聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
11:26 *もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

この世で起こる出来事は、なかなか思うようにならないことが多い。
というよりも、ほとんどのことが、思い通りになることはない。
しかし、思ったとおりにならなくても、信じたとおりになる。
少なくとも、イエス様は、そのように仰せられている。
思ったとおりになるということと、信じたとおりになるということの違いは、そこに、主の御心があるかどうかである。
思ったとおりとは、私の願うとおりになること。
しかし、信じたとおりとは、主が願われたとおりになること。
主が願われたことは、必ずなる。
私もそれを信じて従っていきたい。

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マルコ11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

イエス様は、神殿で物の売り買いや両替を営んでいた人たちを追い払い、「私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」との御言葉を引用された。
教会が、商売を目的としての活動を主とせず、あくまで、伝道目的の「祈り」の場所であることの大切さを思わされる。

しかし、だからと言ってイエス様は、すべての商売、すなわち、物を売ったり買ったりすることを禁じていらっしゃるのではない。
祈りのために聖別された時、場所、機会、そのことをわきまえておくことが大切なのだろう。
それと、イエス様は「強盗の巣」という表現をなさっている。
商売と強盗とでは、ずいぶんその趣旨が異なる。
商売には、正当なものもある。
商売がなければ、人が生きていくことはできない面もある。
しかし強盗は違う。あってはならないこと。不当な働きである。
だから、正当な働きを進めること、それが一番大切であると思う。

祈りの時は祈りに集中し、商売の時は、人に尽くすために商売の働きができるように務めたいものだ。

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マルコ11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

いちじくの木にしてみれば「今は実のなる季節ではないし、そんな無茶なことを・・・」とつぶやきたくなることでしょう。
しかし、主なる神様が必要とされた時にお役に立てなかったことは、せっかくのチャンスをみすみす見逃してしまうことでもある。

この御言葉を読みながら、伝道のチャンスについて考えさせられた。
イエス様のことをまだ知らない方々に、イエス様のことを伝えたいと願う。
しかし、そのようなチャンスは、いつでもあるようで、実はそうではない。
限られた機会しかないのが実情である。
しかし、もしその限られた機会に「またいつでも話すことができるから、今日はいいことにしうよう」などと考えたなら、大切な唯一の機会を失うことにもなりかねない。

2コリント6:1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
6:2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

神の恵みはいつでも「今日」「今」である。
だから、

2テモテ4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

伝道のチャンスはいつでも目の前にある。
今がそのときなのだから。

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ヨエル2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。
2:14 あるいは、主が思い直されその後に祝福を残しあなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。
2:15 シオンで角笛を吹き断食を布告し、聖会を召集せよ。
2:16 民を呼び集め、会衆を聖別し長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め花婿を控えの間から花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
2:17 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』となぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」
2:18 そのとき主は御自分の国を強く愛しその民を深く憐れまれた。

主なる神様は、私たちに「悔い改めを示す行いを示せ」と仰せられるのではない。
悔い改めて、神の御許に立ち返るように勧めているのである。
それは、単に、罪深い行いをやめたり、聖なる者に変えられることを意図しているのではない。
そうではなく、この私のために主イエス様が十字架で死なれたことを覚え、イエス様の十字架の贖いの故に、私のすべての罪が贖われているということを確信すること、それこそ真の悔い改めに他ならない。
そこには、どれだけ自分が聖なる者となったかを競い合うような要素は全く存在せず、どなたの御業によって聖なる者としてくださったかということを感謝する賛美だけが存在するのである。

「今こそ、心からわたしに立ち帰れ断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。


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使徒1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
1:16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
1:19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
1:20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
1:21 -22 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
1:24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

銀貨とひきかえにイエス様を売り渡したユダは、もともとイエス様の弟子たちの一人でありました。
それは、大変衝撃的なことであり、仲間のうちから裏切り者がでたという事実は、残された弟子たちにとっても、やり場のない大きな失望感を覚えていたことでしょう。
しかし、ペテロは、このことは既に旧約聖書にも預言されていたことであり、神のご計画のうちに進められた出来事であり、そうでなければ、イエス様は十字架の道へと歩まれることにならなかったのであり、つまりそれは「必然」であったということなのです。
弟子の一人が裏切るという衝撃的な必然。
しかし、そのような悲しい出来事の中から、キリストの教会は立ち上がり、建てあげられてきたのです。

ヨハネ7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。

神の御心は、時に、私たちの想像をはるかに超えたものであります。
しかし、そこに、主なる神の救いのご計画があること、御心のうちに、幸いな約束があることを覚えつつ、様々な出来事の起こるこの世での生涯を忠実に歩ませていただきたいと願うものです。



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114:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
14:35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
14:36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
14:37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
14:38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
14:39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
14:40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。

初代教会の時代、教会の中で婦人たちが御言葉を語ることは、秩序の問題として許されていなかった。
このことは、当時の特殊な環境によるものであり、現代の教会とは事情が異なっているという意見もある。
確かに時代が変われば、おかれている状況も違い、文字通りそのまま適用するのが難しい場合もあろう。
しかし、預言する者として召されたこと、霊の人として召されているということとは、いつの時代にも変わらないはずである。
それは、教会の召しであり、教会が、聖なる交わりとしての役割を果たすために、ある人々に神の御言葉を語る職務を託し、教会の秩序を保つのである。
では、教会の召しとは何であるか。
教会のかしらは、十字架と復活の主イエス・キリストに他ならない。
つまり、主の召しであるということである。
それは、人間が勝手に都合の良い人間を用いたり、変更したりすることのできないものである。
だから、時代が変わろうが、環境が変わろうが、「きのうも今日も、いつまでも変わることのないキリスト」の召しであり続ける。
婦人が語ってはならないのは不公平ではないかと言う前に、まず主の御言葉がどう語っているのかに耳を傾けなければ、語るべき内容にも混乱をきたすことになろう。
神は無秩序の神ではなく、平和の神だから。

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1コリント14:26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
14:27 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
14:28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
14:29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
14:30 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
14:31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
14:32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。

預言をする者に働く霊は、まぎれもなく、聖霊である。
だから、同じ神の御心を解き明かすお方だから、そこに秩序があるのは当然である。
もし、そこに秩序が乱れている状況があるとしたら、そこに働いているのは、人間の思いである。
そもそも、主なる神様は、隣人の救いを求める心をお持ちである。
そのお方に従う者もまた、隣人への思いを大切にするものだ。
自己中心、自分勝手、自己利益、それらを断ち切っていくところに、神の御心が現われてくることを思う。

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1コリント14:20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。
14:21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇でわたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる。」
14:22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。
14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

決して異言を語ることが悪いことではない。
異言も神様から与えられる賜物のひとつであるから、それを用いることは神の栄光をあらわすことにもなろ。
しかし、教会というところが、常に外部の人々へ、未だイエス様を知らない人たちへの宣教の働きを担っている唯一の存在であるということを思うとき、初めて教会に来られた方々にも良くわかる言葉を用いて神の国のことを説くことは、とても大切なことである。
なぜなら、イエス様の愛と救いの約束は、救われる人々に向けられているものだからである。
もちろん、すでに救われた人にも向けられている。
しかし、すでに救われた人も、かつてはイエス様を知らない人であった。
だから、いつも同じこと。

神の言葉は、人間にとって、いつも不思議で驚きの連続、そして、恵みに満ちている。

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1コリント14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
14:3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
14:4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
14:5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。
14:6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。
14:7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。
14:8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。
14:9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
14:10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
14:11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。
14:13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。
14:14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
14:15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
14:16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
14:17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
14:18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
14:19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。

パウロは、コリントの教会のクリスチャンたちに、愛を追い求めるよう説き、その際、最高の賜物は、預言を語ることであると述べている。
預言は、聞く者に神様がいかに愛なるお方であるかを教え、慰め、励ますものであるため、隣人のためにものである。
一方で異言を語ることは、語る人だけが尊ばれることになりやすく、聞く者をさげすんでしまうことにもなりかねない。
教会を建てあげる働きも同じこと。
常に隣人の救い、成長、慰めや励ましを追い求めていくとき、それは、まことに素晴らしい神の国の働きであるといえる。
自分だけが尊ばれるような働きであってはならない。
神様が私たちに何をなし、何を与えてくださったのか、明確な言葉で宣べ伝え、教え、導くことができるようにと願う。

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1コリント13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

御言葉を解き明かすことは、預言を語ることに含まれていると思う。
そして、私たち普通の人間にできる、一番尊い働きである。
しかし、それは、聖書の神様のほんの一部分しか伝えることはできない。
だから、メッセージひとつで神様のすべてを語ることは、最初から不可能なことなのである。
しかし、私たち人間にはそれしかできない。
むしろ、神様は、そのような手段を私たちにゆだねてくださったのだ。
私たちがおごり高ぶらないために。

1コリント1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

主なる神様は、御言葉の宣教という方法で私たちを救おうとされた。それは、神の子イエス・キリストの贖いによらなければ救われないということを知るためであり、神の愛が必要であるということを忘れないためである。

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