聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

特別事業の働きをするようになって、会計の責任を負うことの大変さを思い知らされた。
毎月の支払いや、支出の管理、さらには、支援のアピールなどもしなければならない。

そんなことをしていると、自分への報酬など、一番後回しになっていく。
潤っている時にはそれほど問題ないのだが、財政的に厳しい時には、果たして自分の給与が出るだろうかと心配になることもある。
そんな時、働いているのだから報酬を頂くことは当然の権利なのだが、なんだか悪いことをしているような気持ちにすらなる。

さらに、普段から、そういうやり繰りのことばかりを考えていると、プライベートな金使いについてもだんだんシビアな方向へと偏っていく。
簡単に言えば、ケチになっていくということ。
金使いが荒いよりは良いのかもしれないが、用いるべき所にまで惜しむようになると、いろいろと問題も出てくる。
心はいつも重たい雰囲気に飲み込まれたまま。


マタイだって、好き好んで会計の仕事をしていたわけではないのだろう。
本当なら、やりたくはない仕事かもしれない。
けれど、誰かがやらなければならない仕事であるし、嫌われつつであっても、やらざるを得なかったのだろう。
マタイもきっと、心が重たいまま過ごしていたのではないだろうか。

人にはそれぞれ悩みがある。
周囲の人にそれを理解してもらうのはなかなか難しいもの。
だから、イエス様の憐れみが心にしみる。
分かってもらえない寂しさも、イエス様の憐れみの心が癒してくれる。

だから、イエス様のもとへ行こう。
イエス様と共に生きよう。




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ゼカリヤ13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。
13:2 その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。
13:3 それでもなお預言する者がいれば、彼はその生みの親である父からも母からも、「主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない」と言われ、その預言のゆえに生みの親である父と母によって刺し貫かれる。
13:4 その日、預言者たちは皆、預言をしても自分の幻のゆえに恥を受け、欺くための毛皮の外套を着るのをやめ、
13:5 「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ。わたしは若いときから土地を所有している」と言う。
13:6 また、「あなたの胸にあるこの傷はどうしたのか」と問われると、「それは友人の家で受けたものだ」と答えるであろう。
13:7 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえわたしの同僚であった男に立ち向かえと万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。
13:8 この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。
13:9 この三分の一をわたしは火に入れ銀を精錬するように精錬し金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え「彼こそわたしの民」と言い彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

主なる神様は、偽りの預言をしてきた者たち、偶像を礼拝し続けてきた指導者たちへの裁きを行われる。
それは、責任ある立場にいた者である以上、厳正に行われ、情け容赦などない。
なぜなら、それなりの立場ゆえの報酬も得てきているからである。

ヤコブ3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

間違ったことを語る上で受ける裁きをも覚悟しているならば、教師の道を目指せばよい。
正しいことを語ることで、それ以上に受ける報いや慰めが大きいことを知っているのなら。

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ゼカリヤ11:1 レバノンよ、お前の門を開け。火にお前の杉を焼き尽くさせよう。
11:2 糸杉よ、泣き叫べ。杉は倒れ、見事な大木も荒れ果てた。バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。人を寄せつけなかった森も倒された。
11:3 羊飼いたちの泣き叫ぶ声がする。彼らの見事な牧場は荒れ果てた。若い獅子のほえる声がする。ヨルダンの密林も荒れ果てた。
11:4 わが神なる主はこう言われた。屠るための羊を飼え。
11:5 それを買い取る者は、罪を帰せられずにそれを屠り、売るときは、「主はほめたたえられよ。わたしは金持ちになった」と言うが、羊飼いたちはそれを憐れまない。
11:6 わたしはこの地の住民を再び憐れみはしない、と主は言われる。見よ、わたしはどの人もその隣人の手とその王の手に任せる。彼らがこの地を打とうとしても、わたしは彼らの手から救いはしない。
11:7 わたしは屠るための羊を、羊の商人のために飼った。わたしは二本の杖を手にして、ひとつを「好意」と名付け、もうひとつを「一致」と名付けて羊を飼った。
11:8 わたしは一月のうちに三人の羊飼いを退けた。わたしは彼らに我慢できなくなり、彼らもわたしを嫌った。
11:9 そして、わたしは言った。「わたしはお前たちを飼わない。死ぬべき者は死ね。消え去るべき者は消え去れ。残った者は互いに肉を食い合うがよい。」
11:10 わたしは「好意」というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした。
11:11 その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。
11:12 わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。
11:13 主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。
11:14 わたしは「一致」というわたしのもうひとつの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした。
11:15 主は更にわたしに言われた。「愚かな羊飼いの道具を取れ。
11:16 見よ、わたしはこの地に羊飼いを起こす。彼は見失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものをいやさず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを砕く。
11:17 災いだ、羊を見捨てる無用の羊飼いたちは。剣が、その腕と右の目に差し向けられる。その腕は力を失い、右の目はかすむ。」

国が崩壊していく。
そのとき、今まで指導者として統治してきた者たちの混乱ぶりは、きわみに達する。
「屠るための羊を飼え」しかし、それを買い取った者も、罪を着せられることなく屠り、売る者も「金持ちになった」と言って喜ぶが、羊を憐れむことがない。
今の時代も、人間がこのように扱われているのかもしれない。
会社を存続させるために、安易にリストラが行われ、そのために生活や人生を切り捨てられていく者たちがいる。
しかし、それは誰にも止められない。
神を求めず、お金と欲望に心を支配され続けてきた民への当然の報いなのだろう。
それが神の裁きというなら、そうなのかもしれない。

私たちの国の多くの人々は、あまりにも聖書の神様をないがしろにしすぎている。
銀貨30枚でも多いくらいではないか。
むしろ、お金をもらっても、聖書の話を聞こうとする人もいないのではないか。
イスラエルの指導者らでさうら、銀貨20枚の値をイエス様につけたというのに。

国が崩壊していく。
困難な時代はこれから始まる。
けれど、だからこそ、これからの時代こそ、本当の救い主が求められる、はずである。

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ゼカリヤ8:1 万軍の主の言葉が臨んだ。
8:2 「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。
8:3 主はこう言われる。わたしは再びシオンに来てエルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。
8:4 万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には再び、老爺、老婆が座すようになるそれぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
8:5 都の広場はわらべとおとめに溢れ彼らは広場で笑いさざめく。
8:6 万軍の主はこう言われる。そのときになってこの民の残りの者が見て驚くことをわたしも見て驚くであろうかと万軍の主は言われる。
8:7 万軍の主はこう言われる。見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からもわたしはわが民を救い出し
8:8 彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となりわたしは真実と正義に基づいて彼らの神となる。
8:9 万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなたたちは、近ごろこれらの言葉を預言者の口から、度々聞いているではないか。万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ再建が始まった日から。
8:10 以前には、人間の働きに報いはなく家畜も、働きの報いに何の食も得なかった。出入りするにも安全に敵から守られてはいなかった。わたしがすべての人を互いに思うがままにさせておいたからだ。
8:11 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して以前のようではない、と万軍の主は言われる。
8:12 平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者にこれらすべてのものを受け継がせる。
8:13 ユダの家よ、イスラエルの家よあなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが今やわたしが救い出すのであなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。
8:14 まことに、万軍の主はこう言われる。あなたたちの先祖がわたしを怒らせたので、わたしはかつて、あなたたちに災いをくだす決意をして悔いなかった、と万軍の主は言われる。
8:15 そのように、今やわたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をした。恐れてはならない。
8:16 あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき平和をもたらす裁きをせよ。
8:17 互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む」と主は言われる。
8:18 万軍の主の言葉がわたしに臨んだ。
8:19 「万軍の主はこう言われる。四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる。あなたたちは真実と平和を愛さねばならない。
8:20 万軍の主はこう言われる。更に多くの民、多くの町の住民が到着する。
8:21 一つの町の住民は他の町に行って言う。『さあ、共に行って、主の恵みを求め万軍の主を尋ね求めよう。』『わたしも喜んで行きます。』
8:22 多くの民、強い国々の民も来てエルサレムにいます万軍の主を尋ね求め主の恵みを求める。
8:23 万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」

イスラエルの都エルサレムに、再び真の平和と繁栄の約束が語られる。
しかし、その根拠は、イスラエルの民の行動によるものではなく、ただ、主の熱情により、主が語られたことによってもたらされるところにある。
そして、その町では、年老いた老人たちが平穏な日々を過ごすことができると語られているように、争いのない平和な世界が約束されている。
主なる神様が私たちに与えようとしている神の国とは、そういうところなのだ。
決して人間の力によって、富や力によってもたらされるものではなく、主の熱情により、憐れみにより、そして、主の御言葉の故にもたらされる。

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

主なる神様の「私はあなたを愛している」との御言葉が世に現れた。
それが御子イエス様が人としてこの世にお生まれになったクリスマス。
神様は、この御言葉によって真の平和をもたらされるお方。
それゆえ、私たちも互いに真実を語り合い、真実と正義に基づき、平和をもたらす行動に進もうではないか。

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ゼカリヤ7:1 ダレイオス王の第四年になって、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。それは九月、キスレウの月の四日のことであった。
7:2 ベテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼の従者たちを遣わして、主の恵みを求めさせ、
7:3 また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか。」
7:4 そのとき、万軍の主の言葉がわたしに臨んだ。
7:5 「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にもあなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが果たして、真にわたしのために断食してきたか。
7:6 あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。
7:7 エルサレムとその周りの町々に人が住み、平穏であり、ネゲブにもシェフェラにも人が住んでいたころ、主が先の預言者たちによって呼びかけられた言葉を知らないのか。」
7:8 そのとき、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。
7:9 「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き互いにいたわり合い、憐れみ深くあり
7:10 やもめ、みなしご寄留者、貧しい者らを虐げず互いに災いを心にたくらんではならない。」
7:11 ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、
7:12 心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。
7:13 「わたしが呼びかけても彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、わたしは聞かない」と万軍の主は言われる。
7:14 「わたしは彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。その後に、地は荒れ果て、行き来する者もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた。」

節制するということは、現代の生活に置き換えれば、節約したりすることなのかもしれない。
節約すれば、それだけ余分なお金を使わなくて済む。
けれど、それがただ自分のためだけになされているなら、ただのケチに過ぎない。

節約することで、余った分を、誰かを助けたり、誰かを慰めたりするために用いるのであるならば、それは素晴らしいことであろう。
社会全体が、そのような思いに満たされるなら、きっとこの社会も喜びの地になることだろう。


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ゼカリヤ4:1 わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。
4:2 彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。
4:3 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」
4:4 わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに言った。「主よ、これは何でしょうか。」
4:5 わたしに語りかけた御使いは答えて、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしが「主よ、分かりません」と言うと、
4:6 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらずただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
4:7 大いなる山よ、お前は何者かゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば見事、見事と叫びがあがる。」
4:8 また主の言葉がわたしに臨んだ。
4:9 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたたちに遣わされたことを知るようになる。
4:10 誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」
4:11 わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」
4:12 わたしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」
4:13 彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、
4:14 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。

ゼカリヤは、幻を通して主の御言葉を受け取ろうとするが、難解なものばかりで、主の御使いに尋ねながら、御言葉を理解しようとしている。
そんな中、主の御使いは、ゼカリヤの見た菌の燭台の幻は、それが武力によらず、権力によらず、主の霊によってもたらされる御業であることを告げるのである。

主イエス様がエルサレムの神殿に入城された時、今まで誰も乗せたことのない子ロバに乗られた。
それは、もはや、戦車や軍馬を必要としない、つまり、戦いや争いのない真の平和をもたらす王が来られることを意味している。

ゼカリヤ9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。
9:10 わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。

イエス様は、このようなお方として、2千年前のクリスマスにこの世に来られた。
私たちを救い、本当の平和をもたらすために。

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ゼカリヤ2:5 わたしが目を留めて見ると、ひとりの人が測り縄を手にしているではないか。
2:6 「あなたはどこに行かれるのですか」と尋ねると、彼はわたしに、「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるためです」と答えた。
2:7 わたしに語りかけた御使いが出て行くと、別の御使いが出て来て迎え、
2:8 彼に言った。「あの若者のもとに走り寄って告げよ。エルサレムは人と家畜に溢れ城壁のない開かれた所となる。
2:9 わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。
2:10 急いで、北の国から逃れよと主は言われる。天の四方の風のようにかつて、わたしはお前たちを吹き散らしたと主は言われる。
2:11 シオンよ、逃げ去れバビロンの娘となって住み着いた者よ。
2:12 栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主があなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者はわたしの目の瞳に触れる者だ。
2:13 わたしは彼らに向かって手を振り上げ彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを遣わされたことを知るようになる。
2:14 娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来てあなたのただ中に住まう、と主は言われる。
2:15 その日、多くの国々は主に帰依してわたしの民となりわたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたに遣わされたことを知るようになる。
2:16 主は聖なる地の領地としてユダを譲り受けエルサレムを再び選ばれる。
2:17 すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」

栄光の都は、人と家畜に溢れた城壁のない開かれた所となる。
そして、主ご自身が火の城壁となって、その都の中にいる者たちを守ってくれるのだ。

このような幸いを実現されたのは、主イエス様にほかならない。
その主がこの預言の通り、この世に来られた。
2千年前のイスラエルに。
だから、この救いの約束は既に成就している。
私たちは、ただそのことを信じている。

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ゼカリヤ2:1 わたしが目を留めて見ると、四本の角があるではないか。
2:2 わたしに語りかけた御使いに、「これは何ですか」と尋ねると、彼は、「それはユダ、イスラエル、エルサレムをちりぢりにした角である」と答えた。
2:3 更に主はわたしに四人の鉄工を示された。
2:4 「彼らは何をするために来るのですか」と尋ねると、「これらの角は、だれも頭を上げる者がないほどに、ユダをちりぢりにしたものである。また、これらの人々は、ユダをちりぢりにするために、ユダの地に角を振り上げ、彼らを震え上がらせた国々の角を切り倒すために来るのだ」と言われた。

この箇所は、イスラエルの歴史に照らし合わせてみると、おそらく角とはバビロンのことを指し、鉄工とは、バビロンを滅ぼしたペルシャであると考えられる。
一つの国が勢力を拡大しても、それが永遠に続くことはなく、また新しい国が勢力を拡大し、世界はそのようなことを繰り返してきた。
いつの時代にも、人間のなすことは変わらないのかもしれない。
富と快楽を追い求め、権力や軍事力を駆使し、人の世を支配しようとする。
しかし、結果はいつも同じで、滅びへと向かうだけであろう。
新たな支配者が来ても、同じことを繰り返す。
しかし、世界の真の支配者である神が来られる時、滅びではなく、救いをもたらす。
真の王を迎えよう。
アドベントの季節に思う。

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ゼカリヤ1:7 ダレイオスの第二年十一月、シェバトの月の二十四日に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。
1:8 「その夜、わたしは見た。ひとりの人が赤毛の馬に乗って、谷底のミルトスの林の中に立っているではないか。その後ろには、赤毛の馬、栗毛の馬、白い馬がいた。
1:9 わたしが、『わが主よ、これは何ですか』と尋ねると、ひとりの御使いがわたしに語りかけ、『それが何なのか、教えよう』と言った。
1:10 すると、ミルトスの林の中に立っている人が答えて、『これらは地上を巡回させるため、主がお遣わしになったものだ』と言った。
1:11 彼らはミルトスの林の中に立っている主の御使いに向かって答えた。『わたしたちは地上を巡回して来ました。地上の人々はすべて安らかに暮らしています。』
1:12 それに答えて、主の御使いは言った。『万軍の主よ、いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています。』
1:13 わたしに語りかけた御使いに、主は優しい言葉、慰めの言葉をもって答えられた。
1:14 わたしに語りかけた御使いはわたしに言った。『呼びかけて言え、万軍の主はこう言われる。わたしはエルサレムとシオンに激しい情熱を傾け
1:15 安穏にしている諸国の民に対して激しく怒る。わたしはわずかに怒っただけだが彼らはそれに乗じて災いをもたらした。
1:16 それゆえ、主はこう言われる。わたしは憐れみをもってエルサレムに帰りわが家をそこに建て直させると万軍の主はこう言われる。エルサレムには、測り縄が張られる。
1:17 再び、呼びかけて言え。万軍の主はこう言われる。わたしの町々は再び恵みで溢れ主はシオンを再び慰めエルサレムを再び選ばれる。』」

この箇所に記されているやり取りは、預言者ゼカリヤが主の御使いとの対話を通して主の御言葉を受け取っているように見えるが、やや、難解な部分もある。
まず、預言者ゼカリヤが見たのは、ミルトスの林の中に立っている馬に乗った人であるが、これは、おそらく主の御使いであろう。
しかし、9節と10節のやりとりをみると、9節にもう一人の御使いが介入している様子が描かれていることから、もう一人別の身使いが存在していることが伺える。
そして11節に「彼らは…」との記述もあり、赤毛の馬、栗毛の馬、白い馬が答えたか、その馬に誰かが乗っているかのような印象も受ける。
そして12節では、11節の「彼ら」の応答に対し、主の御使いが主なる神にエルサレムとユダのへの憐れみを請う訴えをしたのに対し、13節の「わたしに語りかけた御使い」に主が慰めの言葉をなげかけ、その慰めの言葉をなげかけられた御使いがゼカリヤに主の御言葉を告げるという形になっている。
かなり難解であるが、直接、主の御言葉がゼカリヤにもたらされず、何人かの仲介者を経て、ゼカリヤのもとに主の御言葉が語りかけられる様子が伺えるのである。

ここに語られていることが、明確にどういうことを言い表そうとしているのかはわからないが、主の聖なる御言葉は、罪人である我々に直接与えられるようなものではなく、神のあわれみによる恵みの御業のゆえに、キリストの尊い血による贖いの代価が支払われた故にもたらされたものであり、イエス・キリストという仲介者の存在なしには成り立たないことであるということを覚えたいものである。


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