聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ44:13 木工は寸法を計り、石筆で図を描き のみで削り、コンパスで図を描き 人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り 神殿に置く。
44:14 彼は林の中で力を尽くし 樅を切り、柏や樫の木を選び また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。
44:15 木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。
44:16 また、木材の半分を燃やして火にし 肉を食べようとしてその半分の上であぶり 食べ飽きて身が温まると 「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
44:17 残りの木で神を、自分のための偶像を造り ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。

ここには、偶像を礼拝することの愚かさについて記されています。
ある者は、木を細工して、自分を助けてくれる神々を作ろうとします。しかし、その木は、もともと、暖をとるための薪であったり、パンを焼くためのの薪であったりしたもののと全く同じ材料からなり、燃やしてしまえば、灰になってしまうようなものに過ぎないということ。
たまたま、燃料として用いられたか、偶像を作るために用いられたかの違いしかないことを指摘していると言えるでしょう。
あるいは、燃料に使った木切れの余りを用いて偶像を作る者もいるくらい、所詮、偶像と呼ばれるようなものは、その程度の価値でしかありえないということを示していると言えます。

一方、聖書における真の神は、いつかは朽ちて無くなってしまうような材料を用いて、人間が作りあげるものではなく、それとは全く反対に、永遠の昔から存在されるお方であり、その方が、我々人間をお創りになられたお方であるということが語られています。

イザヤ44:1 そして今、わたしの僕ヤコブよ わたしの選んだイスラエルよ、聞け。
44:2 あなたを造り、母の胎内に形づくり あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。
44:3 わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。

神様は、人間がしているような、命ある物を切り出し、形を変えて浪費するだけの営みではなく、乾いた大地に水を注ぎ、潤いを与え、人間のたましいには霊を注ぎ、祝福の約束をお与えになるお方。
この、命をも潤すことのできるお方が、この私を贖い、命ある者としてくださいました。

イザヤ44:21 思い起こせ、ヤコブよ イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。
44:22 わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。
44:23 天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い イスラエルによって輝きを現された。

真の命を与えられている喜びを表して生きていきたいですね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ黙示録12:7 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、
12:8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
12:10 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
12:12 このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

本日の聖書日課は「ミカエルと天使の日」となっています。
私は、ミカエル等の天使については、あまり詳しく知らないのですが、黙示録に語られている様子から、悪魔の勢力と闘って勝利し、天の御国には、もはや、悪魔の仲間たちの住まう場所が一切なくなったということが語られています。
私たちは、この御言葉の故に、一切の悪魔の力の及ばない天の御国へ入れられることを望むのです。

本日の日課の箇所でもある、ルカ10章18節以下には、悪魔に勝利する力を与えられることよりも、悪魔の力の及ばない天の御国に名前が記されていることを喜ぶようにと、イエス様が語られており、この地上において、どんな偉大な力を持って悪魔と闘うことよりも、もはや、一切の闘いのない場に招かれている事実を喜ぶべきということなのでしょう。

ルカ10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

天に名前が記されるのは、ただただ、主イエス・キリストの十字架の贖いの御業によるより、他に方法はありません。

使徒4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

力を受けて闘うことよりも、既に勝利を約束された御言葉に信頼して歩むことの大切さを覚えたいものです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし クシュとセバをあなたの代償とする。
43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。

おそらく、多くの方がこの御言葉に慰めを受け、神様に愛された存在であることに励まされたことでしょう。
この小さな私を、わたしの目にはあなたは価高く貴い存在である、と言って下さるのですから。

しかし、ここで覚えておきたいことは、この私のために、私の身代わりとなて十字架で死なれたイエス様が、そう言って下さるということです。
つまり、イエス様の貴い血潮が流された故に、それほどの犠牲を支払って下さったお方の贖いの御業の故に、この私も価高く貴い存在と見なされるということ。
生まれながらの私のままでは、決して価高いのではなく、むしろ、罪深い存在であり、主イエス様の貴い血潮による贖われたからこそ、その救いの故に、何より高価な存在として見て頂ける事を忘れてはならないのです。

神の御子、イエス・キリストの尊い十字架の犠牲を持って、この私を呼び求めて下さる。
なんと幸いなことでしょうか。
そして、私たちは、そのお方の真意を知り、これに仕えて行く者でなければならないでしょう。

イザヤ43:10 わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。
43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
43:12 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と 主は言われる。わたしは神

ここには、主なる神様が私たちを選び、その故に、主がどのようなお方であるかを知り、信じ、理解することができるであろうと語られています。
それは、私たちが主なる神様を選び、主を知って、信じたから救われたというのではなく、むしろ全く反対に、私たちが主とはどうのようなお方であるかを知り、信じるために、主は私たちをお選び下さったということであり、その目的のために、救われているのです。
何のためのイエス・キリストの犠牲なのか、主の大きな大きな愛をお伝えする働きに、私も一人の証人として携わらせていただきたいものです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。
42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
42:3 傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。
42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。
42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。
42:7 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

ここに記されている、主なる神様の忠実なしもべの到来の預言は、イエス・キリストの出現において実現しました。
イエス様は、真の主、真の救い主として、恵みをもって私たちを命に与る者として召し、世に栄光を現して下さいました。
これは、まさに、闇に輝く命の光、何物にも勝る最高の栄光なのです。

しかし、残念ながら、この素晴らしい栄光は、多くの人々の目に見えず、聞き入れてもらえないものなのかもしれません。
そして、主の御言葉を信じる行為を、非理性的であると評され、盲目的な生き方であると批判されてしまうこともあります。
しかし、それは、人間の考える「義」を基準にしているから、そのように思えるのではないでしょうか。人間の義を絶対的な基準にして考えている限り、神の御業の栄光は見えてこないでしょう。しかし、「神の義」を基準にし、そこを出発点として考えていくならば、決して、盲目的な生き方にはならないと思うのです。
自分を犠牲にしてまでも、他者を救おうとする「義」。相対的ではなく、神の聖なる基準に照らされた、絶対的な「義」。
それは、神の御子、イエス・キリストの血による贖いによるのでなければ成し遂げられることのない義であると言えるでしょう。

イザヤ42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど 耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど 目の見えない者 主の僕ほど目の見えない者があろうか。
42:20 多くのことが目に映っても何も見えず 耳が開いているのに、何も聞こえない。
42:21 主は御自分の正しさゆえに 教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。

主なる神様は、ご自分の義を持って、私たちを憐れみ、恵もうとしています。
それを素直に受ける者でありたいものです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ41:29 見よ、彼らはすべて無に等しく、業もむなしい。彼らの鋳た像はすべて、風のようにうつろだ。

イザヤ書41章では、真の主なる神様を礼拝する者たちへの慰めの約束と同時に、偶像を礼拝し、偽りの預言を語る者たちへの戒めが語られていると言えるでしょう。
イザヤ40章以降、新たな時の始まり、救いの到来の約束が告げられていると言うのに、民は相変わらず古いしきたりや偶像により頼み、空しい生き方から解放されないまま歩んでいるのです。
しかし、神の救いの時の到来を受け入れた者たちは、目の前にある世界が、どんなに今までと変わらないように見えても、確かに新しい時の始まりを感じ取り、その新しい時代の、新しい約束に信頼して、大きな喜びの中で歩み始めていたのです。

イザヤ41:8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
41:9 わたしはあなたを固くとらえ地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
41:10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。
41:11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆恥を受け、辱められ争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
41:12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
41:13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

主なる神様は「恐れるな、私はあなたと共にいる。」と語りかけて下さいます。
確かに、今、私たちが生きている時代にも、多くの恐れや不安もある事は事実です。しかし、私たちには、生ける真の主である神様が、私たちと常に共にいて下さり、必ずや、救いへと導いて下さるのです。
いえ、既に、救いは完了しているものです。

ヨハネ19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

イエス・キリストの十字架の故に、私たちの救いは、もはや、完了した現実であり、この救いを受けた者として、主の御言葉の約束に信頼し、主の新しい時代を生きる者として、喜びつつ歩ませていただきたいものです。

2コリント5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。
40:2 エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。


イザヤ40章は、私の大好きな御言葉の一つです。
と同時に、今の私の働きに、大きな影響を与えた御言葉であると言えます。

私は、自分では、ごく平凡な人生を歩んできたと思っています。きっと、それは、主のお守りとお導きがあってこそであろうと思いますし、本当に幸いな人生であったのだと思うのです。
しかし、世の中には、そうは思えない人がたくさんいらっしゃることも知っています。おそらく、そういう人のために、主は私を選んで、本当の幸い、慰めに満ちた恵みの御言葉を語りかけるようにと、私を用いて下さろうとしておられるのでしょう。

イザヤ40:9 高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神かみ
40:10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。

主の救いを知る者が声をあげなければ、主の救いの御業は、忘却のかなたに忘れ去られていってしまいます。同時に、あなたの周りにいる人たちも、滅びへと向かってつき進んで行ってしまうのかもしれません。
しかし、主の恵みを知る私たちが、勇気を持って御言葉を語るならば、ほんのわずかでも、命の主イエス様のことを知って頂くきっかけくらいのことはできるかもしれません。
しかし、その先には、必ずや、本当の慰めがあり、素晴らしい命の約束があることを覚え、勇気を持って、その人のためにも、この命の言葉を、声を大にして語らせていただきたいものです。

語る側も慰められますしね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




創世記50:12 それから、ヤコブの息子たちは父に命じられたとおりに行った。
50:13 すなわち、ヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、マクペラの畑の洞穴に葬った。それは、アブラハムがマムレの前にある畑とともにヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになったものである。

ついにヤコブ(イスラエル)はエジプトで息を引き取り、彼の遺言通り、息子ヨセフの手にって、父祖アブラハム、イサクらの葬られたマクペラの畑地の洞穴に葬られることになります。
やはり、イスラエルにとっても、そこが帰るべきところだったのでしょう。

今年、私も、両親と共同で、小さな墓地を購入しました。
子育て真っ最中の身にとって、墓地などというものは全く無縁なもののように思えるかもしれませんが、私たちの人生において、いつ何がどのように起こるかわかりません。むしろ、何があってもおかしくはない状況の中で、いろいろな備えをしておくことは大切のように思います。
教会には「天国カード」(葬儀に関する要望などをまとめた、一種の遺言のようなもの)なるものがありますが、老いも若きも関係なく、いつでも備えておいてもおかしくないものではないかと思います。
もちろん、まだまだやりたいこともたくさんあるし、やらなければならないこともあるでしょうけど、時には、こういう事も考えておいても良いのでは?と思いました。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




創世記49章には、イスラエルが12部族の将来について預言した言葉が記されています。
この中で、ひときわ目を引くのは、やはり、イエス様の祖先となったユダ部族への言及でしょう。

創世記49:8 ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ父の子たちはあなたを伏し拝む。
49:9 ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。
49:10 王笏はユダから離れず統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
49:11 彼はろばをぶどうの木に雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で着物をぶどうの汁で洗う。

ここには、まさに、遠い将来、ユダの子孫の中から、イスラエルの全てを統治する真の王、イエス・キリストの出現が語られていると言え、その救い主なるキリストの血により、私たちの罪の汚れを洗い清めて下さるお方であるということが伺えるのです。

しかし、この箇所で、もう一つ際立っているのが、かつて兄たちにエジプトに売り渡され、後にエジプトの大臣となって家族を救ったヨセフについての言及です。

創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木 泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる。
49:23 弓を射る者たちは彼に敵意を抱き矢を放ち、追いかけてくる。
49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により それによって、イスラエルの石となり牧者となった。
49:25 どうか、あなたの父の神があなたを助け 全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福 下は横たわる淵の祝福 乳房と母の胎の祝福をもって。
49:26 あなたの父の祝福は 永遠の山の祝福にまさり 永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり 兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。

ヨセフについての預言の言葉には、無限の祝福の約束が語られているように見えます。そして、それは、まさに主に選ばれた者への祝福の言葉であり、救い主イエス様を信じ、神の国の民とせられた全てのものへの祝福の約束の言葉であると言えるのです。
つまり、ヨセフに対して語られた祝福は、私たちにも向けて語られている祝福の約束であり、救われた者の受けるべき言葉なのです。

こうして考えると、他のどの兄弟に対する預言の言葉よりも随分多くの言葉を費やすことにより、ユダに対してイエス様への言葉、ヨセフに対して私たちへの言葉が何よりも重要な預言であることを示し、この預言の言葉の持つ祝福の本当の意味を伺い知ることができるのではないでしょうか。
祝福をもたらすお方と、その祝福を受ける者たち。双方について、確かな御言葉の約束をもって祝福が確約されたものであるということを感謝したいものです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エゼキエル3:1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
3:2 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、
3:3 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
3:4 主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
3:5 まことに、あなたは、不可解な言語や難しい言葉を語る民にではなく、イスラエルの家に遣わされる。
3:6 あなたは聞き取ることができない不可解な言語や難しい言葉を語る多くの民に遣わされるのではない。もしわたしがあなたをそれらの民に遣わすのなら、彼らはあなたに聞き従うであろう。
3:7 しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。
3:8 今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。
3:9 あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」
3:10 更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。
3:11 そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」

昨日、数年前に私たちの教会の幼稚園で働いて下さった宣教師の先生が、休暇と取材を兼ねて、私たちの教会を尋ねて下さいました。
せっかくなので、その日予定されていた家庭集会に出席していただき、メッセージを取り次いで下さいました。
しばらく日本から離れていたこともあって、やや、日本語をお忘れになられていたようでしたが、それでも、しっかりと、イエス様のこと、イエス様の復活による命の希望を語って下さり、集会に参加された方々も、皆一様に、ウンウンうなづきながら、恵まれた時を持つことができました。

一夜明けて、今朝の日課の御言葉を読みながら、ふと、昨日のメッセージと全く同じ内容のお話しを私が語っていたとしたら、果たして、同じように恵まれていただろうか、などと考えてみました。
とてもシンプルなメッセージ、わかりやすいメッセージ、しかし、それを日本人である私が日本語で語ったところで、宣教師の先生が一生懸命語られた日本語のメッセージには、とうていかなわないような気がしました。
もちろん、私が異国の国で、その国の言葉でメッセージを語れば、熱心に耳を傾けてくれるかもしれませんけど、ここは日本。日常の生活において日本語を用いている方々に、日本語を用いて神の国の言葉を語っているのですから、本来ならば、宣教師の先生よりも、さらにわかりやすいメッセージを語ることができるはずなのです。
しかし、現実には、なかなかそうはいかないものです。同じ日本語を語る日本人なのに、なかなか理解してもらえず、苦労している方も多いのではないでしょうか。
そんな私たちに、主なる神様は、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」と仰せられます。
聞き入れてもらえるかどうかは、全く別の問題であり、まずは語ること。それが宣教の働きの基本なのでしょう。そして、信じてもらえるかどうかは、語る側の問題よりも、聞く側の問題であり、あとは、その人が信じることができるように祈って待つことが大切なのでしょう。
最初から、あきらめて語ることを止めてしまえば、聞く人も、信じるきっかけすら得られなくなってしまうのですから。

ローマ10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




創世記48:13 ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。
48:14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。
48:16 わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」

イスラエルは、ヨセフの二人の息子に手を置いて祝福したとき、一般の慣習とは異なり、長男であるマナセに左手を置き、次男であるエフライムには右手をおいて祝福しました。
このことについて、ヨセフは、父イスラエルが間違っていると思い、父の手を反対に置き換えようとするのですが、イスラエルは、神から示された通り、弟のエフライムのほうを豊かに祝福しています。
おそらく、イスラエルの思いの中には、かつて自分の兄ヤコブから、長男の権利を奪い取り、神様からの祝福を受けてきたことを思いめぐらしていたのではないでしょうか。
あるいは、ヨセフ自身も、この光景を見ながら、イスラエルの12番目の子でありながら、エジプトの地で、神がこれほどまでに豊かに祝福して下さったことを感謝することができたのではないかと思うのです。

マタイ19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

この御言葉は、文字通り、ヨセフやエフライムなどのイスラエルの子孫に当てはまる御言葉のように思います。
そして、主イエス様を信じ、主イエス様の尊い贖いの犠牲によって神の民とせられた私たちも、このような祝福を受けることができるのでしょう。
仮に、この地上で家や家族、財産や名誉などを失ったとしても、イエス・キリストによる永遠の命を受け継ぐことができるのです。
しかし、それは、先にいる者が後になり、後の者が先になるようなもの。
この世において、小さな者、後の者であることを感謝する者でありたいですね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ