聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。
6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、
6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。
6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

噂は駆け巡ると言うが、まさに、駆け足で走り回るかのように、イエス様の噂は町々村々の隅々にまで広まっていった。
もちろん、噂を話すのは人である。
人から人へ、イエス様なら、どんな病でも癒して下さるといった噂が伝わって行ったのであろう。
もちろん、人から人へと噂が伝わっていく時というのは、どこかで誇大な表現に置き換わったり、全く違う話になっていくこともある。
人から人へ噂話が伝えられていく時の宿命なのかもしれないが、必ずしも正確に伝わって行かないのが噂の怖いところでもある。
それでも人はイエス様を信じて集まってきたし、中には誤解したり、勘違いしたり、誤った情報をもとにやってきた人も大勢いたのかもしれない。
むしろ、違う目的で集まってきた人のほうが多かったのかもしれない。
イエス様とすれば、神の救いを受け取って欲しいとの願いであったであろう。
けれども、ほとんどの人は、ただ病が癒されればいいと考えていたに違いない。
もちろん、病が癒されることは大事な事であるが、イエス様の思いは、もっと大切な救いを願っていたはずである。
それでも、人々の誤解や勘違いも承知で、イエス様は癒していかれたのである。
お優しい方である。
自分なら、自分の本来やりたいことと違う仕事を押し付けられれば、むっとして、いやいや働いているかもしれない。
でもイエス様は違っただろう。
もっと大切な事を知って欲しいと願いつつも、深い憐れみの心で人々を癒していかれたのであろう。
私自身もイエス様にずれたことを願っていることばかりだが、それでも愛想をつかさず、忍耐強く、深く憐れみ続けていて下さる。
ありがたいことである。

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