聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




エレミヤ 29:1 以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。
29:2 それは、エコンヤ王、太后、宦官、ユダとエルサレムの高官、工匠と鍛冶とがエルサレムを去った後のことである。
29:3 この手紙は、ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもとに派遣したシャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤに託された。
29:4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。
29:5 家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。
29:6 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。
29:7 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
29:8 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。
29:9 彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。
29:10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

詩篇 35:1  ダビデの詩。 主よ、わたしと争う者と争い わたしと戦う者と戦ってください。
35:2 大盾と盾を取り 立ち上がってわたしを助けてください。
35:3 わたしに追い迫る者の前に 槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください 「お前を救おう」と。
35:4 わたしの命を奪おうとする者は 恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は 辱めを受けて退きますように。
35:5 風に飛ぶもみ殻となった彼らが 主の使いに追い払われますように。
35:6 道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに 主の使いが追い迫りますように。
35:7 彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。
35:8 どうか、思わぬ時に破滅が臨み 彼らが自ら張った網に掛かり 破滅に落ちますように。
35:9 わたしの魂は主によって喜び躍り 御救いを喜び楽しみます。
35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から 貧しく乏しい人を搾取する者から 助け出してくださいます。」

マルコ 5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。


誰にでも自分とは合わない人というのはあるだろう。
できれば、距離を置きたいけれど、どうしても顔を合わせないといけない人とかであれば、どうにか繕ってでも付き合いを続けて行かなければならないこともある。
そんなストレスを抱えたまままだと、ますます人間関係がギスギスしてくるし、どうすれば良いか悩むこともある。
そんな時、イエス様ならどう考え、行動されるのだろう。
イエス様はたびたび悪霊にとりつかれた人を癒してあげられている。
きっと、周囲の人もお手上げ状態で、距離を置いて過ごすくらいしか取り得る手段は無かったのかもしれない。
けれど、イエス様は無視したり足蹴にするようなこともなく、むしろ対話に応じ、彼を助けるために行動していることが伺える。
人間関係が苦手な人は、ここで余計な一言を口にしたりして、ますます険悪な雰囲気になってしまったり、壊滅的な状態になってしまうこともあるだろう。
人は、面倒な事はやりたくないのが本音だからである。
しかし、イエス様は面倒なことを面倒だなどと思わず、むしろ、どうすればこの人に幸いが訪れるかということのために行動される。
そんな風に私もなりたいものだが、なかなか適切なことはできなくても、せめて、その人の幸いを祈るものでありたい。
まずはそこからかな。
イエス様に命がけで愛してもらった者として、他者の方のことにも心を遣うことのできる人に、私はなりたい。

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民数記 22:22 ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはろばに乗り、二人の若者を従えていた。
22:23 主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。
22:24 主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていた。道の両側には石垣があった。
22:25 ろばは主の御使いを見て、石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたので、バラムはまた、ろばを打った。
22:26 主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがった。
22:27 ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。
22:28 主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」

詩篇 35:1  ダビデの詩。 主よ、わたしと争う者と争い わたしと戦う者と戦ってください。
35:2 大盾と盾を取り 立ち上がってわたしを助けてください。
35:3 わたしに追い迫る者の前に 槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください 「お前を救おう」と。
35:4 わたしの命を奪おうとする者は 恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は 辱めを受けて退きますように。
35:5 風に飛ぶもみ殻となった彼らが 主の使いに追い払われますように。
35:6 道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに 主の使いが追い迫りますように。
35:7 彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。
35:8 どうか、思わぬ時に破滅が臨み 彼らが自ら張った網に掛かり 破滅に落ちますように。
35:9 わたしの魂は主によって喜び躍り 御救いを喜び楽しみます。
35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から 貧しく乏しい人を搾取する者から 助け出してくださいます。」

1コリント 7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、
7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、
7:34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
7:35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
7:36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。
7:37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。
7:38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。
7:39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。
7:40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。


何事も、自分の思うように事が運ばないことは多々ある。
そんな時、無理を押して強引に事を進めても、どこかで齟齬が生じてしまい、下手をすれば破綻してしまうことになる。
上手くいかないことは、最初からどこか間違っている事が多いし、うすうす間違いであることは気が付いているのかもしれない。

先日、テレビのニュースで男女の別れ話がもつれて、殺人にまで発展してしまった事件が紹介されていた。
そんなことになる前に、なぜ、そんな人と付き合おうとしたのかとか、いろいろと思う事もあるが、誰もが付き合いを始める前は、自分を良く見せようと必死にアピールするだろうし、純粋な人なら簡単に騙せてしまうかもしれない。
けれど、騙される方も、しっかりと物事を見極める目を持っていれば、そうそうおかしなことにはならないとも思うけれど、やはり人は誘惑に弱いし、自己の都合のよい仕方で様々なことを解釈してしまう事が多いし「こんなはずでは無かった」と、後になって後悔することも多いのだろう。
夫婦として共に生きていくことを考えた場合でも、独身の時より夫婦として生きる時間の方がずっと長いことを考えるならば、一時の感情などで決めるより、しっかりと話し合い、確かめ合うことはとても大切だろうと思うし、共に生き始めてからも、価値観を変えたり、忍耐や協調性を保って行くことは必要なことであろう。

ローマ5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

「夫婦生活は忍耐が大事」といったことを聞くことがある。
もちろん、そういう側面もあると思うが、それらを経て、もっと幸いなところへ導かれていく。
信仰の歩みも同じ。
忍耐することがあっても、私たちは希望へと導かれ、やがて揺るぎない救いの約束へと導かれていく。
それは幸いなことであるし、感謝なことである。
自分の思いや願いばかりを優先し、わがまま勝手気ままな生き方から解放され、忍耐しているようでも、神の恵みのもと、まことの自由な生き方へと導かれていることを覚えて生きていきたいものである。

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申命記 22:1 イスラエルの人々は更に進んで、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野に宿営した。
22:2 ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に対してした事をことごとく見た。
22:3 モアブは、このおびただしい数の民に恐れを抱いていた。モアブはイスラエルの人々の前に気力もうせ、
22:4 ミディアン人の長老たちに、「今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている」と言った。当時、ツィポルの子バラクがモアブ王であった。
22:5 彼は、ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラムを招こうとして、使者を送り、こう伝えた。「今ここに、エジプトから上って来た一つの民がいる。今や彼らは、地の面を覆い、わたしの前に住んでいる。
22:6 この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている。」
22:7 モアブとミディアンの長老たちは占いの礼物を携えてバラムの所に行き、バラクの言葉を伝えた。
22:8 バラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたたちに伝えよう。」モアブの長たちは、バラムのもとにとどまった。
22:9 神はバラムのもとに来て言われた。「あなたのもとにいるこれらの者は何者か。」
22:10 バラムは神に答えた。「モアブの王、ツィポルの子バラクがわたしに人を遣わして、
22:11 『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面を覆っている。今すぐに来て、わたしのために彼らに呪いをかけてもらいたい。そうすれば、わたしはこれと戦って、追い出すことができるだろう』と申しました。」
22:12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」
22:13 バラムは朝起きると、バラクの長たちに言った。「自分の国に帰りなさい。主は、わたしがあなたたちと一緒に行くことをお許しになりません。」
22:14 モアブの長たちは立ち去り、バラクのもとに来て、「バラムはわたしどもと一緒に来ることを承知しませんでした」と伝えた。
22:15 バラクはもう一度、前よりも多くの、位の高い使者を遣わした。
22:16 彼らはバラムの所に来て言った。「ツィポルの子バラクはこう申します。『どうかわたしのところに来るのを拒まないでください。
22:17 あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください。』」
22:18 バラムはバラクの家臣に答えた。「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。
22:19 あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください。」
22:20 その夜、神はバラムのもとに来て、こう言われた。「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない。」
22:21 バラムは朝起きるとろばに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた。

詩篇 35:1  ダビデの詩。 主よ、わたしと争う者と争い わたしと戦う者と戦ってください。
35:2 大盾と盾を取り 立ち上がってわたしを助けてください。
35:3 わたしに追い迫る者の前に 槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください 「お前を救おう」と。
35:4 わたしの命を奪おうとする者は 恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は 辱めを受けて退きますように。
35:5 風に飛ぶもみ殻となった彼らが 主の使いに追い払われますように。
35:6 道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに 主の使いが追い迫りますように。
35:7 彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。
35:8 どうか、思わぬ時に破滅が臨み 彼らが自ら張った網に掛かり 破滅に落ちますように。
35:9 わたしの魂は主によって喜び躍り 御救いを喜び楽しみます。
35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から 貧しく乏しい人を搾取する者から 助け出してくださいます。」

使徒 21:17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
21:18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。
21:19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。
21:20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
21:21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
21:22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。
21:23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
21:24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。
21:25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
21:26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。



何を大切にし、何と戦って行かなければならないのか、それはきわめて重要なことであり、自分の都合などによって見誤ってはならない。
本当に大切なことが何であり、何と戦って行かなければならないのかが分かっていれば、それ以外のことで無用の争いを避けることもできる。
人は案外どうでも良いことに必死になってこだわるあまり、物事の本質を見失い、無用な争いを引き起こす。
パウロがエルサレムへ帰還したとき、清めの儀式を受ける必要など全くなかったはずであろう。
しかし、パウロは無用な言い争いとなることを避け、大人の対応をしているように見える。
アディアフォラという言葉がある通り、救いに直接関係ないことについては、特に決まりがあるわけではなく、臨機応変に対応してもよいのだ。
昨日は教会で年会が行われた。
様々なことが話し合われたが、一度決めたことは絶対に変えられないし、必ずそうしなければならないということはないし、ケースバイケースで、臨機応変に対応できる柔軟さも必要である。
柔軟さは優柔不断とかいい加減なだけではなく、ある意味、愛と配慮でもある。
何を大切にし、何と戦って行かなければならないのか。
神は罪を憎み、人を愛されるお方。
この方の視点に立って、愛と配慮のうちに歩みを進めて行けるようにと願う。

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申命記 13:2 預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、
13:3 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、
13:4 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。
13:5 あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。
13:6 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

詩篇 111:1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:2 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:3 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:5 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:6 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:7 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:8 世々限りなく堅固に まことをもって、まっすぐに行われる。
111:9 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

マタイ 8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。


申命記の箇所には、預言者や夢占いを行う者たちの中にも、しるしや奇跡を行う者がいることが語られている。
実際、イスラエルの民がエジプトを脱出する時には、多くのものがモーセと対峙して、しるしや奇跡を行っている。
では、モーセと何が違っていたのかと言うと、その目的であろう。
モーセは真の神の命に従い、イスラエルの民を救うためにしるしや奇跡を行ったが、エジプトの預言者たちは、イスラエルの民をエジプトにとどめておき、これまで通り奴隷の民として使用することが目的であった。
それは、イスラエルにとっては、虐げであり、命を奪うものに準ずるものと言えよう。

世の中には、様々な働きがあるし、様々なことが行われる。
大切なことは、何のためにそれを成そうとしているのか、その目的は何なのかということ。
魂を救うためになすのならば、その働きは祝福されよう。
けれど、誰かを虐げて、苦しめるだけの働きならば、その働きは祝福されないし、人はそこから居なくなる。
人が安心して憩う事ができ、喜んでいられる居場所を整えるために、何ができるだろうか、どうすればいいだろうか、神の無心を追い求めつつ、様々な働きに取り組んでいきたい。
全ての人に、主に平安がありますように。

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申命記 12:28 わたしが命じるこれらのことをすべて聞いて守りなさい。こうして、あなたの神、主が良しとし、正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫もとこしえに幸いを得る。
12:29 あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、あなたの神、主が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、
12:30 注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。
12:31 あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。
13:1 あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。

詩篇 111:1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:2 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:3 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:5 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:6 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:7 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:8 世々限りなく堅固に まことをもって、まっすぐに行われる。
111:9 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

黙示録 2:12 ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。
2:15 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。
2:16 だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。
2:17 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』


旧約聖書を読んでいると、どうしても「聖絶」の問題を避けて通ることはできない。
ヨシュア率いるイスラエルの民が、約束の地へと入植しようとした際、神が異教徒の民を滅ぼすよう命じられたといったことである。
しかし、神が問題とされたのは「彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである」といった風に、自分たちの都合や欲望を満たすためなら、平気で我が子の命さえも生贄として偶像の神に捧げようとするような考え方であり、自分が生きるためなら他人の命などどうでも良いといった考え方全般について、これを退けよと命じておられるのであろう。
黙示録に記されている「偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせる」のも同様であろう。
異教であるとか偶像礼拝というのは、そういった自己中心的な考え方を「神を礼拝する」ということを口実に正当化したものと言えるだろう。

エフェソ 2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

イスラエルの民が約束の地へ入植しようとした時、そこにいた人たちだけが問題なのではない。
黙示録の書かれているパラムの教えを信奉するものやニコライ派の人たちだけが悪いのでもない。
全ての人に同じ悪の根がある。
それに気づくかどうか。
そして、そのために神が御子イエス様の命を犠牲にしてまで救おうとしてくださったかということを知ることができるかどうか。
それによって、人生の意味は全く違ってくる。
どんなに都合のよい口実を考えても、神の御前には無意味なこと。
それよりも、素直に神の恵みを受け取り、神様の尊い犠牲によって救われた幸いを覚え、愛された者として生きよう。


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申命記 3:23 わたしは、そのとき主に祈り求めた。
3:24 「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。
3:25 どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」
3:26 しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。
3:27 ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。
3:28 ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」
3:29 我々はこうして、ベト・ペオルの前にある谷に滞在していた。

詩篇 111:1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:2 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:3 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:5 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:6 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:7 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:8 世々限りなく堅固に まことをもって、まっすぐに行われる。
111:9 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

ローマ 9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
9:9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。
9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。
9:11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
9:15 神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。
9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。



ローマ9章のイサクとエサウに関する記述だけを読むと、まるで救われる人とそうでない人が最初から神の選びによって決められてしまっているかのように見えるかもしれない。
けれど、聖書全体を呼んでいくと、救いは人間の業によって成し遂げられるものではなく、神のなされた贖いの御業を信じる者に与えられるものであるということが語られており、神の約束に信頼するものが救いの恵みにあずかるという意味で「約束」という言葉が用いられていることが分かるだろう。
つまり、神の憐れみに頼り、救いの約束を信じる者は救われ、人の意思や努力に頼るものは、心を頑なにしていく、ということであろう。
しかし、それもまた、神の側では常に全ての人に対し、いつでも開かれた救いの約束であることも告げられていると言える。

ヘブル3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――

悔い改めて神の約束に信頼するのに、遅すぎるということはない。
いつでも、今日、今この時が大切。
そして、神の救いの約束のもとに立ち帰るなら、神は憐れみ深いお方であるから、いつでも私たちを受け入れて下さる。
私たちにできることは、この「今日」という日を続けていくだけである。

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箴言 8:1 知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか。
8:2 高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち
8:3 城門の傍ら、町の入り口 城門の通路で呼ばわっている。
8:4 「人よ あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。
8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え 愚か者は反省することを覚えよ。
8:6 聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ
8:7 わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし
8:8 わたしの口の言葉はすべて正しく よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
8:9 理解力のある人には それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には それがすべてまっすぐであると分かる。
8:10 銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ 精選された金よりも、知識を受け入れよ。
8:11 知恵は真珠にまさり どのような財宝も比べることはできない。
8:12 わたしは知恵。熟慮と共に住まい 知識と慎重さを備えている。
8:13 主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道 暴言をはく口を、わたしは憎む。
8:14 わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
8:15 わたしによって王は君臨し 支配者は正しい掟を定める。
8:16 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆 わたしによって治める。
8:17 わたしを愛する人をわたしも愛し わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
8:18 わたしのもとには富と名誉があり すぐれた財産と慈善もある。
8:19 わたしの与える実りは どのような金、純金にもまさり わたしのもたらす収穫は 精選された銀にまさる。
8:20 慈善の道をわたしは歩き 正義の道をわたしは進む。
8:21 わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。

詩篇 46:1  指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
46:9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

マルコ 3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。


イエス様が弟子たちを選び、常にそばに置いておこうとされたのは、彼らに御自分の働きを見聞きさせ、キリストの証人として世に遣わすためであった。
もちろん、彼らを教育・訓練し、立派な弟子に育て上げることもできたのであろうけれども、彼らに神の国を見させ、そして体験させることを重視しておられたのである。
なぜなら、人が体験したことというのは、誰にも否定することも取り上げることもできないからである。
ユダヤ人がどんな境遇にあっても生き抜くために教育に力を入れていたと言われているが、自分で学んで得たものは、他者に奪い取ることなどできないものだからである。
神を知るということは、イエス様に出会っていくこと。
箴言の知恵の言葉も、擬人化した表現が用いられ、そこに知恵者なる人格が存在していることを知ることができる。
まことの知恵者、それがイエス様。
こうして聖書に記されている御言葉を通してイエス様に出会っていく中で、私たちは自分の救いが確かなものであることを知り、さらにそれが自分の人生を建て上げていくことになることを体験していく。
イエス様との人格的な出会いこそ、救いの確信と言えるだろう。
友達と、家族と、知人と出会っていくように、今日もイエス様と出会い、祈りを通して対話を重ね、共に歩んでいくものでありたい。



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創世記 45:25 兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、
45:26 直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。
45:27 彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。
45:28 イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」
46:1 イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。
46:2 その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
46:3 神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。
46:4 わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」
46:5 ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。
46:6 ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。
46:7 こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。

詩篇 46:1  指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
46:9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

使徒 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
5:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。



テレビのニュースなどを見ていると、能登半島における大きな地震で住む場所を失った方々が避難所で肩を寄せ合って過ごしておられる様子が紹介されたりする。
阪神大震災を経験した者にとっては、嫌が応にも様々な記憶が思い出される。
安心して憩える場所を喪失しているだけでも辛く悲しいのに、慣れない避難所で、知らない人たちと一緒に過ごさなければならないし、避難所にいれば多少なりとも食事は提供されるものの、謎のルールが横行していたり、ストレスフルな生活を強いられ続ける。
自分の家で、誰にも気兼ねなく過ごせることがどれだけ幸せな事かと、嫌ほど思い知らされる。
地域のつながりも大事ではあるが、異なる生活スタイルや価値観の中に生きている人達と同じ生活環境で過ごすことがどれだけ困難なことか、やってみてはじめてわかることもあるだろう。
それでも同じ人間である。
食う、寝る、遊ぶ?多少の違いはあっても、基本は同じことなのだから、それぞれが譲れるところは譲って、どこかで一致していくしかない。
他人同士が共に生きていくことは、本当に難しいと感じるが、様々な違いを尊重していくことも、人として生きていく上では大切な事である。
譲る、ということは、相手を思いやることでもあり、そこには少なからず愛の形がある。
困難な時こそ、愛が試されるし、生きていくためには愛が必要であることを思い知らされる。
小さな愛でいいから、一人一人が他者を思いやり、譲れるところは譲り、共に助け合いながら、困難な時を乗り越えていけるように願う。

愛の主イエスよ、常に我らの内にいてください。

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創世記 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

詩篇 46:1  指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
46:9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

1コリント 7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。
7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。



神を知り、信じる者になったからといって、人間そのものが劇的に変わるわけではない。
むしろ、昔のままだ。
何も変わらない。
あいかわらず自分勝手で、自己中心的で、平気で他人を見下したりもする。
しかし、あまりそこに囚われなくても良い。
神様は、こんな私を神のものとして尊い代価を支払って贖って下さったのだ。
つまらないもの、無きに等しいものを神のものとしてくださったのには理由があり、そのことを通して神の素晴らしさが現わされるためである。
間違っても私自身の素晴らしさを表すためではない。
こんな愚かなものを神は愛し救って下さった、その救いの約束があまりにも素晴らしい出来事である、ということを表していくため。
自分の義や自分の栄光を追い求めていると、何かボタンの掛け違いのように、どこかでズレが生じてくる。
勘違いせず、神の義と神の栄光を見上げて歩み続けていく者でありたい。

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エレミヤ 20:14 呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。
20:15 呪われよ、父に良い知らせをもたらし あなたに男の子が生まれたと言って 大いに喜ばせた人は。
20:16 その人は、憐れみを受けることなく 主に滅ぼされる町のように 朝には助けを求める叫びを聞き 昼には鬨の声を聞くであろう。
20:17 その日は、わたしを母の胎内で殺さず 母をわたしの墓とせず はらんだその胎を そのままにしておかなかったから。
20:18 なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終わらねばならないのか。

詩篇 62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。
62:10 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12 ひとつのことを神は語り ふたつのことをわたしは聞いた 力は神のものであり
62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と ひとりひとりに、その業に従って あなたは人間に報いをお与えになる、と。

ルカ 10:13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
10:14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
10:15 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」



エレミヤ書の箇所には、自分の生まれた日を呪うという、とても悲しい嘆きの言葉が綴られている。
人が生きていくことは辛いことばかりで、いっそ生まれてこなかった方が良かった、と誰もが思った事もあるだろう。
こういった嘆きについては、旧約聖書のヨブ記が有名だが、ヨブ記は、この世界に生きることはなんと苦しく不条理に満ちているかといったことを思わせる内容と言えるかもしれないが、実際に読んでみると、主なテーマはこの世の不条理といったようなものではなく、いかに人間が頑なで自己中心的であるかということと、それもで神は人を救おうと願っておられることが浮かび上がってくる。
普段は誠実で神を畏れて生きていたはずのヨブでさえ、頑なで自己中心的な人間に過ぎないことを赤裸々にあぶりだされているのである。
ヨブは立派な人でも、愚かな人でもない、ごく普通の人間であり、私もヨブと変わらない。
どこまでも頑なで自己中心的な私ではあるが、神はそれでも見捨てられることなく、十字架の主のお姿を通して、あきらめずにずっと語りかけて下さるのだ。
ここにあなたの救いがある、と。
何が一番不幸であるか、神を見ようとせず、己の思いにしがみつき、心を頑なに、自己中心的な生き方を続けていることではないだろうか。
いち早くそれに気づき、恵みの神のみもとに立ち帰るならば、そこに救いはあり、まことの幸いがそこにあるのだ。

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。

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