聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。
6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、
6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。
6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

噂は駆け巡ると言うが、まさに、駆け足で走り回るかのように、イエス様の噂は町々村々の隅々にまで広まっていった。
もちろん、噂を話すのは人である。
人から人へ、イエス様なら、どんな病でも癒して下さるといった噂が伝わって行ったのであろう。
もちろん、人から人へと噂が伝わっていく時というのは、どこかで誇大な表現に置き換わったり、全く違う話になっていくこともある。
人から人へ噂話が伝えられていく時の宿命なのかもしれないが、必ずしも正確に伝わって行かないのが噂の怖いところでもある。
それでも人はイエス様を信じて集まってきたし、中には誤解したり、勘違いしたり、誤った情報をもとにやってきた人も大勢いたのかもしれない。
むしろ、違う目的で集まってきた人のほうが多かったのかもしれない。
イエス様とすれば、神の救いを受け取って欲しいとの願いであったであろう。
けれども、ほとんどの人は、ただ病が癒されればいいと考えていたに違いない。
もちろん、病が癒されることは大事な事であるが、イエス様の思いは、もっと大切な救いを願っていたはずである。
それでも、人々の誤解や勘違いも承知で、イエス様は癒していかれたのである。
お優しい方である。
自分なら、自分の本来やりたいことと違う仕事を押し付けられれば、むっとして、いやいや働いているかもしれない。
でもイエス様は違っただろう。
もっと大切な事を知って欲しいと願いつつも、深い憐れみの心で人々を癒していかれたのであろう。
私自身もイエス様にずれたことを願っていることばかりだが、それでも愛想をつかさず、忍耐強く、深く憐れみ続けていて下さる。
ありがたいことである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

ヘロデは、自分の兄弟の妻であったヘロディアを妻としたことで、ヨハネから批判されながらも、ヨハネの教えに心惹かれるものがあったようで、ヨハネを捕らえて牢につないでいたものの、彼を恐れ、保護していたという。
全く意味の分からない行動である。
さらに混乱を招いたのが、ヘロデの妻となったヘロディアの差し金であろう。
ヘロディアは、ヘロデとの結婚をヨハネに批判されたことでヨハネを恨み、いつか殺そうと狙っていて、ヘロデの誕生日のお祝いの席を利用して、娘を通してヨハネの首をはねるようにヘロデに要求したのである。
ヘロデとしては、このままヨハネを保護しておきたかったが、自分の立場と、誕生日の席で「なんでもあげよう」と誓ってしまった手前、ヨハネを殺さざるを得なくなってしまうのである。
いったい、ヘロデは何がしたかったのだろう。
自分の欲望に流され、妻の意見や部下たちの手前、自分が口走ってしまった言葉を果たさざるを得なくなり、自分の本意とは異なる行動をとらざるを得なくなってしまったのである。
しかし、こういった行動は、ヘロデだけに見られるようなことではないだろう。
多くの人が、何を根拠に行動しているのかすら見失い、周囲に流され、見栄や立場、自分の言動のつじつまを合わせるためなどのため、多くの過ちを犯してしまう。
一つの嘘をつけば、その嘘を隠すために新たな嘘をつき…どこかの国の為政者も似たようなことをしているのかもしれないが…。
ヘロデのふるまいを見て、我が行為を顧みてみたい。
なんと、不順な動機で行動したり、優柔不断なことを繰り返していることか。
一本きちんとした筋を通して生きて行けるよう、神の御前に自分を置いて、神の目線でどう見えているのかということを絶えず心に留めて歩んでいきたいものである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

イエス様は、大勢の悪霊に苦しんでいた人を癒されたのであるが、この人ときちんと会話をし、その上で、悪霊を追い出すことを行っている。
会話が成り立たなかったわけではない。
ただ、苦しんで、暴れるしかできなかったために、墓場に縛り付けておくような扱いを受けていたということなのだろう。
周囲の人間は、彼の本当の苦しみを理解できなかっただろうし、助けることも、どうすることもできなかったのだろう。
それでも、話を聞いてあげることくらいはして欲しかったのかもしれない。

私たちは、話をしても自分では手に負えないと思うと、もはや、それ以上、話し合う事もしようと考えない。
どうせ言っても無駄だとあきらめてしまうからであろう。
それよりも、今の平穏な暮らしを壊されたくないし、できる事なら、関わりたくない、と考えるもの。
交通事故を目の前で目撃しても、助けようともせずに立ち去ろうとした人たちのことが話題になっていたが、そういう人は少なくはないのかもしれない。
面倒なことに巻き込まれたくないし、何事もないことが一番である、と思う。
しかし、そのことで傷ついている人も当然いるだろう。
マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心である」と語ったという。
悪霊でさえイエス様に「かまわないでくれ」と言い、無関心でいてくれるように訴えている。
実に、それを打ち砕いて、関心をもっていくことが最大の愛なのかもしれない。
何ができるか、何をすべきかといったことがわからなくても、まずは関心を持ち、心を寄せていくことが大切なのだろう。
まずは祈ることから始めていきたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

先日、若い世代の先生方と説教について学び、話し合う機会があった。
毎週の礼拝のために、どこまで、どのような準備をしていけば良いのか、誰もが悩むことだろうと思う。
一方で、どんなに悩んだところで、毎週の日曜日は着実にやってくるし、それを先延ばしにすることはできない。
どこかの時点で、もうこれで行くしかない、という思いに至る。
本当にこれで良いのかという思いと、これで行くんだという思いのはざまにあって、思う事、それは、何のためにその準備をしてきたのかという出発点に立ち返ることである。
聖書に語られているみ言葉を、説教という形で伝えていくために準備をしたのであり、他人に聞かせるために準備をしたのなら、良いか悪いかは別として、その目的に従って語るべきであろう。

灯し火は、周囲を照らすために燭台の上に置く。
枡の下に隠したりすることはあり得ない。
説教も同様で、他人に聞かせるために語るものであり、一般に公開できないような内容なら、語る意味はない。
いくら内容が貧しかろうと、その目的に沿って語られるならば、こういった形で一般にも公開していくことは理に適っていることなのだろうと思う。
内容が良いか悪いかは別として、持っているものを分かち合っていくことが大切なのだと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

イエス様のたとえによるメッセージは分かりやすい反面、信じて受け入れようとしない人には、全く無意味なお話しにしか聞こえないかもしれない。
聖書のメッセージもそれと同じで、特に難しいことが語られているわけではないのだろう。
シンプルなメッセージだけに、聞く者の態度によって、いかようにも受け止める事ができてしまうのかもしれない。
種を蒔く人のように、聖書のみ言葉が語られる。
種が落ちた地の状態によって実がなるかどうか違ってくるように、聖書のみ言葉を聞く人の態度によって、その結果もおのずと違ってくるだろう。
それだけのメッセージでしかない。
しかし、それだけのことであるが、御言葉の種を受け取るかどうか、その違いは大きい。
シンプルな言葉ではあるが、これを神の言葉として受け取る時、その受ける恵みは大きい。
神などいないと思えば、自分の人生もこの世も何ら無意味なものとなってしまうが、神は存在し、今もなお我々を愛していると信じれば、これほど意義深い人生はないし、尊いものとなる。
意味のある人生を送るためには、神の言葉を受け取ることは有益であり、必須であると思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

よく知られる「四つの種」のお話しであるが、実際には、四つの種ではなく、たくさんの蒔かれた種のうち、幾つかの行方について、4種類語られているということであろう。
良い地でも、30倍、60倍、100倍もの収穫量に違いがあり、蒔かれたところによって一つ一つ結果が違っていて当然である。
ただ、実を結ぶかどうかに関して言えば、実を結んだか、結ばなかったか、の2種類しかない。
それは、信じるか、信じないか、といった風に、どちらかにしかならない分け方において明らかにされる。
しかし、そのように書と、良い結果が出た人は信じている人であり、結果が出なかったら信じていないい人、と捉えられるかもしれないが、ここでの結果である実を結ぶということは、信じて従うということであり、それに伴って結果がどうなるかということを直接的に語っているものでもないだろう。
つまり、「信じれば必ず良い結果となる」ということではなく「信じる人は自ずと行動も変わってくる」といった風に捉えるべきであろう。
信じて従っても、なかなか結果が表れてこないものもたくさんあるし、時間がかかることもある。
しかし、信じるならば、それに見合った行動を選択していくことはできる。
むしろ、そういった信仰に根差した行動が現れてくることの方が、「良い実」と言えるのではないだろうか。
そういう人は、たとえ収穫の量が少なくとも、収穫の喜びを味わうことができるだろうし、そのような喜びこそ、本当の意味での良い実なのではないだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

私事ではあるが、妻は常々「お義母さんとは上手くやっていけそう」と言っていたが、「それは一緒に暮らしていないからで、そんなに簡単にはいかない」と返していた。
そして、昨日、妻と母で電話で話し合っていたところ、途中で意見が食い違い、珍しく険悪な雰囲気になった。
数分後に再び電話で話し、仲直り?できたけれど、こんなことは初めてだったので、いよいよこれからは嫁姑の関係が問われるようになるのだろうかと思う。
嫁と姑の関係もそうであるが、夫婦も元々は他人であり、他人同士が肩を寄せ合って生きていくことで家族となっていく。
そこに必要な事は、思いやりであったり、譲り合いであったり、優しさや配慮などが必要となってくる。
神の家族も同じことが言えるだろう。
元々あかの他人同士が集まり、家族のように接していくということは、そもそも難しいことであろう。
それでも「主に愛された者同士」という共通点で結び合わされ、一つの家族として、共に歩んでいくうえで必要な事は「神の御心を行う」ことと語られているが、基本的には、普通の家族が共に生きていくことと変わりはないだろう。
ちょっとした配慮であったり、思いやりであったり、そんなに難しいことではないのだろうけれども、それを実践するのが難しいのかもしれない。
まずは、イエス様が私のことを命がけで愛して下さった、その愛と同じ愛が周りの人にも向けられていることを覚えたい。
正しいか間違っているかというようなことではなく、自分の意見だけを押し通したりするのではなく、イエスさまからの同じ愛を受けた者として、お互いを尊重しあえるように歩んで行けるようにと願う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルコ 3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

イエス様が選ばれた12人の使徒たちは、もともとの名前とは違う名を漬けられた者たちがいた。
その代表格は、ペテロであり、その意味は「岩」というものである。
また、ヤコブとヨハネの兄弟にはボアネルゲ、すなわち「雷の子」という意味の名を漬けられたという。
どちらも強そうな名前である。
どんな困難にも負けない強い信仰者となるようにとの願いがあったのかもしれない。

海外では、信仰に入ることで、クリスチャンネームをつけることがある。
生まれ変わった、という意味合いがあるのかもしれない。
日本では、あまりそういったことはなされないかもしれないが、名前の持つ意義は大きい。
名は体を表すともいう。
こっそりと、自分だけの名前をつけるのも良いかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




詩篇 80:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。】
80:2 イスラエルを養う方 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ 御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください
80:3 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい わたしたちを救うために来てください。
80:4 神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:5 万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。
80:6 あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ なお、三倍の涙を飲ませられます。
80:7 わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ 敵はそれを嘲笑います。
80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。
80:17 それを切り、火に焼く者らは 御前に咎めを受けて滅ぼされますように。
80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり 御自分のために強められた 人の子の上にありますように。
80:19 わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。
80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。

祖国イスラエルの地の荒廃した状況を憂い、祈ったものであろう。
エフライム、ベニヤミン、マナセとの記述から、主に、北イスラエルに属する部族に限定されており、アッシリヤによってほろぼされた北イスラエルの地に関して歌われているのであろう。
北イスラエルは、アッシリヤの侵攻により滅ぼされ、祖国の地は踏みにじられ、荒廃した土地となっていた。
しかし、その地も、かつて、主なる神が民をエジプトから救い出し、導いてこられた所であり、神を信じるイスラエルの民にとっては「なぜ」との思いが強く、「いつまで」こんな状態が続くのだろうと苦難の真っ只中にいたことであろう。
現代に生きる我々には、その後、彼らの国がどうなっていったのかといったことは、ある程度、歴史から学ぶことはできる。
しかし、その時代に生きた当事者たちには、先の見えない真っ暗な時代を生きるかのような、辛く、厳しい毎日を過ごしていたことであろう。
ただ、それは、どんな時代に生きる者にも等しく、誰も先のことなどわからない不安の中を生きている。
あるいは、どう考えても解決の糸口すら見えないような絶望の淵に立たされているような気持ちしか持てないかもしれない。
誰ひとり、先のことは見えないのだから、バラ色の人生を約束されているなどということもあり得ない。
しかし、人はそれでも生きる。
どのようにしてか。希望を抱いて生きるしかない。
絶望していたら人は生きられない。
どんなに先の見通しが暗かろうと、どんなに時間がかかろうと、その先に、必ず解放と喜びが待ち構えていることを知っていたなら、人はその約束を携えて生きていけるのだろう。
神を信じるとは、そういうことではないだろうか。
この世の現実には、全く解決の糸口すら見えなくても、神を信じる人には希望がある。
それが人が生きることのできる唯一の方法である、と思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




詩篇 79:1 【賛歌。アサフの詩。】神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い あなたの聖なる神殿を汚し エルサレムを瓦礫の山としました。
79:2 あなたの僕らの死体を空の鳥の餌とし あなたの慈しみに生きた人々の肉を 地の獣らの餌としました。
79:3 彼らは、エルサレムの周囲に この人々の血を水のように流します。葬る者もありません。
79:4 わたしたちは近隣の民に辱められ 周囲の民に嘲られ、そしられています。
79:5 主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。
79:6 御怒りを注いでください あなたを知ろうとしない異国の民の上に あなたの御名を呼び求めない国々の上に。
79:7 彼らはヤコブを食いものにし その住みかを荒廃させました。
79:8 どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず 御憐れみを速やかに差し向けてください。わたしたちは弱り果てました。
79:9 わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。
79:10 どうして異国の民に言わせてよいでしょうか 「彼らの神はどこにいる」と。あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を 異国の民の中で、わたしたちが 目の前に見ることができますように。
79:11 捕われ人の嘆きが御前に届きますように。御腕の力にふさわしく 死に定められている人々を 生き長らえさせてください。
79:12 主よ、近隣の民のふところに あなたを辱めた彼らの辱めを 七倍にして返してください。
79:13 わたしたちはあなたの民 あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ 代々に、あなたの栄誉を語り伝えます。

神を信じる者たちへの迫害や攻撃が続き、作者は、神に助けと救いを求めて祈っている。
その根拠は、神が自分たちを嗣業の民とされたから、というものである。
そして、彼らが迫害を受けることは、神ご自身が冒涜されていることに等しいかのごとく歌われている。
実際、イスラエルの民は、神に選ばれた者であり、イスラエルへの攻撃は、神への冒涜と共に行われている。
このことは、イスラエルの民にとっては、自分たちと主なる神が常に一つであり、幸いなことであるはずなのだが、なかなか迫害が収まらない現状に、切実な叫びとなって祈られることになるのだろう。

ただし、注意しておかなければならないのは、イスラエルの民もまた、神へ反逆している罪を見落してはならないという事であろう。
8節では、かつて神に対して反逆していたことが述べられているように、背きの罪があることも事実である。

神に選ばれ、神に憐れまれ、まるで神と一つに結びあわされたかのようなイスラエルであるが、彼らもまた罪人である。
そこを見失っていると、なぜ神はわれらを救ってくれないのか、神はいったい何をしているのだ、といったようなつぶやきにもなりかねない。
我々はどんなに神に憐れまれていても、所詮、人間であり、罪人である。
神を批判したりするような資格はない。
「なぜ神は私を救われないのか」といったつぶやきの祈りではなく、純粋な気持ちで「神よ、我らをお救い下さい」と祈り、確かな信仰をもって「主なる神は必ず救って下さる」と信じて祈るものでありたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »