聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




1ヨハネ 5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、"霊"はこのことを証しする方です。"霊"は真理だからです。
5:7 証しするのは三者で、
5:8 "霊"と水と血です。この三者は一致しています。
5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

神がこの世界を創られた時、それは「すべてをよしとされた」ほどに良いものであった。
しかし、そこに生きる人間は堕落し、全ての人が罪を犯す者となった。
心を痛められた神は、ノアの時代に、ご自分が創られた人間を、ご自分が創られた水を持って一掃された。
イスラエルの民がエジプトを脱出する際にも、葦の海でエジプトの軍隊を滅ぼされた。
水は罪ある者を滅ぼすために用いられ、清めの儀式である洗礼にもつながっていると言えよう。
そして、イエス様も創造の御業である人の姿をとってこの世に来られ、ヨハネのもとで罪を洗い清める洗礼を受けられた。
何も罪を犯されてはいないのに、完全に我々人間と同じ姿になって下さったのである。
そして、十字架である。
イエス様は十字架にかかり、よみがえられて、全ての人の罪の贖いを完全に成し遂げて下さったのである。
この方こそ、すべての人を救う救い主、メシア、キリスト。
神の霊がそのことを証している。
人となられ、十字架で死に、よみがえられて、神の救いのご計画を明らかにされた。
今、我々は、その証を御言葉を通して聞き、信じることによって、永遠の約束として我々のものとなっている。
感謝なことである。

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1ヨハネ 5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

神を愛するとは、神によって自分が創られ、保持され、生かされていることを知ることであろう。
父と母を敬えとの戒めも、自分を生んで育ててくれた人を敬う事であり、自分自身の存在を認めることに等しい。
まずは自分自身が今ここに存在していることが誰によるものなにかということを悟り、感謝して生きていく。
それが神を愛するということではないだろうか。
そのことが分かっていれば、世の中で生きてく上でも、大いに励ましとなるだろう。
恐れず、勇気を持って、生きていきたいものである。

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1ヨハネ 4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

愛には恐れがない。

イエス様を本当の意味で頼る人は、イエス様の絶対的な愛を受けている事を知っているから、他者に対しても強がったり、己を大きく見せるような行動を取る必要もないから、恐れがないのであろう。
そして、そのような恐れのない態度のゆえに、兄弟をも愛することができるのだろう。

一方、もしそうではない場合、他者に対して強がったり、自分を大きく見せようとするため、愛のない行動になりがちで、結果的に周囲の者を傷つけていく。

もし、自分の周りに傷ついている人がいるなら、自分のうちにある恐れによって、それらのことがもたらされていないか吟味してみる必要がある。
自分を高めようとする行動や、自分を大きく見せようとする行動は、だれの目にもわかりやすく、気が付いていないのは、案外自分だけと覚えたほうが良いかもしれない。

周りの人を愛するために必要なこと、それは、己の中にある高ぶりの罪を認め、そんな自分でも神に愛されていることにしっかりと受け止め、主に身を委ね、平安のうちに歩むことである。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。


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1ヨハネ 4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

愛することとは、人が生きるようになること、そしてそれを助けることと言えるだろうか。
もちろん、イエス様のような無制限の愛、与える愛、を実践できれば良いのかもしれないが、実際には人間には無理である。
自分を犠牲にしてまで他者を救うことは尊いけれども、なかなかそうはいかない。
むしろ、聖書における「隣人を愛せよ」と語られている戒めは「神が創られた人を愛せよ」とのメッセージが中心であり、その中には当然、自分自身も含まれている。
ただ、自分だけが生きて、他はどうでもよいという考えではなく、自分も他者も、その命が尊重され、助け合い、共に生きていくことが大切にされていくところに、神の意図された「愛」の生き方があるのであろう。
「互いに愛し合う」とは、そういうことではないだろうか。
お互いがお互いを尊重し合い、支え合って生きていく。
そんな世の中になれば良いなと思う。

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1ヨハネ 4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。
4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。
4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

神を知り、キリストを公に救い主として告白し、神に属する者と、そうでないものといった風に、単純に分けられて語られているが、現実的には様々な要素が絡んでいて、なかなか見分けがつかない場合もあるように思う。
けれど、ここでも語られているように、本当は単純なことなのかもしれない。
クリスチャンなら、ああするべきとか、こうあるべきとか、いろんな意見を耳にするが、本当は、もっとシンプルなことなのかもしれない。
個性、賜物、生きがいや主義主張、人の数が多ければ多いほど、人の数ほど異なるもの。
そんな中、キリストにあって救われている者として、何が本当に大切な事なのか、しっかりと見定めていきたいところである。
そのために必要なことは、御言葉に聞いていくことであろう。
人の言葉よりも御言葉に。

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マタイ 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

先日の選挙戦で「何度も政党名が変わるから覚えられない」と言って、何度も間違えて政党名を連呼していたどこかの党首さんは、何度も同じ間違いをしていても気づかないほど記憶力がないということだろう。
自らの愚かさを大声で演説しているに等しい。
「あんな人たち」がこの国の政治家のトップだというのだから悲しい国である。
もちろん、政治の世界にはいろいろな制約もあり、支援する人たちもいるのだろうけれど、ここに書かれている言葉を一度くらいは読んでみてもいいのではないだろうか。

「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」

全ての人間にとって、もっとも難しいお勧めなのかもしれない。
しかし、イエス様はそれをなさった。
十字架を見上げるたびに、そのことを思う。

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1ヨハネ 3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった"霊"によって分かります。

人はみな神の創造の器であり、少なからず良心も備えている。
そのため、律法の言葉の前に恐れや責めを感じるのっだろう。
それ自体は悪いことではないが、やはり不安はぬぐい切れない。
自分だけの力では、どうすることもできないからである。
しかし、救い主イエス様を信じることによって、その恐れは責めはもはや必要ではなくなる。
恐れや責めがなくなるから、平安でいられるし、平安でいられるから、大胆に隣人にも仕えていけるのだろう。
まずは神に愛され、赦されていることを常に確認すること。
そこから全ての愛の業も始まっていく。


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1ヨハネ 3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

兄弟を憎むことは、人殺しと同じである。
そして、そのような者には永遠の命がとどまっていないと語られている。
兄弟を愛することはとても大切な事である。
けれど、それがなかなか思うようにできないこともあるだろう。
そんな時は、愛そうとして無理に何かをしようと思わなくてもいいこともある。
そっとしておいて欲しい時もあるし、何も言わないことや、ただ見守るだけでいい場合もあるだろう。
一見すると、何もしていないようでも、それも一つの愛の形であるかもしれない。
無用な言い争いや憎しみ合いを招くよりは賢い方法かもしれない。
言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おうと語られているのだから、そう多くの言葉は要らないのかもしれない。
本当に必要な時に、必要な助けや交わりが保たれることを願いつつ。

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1ヨハネ 2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
3:4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。
3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
3:7 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

御子のうちにとどまっているならば、その人は清く、罪を犯すことも無い。
実際にはそう単純にはいかないようにも思えるが、聖書にはそう語られている。
そう語られている以上、これは神の約束である。
義務でも、命令でもなく、約束である。
約束ならば、きっとそうなる。
真実なお方が約束されたのだから、どんなに我々が空しいものであっても、きっとそうなる。
それが我々に与えられる信仰である。
信仰とは、我々の信じる力や行いではなく、神が語られた約束と、そうなることを願う我々の願いであり、約束と願いを結び合わせるのは、自らの命をかけて私たちへの真実な愛を示して下さったイエス様によるのであり、この方の十字架の御業にゆえに、神が信頼しうるお方であることを知るのである。




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1ヨハネ 2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
2:22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

聖書の中心は、神の御子イエス・キリストが何をしてくださったのかということを知ることにある。
神の御子であられるイエス様は、その尊い命を私たちの罪を贖い、滅びから救うために十字架にかかり死に、永遠の命を与えるためによみがえられた。
この方が私を救う救い主である。
たったそれだけのことであるが、それが聖書の語る真理であり、私たちが知るべき唯一のことである。
我々人間が何かをすべきとか、どんな良き業をできたかどうか、大切なことはそういうことではない。
神の御業を知り、神の御子イエス。キリストをただ一人の救いを完成されたお方として、私の救い主として受け入れることである。
そこを見失わないようにしたいものである。

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