聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




1ヨハネ5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
5:16 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。
5:17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
5:18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
5:19 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
5:21 子たちよ、偶像を避けなさい。

私たちが願い求めることは、既に神様に聞き届けられているという。
素晴らしい約束であり、私たちにとって、大きな慰めでもある。
ただし、それは、神の御心に適うものであることが大切である。
どんなに願い求めても、それが適えられない場合、そこには神の御心とは異なった、間違った方法で求めていることがあるからなのかもしれない。

ヤコブ4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。

欲望のままに神に願い求めることは、偶像に従うことであり、死に至る罪とは、そういうことを示しているのだろう。
ヨハネの手紙は、最後に「偶像をさけなさい」と締めくくっている。
何が本当に必要なものであり、何が大切なことであるのか、御言葉に教えられつつ、見極めていきたいものである。

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1ヨハネ5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
5:7 証しするのは三者で、
5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

教会の中で、時々信徒の方の証しを聞くことがある。
この場合、割りに多くの方がご自分が経験されたことをお話し、そこから神への感謝を語られる。
しかし、本日の日課の箇所を読むと、証しとは、まさに、イエス・キリストを証しすることであるということがよく分かる。
そして、イエス様がその生涯において、私たちのために洗礼を受け、私たちのために十字架で血を流されたことが、全て私たちの救いのためであったということを信じて告白するとき、それが証しとなりうるのだということを思わされる。
証しとは、ただただ、主イエス・キリストを指し示すことに他ならない。
そして、そこには必ず聖霊が働いていることを覚え、それ故に、感謝し、励ましを受けたいものである。

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1ヨハネ5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

イエスがメシアであると信じる人は、神から生まれた者である。
当然、自分を生んでくださった方を愛するはずである。
と同時に、その方から生まれた者をも愛するということも語られている。

当たり前のことではあるが、主イエス様を信じて救われる人は、自分だけではない。
他にもいる。
そして、そのような人たちの集まりが教会である。

人と人とが集まれば、意見が違い、対立することもあろう。
しかし、互いに神から生まれた者である。
兄弟姉妹、お互いを尊重しあい、愛し合うことが尊ばれますように。

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ヨハネ7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。

最近、時々礼拝説教の御用をさせていただく。
以前は毎週のように繰り返し説教を準備し、語らせて頂いていたことが、間隔が開いてしまうと、どのように準備していいのかわからなくなる。
そんな時、作成した説教原稿を読み直してみると、これが果たして神の御言葉なのだろうかと思い悩む。
何度も何度も書き直してみるものの、やはり何かが違う。

そんな時、原稿を書くことから少し離れてみる。
そして、再び聖書を読む。
聖書に聞く。
聖書が語っていることは何か。
まずは聞くことから始めなければ。

何度も聖書を読み返してみたり、いろんな注解書を参考にしてみたり、そうこうするうちに、神様の言葉が聞こえてくる。



そんな説教者でありたい。


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1ヨハネ14:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

私たちが愛に生きるようになるためには、主なる神の霊が私たちのうちに留まっている必要がある。なぜなら、愛は神からくるものであり、人間のうちにあるものではないからである。
神が私たちの内に留まっているためには、私たちが主なる神様を信じて受け入れている必要がある。
神は霊であり、神を信じる者と共にいてくださるからである。

そして、これらのことを実現するためには、その神への信仰を告白する必要がある。

神が共におられ、神の愛にならって生きるようになるためには、日々、主なる神への信仰を告白していくことが大切である。
だから、愛にあふれた行動よりも、まず、日々の信仰告白に努めていきたいものである。

教会の礼拝は、そのような信仰を告白する場でもある。
まずは、そこから始めたいものである。

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1ヨハネ4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

神は愛であり、神から生まれた者は、神を知り、互いに愛し合うようになると語られている。
しかも、そのために神は御子をお遣わしになり、それによって、私たちが生きるようになると語られている。
もちろんそれは、主イエス様による贖いと永遠の命に与ることの幸いを意味しているのであるが、「それによって生きるようになる」という言い方は、単に、永遠の命を与えられただけではなく、今もう既にその命に生きているということを示し、互いに愛し合うような生き方こそが、本当の意味で「人が生きている」と言えるのだということを思わされる。

今の時代は、多くの人がその事を知らず、自分勝手に、自分のためだけに生きようとしている。
しかし、そのような生き方は、生きているのではなく、まさに「滅んでいる」状態なのだ。
人として、本来の生き方を生きようとするならば、神に創られた者として、神の意図に立ち返り、神がそうであられたように、愛に生きることが求められている。
それが本当の意味で「生きている」ということなのだから。

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1ヨハネ4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。
4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。
4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

近年、霊的なものに対する人々の関心が高まっていると聞く。
一方で、既存の宗教に対しては傾倒せず、新興宗教に対しても、もはや新興ではなく、既存の扱いであり、それとは異なる、神秘的なもの、スピリチュアルなものへの関心が高いのだとか。

霊の世界は確かに存在する。
しかし、それらの霊のうち、私たちを本当の意味で幸いへと導いてくれる霊は何であるか。
私たちを恐れさせたり、不安へといざなう霊に関心を持つ事に、一体、どんな意味がるというのだろうか。

決して神秘的なもの、スピリチュアルなものでなくとも、聖書の御言葉を通して「イエスは主である」と告白させてくれる霊こそ、私たちにとって、必要であり、求めるべき霊である、と私は思う。

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1ヨハネ3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。

聖書学院で聖書の学びを始めた頃、何度も耳に入ってくる言葉が印象的だった。
それは「救いの確信」という言葉である。
聖書学院で学ぼうかというような者は、何事にも揺るがされることのないほどの強い信仰が必要なのだろうかと思うかもしれない。
しかしそうではない。
救いの確信が、自分自身のうちにあるなら、これほど無力で、不確かななものはない。
しかし、救われているという確かな保証が、全知全能の神の御子、イエス・キリストの贖いの代価によって成し遂げられているからこそ、私たちの救いは確かなものとされているのであり、それ故に、私たちの救いの確信は、完璧なものとなりうるのだ。
確信が、私たちのうちにではなく、神様のうちにあるからこそ、確かなものであるという信仰。
私は、そのような聖書の御言葉の約束の故に、その御言葉に信頼を置き、神様のもとに、全てを委ねていきたいと願うのである。

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1ヨハネ3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

我が家の子供たちは、最近、毎日のように将棋をして遊んでいる。
なんでも、学校で流行っているのだとか。
我が家では、男の子が四人いるので、二組ずつ対戦することができる。
が、数分もしないうちに喧嘩が始まる。
「将棋は紳士のゲームだよ!喧嘩するような人は、将棋をする資格はないよ!」と、毎日同じ事を繰り返すが、一向に治まる気配はない。
誰も将棋に勝ちたいし、自分が一番になりたいのだ。


双子が生まれることがわかった頃、長男にヨシュアという名前をつけたために、次に生まれてくる子らには、カインとアベルと名づけたらどうかと言った人がいた。
なんと非常識な人だろうと思ったものである。
しかし、今の二人を見ていると、どっちもカインみたいに見えてくる。

兄弟を愛するということが、いかに難しいことで、不可能なことかということを思い知らされる。
しかし、イエス様はそれをなさったお方。

私を兄弟と呼んでくださり、愛してくださるイエス様のその愛に感謝。

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1ヨハネ3:4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。
3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
3:7 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

ある方から「天国に入るためには、何か、犯罪を犯さないといけないの?」と尋ねられたことがある。
どこかの伝道集会に出かけて、そこで、罪について聞かされたのであろう。
しかし、聖書が告げる私たちの罪とは、イエス様を知らず、神から離れている状態を言い表している。
だから、神様の存在を知り、イエス様がその罪のために死んで下さって、罪の償いを成し遂げて下さったことを受け入れることが、罪から離れるということであろう。
犯罪を犯すなどということは、むしろ、全く逆行することに他ならない。
神を知り、神と共に生きるようになるとき、その人は、神に似た者となるように求められている。
神を愛し、隣人を愛する人となるように。
それを拒んでいるものが罪であるのだから。

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