聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




エレミヤ 14:13 わたしは言った。「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と。」
14:14 主はわたしに言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」
14:15 それゆえ、主は預言者についてこう言われる。「彼らはわたしの名によって預言しているが、わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。
14:16 彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ捨てられる、彼らも、その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ。」
14:17 あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「わたしの目は夜も昼も涙を流し とどまることがない。娘なるわが民は破滅し その傷はあまりにも重い。
14:18 野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。町に入って見れば、見よ、飢えに苦しむ者。預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く。」

詩篇 26:1  ダビデの詩。 主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
26:2 主よ、わたしを調べ、試み はらわたと心を火をもって試してください。
26:3 あなたの慈しみはわたしの目の前にあり あなたのまことに従って歩き続けています。
26:4 偽る者と共に座らず 欺く者の仲間に入らず
26:5 悪事を謀る者の集いを憎み 主に逆らう者と共に座ることをしません。
26:6 主よ、わたしは手を洗って潔白を示し あなたの祭壇を廻り
26:7 感謝の歌声を響かせ 驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
26:8 主よ、あなたのいます家 あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。

エフェソ 5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
5:3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
5:4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
5:5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
5:6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者た得てちに下るのです。



偽りを語ったり、悪事を働く者は、何かしら生きていくことに対して不安を抱いているからなのではないだろうか。
生きていくためには、お金や食べ物も必要だし、いくらあっても不足を感じてしまうものだが、それらの欲に支配されたままだと、どうしても心に平安は無く、悪の道へとたなびいてしまうのだろう。
しかし、心が満たされ、揺るぎない平安の内にあれば、人は偽りや悪を働く必要もない。
それどころか、心に余裕があることで、他者に対しても愛や憐れみに沿った行動を取って行くことができるようになるのだろう。
人として、そうありたいし、そう生きていきたい。
そうなるためには、主なる神にすっかり愛され、永遠に滅びることのない救いの約束をしっかり受け止めておくことが肝心であろう。
イエス様はそのために十字架で死んで下さった。
立派な人になれるかどうかは分からないが、せめて、心に平安が与えられたものでいられるように、絶えず神の救いの約束の言葉を聞き続けていきたいものである。

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イザヤ 28:14 嘲る者らよ、主の言葉を聞け エルサレムでこの民を治める者らよ。
28:15 お前たちは言った。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」
28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
28:17 わたしは正義を測り縄とし 恵みの業を分銅とする。雹は欺きという避け所を滅ぼし 水は隠れがを押し流す。
28:18 お前たちが死と結んだ契約は取り消され 陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき お前たちは、それに踏みにじられる。」
28:19 洪水は溢れる度にお前たちを捕らえる。それは朝ごとに溢れ、昼も夜も溢れる。この御告げを説き明かせば ただ恐怖でしかない。
28:20 寝床は短くて身を伸ばすことができず 覆いは狭くて身を覆うことができない。
28:21 主はペラツィム山のときのように立ち上がり ギブオンの谷のときのように憤られる。それは御業を果たされるため。しかし、その御業は未知のもの。また、働きをされるため。しかし、その働きは敵意あるもの。
28:22 今、嘲ることをやめなければ お前たちの縄目は厳しくなる。わたしは定められた滅びについて聞いた。それは万軍の主なる神から出て国全体に及ぶ。

詩篇 18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。
18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。
18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
18:22 わたしは主の道を守り わたしの神に背かない。
18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き 主の掟を遠ざけない。
18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし 罪から身を守る。
18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし

マタイ 26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」


イエス様の足に、ある女性が高価な香油を塗ったことに対し、弟子たちは憤慨し「なぜこんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言ったことが記されている。
この出来事が行われた場所は、重い皮膚病を患うシモンの家であったとも記されている。
おそらく、周囲の人たちから距離を置かれ、まともな仕事にもつけず、治療費ばかりかかってしまい、普通の生活すら困難な状況であったに違いない。
しかし、周囲の人たちは、本当に高価な香油を高く売って貧しい人たちに施していたのだろうか。
おそらく、口先ばかりで、何もしていなかっただろう。
何もしていなどころか、彼らを避け、いじめや迫害をしているようなものであことであろう。
人間とはそういうものである。
しかし、イエス様は違った。
思い皮膚病を患い、誰もが離れて行ってしまうような病と困窮の中に苦しむシモンの家に入られた。
そして、そこに、同じように周囲の人たちから疎外されていたであろう女性から香油を注がれたのである。
イエス様は、友なき人の友となり、共に生きようとされたのである。
普通の人にはなかなかできる事ではないけれども、それが真の愛のお方の生き様ということなのだろう。
この出来事を読み、はたして自分はどうであろうかと考えてみる。
自分もイエス様のようにできるだろうか、あるいは、この女性のように行動できるだろうか。
しかし、その考察は根本から間違えているのかもしれない。
私もシモンのように、病や困窮に苦しみ、周囲からも阻害され、生きることに苦しさを覚えている一人の人間であり、そんな私にもイエス様は寄り添って下さり、救って下さるのだ。
ありがたいことである。

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申命記 32:18 お前は自分を産み出した岩を思わず 産みの苦しみをされた神を忘れた。
32:19 主はこれを見て 御自分の息子、娘への憤りのゆえに 彼らを退けて、
32:20 言われた。わたしは、わたしの顔を隠して 彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代 真実のない子らだ。
32:28 彼らは思慮に欠けた国民 彼らには洞察する力がない。
32:29 もし、彼らに知恵があれば、悟ったであろうに。自分の行く末も分かったであろうに。
32:30 もし、岩なる神が彼らを売らず 主が渡されなかったなら どうして一人で千人を追い 二人で万人を破りえたであろうか。
32:31 しかし、彼らの岩は我々の岩に及ばない。我々の敵もそのことは認めている。
32:32 彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木で ゴモラの畑で育ったもの。そのぶどうは毒ぶどう その房は苦い。
32:33 そのぶどう酒は、蛇の毒 コブラの猛毒。
32:34 これは、わたしのもとに蓄えてあり わたしの倉に封じ込めてあるではないか。
32:35 わたしが報復し、報いをする 彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。
32:36 主は御自分の民の裁きを行い 僕らを力づけられる。主が見られるからである 彼らの力がうせ去り 未成年者も成人した者もいなくなったのを。
32:37 主は言われる。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。
32:38 彼らはいけにえの脂肪を食らい 注がれた酒を飲んだではないか。さあ、その神々に助けてもらえ お前たちの避け所となってもらえ。
32:39 しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。

詩篇 18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。
18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。
18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
18:22 わたしは主の道を守り わたしの神に背かない。
18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き 主の掟を遠ざけない。
18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし 罪から身を守る。
18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし

ローマ 11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
11:34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
11:35 だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。


全ての命は、神の御手によって創られたものである。
ならば、創られたものが創り主を忘れて生きている事ほど愚かなことはない。
それは生きていても死んだもののようであり、生きて活動しているようでも実は滅んでいる。
まことの創り主なる神を信じ、その神と共に生きることこそ、真実な命を生きているからである。
まことの創り主なる神を信じて生きるものは、つねに命の主であられる神から「あなたは生きている。あなたは滅びることは無い」と語りかけて下さる。
神を信じない人にはそれがない。
命の主である神から、命の約束を頂いているものは幸いである。
今日もこの約束を信じ、神と共に生きていこう。

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サムエル上 7:2 主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。
7:3 サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」
7:4 イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。
7:5 サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」
7:6 人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。
7:7 イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、
7:8 サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」
7:9 サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。
7:10 サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
7:11 イスラエルの兵はミツパを出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベト・カルの下まで行った。
7:12 サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。
7:13 ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。

詩篇 18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。
18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。
18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
18:22 わたしは主の道を守り わたしの神に背かない。
18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き 主の掟を遠ざけない。
18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし 罪から身を守る。
18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし

ローマ 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。


この世には様々な争いや裁き合いが行われている。
なかなか和解へ導かれないのは、それらの争いや裁き合いの原因や主張が、みな自分の都合や欲望を満たすために訴えられているからであろう。
つまり、それらは真理に基づくものではなく、どんなに正義だと主張しようとも、そこに本当の正義など存在しないからである。
この世には人の数だけ「正義」と思われているものがあるが、各々が勝手に自分が思っていることだけが正義だと考えているだけであり、それらが自分の都合や欲に基づいているものであり、よこしまなものであるということに気が付き、悔い改めることがなければ、どんなにそれらの正義を主張しようとも、その先に平和も祝福も訪れないだろう。
祝福されないばかりか、自ら滅びを招いてしまうだけであろう。
人間とは、いかにも小さな存在であり、愚かな罪人である。
まずはそのことを知り、それでもなお、愛の神が、こんなみじめな人間を愛し救おうとされたということを受け止めたい。
真の正義は、神の御業、聖書の御言葉の中にのみ表されている。
だから、聖書の言葉に聞き、真の正義であられる神のもとに立ち帰ろう。
そこには決して人間の知恵や力によっては成し得ない救いが約束されているのだから。

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エゼキエル 36:33 主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。
36:34 荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。
36:35 そのとき人々は、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃虚となった町々が、城壁のある人の住む町になった』と言う。
36:36 お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。主であるわたしが、これを語り、これを行う。
36:37 主なる神はこう言われる。わたしは、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。わたしは彼らの人口を羊の群れのように増やす。
36:38 祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」

詩篇 138:1  ダビデの詩。 わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。
138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。
138:3 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。
138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
138:5 主の道について彼らは歌うでしょう 主の大いなる栄光を。
138:6 主は高くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
138:8 主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

マタイ 16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。


聖書の中で、イスラエルの民が安住するための土地や町に関する言及は、思いのほか多い。
それは、人々が安心して暮らすことができることが、生きることにおいて、ともても大切なことだからであろう。
しかし、それらは、神が備え、人に与えるものであるという風に語られていることが多い。
そもそもこの世界も人が生きていくために神が備えて下さったようなものであり、人間がこれを構築したのではない。

現代のイスラエルは、神の国の実現を早めようとしているためか、かなり強引な仕方で領土を広げようとしている。
しかし、それはあくまで人間の業に過ぎない。

イエス様が「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と仰せられた時、それは、彼らの教えに注意せよとのことであったようである。
彼らの教えとは、人間の業による救いの達成であり、人間の力により神の国の実現を満たそうとするものであっただろう。
しかしそれは、神の国ではなく、人間の国でしかない。

私たちの救いは、どのようにして実現し、もたらされるのだろう。
すべては神の恵みにより、イエス様の十字架の贖いの御業によってもたらされる。
人間業で神の国を押し広げようとしても、そこには必ず無理が生じるし、矛盾をもたらすことにもなるだろう。
さりとて、何もしないでただ黙って眺めているだけというのも好ましいことではないが、真の神の国が到来することを願いつつ、神が与えて下さる恵みを積極的に受け取って行くものでありたいものである。

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エゼキエル 31:15 主なる神はこう言われる。彼が陰府に下る日に、わたしは彼のゆえに淵を喪に服させ、彼を覆う。わたしが川をせき止めるので、豊かな水も干上がる。またレバノンに彼の弔いをさせるので、野のすべての木も、彼のゆえにしおれる。
31:16 穴に下る者と共に彼を陰府に下すとき、わたしは彼の倒れる音で諸国民を揺り動かす。そのとき地の深き所で、エデンのすべての木も、レバノンのえり抜きの美しい木も、水に潤うすべての木も、再び慰められる。
31:17 彼らも、彼と共に陰府に、剣で倒れた者たちのところに下って行った。かつて諸国民の間で、彼の陰に宿っていた仲間たちも共に。
31:18 お前は、エデンの木のなかで、栄光と偉大さを誰と比べられたか。しかし、お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である」と主なる神は言われる。

詩篇 138:1  ダビデの詩。 わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。
138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。
138:3 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。
138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
138:5 主の道について彼らは歌うでしょう 主の大いなる栄光を。
138:6 主は高くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
138:8 主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

2コリント 10:12 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
10:13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。
10:14 わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。
10:15 わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、
10:16 あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。
10:17 「誇る者は主を誇れ。」
10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。


驕る平家家は久しからずや
驕り高ぶる者は、いつかその傲慢な態度のゆえに失脚していく。
それは、この世の常でもあるし、自らの力や能力に溺れる者は、神の力を退けていくことになるし、神の助けなど必要とも思わないからであろう。
しかし、この世界は、全てが神の御手のもとにある。
何もされないように見えるかもしれないが、神はしっかりとこの世界をご覧になっておられる。
かつて、その名を世界中にとどろかせたファラオも、陰府の世界へと堕ちていったと記されている。
死語のことは我々にはわからないが、傲慢になり、神を信頼せず、時には神を冒涜し、身勝手な生き方を続ける者に、神は容赦はしないだろう。
自分自身の力に頼るならば、全てを自分で引き受けなければならなくなる。
しかし、私たちには、自分自身を救うことのできる力などない。
ならば、神に寄り頼むしかないだろう。
たとえこの地上における人生が困窮するものであったとしても、神に寄り頼み、神の恵みに信頼して生きていくならば、神は私たちに永遠の命を約束して下さる。
イエス様の十字架と復活の御業がそれを証している。
この方に望みをおき、寄り頼み、救いの約束に信頼して、平安のうちを歩んでいきたいものである。

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エゼキエル書 28:11 主の言葉がわたしに臨んだ。
28:12 「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。お前はあるべき姿を印章としたものであり 知恵に満ち、美しさの極みである。
28:13 お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶 かんらん石、縞めのう、碧玉 サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金で お前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。
28:14 わたしはお前を 翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて 火の石の間を歩いていた。
28:15 お前が創造された日から お前の歩みは無垢であったが ついに不正がお前の中に 見いだされるようになった。
28:16 お前の取り引きが盛んになると お前の中に不法が満ち 罪を犯すようになった。そこで、わたしはお前を神の山から追い出し 翼で覆うケルブであるお前を 火の石の間から滅ぼした。
28:17 お前の心は美しさのゆえに高慢となり 栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし 王たちの前で見せ物とした。
28:18 お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って 自分の聖所を汚した。それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ お前を焼き尽くさせた。わたしは見ている者すべての前で お前を地上の灰にした。
28:19 諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆 お前のゆえにぼう然とする。お前は人々に恐怖を引き起こし とこしえに消えうせる。」

詩篇 138:1  ダビデの詩。 わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。
138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。
138:3 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。
138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
138:5 主の道について彼らは歌うでしょう 主の大いなる栄光を。
138:6 主は高くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
138:8 主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

1コリント 6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
6:3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
6:4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
6:5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6:6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
6:7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
6:8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
6:9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
6:11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。



残念な事ではあるが、教会の中でも様々な批判や裁きが行われることがある。
当人としては、聖書に基づいて判断し、行動しているつもりなのだろうけれど、イエス様が命を捨ててまで愛し、赦そうとされた救いの御業をベースとする教会には、批判や裁きといたことは、ふさわしいことではない。
もっとも、そういった裁かれるような事柄があること自体が問題なのかもしれないが、それでもイエス様は自らの命を犠牲にしてまで、私たちを赦そうとしてくださったのである。

ヨハネ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネ3章16節の御言葉は、とても有名な言葉ではあるが、その次の17節にも大切な事が語られている。
イエス様は世を裁くために来られたのではなく、私たちの身代わりとなって御自分が裁かれることで、私たちへ向けられた裁きの全てを引き受けて下さったのである。
本当に正しい裁きとは、イエス様の十字架のゆえに赦されているということを伝えることによって成立するのだろう。
ならば、私体が安易に他者を裁くようなことをすべきではないし、誰かを批判する前に、まずは相手も自分もイエス様の十字架の贖いのゆえに赦されてここにいることを伝えたい。
様々な問題を解決していくことは難しいことだが、どんな状況であろうと、イエス様の愛と赦しを伝えていくことを大切にしていきたいものである。

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イザヤ書 66:18 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
66:19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
66:20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
66:21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
66:22 わたしの造る新しい天と新しい地が わたしの前に永く続くように あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと 主は言われる。
66:23 新月ごと、安息日ごとに すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと 主は言われる。

詩篇 87:1  コラの子の詩。賛歌。歌。 聖なる山に基を置き
87:2 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される シオンの城門よ。
87:3 神の都よ あなたの栄光について人々は語る。
87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも この都で生まれた、と書こう。
87:5 シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。
87:6 主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。
87:7 歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

マタイ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。


イエス様のもとには大勢の群衆が従っていた。
しかし、イエス様が病気を癒されたりされたのは、一部の限られた人たちであったように見える。
イエス様は、限定的な仕方でしか働かれないようにも見えるが、実はそうではない。
限定的なのは、人間の側の信仰に問題があるからである。
つまり、信じる人と信じない人がいて、信じる人のほうが少なく、しかも、ふわふわと揺るぎがちな信仰しか持っていないからであろう。
もっと確信をもってイエス様を信じたいとも思うが、いかんせん、人間の信仰は、みな同じようなもの。
そんな中にあっても、揺るぎない信仰を持ってイエス様のもとに頼ってきた人もいる。
そういう人の周りで、神の御業は現わされていく。
実は神の御業はいつでも私たちの側で現わされようとしているのだ。
あとは私たちがそれを信じるかどうかだけである。
疑いの心をもって神の御業を見逃していくか、揺るぎない信仰を持って神の御業を目撃していくか、どちらを選ぶかは私たちの自由であるが、できるならば、後者を選びたい。
神の恵みの御業が、私たちの周りで次々と現わされていくように願いつつ、信仰を持って歩んで行きたいものである。

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イザヤ書 43:8 引き出せ、目があっても、見えぬ民を 耳があっても、聞こえぬ民を。
43:9 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ 初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し 聞く者に、そのとおりだ、と 言わせうる者があろうか。
43:10 わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。
43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
43:12 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と 主は言われる。わたしは神
43:13 今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。

詩篇 87:1  コラの子の詩。賛歌。歌。 聖なる山に基を置き
87:2 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される シオンの城門よ。
87:3 神の都よ あなたの栄光について人々は語る。
87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも この都で生まれた、と書こう。
87:5 シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。
87:6 主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。
87:7 歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

ローマ 11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。
11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。



主なる神様がイスラエルの民を選ばれたのは、世界中の全ての民に神の救いの約束を宣べ伝えるためである。
それは歴史を通して神が明らかにされたことでもあり、誰も否定することはできない。
たとえイスラエルの民が神を退け、イエス様を十字架にかけて殺してしまったとしても、むしろそういう仕方を通してでも、神は救いのご計画を実行されたのである。
皮肉なようであり、不思議なことのようであり、しかし、それが神のなされた救いの御業なのである。
私たちは、その救いの約束を、イスラエルを通して伝えられたものであり、その事実まで否定することはできないし、福音を宣べ伝えられた者として、感謝して受け止めるべきであろう。
神の救いの言葉の前には、ユダヤ人も異邦人もない。
先に救われたからといって、後から救われる人より偉いわけでもないし、ただ、救われるために、そういう順番が必要であったということに過ぎない。

ルカ13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

福音の言葉が語られている時、救いの恵みにあずかるチャンスは、人それぞれ異なるだろう。
しかし、神の恵みが語られる時、心を閉じて神に背を向け、みすみす恵みを見逃してしまわないよう、いつでもしっかりと心の目を開き、恵みの機会を逃さず、神の救い約束を喜んで受け取っていきたいものである。


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列王記下 5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

詩篇 87:1  コラの子の詩。賛歌。歌。 聖なる山に基を置き
87:2 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される シオンの城門よ。
87:3 神の都よ あなたの栄光について人々は語る。
87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも この都で生まれた、と書こう。
87:5 シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。
87:6 主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。
87:7 歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

使徒 15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
15:3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
15:4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
15:5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
15:6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
15:8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
15:9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
15:10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
15:11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
15:12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
15:13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
15:14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15:15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
15:16 『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。
15:17 -18それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』
15:19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
15:21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」



使徒15章の箇所には、エルサレムで行われた会議について記されており、その内容は、聖書の御言葉を知らない異邦人たちも、ユダヤ人のように割礼を受けるべきかとうかといったことについて話し合われたようである。
これは、救われるために割礼を受けるべきかどうかといった問題ではなく、本質的には、人が救われるために律法を行う必要があるかどうかといったものであると言えるだろう。
パウロらの主張は、当然、人が救われるのは律法の行いによるのではなく、神の恵みによる救いの約束であり、福音によるものであるということを一貫して主張していた。
だから、パウロが記した多くの書簡には、そのことが明確に語られている。
人が救われるのは、律法の行いによるのではなく、ただただ神の恵みにより、信仰によってその恵みを受け取ることによる。
でなければ、イエス様の十字架の死と復活の出来事には、何の意味もないことになってしまう。
イエス様が私たちのために身代わりとなって命をかけて一切の罪の贖いを成し遂げて下さったからこそ、私たちは完全に輸すされるのであり、そこには何ら人間の側でできることはなく、ただその救いの約束を信じる信仰だけが必要なのである。
エルサレムで行われた会議では、偶像に捧げられた肉やみだらな行いなど、全般的に汚れた行動を慎むよう話し合われ、その他の細かい律法の規定については、必ずしも順守する必要がないことが話し合われたようである。
汚れた肉や行動といったことも、衛生面であったり、社会通念上、秩序を保つためという意図であって、それらが直接救いに関係ものでもない。
げんに、この後、ペテロは幻の中で「汚れた動物も屠って食べるよう」神から勧められ「神が清めたものを、あなたがたがは清くないと言ってはならない」とも語られている通りである。
汚れた動物と言われているものを食べたからと言って、それで直接救いの約束から落ちてしまうというわけでもない。
ただ、それを見ている人がつまづきを覚えるようなことになるのなら慎むべきだし、全ては愛と配慮を持って行われるべきことであろう。
しかし、救いの約束は、イエス様の十字架の死と復活の御業においてのみ完成されるもの。
そこだけは譲ることのできないものであるからこそ、私たちの救いは、ただただ福音によるのであるということをしっかりと覚えておきたいものである。

ローマ3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。


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