ヨハネ12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
イエス様を迎えた群衆たちは、旧約聖書に預言された通りにイエス様を迎えている。
詩篇118:26 主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
118:27 主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
(新改訳)
しかし、16節には、最初、弟子たちさえこれらのことが分からなかったと記されている。
当時の人たちにしてみれば、旧約聖書の預言の言葉は、よくよく聞かされた馴染みの言葉であったはずであろうから、それが意味することがどういうことであるかということは、すぐに分かったはずであるにも関わらずである。
それほど、このときの群集の様子が異様であったということなのかもしれない。
イエス様は、ユダヤの人々のメシア待望の機運を一身に受け、エルサレム神殿へ向かおうとしておられた。
しかし、それは、人々の期待とは異なるもので、24節以下に記されている通り、一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって、多くの実を結ぶためのものであった。
詩篇118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
118:16 主の右の手は高く上がり主の右の手は御力を示す。
118:17 死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう。
118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが死に渡すことはなさらなかった。
118:19 正義の城門を開けわたしは入って主に感謝しよう。
118:20 これは主の城門主に従う人々はここを入る。
118:21 わたしはあなたに感謝をささげるあなたは答え、救いを与えてくださった。
118:22 家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。
118:23 これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
人々が、しゅろの葉を打ちたたいて迎えた主イエス様は、この詩篇の預言の言葉の通り、家を建てる者たちに捨てられるけれども、それが永遠の救いをもたらす真の神の国の隅の親石となられたお方。
群集は、それを知らずにイエス様を真のメシアとして迎え入れようとしていたのかもしれないが、結果的には、イエス様の真実の姿を預言し、賛美したということであろう。
私たちも、聖書の知識をどれだけ持っているかと問われたら、ほとんど何も知らないに等しいのかもしれない。
けれども、その意味を100パーセント理解していなくても、心からイエス様を救い主として迎え入れ、賛美をもって褒め称えていくところに、真実が表されていくのであると思う。
少なくとも、私はそう信じたい。
| Trackback ( 0 )
|