聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

よく知られる「四つの種」のお話しであるが、実際には、四つの種ではなく、たくさんの蒔かれた種のうち、幾つかの行方について、4種類語られているということであろう。
良い地でも、30倍、60倍、100倍もの収穫量に違いがあり、蒔かれたところによって一つ一つ結果が違っていて当然である。
ただ、実を結ぶかどうかに関して言えば、実を結んだか、結ばなかったか、の2種類しかない。
それは、信じるか、信じないか、といった風に、どちらかにしかならない分け方において明らかにされる。
しかし、そのように書と、良い結果が出た人は信じている人であり、結果が出なかったら信じていないい人、と捉えられるかもしれないが、ここでの結果である実を結ぶということは、信じて従うということであり、それに伴って結果がどうなるかということを直接的に語っているものでもないだろう。
つまり、「信じれば必ず良い結果となる」ということではなく「信じる人は自ずと行動も変わってくる」といった風に捉えるべきであろう。
信じて従っても、なかなか結果が表れてこないものもたくさんあるし、時間がかかることもある。
しかし、信じるならば、それに見合った行動を選択していくことはできる。
むしろ、そういった信仰に根差した行動が現れてくることの方が、「良い実」と言えるのではないだろうか。
そういう人は、たとえ収穫の量が少なくとも、収穫の喜びを味わうことができるだろうし、そのような喜びこそ、本当の意味での良い実なのではないだろうか。

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