創世記48:13 ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。
48:14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。
48:16 わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
イスラエルは、ヨセフの二人の息子に手を置いて祝福したとき、一般の慣習とは異なり、長男であるマナセに左手を置き、次男であるエフライムには右手をおいて祝福しました。
このことについて、ヨセフは、父イスラエルが間違っていると思い、父の手を反対に置き換えようとするのですが、イスラエルは、神から示された通り、弟のエフライムのほうを豊かに祝福しています。
おそらく、イスラエルの思いの中には、かつて自分の兄ヤコブから、長男の権利を奪い取り、神様からの祝福を受けてきたことを思いめぐらしていたのではないでしょうか。
あるいは、ヨセフ自身も、この光景を見ながら、イスラエルの12番目の子でありながら、エジプトの地で、神がこれほどまでに豊かに祝福して下さったことを感謝することができたのではないかと思うのです。
マタイ19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
この御言葉は、文字通り、ヨセフやエフライムなどのイスラエルの子孫に当てはまる御言葉のように思います。
そして、主イエス様を信じ、主イエス様の尊い贖いの犠牲によって神の民とせられた私たちも、このような祝福を受けることができるのでしょう。
仮に、この地上で家や家族、財産や名誉などを失ったとしても、イエス・キリストによる永遠の命を受け継ぐことができるのです。
しかし、それは、先にいる者が後になり、後の者が先になるようなもの。
この世において、小さな者、後の者であることを感謝する者でありたいですね。
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