聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




創世記3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

創世記3章には、最初の人間が蛇に騙されて罪を犯してしまった時のいきさつが記されている。
その様子は、いかにも悪魔らしい誘惑の仕方で、人間に罪を犯させようとそそのかしているにも関わらず、最終的な決断は人間が下すような仕方で誘惑していることが伺える。
つまり、「罪を犯したのは、あなたですよ」という言い訳ができるような仕方で誘惑しているということである。
しかし、いくら罪の責任が罪を犯した本人にあるとは言え、誘惑したものもその責任を免れることはない。
蛇も女も、そして男も、みなそれぞれに罪の責任を背負うことになるのだ。

言い訳をするという行為は、一見、正当性を訴えているようではありつつも、罪を犯している事と何ら代わりは無い。
だから、言い訳をするくらいなら、いっそ、罪を認めるほうが良い。
そして、罪を認め、その罪を消し去ることができないことを知っているから、救い主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと救いが必要であるということがわかる。
そういう意味で、この創世記3章の出来事は、他人事ではない。
すべての人間が罪を犯し、救いを必要としているのだから。

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創世記2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

人はそれぞれに住んでいる場所がある。
そこで土を耕し、そこから得られる実りによって人は生きている。
そして、人は一人では生きていきない。


震災で住む土地を追われた多くの方々がいる。
その人たちが、再びもとの土地で生活を続けるためには、多くの人の助けが必要である。

愛する家族を失った方々も大勢いる。
動物では本当の助けにはならない。

人を救うために、人となられた方がいる。
その名はイエス・キリスト。

人が生きていくために必要なお方である。

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創世記2:4 主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。

主なる神様がこの世界を創られた時、最初、そこにはまだ、命の宿った生物は存在していなかった。
そこへ、神様は地を水で潤し、土の塵で形作った人に命の息を吹き入れられ、あらゆる生命を創造していかれたのである。
つまり、神は、すべての命の源であり、私達は、そこから来ている。

全ての命あるものが、神から発し、神に至る。

ローマ11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

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創世記1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
2:4 これが天地創造の由来である。

主なる神様は、この世界を創られ、そこに生きる全ての生き物をも創られた。
そして、それらの管理を人間に委ねられている。
主なる神様は、地に生える草や木の身などを食物として食べるように命じられた。
そして、動物については、これらを支配するようにと仰せられている。

時々、ペットが死んだらどうなるのかと聞かれることがある。
人間以外の被造物は、天地創造の時以来、神の御旨に従順であり、そもそも裁きの対象ではない。
救われなければならないのは、人間である。
唯一、罪深く、神に反する存在、それが人間なのだ。

時折、ペットを可愛がりすぎる余り、ペットに支配されているのではないかと思うような人を見かけることもある。
たしかに可愛らしいペットが心を癒してくれることがあるかもしれない。
しかし、ペットは我々を救ってはくれない。
自己の欲望を満たすためにペットを利用し、それで救われないのだとしたら、ペットも浮かばれないだろう。
心をしっかりと神に結び、何物にも支配されない強い意志を持って、被造物たちを治めていくことができるようにと願う。

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創世記1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。

イエス様の十字架と復活の御業により、罪の奴隷から解放されえ、永遠の命にあずかるものとせられた幸いを覚えつつ、新しい命に生きる歩みを始めていきたいものである。
創世記1章の御言葉は、そのような「新しくされた命」に生きるものの最初の一歩としてふさわしい御言葉であろう。
おそらく、主にある兄弟姉妹の誰もが、この箇所から何度、聖書を読み進めようと試みたことであろう。
でも、旧約の途中で挫折してしまうということもよくある話。
しかし、何度挫折しても、長らく日が開いたとしても、またそこから再出発すれば良いのではないだろうか。

主なる神様がこの世界を創造されたとき、まず日を定めてから行動を起こされたのではなく、全ての予定していた行動を終えてから、その日を一日と定められたのである。
だから、何日も間があいても、またそこから再出発し始めても良いのではないか。
そして、再び読み始めたときを、新たなる一日として定めれば良いのである。

主はその日を待っておられる。

その日を機会として、聖書通読をまた始めることができれば感謝である。


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イザヤ52:7 いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げあなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る主がシオンに帰られるのを。
52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
52:10 主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。

イザヤの預言の中に「いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」との言葉がある。
言葉で言い表すと、主の御言葉を宣べ伝える人は、なんと麗しいことかということだけに注目されがちではあるが、そこには「山々を」という言葉が記されている。
山々を行き巡るということは、それはそれは大きな困難が付きまとうものである。

蒜山三座を縦走された方が、山を降りてきて「これは縦走ではなく、三つ、山を登ったという感じ」と言っておられたことがある。
確かにその通りで、蒜山縦走とは名ばかりで、一つ登って降りて、また登って降りて、もう一つ登って降りる、全く別々の登山を一度に行うようなものだ。
しかし、伝道とは、そのように、一筋縄ではいかないあことばかりである。
場合によっては、一つ登ってわざわざ降りて、また登っていかなければならないこともある。
しかも、その先、再び上り下りすることがわかっていながら、降りていくのだ。
しかし、それをつぶやかずに従って行くときに、主はその足を「いかに美しいことか」と言って下さるのである。

もうすぐゴールデンウィーク。
お天気がよければ、三つ登って三つ降りる、蒜山三座縦走に出かけてみるのもいいかもしれない。
そうすれば、本当の意味での伝道の困難さ、もとい、素晴らしさが見えてくることだろう。




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ヨハネ19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

イエス様は2000年ほど前に、確かにゴルゴタの丘で十字架にかけられて殺された。
それは歴史的な事実として世界中の人々に認められている。
イエス様の死と復活を目撃した人々が、その死と復活による永遠の命の約束を信じ、神の国の到来を宣べ伝え、ローマの時代には、公やけに認められるほどに信じる者が増えていった。
そして、主の誕生を境に、AD(起源)、BC(起源前)として年代が設定されてもいる。
今や、キリストがこの世に誕生し、十字架でに貼り付けにされて殺されたことを否定するもはいないだろう。
しかし、その死が我々の罪の贖いのためであり、復活は我々の命のためであると信じる者は少ない。
いつの時代にも変わらないことなのかもしれないが、人々の心は神から遠く離れたままである。
イエス様が十字架で殺された日、イエス様のそばを離れようとせず、ずっと近くにいた女性たちがいた。
彼らはイエス様を救い主として信じていたであろう。
数が多いか少ないかは問題ではない。
イエス様のすぐ近くにいて、「この方こそ私の救い主。私の罪の贖いのために十字架で死なれたのだ」と言えることが大切なのである。

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1コリント11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

かつてイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンへと旅立っていった。
しかし、その時、主なる神様は傷の無い一匹の羊をほふるよう命じ、しかも、急いで旅立つことができるような旅支度をして羊をほふるように命じられたのである。
以後、イスラエルの民は、エジプトから解放されたことを記念するために、過ぎ越しの祭りを行ってきた。
しかし、それらの本当の意味が何であるかを知らなければ、ただ単に、祭り事を行っているだけに過ぎない。
過ぎ越しの羊が我らを救うために犠牲となられたイエス・キリストを表し、すぐに旅立つことは、イエス・キリストの贖いによって、ただちに神の御国に入れられていることを示しているということを知った時にはじめてこの過ぎ越しの祭りの意味が見えてくる。
つまり、この過ぎ越しの祭りも、イエス・キリストの十字架の贖いと救いを言い表しているのであり、救い主イエス・キリストの死を記念する出来事であると言えるのだ。
イエス様は、後の世代の者たちのためには、主の死を記念するために聖餐の礼典を行うように命じられている。
しかし、旧約の時代から、既に「記念」とされていたことを覚えるとき、神様のご計画の素晴らしさを思い知ることができる。
主は、終わったことを記念するだけではなく、これから行われるであろう事も記念される。
つまり、それは確かなことであるということ。
主の死を記念することは、同時に、私が生きることに他ならない。
私が生きることも確実なこととして記念されている。
そのようなことを覚えつつ、主の死を記念する聖餐の恵みに与りたいものである。

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イザヤ62:10 城門を通れ、通れ、民の道を開け。盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え石を取り除け。諸国の民に向かって旗を掲げよ。
62:11 見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは御前を進む。
62:12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれあなたは尋ね求められる女捨てられることのない都と呼ばれる。
63:1 「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ大いなる救いをもたらすもの。」
63:2 「なぜ、あなたの装いは赤く染まり衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
63:3 「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴びわたしは着物を汚した。」
63:4 わたしが心に定めた報復の日わたしの贖いの年が来たので
63:5 わたしは見回したが、助ける者はなく驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕によりわたしを支えたのはわたしの憤りだ。
63:6 わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじりわたしの憤りをもって彼らを酔わせ彼らの血を大地に流れさせた。

イエス様は、私たちの救いのために、ご自分の命を投げ出して全ての罪の贖いを成し遂げて下さった。
しかも、ただお一人でそれをなさったのである。
イエス様は孤独であられた。
神に見捨てられた者となってくださった。
しかし、神はそのお方と共におられた。
そのような救いの御業を完成なさったのが、神ご自身だからである。
神が私の救いのために孤独で過酷な十字架の道を歩まれたことを覚えつつ、イエス様を真の救い主としてお迎えする者でありたい。

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ヨハネ12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

イエス様のことを宣べ伝える働きに携わるためには、イエス様の語られた御言葉に従わなければならない。
イエス様の御言葉に従うとは、イエス様の生き方に習うことである。
イエス様は、全人類を救うために、御自分の命を投げ出されたお方である。
だから、そのイエス様の成し遂げられた救いの言葉を宣べ伝えようとする者が自分の命を惜しんでいるようでは、少しも証にはならないし、イエス様のことを何一つお伝えすることなどできないだろう。
自分の罪や欲望を捨てきれず、神に背き、影のうちを歩んでいるようでは「光の子」とは呼べまい。
イエス様の犠牲によって成し遂げられた素晴らしい救いの言葉を宣べ伝えていくためには、ただただイエス様に習い、イエス様のように歩んでいくことを求めていくほかないのである。

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