう意味で、ヨハネという人物は、非常に重要な預言者の一人であるということが言える。
それゆえ、ヨハネの述べた言葉にしっかりと心を留めなければならない。

マルコ1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

主の通られる道、それは、己の罪を悔い改め、そのために主イエス様が十字架で死なれたということを受け入れる事に他ならない。
私は罪人。
イエス・キリストの贖いの故に救われたことを感謝します。

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エレミヤ9:1 荒れ野に旅人の宿を見いだせるものならわたしはこの民を捨て彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。
9:2 彼らは舌を弓のように引き絞り真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進みわたしを知ろうとしない、と主は言われる。
9:3 人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても「押しのける者(ヤコブ)」であり隣人はことごとく中傷して歩く。
9:4 人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え疲れるまで悪事を働く。
9:5 欺きに欺きを重ねわたしを知ることを拒む、と主は言われる。
9:6 それゆえ、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしは娘なるわが民を火をもって溶かし、試す。まことに、彼らに対して何をすべきか。
9:7 彼らの舌は人を殺す矢その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していてもその心の中では、陥れようとたくらんでいる。
9:8 これらのことをわたしは罰せずにいられようかと主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。
9:9 山々で、悲しみ嘆く声をあげ荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり家畜の鳴く声も聞こえなくなる。空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。
9:10 わたしはエルサレムを瓦礫の山山犬の住みかとしユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。
9:11 知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり通り過ぎる人もいない。

真実を語っているようで、その実は裏切りに満ち、たとえ隣人であっても「押しのける者」と呼ばれるにふさわしい者。
人間の素のままの姿を実に見事に言い表していると言える。
もし、少しでも知恵があり、そのような自己中心的な生き方がやがて必ず滅びを招くであろうことを知っているならば、主は、御言葉に耳を傾け、真実に生きよと仰せられる。
今、私たちの国で、様々な問題が起きている。
明らかに、神なき民の突き進む滅びの状況に一歩ずつ近づいていると言えなくもない。
全国民でなくても、一人でもこの状況に気がつき、滅び行く中にも確かな救いの道があることを覚え、歩みだしていく勇気、信仰が養われるようにと祈るばかりである。

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エレミヤ8:14 何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ。
8:15 平和を望んでも、幸いはなくいやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
8:16 ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの都とそこに住むものを食い尽くす。
8:17 わたしはお前たちの中に蛇や蝮を送る。彼らにはどのような呪文も役に立たない。彼らはお前たちをかむ、と主は言われる。
8:18 わたしの嘆きはつのりわたしの心は弱り果てる。
8:19 見よ、遠い地から娘なるわが民の叫ぶ声がする。「主はシオンにおられないのかシオンの王はそこにおられないのか。」なぜ、彼らは偶像によって異教の空しいものによってわたしを怒らせるのか。
8:20 刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。
8:21 娘なるわが民の破滅のゆえにわたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。
8:22 ギレアドに乳香がないというのかそこには医者がいないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。
8:23 わたしの頭が大水の源となりわたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう娘なるわが民の倒れた者のために。

主なる神のもとに立ち返るのでなければ、いくら神殿に出向き、神に願い求めようとも、そこに救いはない。
なぜか。
それは、真の悔い改めがなされていないからである。

ある人が「あの時もっとああしていれば良かった」と嘆いていたことがある。
しかし、後悔は悔い改めとは違う。
それは、未だ、自分の考えを捨てきれず、欲望に支配されたままでいるからなのだ。
嘆いても、後悔しても、つぶやいても、主は喜ばれない。
ただ、神のもとに立ち返り、神の前に、いかに自分勝手な生き方をしていたかということを告白し、そのために主イエス様が死んで下さったことを覚えなければならない。
自分は本来、死ぬべき者である事、イエス様がその身代わりとなってくださったこと、そのことを人が本気で信じたとき、そこには、大きな平安があるはず。
平安がないなら、未だ心のどこかで、自分の肉の思いに縛られているのであろう。
真実の救いには必ず平安が伴う。
嘆き続けることから解放されるために、真実の悔い改めへと導かれるようにと願うものである。

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エレミヤ8:4 彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。
8:5 どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む。
8:6 耳を傾けて聞いてみたが正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなくわたしは何ということをしたのかと言う者もない。馬が戦場に突進するようにそれぞれ自分の道を去って行く。
8:7 空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。
8:8 どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書きそれを偽りとした。
8:9 賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながらどんな知恵を持っているというのか。
8:10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に渡し彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
8:11 彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに「平和、平和」と言う。
8:12 彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと主は言われる。
8:13 わたしは彼らを集めようとしたがと主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなくいちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。

エレミヤが預言者として活動していた頃のイスラエルの状態は、まるで日本の状態を言い表しているように思えてならない。
神を信じることを頑なに拒み、どこにも真の平安などないはずなのに、いつまでも右肩上がりに国が発展し、社会が発展していくであろう幻想を追い求め続け、偽りの「平安」に希望を抱きながら、その実態は、破滅へとひたすらに向かい続けている。
そして、誰もが利をむさぼり、それを恥ずかしいとは思わない。
そこに一体、どんな豊かな実りがあると言えるのだろうか。
豊かさとは一体、何をもって真のものと言えるのだろうか。

神から離れ、神を無きものとする生き方を止め、神のもとに立ち返るとき、私たちは全てのものを持っている。
そこに本当の豊かさがある。

信じるか信じないかは個々の問題として、聖書は少なくともそのように語っている、と私は思う。

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エレミヤ7:29 「お前の長い髪を切り、それを捨てよ。裸の山々で哀歌をうたえ。主を怒らせたこの世代を主は退け、見捨てられた。」
7:30 まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。
7:31 彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。
7:32 それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。
7:33 この民の死体は空の鳥、野の獣の餌食となる。それを追い払う者もない。
7:34 わたしはユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃虚となる。
8:1 そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。
8:2 それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。
8:3 わたしが他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる。

生きているよりは死んだほうがまし、という表現を時々耳にする。
しかし、死ぬことの苦痛、恐怖は、誰もが等しく感じている。
だから、生きたいのだ。
しかし、それでも死を望む者たちが起こされる状況とはいかなるものか。
それがいかに厳しく、絶望的な状況であるかということであろう。

私たちの国で、自殺のニュースが後を絶たない。
それほど厳しい現状であるということであろう。
しかし、そのような状況になった理由は明確であろう。
神なき民、日本人。
聖書の言葉には、多くの示唆があり、警告を与えていると言える。
誰もが安心して暮らせる社会を築くことは大切であろう。
しかし、そのために、誰もが平安を持てる思想、宗教、共同体が保たれる事が大切。
そのために、遠慮せず、神の警告の言葉も語る必要があるのではないだろうか。
教会に委ねられた使命は大きなものであると思う。

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