聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ローマ10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。

私たちの教会で、今日から新しい集会が始まります。
無理を言って、御忙しい職場での、しかも御昼休みのわずか1時間程の休憩時間をお借りしての集会。
仕事の合間に落ち着いて聖書の御言葉を聞くことができるだろうか、あるいは、まだ一度も聖書の御言葉を聞いたことのない方が、どのように感じてくださるだろうか、いろいろと考えることもありますが、幸い、今日のテキストは、まだ聖書の御言葉を聞いたことのない方への宣教の勧めの言葉。
きっと、心に届いてくれることと期待して、集会に臨みたいと思います。
はじめて聖書の御言葉を聞いた方の上に、救い主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますように。

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1テモテ1:1 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
1:3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
1:4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
1:5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
1:6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。
1:7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
1:8 しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
1:9 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
1:10 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
1:11 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。

聖書に関する正しい知識を持つこと、そして、それをどのように用いていくべきかということは、とても重要なことであると思います。
ある者は、自分が博学であることをひけらかすためにそれを用いたり、またある者は、知識のない者を見下したり、裁いたりするために用いたりすることがあります。
パウロは、そのような知識の用い方をする者に対し注意を促しており、あくまで聖書の言葉は神の救いの計画の実現のために、あるいは、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すように用いられるべきであることが語られています。
なぜなら、神の御心は、一人の魂が悔い改めて救われることを望み、そのために必要なことを全て主が成し遂げて下さったということが聖書に語られているからです。

自分は果たして、この主イエス・キリストの神の救いの言葉に目を留めているかどうか、常に聖書の御言葉に立ち返り、聖書の真意に着眼点を置いているかどうか確かめながら歩んでいきたいものです。

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1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
3 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
4 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
5 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
6 当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
7 しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。
13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
14 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
15 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
16 彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。
17 それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。
18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

我が家には、来年の4月から小学生になる双子がいます。
このため、入学の準備のために、何もかも二つずつ用意しなければなりません。
本来なら、お祝いに新しいランドセルを買ってあげたいのですが、やはり二つとなると…。
そこで、中古を探してあげることにしたのですが、運良く一つは入手できたものの、あと一つがなかなか手に入らずに、双子の一人が「僕のはいつ来るんだ」とせがむのです。
そして、ようやくめぼしがついて、やれやれといったところ。
双子の親というのも、いろいろと大変です。

しかし、ランドセルがいつ来るか、今か今かと楽しみにしている子供たちの様子を見ていて、私たちも「主の日」をそのように待ちわびているだろうかと考えました。主の日は、決して恐ろしい裁きの日ではなく、救いの完成の日、新しい世界の始まりの日。
そこに入る人が一人でも多くなるようにと、その日を遅らせて下さる主の忍耐と愛を感謝しつつ、この日をすごしたいものです。

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2ペテロ2:1 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、
2:2 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
2:3 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。
2:4 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。
2:5 また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。
2:6 また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。
2:7 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。
2:8 なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。
2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。
2:10 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。
2:11 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。
2:12 この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。
2:13 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。
2:14 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。
2:15 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、
2:16 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。
2:17 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。
2:18 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。
2:19 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。
2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。
2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。

残念なことですが、ここに記されているような事柄は事実です。
このような者たちが確かに存在します。
私もはじめはそうは思っていなかったのですが、欲望のままに行動し、神の御前に正しく生きようとしている者まで食い物にしようとする様子を見てしまうと、正しい者たちを守るためには、やむなく、このような者たちと距離を置かなければならなくなるのです。
もちろん、彼らは言うでしょう。
「神は互いに愛し合えと言ったではないか。だから我々を愛せ」と。
しかし、明らかにイエス・キリストの救いの恵みをないがしろにする行為に走る者を私たちは愛することはできません。なぜなら、それは、イエス・キリストの御心を損なうことに同意することに他ならないからです。
私たちは、愛さないのではありません。むしろ、神に敵対する行為に走る者に対して「あなたはまちがっている」と言ってあげることのほうが愛の行為に近いと言えるでしょう。
少なくとも、ペテロの言葉には、そのような態度が表されていると思います。
私たちが心から願うのは、肉の欲望に支配された生き方から解放され、その解放を成し遂げてくださった救い主イエス・キリストの御言葉に従って生きること。
そこには、決して滅びはないのですから。

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日時:2006年11月26日
聖書箇所:民数記13~14章、ヨシュア記14章

主なる神様が約束された地、カナンへの偵察に行ったヨシュアたちは、イスラエルの会衆の宿営地に帰り、約束の地の素晴らしさを報告します。
しかし、一方で、その土地に住む住民達が強く大きな民であったことを恐れ、再びエジプトの地へ帰ろうと言い出す者まで現れてしまいました。
おそらく、イスラエルの民と、原住民との体格の違いは、一目見ただけで明らかだったのでしょう。
私も子供の頃から、比較的小柄な部類にいましたので、体格の大きな人を見て萎縮してしまったイスラエルの人たちの気持ちもわかるような気がします。
しかし、イスラエルをエジプトの奴隷から導きだし、約束の地へと導き入れると約束なさったお方は、それらの民よりもはるかに強く、真実なお方なのです。
恐れてはならない。おののいてはならない。これが主なる神様の御言葉であり、私たちに依って立つところであると言えるでしょう。
イスラエルに偵察に出かけた者のうち、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアだけは、この信仰に立っていました。
というより、彼らだけが「信仰に立っていた」のであり、他の者たちは、現実だけを見ていたのでしょう。
信仰に立つということは、己の力に依存するのではなく、主なる神様の御言葉に信頼し、その通りになると確信して従っていくことです。
そして、主なる神様は、そう語りかけています。

民数記14:28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。

主なる神様は、ご自分がお語りになられた通り、イスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地カナンへと招きいれ、そして、罪と死の奴隷の中に滅び行く者であった私たちを救うため、真の人イエス・キリストとして十字架に死なれ、よみがえられて、私たちを御救い下さったお方。
信仰に立つとは、この事実に依って立って生きることに他なりません。
恐れることなく、おののくことなく、主の御言葉に信頼して歩みたいものです。

Jesus loves me, this I know for the Bible tells me so.
Little ones to him belong they are weak but he is strong.
Yes Jesus loves me, yes Jesus loves me, yes Jesus loves me,
the Bible tells me so.


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2ペテロ1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

つい最近、スタディバイブルという注解つきの聖書を購入しました。
聖書を読んでいて、ちょっとわかりにくい箇所があっても、すぐ横の欄に解説が記されているので、とてもわかりやすく聖書を読み進めていくことができます。
本日の箇所も、聖書を読んでいただけでは気づかなかったことが一つありました。
19節の「明けの明星」と訳されている箇所です。
スタディバイブルの解説によると、この言葉は、本来「光をもたらすもの」という意味を持つ言葉なのだそうで、イエス様の来臨によってもたらされる光を表すものであるならば、「明けの明星」よりも、「朝焼けの太陽」といった表現の方がふさわしいように思いました。
イエス様は、朝日が昇り、その姿がかき消されてしまうような「明けの明星」ではなく、光そのもの、つまり、「朝焼けの太陽」のようなものであると。

聖書の御言葉に「聞く」ということは、自分の思い込みに頼らず、語られている言葉によく耳を傾け、わからない表現は、適当な注解書などを用いて読み進めていくことが大切と思います。そういう点で、今回発売されたスタディバイブルはお勧めです。(ちょっと高いけど・・・)

聖書が書かれたとき、使徒たちの上に聖霊が働いて書き留められたのと同じように、今、御言葉を聞く私たちの上にも聖霊が働いて理解に至らしめてくださることを覚え、知ったかぶりをせず、謙遜に御言葉に聞き続けていくものでありたいものです。

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2ペテロ1:1 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
1:2 神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
1:9 これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。
1:10 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。

イエス・キリストを知るということ、それは、単なる知識としてイエス様の存在を認識するだけではありません。そこに、真の神であり、真の人である主イエス様との生きた人格的な交わりがあり、御言葉を通してイエス様の「言葉」を聞き、祈りを持って応答し、また、救われた者として感謝にあふれて生活していくことが求められていると言えるでしょう。
このことに関して、ペテロは「信仰には徳、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には信心、信心には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えるように」と勧めており、イエス様への信仰が、私たちの生活の中で実践されていくことを明確に言い表しているのです。
ある人は「私たちは恵みによって救われるのだから、行いは重要ではない」と強調します。もちろん、救われるための条件はその通りであると言えるのでしょうが、救われた者として、どう生きていくべきかということを考えていくならば、そこに、当然、尊い代価を支払って救って頂いた者のなすべき務めと責任があることを思うのです。

キリスト教信仰の生活における実践。
信仰から愛の業へと向かう道筋は、決して平坦ではありませんが、主がそう願っておられるのなら、私たちもそのように従っていきたいものです。

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1ペテロ5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
5:8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
5:11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

ここに語られている事柄は、鶏がなく前に三度イエス様のことを知らないと言い、その後、「あなたは私を愛するか」と三度イエス様に尋ねられたペテロの言葉として、非常に重みのある勧めであると思います。

ヨハネ21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

キリストの贖いの故に救われた者として、それ故に受けなければならない苦しみもあります。しかし、その苦しみは、主が御救い下さった尊い魂を、一人も失われることなく主の御許へ導くために味わわなければならないものなのかもしれません。
「わたしの羊を飼いなさい」ということは、まさに、そのことを言い表していると言えるでしょう。
牧師が信徒を導くことも、あるいは、信徒が未信徒を導くこと、大人が子供を導くこと、親がわが子を導くこと、それら全てに共通することは、忍耐を持って愛し続けていくことが大切であるということでしょう。
かつてイエス様を裏切り、イエス様から離れかけたペテロ。
しかし、彼は、イエス様の深い憐れみを受け、赦されるはずのない裏切りの罪をも赦しいただき、その深い神の愛を伝える者となっていきました。
それは、今の私たちにも言えること。
今日、主イエス様の十字架の贖いにより、全ての罪を赦されたものとして、主イエスの深いご愛をお伝えする働きを、謙遜のうちにまっとうしていくことができますように。

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1ペテロ4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
4:17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
4:18 「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

逆さはりつけにされて殉教したと言い伝えられているペテロ。
きっと彼の心の中には、いつでも十字架にはりつけにされたイエス様の姿と、そのイエス様を裏切った自分の姿とが同居していたことでしょう。

マタイ26:73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

このような経験をした者だからこそ言える言葉、同じような苦い経験を繰り返してほしくないための勧めの言葉と言えるのではないでしょうか。
そう考えると、ペテロの言葉は静かに重く語りかけてきます。

イザヤ53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうかわたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。

私を救うために、ただ黙って十字架の道を歩んでいかれた主イエス様の姿を常に見上げつつ、そのことを決して忘れることなく、それゆえに、主のために受けなければならない苦しみがあるのなら、喜んで受けとめる者となりたいものです。

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1ペテロ4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

イエス・キリストに出会い、神の尊い救いの恵みを受けた者は、もはや、これからは肉の欲望に従って生きるのではなく、神の御心に従って、互いに愛し合い、祈りの生活に進んでいくことが求められています。
それは、私たちにとって、そう簡単なことではないかもしれませんが、神から賜った恵みの賜物を管理するのだと思えば、頂いていない賜物まで用いることは求められていないため、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。
御言葉を語る賜物を与えられた者は、その賜物を活かし、兄弟姉妹方に御言葉を取り継いでいくべきですし、奉仕する賜物が与えられた人は、その賜物を活かし、忠実に奉仕するべきであって、御言葉を語る賜物が与えられていない人にまで、むりやり語るように命じられたり、奉仕の賜物が与えられていない人に、奉仕しなければならない」と語られたりしていないからです。
つまり、私たちは、神様から頂いた賜物に従って「私らしく」仕えていくことが大切であり、何も、「りっぱなクリスチャン」である必要はないし、ましてや、他人の目を気にして生活するといったことも考えなくてもよいはずなのです。
大切なことは、神様が私にどう生きて欲しいと願われているかということを知り、神様が私に与えてくださった賜物を忠実に活かし、それを用いて生きて行くこと。

神様、今日も私に健やかな体と、あなたへの感謝の思いと、賛美することのできる口を与えてくださり、感謝します。
そして、願わくは、今日も私の日常の歩みを通して、イエス様の栄光が現されますように。救われる魂が起されますように。
イエス・キリストの御名に頼り、お祈りします。アーメン。

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