聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

来週、市の小学校の陸上競技記録快があるのだそうで、子供たちも参加するらしい。
50メートルが何秒だとか、クラスで誰が一番早いとか、いつの時代も子供たちの考えることは一緒に思える。
自分も子供の頃は、とにかく少しでも足が速くなることを願ったものだ。
でも、今は違う。
力より約束、神の子とされていることが何より嬉しいことだと思う。

息子たちよ、君たちが足が速いか遅いかは、あなたたちが愛されているかどうかにとって大きな問題ではない。
私の息子であるという事実によって、神に愛された神の子であるという事実によって保証されているのだから。

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ヨハネ12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

イエス様を迎えた群衆たちは、旧約聖書に預言された通りにイエス様を迎えている。

詩篇118:26 主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
118:27 主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
(新改訳)

しかし、16節には、最初、弟子たちさえこれらのことが分からなかったと記されている。
当時の人たちにしてみれば、旧約聖書の預言の言葉は、よくよく聞かされた馴染みの言葉であったはずであろうから、それが意味することがどういうことであるかということは、すぐに分かったはずであるにも関わらずである。
それほど、このときの群集の様子が異様であったということなのかもしれない。

イエス様は、ユダヤの人々のメシア待望の機運を一身に受け、エルサレム神殿へ向かおうとしておられた。
しかし、それは、人々の期待とは異なるもので、24節以下に記されている通り、一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって、多くの実を結ぶためのものであった。

詩篇118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
118:16 主の右の手は高く上がり主の右の手は御力を示す。
118:17 死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう。
118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが死に渡すことはなさらなかった。
118:19 正義の城門を開けわたしは入って主に感謝しよう。
118:20 これは主の城門主に従う人々はここを入る。
118:21 わたしはあなたに感謝をささげるあなたは答え、救いを与えてくださった。
118:22 家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。
118:23 これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

人々が、しゅろの葉を打ちたたいて迎えた主イエス様は、この詩篇の預言の言葉の通り、家を建てる者たちに捨てられるけれども、それが永遠の救いをもたらす真の神の国の隅の親石となられたお方。
群集は、それを知らずにイエス様を真のメシアとして迎え入れようとしていたのかもしれないが、結果的には、イエス様の真実の姿を預言し、賛美したということであろう。

私たちも、聖書の知識をどれだけ持っているかと問われたら、ほとんど何も知らないに等しいのかもしれない。
けれども、その意味を100パーセント理解していなくても、心からイエス様を救い主として迎え入れ、賛美をもって褒め称えていくところに、真実が表されていくのであると思う。
少なくとも、私はそう信じたい。




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ヨハネ11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

大祭司カイアファは、イエス様をこのまま放っておくより、いっそ、イエス様を殺してしまったほうが、イスラエルの民族がローマに滅ぼされるようなことにならないで済むのでは?と口走ってしまう。
そして、それ以降、祭司長やファリサイ派の人たちは、イエス様を殺そうと企み始めるのである。

思いがけずふと口にした言葉が、勢いつけて恐ろしいことに発展していくということは起こりうることである。
しかし、おそらく、祭司長やファリサイ派の人たちの中には、この言葉を誰かが言ってくれるのを待っていたフシがある。
誰かが言い出せば、こんな意見もあるからという口実になるし、それを誰が言ったかは問題ではなかったのかもしれない。

マタイ12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。

言葉は恐ろしい。
しかし、それ以上に心はもっと恐ろしい。
心から清められなければと思う。

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ヨハネ11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

イエス様は、ラザロが病気で死にそうであるから、助けに来て欲しいとの知らせを聞いてもなお、その場に二日間滞在し、まるでラザロが亡くなるのを待っておられたかのように記されている。
しかしそれは、イエス様が確かに亡くなったラザロを生き返らせるためであり、その現場を弟子たちにも目撃させるためであった。
もちろん、イエス様とて、一刻も早くラザロのもとに行ってすぐに助けてあげたいという気持ちが全くなかったわけでもないだろう。
しかしそれよりも大切なことは、イエス様がラザロを生き返らせることで、ご自身の栄光を現し、イエス様が真の神であられると言うことを示すことであった。
そうすることで、ラザロも助かるし、こうして聖書を読んで信じる全ての人をも救いに導くことができるためである。
イエス様のお心は、そのように私たちにも向けられている。

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ヨハネ10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
10:34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。
10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。
10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
10:39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
10:40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。
10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」
10:42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

イエス様は、ユダヤの人たちから、神を冒涜していると言って訴えられ、石打ちにされて殺されようとしていた。
ユダヤ人たちの訴えは、イエス様がご自分のことを神であると主張したというものであり「人間が神になろうとする行為」であると言える。
一方、イエス様は、ご自分が神から遣わされたお方であると語られ、世の罪を取り除くために、十字架の贖いの業を成し遂げるために、わざわざ人間の姿となってこの世に来られたのであり「神が人となられた御業」であると言える。
「人間が神になる」ということと「神が人間になる」ということとでは、まさに、天地ほどの違いがあり、その意味は、全く別物であると言えよう。
イエス様が「真の神であり、真の人である」という時、そこに「神が人となられた」という順序と、その意味をしっかりと覚えておおくことが大切である。

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ヨハネ10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30 わたしと父とは一つである。」

ユダヤ人たちは、イエス様が行った奇跡の数々を見てもなお、イエス様を信じようとはしなかった。
信じようとしなかったというより、受け入れたくなかったというほうが適当かもしれない。
彼らも確かにイエス様のなさった業を目撃し、それを疑うことはできないほどであったはずである。
それなのに、彼らが受け入れようとしなかったのは、それによって自分たちの態度や地位など、変えていかなければならなかったからであろう。
彼らにとって、そのような変革は、既得権益を失するものとして、受け入れがたかっただけなのかもしれない。

時は移り、現代の私たちの個人的な立場はどうだろうか。
やはり、イエス様を受け入れることには、ある程度の変革は必要である。
それが己の罪の問題と関わりあるものなら、やはり、難しいことなのかもしれない。
けれど、決して不可能なことではない。

よりよい世界へ、真の平安と救いを求めるならば、変革も必要である。
変わらなければならないところは、御心にかなうところへ向けて変えていこう。
そして、イエス様を受け入れよう。

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ヨハネ9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

イエス様に目を癒されたことを正直に証ししたにも関わらず、そのことのために外に追い出されてしまったこの人は、いったい、どんな思いでいたことだろう。
なんとも言えない不条理を感じていたに違いない。
しかし、イエス様はそんな彼のもとに再び近寄って、彼にイエス様ご自身に対する信仰を問うたのである。

イエス様を信じる信仰とは、自分が置かれているいかなる境遇にあっても変わることなく確かなもの。
それは、信仰の確信が、私たちの信じる心や信仰心によるものではなく、イエス様ご自身が全ての救いを完成してくださったという約束のうちにあるものであるからである。
だから「見える」と思っているものには見えず、見えなかったものが見えるようになるのだろう。
私も自分自身の力で「見える」と思っているなら、それは何も見えていないのかもしれない。
私の力では何も見えない。しかし、イエス様が救いを現し、見せてくださるのである。

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マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

どれだけ人より優れているか、才能があるか、勉強ができるか、仕事ができるか、また、どれだけ組織のために犠牲を支払って働いてくれるか、人間の価値とは、そういったものによって計られるものではないはずである。
それよりも大切なことは、どれだけ神に愛されているか、どれだけ神の憐れみを受けているか、つまり、神の恵みを素直に受け取ることができるかどうかにかかっている。
なぜなら、この世の価値は、この世限りだが、神の国は永遠である。
神の憐れみに最大限応答できるものとなりたい。

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ヨハネ9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

神を信じない人は、神を信じる人の証しをも信じようとしない。
だから、もし私たちが証をして、それを聞いた人が信じてくれなくても落ち込むことはない。
ただ、この目を癒された人は、信じてくれるかくれないかに関わらず証をしたことは事実である。
つまり大切なことは、信じてくれるかどうかに限らず、証をするということ。
それが救われた者の務めである。
私たちの証しを聞いた人が信じてくれるかどうかは、証をする前からはわからない。
ただ、もし信じてくれたら嬉しいし、主もきっと喜んでくださることだろうから。

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ヨハネ9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

昨日、脳内に腫瘍ができ、視神経を圧迫していたために、視力が衰え、腫瘍の除去手術を行った友人をお見舞いしてきた。
神経への圧迫が収まれば、視力も回復するかと期待したけど、さほど変わらないそうで、ほぼ右目は見えず、左目が半分くらい見えるとのこと。
とても誠実な方で、信仰の友として尊敬している兄弟なのだが、この病気を機に、自分の今までの信仰がいかに自分勝手な「自分の信仰」であったかと思い知らされたと言って、悔い改めさせられたよと言っておられた。
辛いと思う。
目が不自由になったこともそうだと思うけれども、今までの自分の信仰のあり方を悔い改めさせられるのも辛かっただろう。
けれど、それによって「見えてくる」こともある。
全ては神様の恵み、周囲の人の配慮や温かい心。
病状は何も変わらないけど、確かに彼の笑顔は前より素敵になっていた。
嬉しいことを素直に嬉しいと言える心や、人に助けてもらえることのありがたさを知ることのできる心。
またお見舞いに行くから、いろんなことを教えてほしいな。

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