聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヨハネ2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

巷では、ハロウィーン、ハロウィーンと大賑わいのようですが、今日10月31日は、誰が何と言おうと「宗教改革記念日」です。
ルターが宗教改革を行った当時、多くの民衆は、先祖達が煉獄(炎の獄の意味)で苦しんでいると信じ、そこから彼らを助けたいがために、必死の思いで免罪符を買い求めていました。それに対して、キリストの十字架の贖いだけが人間を救いうる唯一の手段であることを訴えたルターは、これに断固反対、宗教改革ののろしをあげ、やがて、聖書の本当の恵みを知らされていなかった一般の民衆にも、わかりやすい母国語での礼拝や聖書翻訳が行われていき、聖書に記された救いの約束は、一般の人々のものとして受け止められるようになっていったのです。
そして、全てのクリスチャンたちを覚える日(全聖徒日)である11月1日の前日、「95か条の提題」という文書を発表、商売目的のために悪用されていた救いの教えから、一般の民衆を解放し、真実な救いの約束と平安とをもたらせることになっていったのです。
もちろん、ハロウィーンも宗教改革と全く関係ないというわけではありません。先に召されたご先祖様が帰ってくるという考えは、日本で言うお盆やお彼岸に相当するものと言えるでしょうが、実際のところ、そういう思想は聖書的ではありません。
さらに、そんな異国の風習を、むりやり日本でお祝いしようというのも全くナンセンスな話しに思えます。
おそらく、現代の日本で広まっているハロウィーンは、英会話教室などで紹介されたり、お菓子やグッズを販売するために、大々的に紹介されたりしているだけで、そう考えると、商業利用のにおいがプンプンしています。
まさにイエス様が仰せられたような「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」という言葉に通じるものがあると言えるでしょう。
西欧の文化であるハロウィーンを紹介すること自体は悪いことではないと思いますが、一体何のためにお祝いするのか、せめて、その意味と背後にある人間の心のうちにある本質的な願いに目を留めて欲しいと思うのです。
誰もが死後の世界について、一度は思いをめぐらした事のある人はあるでしょう。あるいは、先に召された人が、今、どういう状態にあるのかなど、多くの方が悩まれる事柄だろうと思います。
そんな時こそ、全ての人のために十字架で死なれ、よみがえられた主イエス様の救いの約束に目を留め、イエス・キリストを信じる全ての人をよみがえらせてくださるという聖書の御言葉に信頼し、本当の喜びと平安の中で、救い主イエス・キリストによる救いの約束をお祝いして欲しいと思う者です。

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詩篇80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。
80:17 それを切り、火に焼く者らは 御前に咎めを受けて滅ぼされますように。
80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり 御自分のために強められた 人の子の上にありますように。
80:19 わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。
80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。

この詩では、荒廃したイスラエルの復興を求めて祈る様子が、ぶどうの木の整備にたとえて描かれています。
主なる神様にの手によって植え付けられたぶどうの木(イスラエル)は、その枝を大きく伸ばし、ソロモンの時代には栄華を極めるのですが、やがて民の信仰的な退廃によって、国は荒廃していきます。そして、それに対する神様の裁きは、国自体を滅ぼすことにまで発展していくのです。
ここで、思い出したいのが、主イエス様も同じようなことを仰せられているということです。

ヨハネ15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

実を結ばない枝は、切り取って焼かれてしまうという表現は、一見、とても厳しい裁きの言葉のようにも思えます。しかし、「ぶどうの木が健康でいられるため」
「実を結ばせるため」には必要な措置であり、当然、行われなければならないことなのです。
詩篇の作者は、主なる神様は、いつまでこのまま放って置かれるのでしょうかと、速やかな神様の裁きを求めて祈っていますが、それは、主の時、しかも、ぶどうの実を結ばせるために、もっとも効果的な時期に、神様が枝の手入れをなさるお方であるということを知っていたからなのでしょう。

主よ、私のうちに、実を結ばせるのに障害となっている不要な枝がありましたら、あなたが一番良いと思われる時にこれを取り除いてくださいますように。そして、いつもあなたに結びついて、あなたの豊かな実を結ぶことができますように。

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日時:2006年10月29日
聖書箇所:出エジプト11~12章

イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放するために神様に遣わされたモーセは、エジプトの王パロのもとで、杖をへびに変え、ナイル川のや池などを血の海に変え、カエルの大群を招き、地のちりをぶよに変え、あぶの大群を招きます。さらに、エジプト人たちの家畜に疫病を起し、かまどのすすを撒き散らすと、人と獣に腫物を生じさせ、エジプトの地に雹と雷を送られました。そして、いなごの大群を送り、エジプト全土の草木を食い荒らし、最後にエジプト全土を覆う闇がもたらされます。
これでも心をかたくなにし、イスラエルを去らせようとしないパロに対して、ついに神様は、エジプト人全ての初子を打つという裁きを行われます。
この際、主なる神様は、イスラエルの民に対しては、一家族ごとに一歳の子羊を用意させ、これをほふって、門に、その血を塗るよう命じ、その門に塗られた羊の血を見て、その家は、災いが過ぎ越していくということが語られます。
そして、イスラエルの後々の子孫に至るまで、この時の出来事を語り継いでいくように、過ぎ越しの祭りとして祝うように命じられるのです。
モーセから神の言葉を聞いたイスラエルは、その通りに行い、果たして、神様がおおせられた通りに、初子が殺されるという災いを過ぎ越し、エジプトから脱出することになるのです。

この過ぎ越しの際、いけにえとしてほふられた子羊は、後に、私たちを救うために十字架で死なれた主イエス・キリストを表しています。
つまり、イエス様のいけにえの血により、私たちは全ての災いを過ぎ越すことができるという、神の救いの御業を体験するのです。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

しかし、このことは神を信じる者しか受け取ることの出来ない救いの約束であり、神を信じようとしない者は、災いを過ぎ越すことができないのです。

ヘブル11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

イスラエルの人たちも、何でこんなことをするのだろう、と思ったかもしれません。しかし彼らは「主なる神様がそう仰せられたのだから」「主なる神様のお言葉ですから」との信仰のもとに、神様の語られた約束に信頼し、御言葉に従うことで、約束通り、神様からの祝福を受けることができたのです。

黙示録22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

今の時代、私たちは聖書の御言葉に聞き、これを守ることで神様からの祝福を受けることができます。
それは、まさに、かつてイスラエルの民が全ての災いから逃れ、エジプトの奴隷から解放されたように、罪と死と悪魔の支配から解放され、命と救いの祝福を受けることができるのです。
もちろんそれも信仰によって受け止めることですが、何と幸いな約束でしょうか。
神ご自身がこの祝福のために、ご自分の命をいけにえの犠牲としてお捧げ下さったのですから。
ハレルヤ!

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ヨハネ14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

聖書の御言葉に聞き、それに従うということは、イコール、神様の御声に聞き、神様に従うことである。
そして、神様は、そのような人と共にいてくださる。
これが聖書の御言葉による神様の約束。
言葉だけでは不十分だと思われるかもしれないが、言葉は人となられ、その言葉が真実であることをお示しになられた。

ヨハネ1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

イエス様は、ご自分の生涯をもって神の言葉が真実であることをお示しになられた。
私はそれで十分である。

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詩篇79:9 わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。
79:10 どうして異国の民に言わせてよいでしょうか 「彼らの神はどこにいる」と。あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を 異国の民の中で、わたしたちが 目の前に見ることができますように。

私たちは日々、様々なことを神様に願い、祈っています。
しかし、その祈りに「あなたの御名の栄光を輝かすために」という視点があっただろうかと思わされます。
いかに自分の都合、自分の思い、自分の願いだけが優先されているか。

主よ、あなたの御名の栄光を現すために、あなたに救われた者が恵まれますように。

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詩篇78:9 エフライムの子らは武装し 弓を射る者であったが 闘いの日に、裏切った。
78:10 彼らは神との契約を守らず その教えに従って歩むことを拒み
78:11 その御業をことごとく忘れた 彼らに示された驚くべき御業を。
78:12 エジプトの地、ツォアンの野で 神は先祖に対して不思議な御業を行い
78:13 海を開いて彼らを渡らせる間 水をせきとめておかれた。
78:14 昼は雲をもって 夜は燃え続ける火の光をもって彼らを導かれた。
78:15 荒れ野では岩を開き 深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。

詩篇78篇には、主の民イスラエルが何度も何度も神様を裏切っては自ら苦難を招き、にもかかわらず、主なる神様が時には怒り、時には助け出し、絶えず導いて下さったことが語られています。
このような記述を見ていると、いかに人間が小さな存在であるかということを思わされ、自分の力ではどうすることも出来ない状態になって、はじめて、神様に助けを求めようとするものだということを思うのです。
本来なら、全ての時に神様を求めるべきなのでしょうが、それができないのも人間の弱さなのでしょう。
だから神様は、人が神様を求める心を養うために、仕方なく、時に災いをもたらすこともなさるのかもしれません。
そう考えると、神様は常に私たちが神様のもとに立ち返り、祝福を受けることを一番に望んでいらっしゃるお方なのだということを思います。
「祝福されたいなら、どうぞ!」というようないい加減な気持ちではなく「ぜひあなたに祝福されて欲しい!そのためなら何でもする!」と言わんばかりに。
だからこそ、御子キリストの命さえも私たちを救うためにお捧げになられたのでしょう。

出エジプト20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

「熱情」と表現されるほどの神様の深い愛を感謝します。

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詩篇77:6 いにしえの日々をわたしは思います とこしえに続く年月を。

この詩では、苦難の日に神様に助けを求めて祈った作者の祈りの態度がよく表されているといえます。
どうにもならない現実の中で、彼は昔のことを思い出し、しかも、それは、はるか昔、神がこの地を創造され、イスラエルの民をエジプトから助け出した日のことであり、自分達の祖先の上に起きた救いの出来事を思い起こしているのです。
彼のこのような思い起こしは、「あの時は良かったのに、どうして今はこうなったのか」といった悲嘆にくれるものではなく、あの時祖先が救われたから、今の自分達があるのだということを思い起こすものと言えるでしょう。つまり、出エジプトの出来事がなければ、今の自分は存在しなかったかもしれないということ。
天地創造の御業にいたっては、神様がこの世界をお創りにならなければ、私はおろか、世界の全てのものも存在しなかったのであり、現に、今尚、世界は存在しているのであり「生き続けている」のです。

詩篇77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神 諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を ヤコブとヨセフの子らを贖われました。
77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし 深淵はおののいた。
77:18 雨雲は水を注ぎ 雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い
77:19 あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し 地はおののき、震えた。
77:20 あなたの道は海の中にあり あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。

苦難の時には、いま一度、一から聖書を読み返し、世界創造の頃から思い起こしてみてはいかがでしょうか。神様が、いかに私たちを愛し、導いて下さったかが見えてくるはずです。そして、その延長線上に、私もいるということが。

主よ感謝します。苦難の日にも、あなたが私をお創り下さったゆえに、今も命の約束をもって祝福してくださることを信じます。アーメン。

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詩篇76:1 指揮者によって。伴奏付き。賛歌。アサフの詩。歌。
76:2 神はユダに御自らを示され イスラエルに御名の大いなることを示される。
76:3 神の幕屋はサレムにあり 神の宮はシオンにある。
76:4 そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。
76:5 あなたが、餌食の山々から 光を放って力強く立たれるとき
76:6 勇敢な者も狂気のうちに眠り 戦士も手の力を振るいえなくなる。
76:7 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると 戦車も馬も深い眠りに陥る。
76:8 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。
76:9 あなたは天から裁きを告知し 地は畏れて鎮まる。
76:10 神は裁きを行うために立ち上がり 地の貧しい人をすべて救われる。
76:11 怒り猛る者もあなたを認める あなたが激しい怒りの名残を帯とされるとき。
76:12 あなたたちの神、主に誓いを立て、それを果たせ。取り囲むすべての民は 恐るべき方に貢ぎ物をもたらすがよい。
76:13 地の王たちの畏れる方は 支配者の霊をも断たれるであろう。

時折「神が生きているのなら、なぜこのような戦争や災いがあるのか」といった質問を受けることがあります。
しかし、この地上に罪深い人間がいる限り、それらの事はなくならないでしょうし、逆に言えば、この地上における、一見幸いと見える多くの事柄は、実は私たちを滅びへと招き入れるものであるかもしれないということを覚えなければなりません。
先日、ある記事を見ていたところ、生活の豊かさが寿命を縮めるということが紹介されていました。誰もが裕福になることが幸いで、そうなることを願い、しかし、それらのことがかえって人生を悪い方向へと導いているという事実。
本当に豊かであるということは、そういった物質的な満たしにあるのではなく、むしろ、そういった地上の煩いからの解放であり、神の国の民の一員とされる約束を頂くことなのではないでしょうか。
そう思う時、神様がなさる裁きの業は、ただ単に、悪いことをした者をこらしめるというだけのものではなく、本当の幸いを知らしめるための愛の導きと言えるのかもしれません。

霊の目を覚まし、誰が私たちの命を救って下さるのか、何がキリストにある命の約束から遠ざけようとするのか、敵とは誰か、正しい裁きとは何か、御言葉から聞き続けていきたいものです。

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詩篇75:1 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。賛歌。アサフの詩。歌。】
75:2 あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名はわたしたちの近くにいまし 人々は驚くべき御業を物語ります。
75:3 「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う。
75:4 地はそこに住むすべてのものと共に 溶け去ろうとしている。しかし、わたしは自ら地の柱を固める。
75:5 わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。
75:6 お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな。」
75:7 そうです、人を高く上げるものは 東からも西からも、荒れ野からも来ません。
75:8 神が必ず裁きを行い ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。
75:9 すでに杯は主の御手にあり 調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み おりまで飲み干すでしょう。
75:10 わたしはとこしえにこのことを語り継ぎ ヤコブの神にほめ歌をささげます。
75:11 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り 従う者の角を高く上げる。」

昨日の教会学校の聖書のテキストは、出エジプト記5~10章に記されている、エジプトにもたらされた災いとイスラエル解放の出来事でした。
自らを神とし、イスラエルの民を奴隷として虐げるファラオ。
一方、神の召しにより、数々の災いをもたらしてイスラエルを解放しようとするモーセ。
しかし、このような出来事の中にあって、歴史を動かし、正しい裁きを成し遂げておられるのが、モーセに対して「私は主である」と仰せられて自らを現された主なる神様であり、イスラエルの解放は、モーセによって成し遂げられたのでもなく、ましてや、ファラオが決めたことでもなく、この「主」なる神様のなさった奇しい御業、驚くべき御業なのです。

私たちも、自分がいかにして救われたのかということを思う時、そこに、同じ「主」なる神様の奇しい御業が働いていたということを覚えたいものです。

わたしはとこしえにこのことを語り継ぎ、ヤコブの神にほめ歌をささげます。
ハレルヤ。

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日時:2006年10月22日
聖書箇所:出エジプト5~10章

出エジプト記5~10章には、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放するために、主なる神様がモーセを遣わして様々な災いを下された時のことが記されています。
このことによって、最初はかたくなであったエジプトの王ファラオも、ついに我慢の限界を超え、イスラエルを解放することになります。
このとき、主なる神様がモーセに告げられた言葉は、非常に興味深いものであると言えます。

出エジプト6:1 主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
6:2 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。
6:4 わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。
6:5 わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
6:7 そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」

主なる神様は、もともと、イスラエルの先祖たちには、この天地を創造された「神」としてご自分をお示しになられ、天地万物の所有者であり、支配者であられる「神」としての性質を明確に言い表していたと言えるのですが、モーセを遣わしてエジプトの奴隷から解放されるときには、はじめて「主」という言葉を用い、奴隷から贖いだした主、エジプトの王ファラオに代わって民を所有し、支配されるのは、この「主」なる神となられるということを示しておられるのです。
実は、このことは、私たちが神様を知り、神様を信じて生きるようになるためには、たいへん重要な要素であると言えます。
というのも、「神」としての存在は、おおむね、多くの人の心の中にも見られる信仰心によって受け止めることのできるものであると思うのですが、これが「主」となると話は別です。つまり、私を贖い、私を救い出して下さったお方、「何でも私の願いを聞いてくれる神」とか「私のためにいろんな恵みを満たして下さる神」といった、普遍的な存在を超えて、極めて個人的な関係の深い、まさに、「僕と主人」の関係にある、しかも、「奴隷であったものを買い取って救って下さったご主人」という関係を言い表すものとして、この「主」という言葉が用いられているのです。
もちろん、今の時代、奴隷という概念自体、少々理解しにくい言葉なのかもしれませんが、この世の奴隷、富や快楽の奴隷、地位や名声、あらゆる誘惑の虜となっている現代の日本人にとって、このことは、大変重要なことを私たちに教えていることと思います。
単なる「神」ではない、「主なる神」。
このことを知らしめるために、主なる神様は、口下手なモーセを用い、数々の奇跡を用いて、ご自分が「主」であることをお示しになられたということを覚えたいものです。

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない。
イザヤ45章5節


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