デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ローマ 16:1 ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
16:2 どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
16:3 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
16:4 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。
16:5 また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
16:6 あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。
16:7 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。
16:8 主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。
16:9 わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。
16:10 真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。
16:11 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。
16:12 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。
16:13 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。
16:14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。
16:15 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。
16:16 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
16:17 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
16:18 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
16:19 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
16:20 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
16:21 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。
16:22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。
16:23 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
16:24 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。
16:25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
16:26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
16:27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

今年も主の恵みのうちに一年を過ごすことができて感謝である。

毎年この時期になると「年賀状をかかなければ…」と悩む方も多いのではないだろうか。
今年お世話になった方、しばらくお会いしていない方、あるいは、今年はじめて出会った方など、心にとまる方々に挨拶状を送ることは、お互いの関係を好ましいものとするうえで有益なことと言えよう。
しかし、中には、これ以上、知人を増やすのも控えようと思う方もいるかもしれない。
年賀状を止める、という方も増えているという。
年賀状を止めることに抵抗がある人もいるかもしれないが、挨拶状を送ることを止めたとしても、その人との人間関係が悪くなるわけではないし、むしろ、本当に大切な人との関係ならば、切ろうと思っても簡単には切れないし、必要な出会いや交わりは継続していくことと思う。

パウロの言葉の中には「不和やつまづきをもたらすような人々を警戒するように」との勧めの言葉が使われており、そういう人は、キリストに仕えないで自分の腹に仕え、上手い言葉やへつらいの言葉を用いて純朴な人々の心を欺いている、と辛らつな言葉が続いている。
全ての人との交わりが大切だと考える人もいるかもしれないが、他人を害する行動をとる人と無理に付き合いを続けることで、自分を見失ってしまうようでは本末転倒であるし、自分にとって大切な人を優先することがあっても良いと思う。
大事なことは、自分が出会う人、交わりを保つ人にとって、良き影響を与えていくことができるように願う事であろう。

新しい一年も、私が出会う人々にとって、私自身の言葉や行動が良きものとなることを願いつつ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ローマ 15:14 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。
15:15 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、
15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。
15:17 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。
15:20 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
15:21 「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。
15:22 こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。
15:23 しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、
15:24 イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。
15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。
15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。
15:27 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。
15:28 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。
15:29 そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。
15:30 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、"霊"が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、
15:31 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、
15:32 こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。
15:33 平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。

異邦人へ福音を伝えることを使命としていたパウロは、今後、イスパニアへ行くことも計画し、その道中、ローマにも立ち寄り、ローマのクリスチャンたちからの支援を受けて、イスパニアへの伝道を進めていくことを考えていたようである。
しかし、その前に、マケドニアとアカイアの人たちからの支援を送り届けるためにエルサレムへ向かう事となり、その後に、ローマへ向かう事にしたようである。
異邦人への伝道に熱心なパウロでさえ、なかなか思うように事は進まなかったのかもしれないし、むしろ、自分の思いよりも、教会の総意や、もっと言えば、キリストの御心のみを優先する、そんな思いがパウロにはあったのだろう。

15:17 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。

ここに語られている通り「キリストがパウロを通して働かれた」のであり、働かれたのはあくまでキリストであるということを述べている。

私もそのように言えるものでありたい。
自分の思いや考えではなく、キリストの思い、ご計画が、ただただ実現していきますようにと願うものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ローマ 15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、
15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
15:10 また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
15:11 更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
15:12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」
15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

先日、ある方から、なぜ牧師になろうと思われたのですかと尋ねられた。
一言で語れるようなことでもなく、相手の方は未信徒のかたでもあったので、「人に喜んでもらえることが一番嬉しいことだし、そのために何をすれば良いか考えていたら、この仕事にたどり着いた」といった感じでお答えした。
話そうと思えば、もっといろいろなこともあるけれど、一番簡単に表現すると、そういうことであろうと思う。
しかし、そういった簡単な言葉で表すことのできる事こそが本当は大切なのかもしれない。
イエス様は何のためにその尊い命を捧げられたのか。
人を救うためである。
それが人にとって、もっとも幸いなことだからである。
だから、我々のやるべきことも自ずと決まってくるのではないだろうか。
未だイエス様を知らず、救いの喜びを知らない方にお知らせする、そのために我々は自分にできることをする。
自分に与えられた賜物や能力、出会いや経験など、何のためにそれらを用いていくのか。
自分のためではなく、人が救いへと導かれるために用いられるならば、きっと幸いな人生となるだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

とかく人は自分と他人とを比較したがる。
そして、その答えは、他人よりも自分のほうがどれだけ恵まれているか、ということでなければならないと考える。
しかし、キリストにあってどれだけ恵まれているかということは、言い換えるならば、どれだけの罪を赦して頂いているか、に等しい。
他人より恵まれたいと思うなら、誰よりも自分の罪と向き合う必要がある。
しかし、多くの人はそこは素通りしてしまいがちである。
本当の意味で恵まれた人生を歩みたいと思うならば、きちんと自分と向き合い、嫌でも自分の弱さを認め、キリストの十字架のもとに立つ必要がある。
しかし、それは幸いなことであるし、多くの恵みを受けるために必要なこと。
恵まれた人生を歩もう。
そのために、しっかりと自分自身を見つめて行こう。
他人を正そうとしても、そこに真実はない。
真実は、真摯に自分の陣せを生きようとする者と共にある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

私たちの国では、かつて、クリスチャンに対する迫害が大々的に行われた時代があった。
今の時代では、表立って迫害を受けることはなくなったが、陰口をささやかれたり、無視されたりといった、違った形での迫害は続いているのかもしれない。
表だって危害を加えられるのも辛いけれど、見えない形での迫害のほうがもっと苦しいものなのかもしれない。
ただ、どんな形の迫害であったとしても、人が行う全ての行動については、その結果が必ず返ってくるものである。
それは、迫害する者だけにとどまらず、全ての人間に言える事であろう。
本人の耳に入らなくても、陰口をたたき続けていれば、その結果は、必ずなにがしかの形で自分に返ってくるし、他者に対していやがらせをしても、その報いは、必ず自分のもとに返ってくる。

ルカ 6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

常にこのみ言葉を心に留めていたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

人が本当に必要としているものは、人からの言葉ではないだろうか。
温かい慰めと励ましに満ちた言葉、あなたの存在を認めてくれているが故の、対話をしてくれる人。
その人もまた同じ人であることも重要であろう。
まさに、イエス様は、そのようなお方として世に来られた。
あなたの存在が失われることがあって欲しくない、そう願われた故の十字架の贖いである。
他人の言葉は、時に、互いに傷つけあってしまうこともあるかもしれないが、イエス様は違う。
常に私たちの存在を愛し、永遠に生かそうと願っておられる。
そんな救い主の人としてのお誕生を多くの人と共にお祝いできることを幸いに思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルカ 2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

天使が告げた、この救い主誕生の知らせが、毎年クリスマスのこの時期に、世界中の人々に伝えられていく。
感謝なことである。
しかし、この知らせを受け取る者と、そうでない者とがいる。
その違いは何だろうかと考えた時、天使があえて羊飼いたちに現れたことの意味を思う。
世間から忘れられ、ひっそりと暮らしていた人たち。
神は、そのような者たちをあえて選んで、救い主誕生のお祝いの場に立ち会わせて下さる。
今日のクリスマスも、そんな人たちと共にイエス様の誕生をおお祝いできることを嬉しく思う。

イエス様のお誕生をお祝いするクリスマスの祝福が小さく貧しい者と共にありますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ローマ 14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。
14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。
14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。
14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。
14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

我々人間は、とかく他人の行動についてばかり注目し、批判し、そして裁こうとする。
そんなことをしても、何の益にもならないのに、である。
他人の行動を変えようと思うこと自体が筋違いだし、越権行為なのだろう。
そんなことに力を注ぐ暇があったら、どうすれば他者に喜んでもらえるか、どうすれば平和な関係を築くことができるかを考え、行動していくものでありたい。
少なくとも、イエス様はそうされているのではないだろうか。
確かに律法の言葉において厳しい言葉を投げかけておられることも事実であろう。
しかし、主なる神様は、我々人間を裁こうとはなさらず、代わりに御子キリストを十字架で裁かれたのである。
この犠牲を無題にしないためにも、他者を裁くことをやめようではないか。
何をするのも自由である。
ただその自由を、神の御思いに沿って、他者への愛と憐れみを心がけて行動していきたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

見ないで信じる人は幸いである、とイエス様は仰せられる。
確かにその通りではあるが、実際には、トマスのような人のほうが普通である。
誰もが信じがたい現実の前に戸惑い、時に、実際に触れてでも確かめてみたくなるし、何等かの「しるし」や「結果」を求めてしまうのだろう。
しかし、だからこそ「皆で信じる者は幸いである」と仰せられるのであろう。
イエス様は「見てから信じる者は不幸だ」とは仰せられていない。
あくまで「見ないで信じる者になりなさい」と勧められているのであろう。
信じがたい心と、信じたいという心のはざまで揺れ動きながらの歩みであるが、それももた信仰者の生き方に違いない。
願わくは、見ないで信じる者となれますようにと祈りつつ、イエス様のもとへ近づいていく者でありたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ローマ 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。
14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。
14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。
14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。
14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
14:11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」
14:12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

神に救われた者は、その生涯を神のために生きようと願う。
しかし、その生き方は人それぞれである。
心も体も強い人もあれば、そうでない人もいる。
意思の強い人、弱い人、志を持つ人、そうでない人、いろいろあるけれども、皆が同じでなければならないことはない。
大切なことは、神に救っていただいた人生を喜んで生きることであり、自分に託された生き方を生きる、それだけのことである。
いろんな人がいて、意見も違えば、考え方や志向も異なる。
そういう中で、ぶつかり合う事も当然あるだろう。
けれど、人はそこで試されるのかもしれない。
それでも人を愛しなさい、と。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ

とはイエス様の言葉。
難しいことだけれど、やるべき価値はある。

利用したい者には利用させておけばよい。
誤解される者にも誤解させておけばよい。
ののしられる者にもののしられるままにしておけばよい。
神を知らない者は恐れているのだろう。
だから、憐れんであげるといい。
人間にどう見られるかより、主イエス様にどう見て頂いているかのほうがもっと大切なのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ